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ACT2 ミックとクリッシー

 ホステルの中に入ると受付のドアが開き一人の男が現れた。ジミーから彼はミックだと紹介された。どうやらこのホステルの人らしい。ミックはまるでアメリカのホームドラマに出てくる「パパ」のような、少し太めの白人で、まるで演じているかのような笑顔を絶えず浮かべていた。

 ミックが差し出した手を握り、僕らはお互いに自己紹介をした。ミックはイギリス人だと言った。それ以外にも何かしら友好的なことを言っていたようだが、例によって理解できない。でもこんな笑顔で、しかも宿泊客に対して悪口は言わないだろう。

ミックに促され僕は荷物を持ち宿泊客が共同で利用するリビングへ入っていった。後ろで声が聞こえたので振り返るとジミーが誰かと話していた。話し相手は受付の中にいて、それはかなり太めの女だった。女は一瞬僕を見たが、それは友好的というには程遠い視線で、僕は思わず目を逸らした。彼女もここの人なんだろうか。

リビングで僕はミックから宿泊のための説明を受けた。ミックはゆっくり丁寧に喋っていたのだが、僕がほとんど英語を理解できないのが分かるとニッコリ笑って立ち上がり、僕に少し待っているようにと言った。

 リビングにあるテレビがついていて、MTVが流れている。僕は少し嬉しくなった。音楽にゆっくりと触れるのが久しぶりだったからだ。僕は高校時代にバンドを組んでおり、その関係で他の友達より音楽に触れる機会が多かった。そのバンドは世の中の多くの人がそうであるように卒業と同時に辞めた。バンドメンバーは皆大学に進学するために他の県や他の国に移り住んで行き、僕は一人になった。親友でもあったギタリストとベーシストはカナダの大学に行った。彼らは進学先をカナダの大学に決めたとき僕を誘ってくれたのだが、僕はそのころすでに進学の意志を失くしていて、だからといって何かしたいことがあったわけでも無かったのだが、彼らの誘いを断った。


 彼らが日本を発つ前日に仲間内で送別会を開いた。二次会が終わり、外に出たところでギタリストが僕に

「抜け出そう」

と言った。ギタリストは相当酔っており、明日のフライトに差し支えると思ったのだが、彼は一人で歩き出してしまったので僕はその後をついていった。

「大丈夫かよ」

 僕が聞いてもギタリストは立ち止まらずに振り返りただ笑みを浮かべた。僕らはゲーム機がある喫茶店に入った。ギタリストはドサッと腰を下ろすとビールを注文した。僕もビールを注文した。店内はゲームの音で溢れていて、外国に発つ前夜に親友どうしが酒を交わす場所にふさわしいとは到底思えないような所だった。僕らはゲームの音に囲まれて、何も話すことなくただビールを待った。ギタリストはうつむきぎみにゲーム機のモニタを眺めていた。僕らが座ったのはスロットゲームの席だった。「インサートコイン」という文字が点滅していて、モニタではデモ画面が流れていた。店内が暗めだったせいもあって、スロットが回転するたびにギタリストの顔に様々な色が映し出された。

 出てきたビールはとても良く冷えていて、送別会の間に飲んだどんな酒よりも美味かった。ギタリストはビールのジョッキに手もつけていなかった。僕はクシャクシャになったマルボロのケースをポケットから取り出し、少し曲がってしまっていた煙草をまっすぐ伸ばしてから店にあったマッチで火をつけた。紙のマッチを擦るのに二本失敗したが三本目で火がついた。僕は酔いを醒ますためにゆっくり煙を吸い込み、ゆっくり吐き出した。僕らは店に入ってからまだ一言も口をきいていなかった。

 何か、はなむけの言葉でも言わなきゃと思い口を開きかけたのだが、僕はそのまま口を閉じてしまい、そして煙草の火を消した。ギタリストの目から涙が流れていた。泣いてるというのではなく、普段と変わらぬ表情の目から、ただ涙が流れているだけのようだった。絶え間なく涙を流しながらギタリストは口を開いた。

「音がさ、音が聞こえるんだよ。いっぱい、色んな方向から音が聞こえるんだ。どの音を聴けばいいのかなんて、さっぱり分からないんだよ。だからさ、怖いんだ。とてつもなく怖いんだ。どうすりゃいいんだろうか。こんなとき、どうすりゃいいんだろうか。お前分かるか?こんな気持ちわかるか?多分どこまで行っても一緒でさ、俺には選ぶ権利なんか無くてさ、そのうち音が鼓膜にこびりついて、最後には何も聴こえなくなるんだよ。俺の聴きたい音も聴きたくない音も何ひとつ聴こえなくなるんだよ」

 それだけ言ってしまうと彼はビールを半分くらい一息に飲み、また視線を伏せた。僕は何ひとつ言葉にすることができなかった。突然の告白にどうしていいか分からなかったんだと思う。僕はギタリストもベーシストもカナダの大学に合格したことで、人生の成功を手に入れたような気持ちになっているとばかり思っていた。でもそれは大きな間違いだった。僕は何も分かっちゃいなかった。あのときも、そして多分今も。

 彼らがカナダに行ってしまってから半年くらいして絵葉書が届いた。そこには綺麗な湖が映っていて、大学でできた友人とバンドを組んでいる、ということが書かれていた。湖はとても冷たそうで、そして深そうだった。湖の周りに生い茂る植物の鮮やかな色とはうらはらに、その水は別世界への入り口を思わせるような暗闇を抱えていた。目を閉じると僕はいつでもその湖を思い出すことができる。そうすると僕の周りから一切の音が消えてまるで湖の底にいるような気持ちになる。あの絵葉書はギタリストから僕へ意識の無いレベルで贈られたプレゼントだったのだろう。


 リビングに戻ってきたミックが僕に、音楽は好きかい?と尋ねた。僕は、好きだ、と答えた。「だったらきっとここの生活は楽しいよ」そう言ってニッコリ笑いながら再び僕の前に座った。ミックは紙とペンを用意していた。そして僕にさっきと同じようにゆっくり説明しながら、それを字と絵で表現してくれた。

 このホステルは「ハリウッドヒルズ」という名前のホステルだった。

ホステルとは主にバックパッカーが利用する宿泊施設で、部屋は相部屋。多く金を出せばプライベイトルームが用意される。朝食や夕食がつくところもあるし、別料金になっている場合もある。

そういった基本的なことを説明してくれた後、僕が理解したということを確認してから「ハリウッドヒルズ」の説明に入ってくれた。


・素泊まりが十ドル(プライベイトルームは二十ドル)

・朝食・夕食付きで十五ドル

・ビーチやアミューズメントパークへのツアーが毎日出る(有料のものもある)

・車も有料で貸し出す

・ジミーは外の自宅に住んでいるがミックとクリッシーはホステルに住んでいる


「クリッシー?」

 僕が尋ねると受付の方から、私だ、という声が聞こえた。さっきの強面の太った女がクリッシーらしい。僕はなるべくミックを頼ることに決めた。

 旅行代理店にサービスでもらっていた英会話トランプを取り出し、僕は一枚のカードを探し始めた。ミックは不思議そうな顔をしていたが、トランプを覗き込むと実に楽しそうに大笑いした。笑い声につられてやってきたジミーもトランプを覗き込むなり大笑いした。ミックの笑い方はホームドラマのようだが、ジミーの笑い方は実にワイルドだ。突如笑うのをやめて銃でも取り出しそうだ。フリーズ。そういえばフリーズをプリーズと間違えて笑いながら強盗に近寄ってしまったばかりに撃たれた日本人がいたな。僕も人事ではないのだから基本ルールは早く覚えないといけない。

 探し当てた会話が記載されたトランプを見ながら、トラベラーズチェックは使えますか?と尋ねると、ミックは親指を立てて笑いながらイエスと言った。ジミーはふざけて、同じように親指を立てながらイエスを連発していたが、クリッシーに呼ばれ再び受付に戻って行った。

 トラベラーズチェックを数えると、素泊まりで二ヶ月ちょっと住めるくらいの金額しかなかった。食事付きにすると一ヶ月半くらいしかいられない。でも元々お金が無いのは分かっていたことだ。今更がっかりしても仕方が無い。でも、僕は明らかにがっかりしていたのだろう。事情を漠然と理解したらしく、首を傾けてミックが尋ねてきた。

「タクシーはどうしたいんだ?」

「アメリカに住みたい」

「いくらある?」

 僕は実際僕が持っている金額をセント単位まで答えた。するとミックが受付にいるジミーに向かって大声で話しかけた。何回かのやりとりがされた後、ジミーがリビングに入ってきた。ジミーはサングラスをかけ、車のキーを指で回していた。もう出かけるところだったのだろう。ジミーとミックは何かをひとつずつ確認しあうように話していた。

 パン。交渉が決まったかのようにジミーが両手を叩き合わせた。そして僕に向かってマシンガンのようなスピードで何かを語りかけた。僕は今後この英語を聞き取れるようになるのだろうか。絶対無理な気がする。ジミーは息を吸い込むこと無く一気に話し終えると僕の肩をポンと叩き、そのまま出ていってしまった。クリッシーに別れを告げる声がして、その後すぐ車のエンジンがかかり発車する音が聞こえた。ジミーは行動も言葉もマシンガンのようだ。

 裏返した紙にミックは何かを書いていた。書き終えた紙を僕に示しながらミックはゆっくり丁寧に僕に説明してくれた。

「ただで泊まらすわけにはいかないんだ。僕らはビジネスとしてこのホステルを経営している。でもタクシーは金があまり無い。でもアメリカに住みたい。OK。二ヶ月分の素泊まり料金を払ってここに住め。食事の後みんなの皿を洗え。たまに他のことを手伝え。そしたら食事はただにしてやる。その間に仕事を探せ。二ヶ月後まだここに住みたければ働いた金で宿泊費を払え。もし出ていきたければ出ていくといい。どうだ?」

 ミックが話すのを聞いていると英語を話せる気になってくる。伝える能力というのはすごいんだと思った。だいたいにおいて、僕はここに辿り着くまで、ほとんど英語を理解できたためしが無かったのだ。僕は二ヶ月間の素泊まり料金分のトラベラーズチェックを数えミックに手渡し、プリーズ、と言った。

「OK. That's a deal」

ミックが笑って握手してきた。契約成立ということらしかった。

 

 ミックが僕に領収書のようなものを渡し、僕に着いて来いと言った。リビングを出て受付の前を通ると新聞を読んでいたクリッシーが一瞬目を上げた。ミックが彼女に、僕がここに住むことになった、というようなことを言ったが大して反応もせず新聞に視線を戻した。

 僕はミックに続いて階段を上っていった。二階で一旦止まったミックは

「二階にはずっとここに住んでいる人たちがいる」

と言った。そして僕らは再び階段を上った。突き当たりにドアがあり、そこを開けると裏山が見渡せる外廊下に出た。風が気持ち良く吹き抜けていく。一番奥まで進み、

「ここが僕の部屋だ」

とミックが言った。再び屋内へ繋がるドアの手前まで行き、そのすぐ隣にあるドアを開けた。

「ここがタクシーの部屋だ」

 部屋の中には二つの二段ベッドとひとつのシングルベッドがあり、そのシングルベッドが僕の寝床となった。シャワールームのお湯は出が悪いらしく、見てみるか、と言われたけど、いい、と言った。眠るところがあるならお湯なんてどうだっていい、少なくともそのときはそう思っていた。後で少し後悔した。

 十九時から夕食だということを告げ、ミックは部屋を出ていった。僕は久しぶりに一人になった気がしていた。僕のベッドから見て左側の二段ベッドの下のほうだけ人の気配が無く、他のベッドには全て荷物が置かれていた。みんなバックパッカーなんだろうか。誰かが部屋に入ってきたら何と言おう。とりあえず自分の名前を言えばいいだろうか。思いもよらぬ緊張だった。でも、少なくとも自分で選んだ道でここにいる、という事実が僕に胸を張らせた。“0”だった自分がアメリカまでやってきて住むところまで獲得したのだ。それだけで現時点では「OK」と言うべきだろう。

 窓を開けベランダに出てみた。真下には比較的広い通りが走っており、道路を挟んだ向かい側には小さなスーパーがある。部屋は結構高い場所にあって遠くまで見渡せる。ホステルの斜め右後ろにはホテルがあった。豪華そうなホテルだ。僕なんて一泊できるかどうか怪しいところだろう。遠目で見ても日本人だと分かる人々がホテルの中へ入っていくのが見えた。ハリウッドということもあって、ここら周辺は観光地域なのだろう。自分がこれから住む部屋を振り返ると、とてもそんな風には思えないけど。

 ホテルから振り返り、ホステルの左側に視線を向けたとき、僕は思わず「わぁ」と言った。普通「わぁ」なんて言わない。“HOLLYWOOD”という文字が視線より少し高い位置に見えた。ハリウッドサインはホステルの入り口で見た時より随分大きく立派に見え、その質感まで感じ取れるようだった。僕は何だか嬉しかった。理由もなく嬉しかった。腕時計に目をやるともうすぐ十八時になるところで、僕は夕食までの時間を使って手紙を書くことにした。ハリウッドサインが見える場所に住むことになったことを家族に伝えるために。僕はアーミーバッグから紙とペンを取り出し、夕陽が部屋に差し込むのにも気づかず夢中でペンを走らせた。

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