ACT1 ジミー
一九九三年の一月、一九歳の誕生日を迎えるとすぐに僕は日本を発った。エスカレーター式に進学をして、大学受験に失敗し僕は浪人か就職かという選択に迫られていた。だけど僕はどちらも嫌だった。嫌ということなど人生においていくらでもあるのは分かっていたし、むしろそのほとんどが嫌なことで構成されていることだって知っていた。でも僕はその二つの選択に対して恐怖すら感じていた。
僕はアメリカへ行くことに決めた。理由なんて無かった。とにかくアメリカは僕の想像の範疇外にあり、そこに行くだけで僕は何かになれる気がしていた。高校を卒業してからアルバイトを始めたもののアメリカへ行くための努力など何もせず、サーフィンとディスコに明け暮れていた。でも一八歳が終わろうとしていた時、再び恐怖が襲ってきた。
通帳を見るとアメリカへ行く資金はギリギリあるようだった。エアチケットと一ヶ月くらいだったら暮らせそうな金だ。僕は誕生日の前日に旅行代理店へ行きチケットをとり、残りのお金をトラベラーズチェックに換金した。チケットは入国時のダミーとするため、三ヶ月の観光を建て前とした往復分を購入した。僕に必要なのは片道のチケットだったのだが、労働ビザを持っていないのだから仕方が無い。
ロサンゼルスに到着した僕を待っていたのはホームシックだった。目的すら無く言葉の分からない国へ来たのだから当然と言えば当然だ。宿泊や食事すら上手くいかず、僕は到着してから二日後、ただ西海岸のビーチをフル装備で歩いていた。場違いなコートとアーミータイプのリュック、シカゴブルズの赤いボストンバック、リーバイスのジーンズ、それにユーイングのバッシュといった格好だ。そしてそれは、とにかく歩くために歩くという、何ともシンプルで愚かな行為だった。
夕方近くにビーチライフを楽しむ人々が集まる街に辿り着いた。ベニスビーチだった。僕はビーチ沿いに出ていた露天でハンバーガーを買い、砂浜に腰を下ろした。体中すみずみまで疲れきっており、海の向こうの日本を思いながらハンバーガーを食べていた。
ヒスパニッシュ系の精悍な目つきをした男に声をかけられたのは、ハンバーガーを食べ終え、コートを着てアーミーバックを背負ったまま、ただ海を見ていたときだった。男は年の頃、約四十歳といった感じで(若々しいのは間違いないのだが、その風格からして三十代では無いと僕に予想させた)サミー・デイヴィス・ジュニアに似た顔で、その黒褐色の顔の中に真っ白な歯を浮かばせてニカリと笑った。
「What are you doing here?」
僕はほとんどと言っていいほど英語を話せなかった。僕が理解しないのを見ると男は笑顔を(技術的に)増幅させて、もう一度ゆっくり話しかけてきた。
「You are Japanese, aren’t you?」
少しびっくりしたのだが、僕はその時すでに疲労しきっており、とにかく何でも誰でもいいから繋がりを持ちたかった。英語が話せないせいでナーバスになっていて、誰にも話しかけられずにいたところに、やっと話しかけてくれる人間が出てきたのだ。犯罪に巻き込まれるような予感が無かったわけでも無い。でも、それでも良かった。結構どうだって良かった。僕はアーミーバックを肩から下ろし、日本から持ってきていた空手着を取り出した。その空手着は、僕の“可能性”リストの中あった「ショーコスギに弟子入り」というものからピックアップされた持ち物だった。
「I’m KARATEMAN」
男は一瞬キョトンとした後、大声で笑い出した。つられて僕も笑った。笑ったのは多分、三日ぶりだった。男は僕の肩に手をやり、「ジミーという名前だ」ということ、「日本人の友達もいるから分かるがお前は日本人で間違いない」ということ、そして「十六時にここで待っていろ」ということを丁寧に僕に話してくれた。僕は漠然と理解し、自分の名前を告げた。ジミーは僕を“taxi”と呼んだ。一度訂正したが分かってもらえずそのままにしておいた。特に不都合があるわけでもない。ベニスビーチで僕は“taxi”という名前を授かった。腰を上げ立ち去ろうとするジミーに、あわてて僕は「僕らは何処へ行くの?」と尋ねた。
「Hollywood!」
ジミーは親指を立ててそう答え、颯爽と街の中へ消えていった。
約束の時間になり僕がジミーを待っていると日本人の男が現れた。
「タクシーさん?」
僕がそうだと答えると彼は握手を求めてきた。
「ジミーがね、すごい笑いながら『空手マンが待ってるから迎えに行ってくれ』って言うんですよ。お一人でこちらへいらしたんですか?卒業旅行とかそういうやつですか?いやぁ、でもそのコート暑いでしょ。僕半袖だし、何だかすごいですね」
彼が言うにはジミーは宿泊施設のオーナーであるということだった。ハリウッドとベニスビーチでホステルを経営していて、各ホステルから毎日自分でツアーを組んでいるのだという。
「私ね、毎年来るんですよ、ロスには。五年前にバックパッカーでやってきたときにね、たまたまジミーのホステルに泊まって、それから毎年やっかいになってるんです。彼ほら、あんなでしょ。何かやりたいこととかあるとオリジナルプランでも何とかしてくれたりして。でもあれですか、何か宛ての無い旅行とかなんですか?空手着持ってきたんですって?」
なんだか、悪い人では無さそうなのだが、彼の中に僕は日本を発つきっかけとなったような気持ちを思い出していた。親切からこうしてくれているのだろうし、ジミーのことも分かったし。でもなるべく喋りたくなかったので僕は「はぁ」とか「えぇ」とか当たり障りの無い返事をしていた。
ビーチからそう離れていない建物の前に三人の旅行者がジミーと並んで立っていた。外国人の老夫婦が一組とバックパッカーの白人の女が一人。それにジミーと僕を連れてきてくれた日本人の男が加わり、一行は車に乗り込んだ。
ジミーはピシャリと手を叩き、運転席に乗り込んでクルッと後ろを振り返った。そして各自を指差し名前を言ってから(僕はやはりタクシーと呼ばれ、外国人の老夫婦が笑った)、勢いよく車を発進させた。助手席に座った日本人の男はジミーと親しげに話していた。僕は後ろの席で老夫婦と白人の女に挟まれて、小さくなっていた。
窓の外には西海岸の温暖な気候が広がっていた。人々は陽気に笑っていて、木々は心地よく揺れて、日差しはカラッとしていた。僕はやっとのことでロサンゼルスを眺めることができていた。こっちに着いてから、ずっと目の前のことを何とかすることに囚われていて、アメリカに来たことすら忘れてしまいそうだった。安心感から僕はシートにもたれかかり、いつの間にかうとうとしていた。ジミーと日本人の男との会話が言葉が分からない分心地良く響き、そのまま眠ってしまった。
ジミーは興奮している。ハリウッドに到着する前、ガソリンスタンドではしゃぐ声に僕は目を覚ました。車の外にいるジミーの前には、ものすごく背の高い男が立っており、二人は握手を交わしていた。細目を開けているとジミーは車内にいる僕の方をクルクル振り返っている。きっと僕が目を覚ましていたなら引きずり出そうというつもりだったのだろう。
背の高い男とハグをして、ジミーは親指を発射されそうなくらいピンと立てながら車に乗り込んだ。そしてハデなクラクションをこれまたハデに鳴らしてスピンしながらガソリンスタンドを後にした。
そういえばいつの間にか、車内にはもう僕とジミーしかいなかった。皆何処で降りたのだろう。全く気づかなかった。僕が、もうそろそろいいか、と目を開けると、ジミーはバックミラー越しにニカッと笑ってマシンガンのように喋りだした。ジミーは少し顎がしゃくれており、それも付随してテンポ良く喋るとコメディアンに見える。その喋り方は「伝えよう」というよりは「とにかく聞け」的なもので、言うに及ばず僕はほとんど理解できなかった。しかし、信号待ちの間の彼のダイナミックなボディランゲージにより、さっき話をしていた男はロサンゼルス・レイカーズの有名な選手だということを知った。ジミーは狭い車内でディフェンスからオフェンスまで、ありとあらゆる動きをして最終的にはダンクをしてバックミラーを叩き落してしまい、後ろからクラクションを鳴らされ、ケンカに飛び出しそうだったが、僕という客を乗せていることを思い出してくれたようで、そのまま発車させた。
「チャイニーズシアター」
ジミーは気分良さそうに顎をしゃくって僕にその場所を示した。チャイニーズシアターは知っていた。しかし僕はそれがハリウッドにあるということも知らなかった。もっと言えばハリウッドがロサンゼルスにあることさえ、実は知らなかった。本当に僕はここへ何をしに来たのだろう。
ハリウッド大通りを左折し、少し坂道を登ったところの道路沿いにジミーのホステルはあった。駐車場の奥の方にはピンクのキャデラックが停まっておりジミーはその後ろにつけた。ジミーは車を降りると僕を待たずにさっさと屋内に入ってしまったので、僕は慌てて彼を追いかけた。坂道のまだ上の方を見ると山の中に“HOLLYWOOD”という文字でできた看板があった。映画の中とかで見たやつだ。僕は少し感動していた。目的なんて無かったけれど、いつの間にかハリウッドに偶然辿り着いたということに運命を感じていた。何かが始まりそうな予感がしていた。
「Taxi!」
新たな名前とアイデンティティを得た僕は、それだけで何もかもが上手くいく気になっていた。
「Yes」
何か気の利いたことを言いたかったのだが、まずはこんなものだろう。僕はジミーを追いかけてホステルの中へ入っていった。