ACT3 ジュエル
「Free fried rock 'n' roller」
これは僕がジュエルに教わった言葉だ。ジュエルはノルウェーから来ていた白人で金髪の女の子だ。女の子と言っても彼女は二十七歳で僕は十九歳なのだから先輩なのだが、とはいえ女の子は女の子だ。ジュエルがハリウッドヒルズにやってきたとき、カミラという赤毛の女の子と、背が高くて日本人の女の子が目をハートにしそうなお兄ちゃんと一緒だった。僕はてっきりどちらかの彼氏かと思っていたのだが、お兄ちゃんは何泊かするといなくなり、ジュエルとカミラは住みついた。お兄ちゃんはそれきり戻ってこない。
僕はジュエルのことが好きになった。でもジュエルのことは皆好きのようだった。
ジュエルはいつも輪の中心にいて、皆をしきっていた。ジミーをへこませることもあった。相当なものだ。言うなればそう、女王様のようだった。
テレビの前にあるソファはジュエル優先となっており、座る場所が無い場合、ジュエルが来たら誰かどかなければならない。のほほんと座っている男の肩はジュエルが寝転んだ時の足の置き場となる。僕はその洗礼は受けていない。僕への扱いといえば、例えばテレビで少しエッチなシーンが映って皆が盛り上がったとき、僕も一緒になって盛り上がろうとすると、ジュエルがテレビの前に立ち
「少年、テレビを観ずに私を見ろ」
と言い踊るのだ。固まった僕は皆にからかわれる。そういった図式、つまるところ、“ボーイ”だったのだ。
ジュエルはいつも笑っていて、世の中の不幸と全く無関係な場所にある城に住んでいるようだった。
「Free fried rock 'n' roller」
雨が降っているよ、ということを言おうとして“R”が上手く発音できず伝わらなかったときや、シカゴブルズのゲームが観たい、ということを言おうとして“L”が上手く発音できず「ブルースミュージック?ブルースリー?」など皆を困惑させたとき、お得意のボディランゲージを用いて僕はその場を乗り越えていた。意味が伝わったとき皆は大笑いしてくれた。そのことによって僕はひとつのギャグを獲得した。笑いというのは、おかしいから笑うのか、笑うからおかしいのか実証されていない部分がある。しかし双方が強く結びついているのは事実だ。そのため、笑っている人間に対して大げさなギャグを用いれば、その笑いはさらに大きくなる比率が高い。間を外したら大変なことになるが、負けたときは負けたとき、そんなの構っていられない。
僕が獲得したギャグとは、ただ単に手振りを交えて
「アンビリーバボー!インクレディボー!」
と繰り返すだけのものだ。そんなのおもしろいはずが無い、と思われても仕方無いのだが、実際このことによって笑いを増幅できていたのだから仕方が無い。ジュエルも僕が一生懸命ボディランゲージで伝えたかったことの意味を伝えきり、皆が笑ったところでこのギャグという表現を繰り出すと、一緒に大笑いしてくれた。
僕はルームメートとなったフレディというイギリス人にお金を払って英語を学んでいた。フレディが英会話の教師をやっていたことがあるということを聞いて、僕の方から、お金を払うから英語を教えてくれ、と頼んだのだ。一レッスンにつき二ドルだったが、お金を払うことに意味がある。お金を払うのだから時間内はしっかりやってもらうし、いい加減にはできないのだ。フレディもそのことを理解してくれて英語を教えてくれた。
皆でリビングで酒を飲んでいたとき、ジュエルがフレディにくってかかった。こんなところで英語を教えて金を取るなんて××××だ、と。××××は、つまるところ汚い言葉だ。フレディも反論したがジュエルの勢いは他の皆も巻き込み、フレディは悪者になってしまい、一人部屋に上がってしまった。ジュエルをはじめとする皆の主張は、一緒に暮らして遊んでいれば英語なんて覚えていくものだ、というものだった。でも僕からするとそれは英語を第二国語として学んできた人たちの意見であり、英語でろくに意思の疎通もできない英語教師から英語を学んだ日本人にとってはそれだけでは足りないのだ。フレディは丁寧な言い方とラフな言い方をシチュエーションを交えて、イントネーションから注意深く教えてくれた。それなのになかなか“R”も“L”も上手く発音できない僕が悪いのだが、皆からはフレディの教育の意味が無いと捉えられてしまった。たった二ドルのことで金の亡者扱いされたフレディ。毎朝全裸でベランダに出てタオルで体中を叩き気合いを入れ、朝日をバックに「グッモーニン!」と弾けそうな笑顔でナニも隠さず挨拶するフレディ。そんな人間はそんなせこい考えで英語を教えてるんじゃない、と弁解したかったのだが、僕は言葉なくしてただ意味不明のボディランゲージをしているしかなかった。部屋に戻ったときフレディはすでに寝静まっており謝ることもできなかったが、翌朝、朝食のあとで僕の肩を叩き、
「さぁ勉強しよう」
と言ってくれた。僕はありがとうと言った。フレディは笑った。
それ以来フレディ先生の英語教育について意見する人はいなかったが、相変わらず僕の英語はメチャクチャだった。それに教えられた言葉が出てくるシチュエーションになるのはなかなか難しいことだった。例えば僕に外国人の婚約者ができて、彼女の気難しい父親と出会う場面などのことだ。フレディは初期の段階でそんなシーンの会話について教えてくれた。もしかすると僕のことを役者志望か何かかと思っていたのかもしれない。
ある夜、眠れなくて、テレビでも観ようとリビングに下りると、テレビの前のソファにジュエルが寝転んでMTVを観ていた。他には誰もいなかった。ドアを開けるとジュエルが振り返り「ハイ」と言った。僕も「ハイ」と言って少し離れて座った。リビングの照明は落とされており、僕とジュエルは二人きりだった。受付から漏れてくる小さな光の中ではクリッシーが本を読んでいた。
MTVではデペッシュモードのプロモが流れていた。ヴォーカルのデイヴはハリウッドヒルズにいる女たちの中で絶頂の人気を誇っていた。“抱かれたい男ナンバー1”だ。
「お前を感じる、太陽の光の中で」
デイヴがそう歌うと女たちは体をクネクネさせて奇声を発した。何故そんなに好きなのか、素朴な元バンドマンとしての疑問を投げかけたところ、一斉に
「セクシーだからに決まってるじゃないか、スカタン」
と言われた。それ以来僕はその質問は愚問であると認識し、デペッシュモードのテープを買ってきてウォークマンで毎日聴いた。体をクネクネはさせないが僕もデペシュモードが好きになった。
ジュエルもデイヴは大好きらしく、しかも表現豊かなため、いつもクネクネどころかグイングインしていた。でもその夜ジュエルは静かに口ずさんでいるだけだった。そんなジュエルを見るのは初めてだったので、僕は相当動揺していた。デペッシュモードのシングルカット曲がフェイドアウトしていくと、僕の心臓の音がクロスフェードして大きく響いていくようで、なおさら動揺してきた。
いつもだったらすぐに冗談をしかけてくるジュエルが静かに寝転んで口ずさんでいるのだ。大人の男だったら何と言うのだろうか。何か気の利いたことを言うのだろうか。僕は何度か話しかけようとしたが、いかんせん、動揺している上に英語もろくに話せないものだからボディランゲージするしか無いのだが、そんなことしたらただの変態だ。ジュエルがそれで笑わなかったら、きっとクリッシーが警察に通報するだろう。
沈黙が続いた。
かなり困った。
こんなことなら無理にでも寝ておけば良かったと思った。
MTVでホイットニーヒューストンが歌いだし、ジュエルが再び口ずさみはじめ、僕はホッとした。でもどのタイミングでこの場を離れれば良いのだろう。そんなことを考えながら画面を観ていると、ふと右側に気配を感じた。見るとジュエルは起き上がり僕の方を向いて座っていた。まったくもって不覚だった。もう動くことは不可能だった。思わず「アイラビュー」とでも言ってしまいそうだった。
緊張の糸が切れかけたとき、ジュエルが
「Free fried rock 'n' roller」
と言った。僕はわけが分からなかった。ジュエルはもう一度繰り返した。
「Free fried rock 'n' roller」
そして僕にも言え、と言った。
「フリーフライドロッケンローラー」
不合格。おそらくやっぱり“F”と“L”。
「フィィーフアイド オッケンオーラー」
ジュエルが笑った。僕も笑った。クリッシーが咳払いした。僕らは笑いながら黙った。
ジュエルがフッと笑いながらため息をついたとき、テレビが一瞬明るく光った。ジュエルの目は真っ赤だった。泣いていたんだろうか。ジュエルが泣くってどういうことなんだろうか。
そんなことを考え呆然としている僕の肩をポンと叩き、もう一度
「Free fried rock 'n' roller」
と言い、練習しなさい、と言い残すとジュエルは部屋へ戻って行った。
「フリーフライドロッケンローラー」
僕の胸に何か重いものが積もっていくようだった。暗闇の密度が一気に濃くなり、僕はひとり世界に取り残されたような気持ちになっていた。ジュエルは何を抱えてひとり暗闇の中でテレビの光を観ていたのだろう。
僕はクリッシーに「もう寝なさい」と肩を叩かれるまでテレビの前に座り続けていた。部屋に戻って僕はヘッドフォンを耳にあて、デペッシュモードを聴きながら眠った。デイブの声は誰かのために祈っているような、そんな声だった。