ACT7 You say goodbye I say hello
ホステルに着くと入り口にクリッシーが待ち構えていた。僕はきっときつい目で睨まれるのだろうと思っていたのだが、彼女はやさしく「おいで」と言った。ロックンロールで多少僕の感覚は麻痺していたのだが、やはり現実の痛みは強烈で、今にも膝から崩れそうだった。
クリッシーに招かれ僕は初めて受付の中に入った。受付の中は彼女のプライヴェートルームになっており、外からは見えないが所狭しと本が並んでいた。クリッシーは僕を椅子に座らせると奥の引き戸から何かしら箱を持ち出してきた。箱の中には医療道具がぎっしりとつまっており、その中からクリッシーはいくつかの道具と薬を取り出して並べた。
「クリッシーはな、顔は恐いけど名医やで。ホステルに関わったやつがケガしたときなんかはいつもクリッシーが直してくれるんや。たこぉつくけどな」
そう言ってエディさんが笑うとクリッシーは彼を睨みつけて「あっちへ行け」と言った。エディさんは遅れて入ってきたジョンとデイビッドと一緒にリビングへ消えていった。
クリッシーが僕の頭に巻かれている包帯を取って傷口を見ると口笛を吹いた。「やったねぇ」そんな風なことを言ってニッコリ微笑んだ。僕は彼女に見とれていて、同時に「ごめんなさい」と思った。その「ごめんなさい」にはいろんな意味が含まれていた。ケガのことは勿論だが、これまで彼女に対して抱いていたイメージに対してとかそういうことだ。
治療の途中でジュエルが入ってきた。「手伝う?」そう言ってジュエルは僕の頭を支えてくれた。そして「マイボーイ」と言って笑いながら首を横に振った。
クリッシーとジュエルは僕の傷口を丁寧に消毒し、絆創膏のようなものを貼り、再び包帯を巻いてくれた。
「朝と夜、やってあげるからおいで」
そう言うとクリッシーは僕の頭をなでた。僕が立ち上がり、ありがとうと言うと彼女は微笑んだ。部屋まではジュエルが肩を貸してくれた。階段を上るときエディさんたちがフットボールのテーブルゲームをやっている声が聞こえた。
ジュエルに連れられ部屋に入ると、そこはすっかり片付けられていた。部屋ではフレディとジェフが起きて待っていてくれた。僕は彼らに微笑もうとしたのだけれど、上手く表情をつくることができなかった。さっきまで忘れていた痛みが芽を出して花を咲かせたように僕は頭に血液の流れを感じていた。人間の感覚は“死”に近づくほどに鋭くなるのかもしれない、そんなことを思いながら僕は無意識に二段ベッドを上っていた。左側の誰もいないベッドに上る僕のお尻をフレディとジェフが支えてくれた。
僕はベッドの上に転がると最後の力を振り絞り「おやすみ」と言い、そのまま深い眠りについた。今だに分からないのだが、何で僕は自分のシングルベッドではなくその二段ベッドの上に上ったのだろうか。その理由は不明なままだが、ひとつ言える確かなことは僕はそのベッドの上で、全ての物事から切り離れたような気持ちで、胸の奥から湧き上がる自由を感じながら眠りについたのだった。
夢だったのか、現実だったのか定かではない。多分夢だったのだろうと思うのだが、その結果は現実とシンクロしていた。夢と仮定して話をしよう。
明け方に僕は目を覚ました。何故明け方と思ったかというと、ぼんやりとした太陽の光が窓から差し込んでいたからだ。隣のベッドの上で誰かが僕の方を見ていた。じっと目を凝らすと、それはエディさんだった。僕は何かを言おうとしたのだが、頭がズキッと痛んだことで言葉を発することができなかった。
エディさんはいつもと何か違う雰囲気だった。よくよく見ると彼の体は透けており、体内を透明な液体が動いているのが見えた。その液体の中で細胞が成長のための運動を繰り返していた。エディさんは細胞たちの動きにじっと耳をすませるように目を閉じていたのだが、僕の視線を感じると静かに目を開いた。そして目の開き方同様静かに語り始めた。
「物事には哲学っちゅうもんが存在する。どんな些細なことにも。ボディビルにしてみてもただ単に体を鍛えればええっちゅうもんやないんや。人が観て、それをアートと思う体を作り上げるには、細胞ひとつひとつの声に耳を澄ませる必要がある。そしてその細胞のメッセージを受けて、奴らが自ら成長する運動に対して適切な補助をする。体をじょじょにでかくして、絶妙のタイミングでシェイプし始める。そしてまた絶妙なタイミングでステイする。かつ、絶妙なタイミングで披露する。天と地の間に存在する者として、そこにある全てを感じながら自分のイマジネーションにいかに近づけるかが勝負所となる。イマジネーションを創れないやつはスタートすら切れない。でもな、その後はスキルや。一万人いる中に本当のイマジネーションを創れるやつは百人おる。そしてそのイマジネーションを具体化できる奴はその中の十人。最終的に表現の極みとされる領域に到達できるのは、ひとりおるかおらんかや。
哲学の純度は、その対象がシンプルであるほどに高くなる。鍛えるというひとつの行為、走るというひとつの行為、食べるというひとつの行為、そんなシンプルな行動の中にはとてつもないものがつまっとる。何故か。それはな、哲学は人が意識しない場所にこそあるからや。物事が複雑になればなるほど人は考えようとする。しかしな、ほんまは逆で、物事がシンプルであればあるほど、その本質について考えなあかんのや。そしてそうせんのやったら、その行動自体無いのも同然っちゅうことにもなりうるんや。
お前、やっとこさ大人になったところやろ。相当勘違いしてやってきて、その結果ここに辿り着いたわけや。お前の考えの中には『アメリカへ行けば自分すら変わる』と思った部分あったやろな。でもな、完全否定するけどそれは間違いや。確かに環境の変化で能力が変わることはあるかもしれへん。でもお前の本質は何も変わらん。一瞬変化が起きたとしても長い目で見たバイオリズムは何の変化もせぇへんのや。
ならば本質を少しずつでもええから変えていきたい、そう思うならどうするか。それはな、ひとつひとつの物事の核に触れ、自分なりでええから哲学を見つけることや。お前は多分まだ、歩く、っちゅうことの哲学も分かっとらんし、分かろうともしとらん。それじゃいつまで経っても一緒や。
ええな、俺はまがいなりにもお前を見込んどる。俺が出会った人間にはクソのような生き方はしてほしくない。そらそうや。タクシーよ、かっ飛ばんでもええ。じわじわと自分の核の密度をたこぅしていきや。ええな。ぶれずに、自分の核に集中するんや。軸がぶれへんかったら立て直しはきくもんやで。
多分、わしらはもう今後一生会わん。これは悪いが核心に近い。よぉ当たるんや、こういう時の勘は。短い間やったけど、おもろい弟ができた気分やった。ありがとさん。お別れに基本的でいて外せん哲学を一個紹介するわ。ええか。
人はな、何処におるかやない。誰がおるか、や。そんだけ覚えとけばとりあえず間違うことはないやろ。ほなな」
僕はエディさんに何かを伝えたかった。それが何かは分からなかったが、とにかく口を開きたかった。でも言葉は出てこず、僕はエディさんの体が再び透明になっていくのを眺めていた。エディさんの体は見事にシェイプされており、それはまるでギリシアの彫刻のようだった。数ヶ月をかけて作り上げた作品に対しエディさんは満足げな表情を浮かべ静かに闇に溶けていった。
僕を呼ぶ声がする。意識が表層に上がるにしたがって瞼の上に光を感じた。どうやら朝が来たらしい。体が覚醒してくると額の傷もそれに比例するように痛んできた。首を横に向けるとそこにはジュエルがいた。
「おはようタクシー。気分はどう?」
「いいよ。うん。でも痛い」
ジュエルは笑ってベッドによじ登ってきた。
「クリッシーがさ、上がってくるのは面倒だからって看護セット渡されたよ」
確かに僕はベッドから降りられる状況ではなかった。ジュエルはクリッシーに教わったという方法で、丁寧に僕の額を治療してくれた。クリッシーの秘薬だという塗り薬は多少しみたが、実際効果があるのだろうと実感させられる付け心地だった。よく見るとジュエルは綺麗に化粧をしていた。いつもスッピンなこともあって、異様に綺麗に見えた。
「どこか行くの?」
「オーディションよ。今度こそ上手くいきそうな気がするの」
「ふーん」
僕はそう言ってしまうと目を閉じた。ホステルにいるみんなに、ここにいる理由なんて聞いたことも無かった。観光の連中はだいたい長くても一ヶ月もすればいなくなる。でも僕が友人として感じてる奴らは僕がいるこの三ヶ月間にしてもずっとここにいるのだ。彼らはただ住んでいるだけだと思っていたのだが、落ち着いて考えてみるとそんなわけはないのだ。皆、何かしら理由を抱えてここにいるのだ。ジョンとデイビッド、ジェフ、フレディ、ミック、ジミー、クリッシー、そしてカミラとジュエル。カミラとジュエルは女優になるためにきっとここに来たんだ。星を掴むような話だったとしても、その星を掴むという行為自体を愛するがゆえにここにいるのかもしれない。だから遠い国からやってきたのだ。遠い国。そういえば、
「ジュエル。エディはどうしてる?」
ジュエルは僕の治療を終え、二段ベッドの梯子に立ちながら当惑の表情を見せた。
「そっか。やっぱり言ってなかったんだね。エディは昨夜遅く発ったよ。日本に帰ったのか、他の国に行ったのか分からない。これからのことについては何も言ってなかったから。ただ、ジミーは言ってたけど、二十年くらい前、彼らがまだギリギリ“ボーイ”だった頃から、何年に一回かふらりと現れるんだってさ。やってきて、ひたすら体鍛えて、また去っていくんだって。おかしいよね。」
僕は昨夜のできごと、そうきっと夢のできごとを思い出していた。エディさんの透明な体を思い出し悲しみと同時に大きな不安感がのしかかってきた。そんな僕を見てジュエルは梯子を降り、「またあとで」と言って部屋を出ていった。でもすぐにドアが開きジュエルが言った。
「ジミーが言ってた。二十年のつきあいになるけど、エディがあんなに笑ってたのは無かったって。きっとタクシーのこと好きだったんだな、って。」
頭は痛かったけど僕はベッドの上で起き上がった。僕の目からは涙がとめどもなく流れた。理由は分からない。悲しかったわけでも寂しかったわけでもない。でもその涙はただ僕の瞳から流れ続けた。そんなことは多分、それまで無かったことだった。ジュエルは僕を見て「おやすみ、マイボーイ」と言い、再び部屋を出ていった。
僕は横になり窓の外を眺めた。ベッドの位置からは空しか見えず、でも僕はその空の奥をじっと見つめた。その青は、初めて見る青のような気がした。僕はいつしか、心に暖かいものを感じていて、それが満たされたとき涙が静かに音も無く止まり、再び眠りがやってきた。細胞は回復のために眠りを求めていて、僕にはそれを妨げる気はさらさら無かった。