エピローグ
空港には母が迎えに来てくれた。手を大きく振り「おかえり」と言う母のイントネーションが無性に懐かしく感じた。
「じいちゃんは、、、」
「うん、もうぜぇんぶ終わったよ。最後はねトイレで座ったまま死んじゃったんだけど、何ともいえない笑顔でね。病院の先生たちもそんな笑顔で死ぬ人は見たこと無いって言ってたよ」
「ごめんね、間に合わなくて」
「間に合うも合わないも、アンタこんなことでも無ければ帰ってきてないでしょう。それにね、いいのよ。じいちゃん最後はアンタの名前普通に呼んでたし、一緒に暮らしてるつもりだったんじゃない?」
空港から実家がある市内に向けて走る車の中で僕は窓の外を眺めていた。当たり前のことなのだが日本語で書かれた看板を見ていると、中国の何処かへ来たような気がした。僕はアメリカに住んでいて、中国に旅行に来たのだというような、そんな感じだ。母がチラチラと僕の顔を見ているのが分かり「何?」と言った。
「いやさ、アメリカ行ってたんだからまぁしょうが無いとは思うけど、その髪と髭どうにかならんね。ばぁちゃんビックリするよ」
そんなもんかな、と思っていたのだが実家に到着すると、元気な声で「おかえりー」と言ったばぁちゃんは僕の顔を見て「うわ」と言い目を丸くし、ビックリしたまま固まってしまった。そのばぁちゃんの表情こそが、僕のロサンゼルスでの一年間の象徴なんじゃないかと思う。
帰国から半年が経ち、季節は初夏をむかえたころ、僕は工事現場で仕事をしていた。髭は剃ったが髪は切っていない。休みの日には帰国後作ったバンドでスタジオにこもって演奏していた。デイビッドがイギリスに帰ってバンドをやる、ということを言ったとき、僕も日本に帰ったらバンドをやりたい、と純粋に、かつナチュラルにそう思ったのだ。そして思っただけで終わらないように、それを現実にした。
バンドをやる中でいつも思っているのが“BLACK DOG”の音に少しでも近づきたい、ということなのだが、何かが明らかに、根本的に違った。僕はその何かが何なのかは知らないが、そういう違いが存在することはロサンゼルスで学んだ。存在自体を認識するのとしないのとでは全く違うのだ。認識しなければいつまでも場違いな場所で、前進していると思っても、実はただそのあたりをグルグル回っているだけ、という行動をとるはめになる。
高校時代の友人でカナダに留学している二人組のうち、ベーシストから国際電話がかかってきた。初夏とはいえ南国にある僕の住む街の、さらにその中の工事現場は異様なほどの暑さに包まれており、僕は毎日リッタークラスの汗をかいていた。そんな風にして脱水した水分を取り戻すべく、僕はビールを飲みながら電話に出た。
「久しぶり。珍しいな電話くれるなんて」
「おう、元気にしてるか?って言うかお前は『電話しよう』なんてことすら思わんだろう?知ってると思うけど俺だって電話は苦手だ。なんかこっ恥ずかしいだろ。高校のときからにしても電話でお前と話すのなんて初めてじゃないか?」
「そう言えばそうだ。お互い困ったもんだな。で、何かあったのか?」
「うん、こないだまでさ、実はロスに旅行に行ってたんだ。大学の友達とサーフィンしにさ。」
「へぇ、お前サーフィンすんのか?全然想像できないんだけど」
「まぁな。こっちでできた友達がスノボとサーフィンやっててさ。スノボには何度も行ってたんだけど暖かくなったしサーフィンしに行かないか?って誘われたんだ。OKとは言ったもののまさかロスまで連れて来られるとは思ってなかったんだけどな」
「そりゃそうだな。カナダでサーフィンなんて実際あるのかどうかも分からないな」
「それでな、たまたま泊まったホステル、お前が住んでたホステルだったんだよ。偶然すぎてビックリして電話したんだ。昨日カナダに帰ってきたばっかりだからな」
「えぇ、マジか。どうやって俺が住んでた場所だって分かったのさ」
「去年の夏休みにお前の実家まで行ったんだよ、帰郷したついでに。そしたらお前はいなくて、母ちゃんからロスに行ってるって聞いたんだ。何で?って聞いたら、知らないって言われた。お前いいかげんそういうのやめろよな」
「おう、お互い様だ。で、ところで何で俺が住んでたところだって分かったのさ?」
「あぁ、そうだったな。受付してたらさ、その受付担当のおじさんが、前日本人が住んでたんだ、って言うんだよ。へぇ、ってとりあえず流したんだけど『タクシー』っていう名前だ、っていうからお前の名前に似てんなと思ってさ。まさかとは思ったけど、どんな奴?って聞いたらどうもお前っぽいんだ。話してるうちに、きっとそうだ、って話になって、そのおじさんどっかに走って行ってさ、写真持って帰ってきたんだ」
「写真?あぁ、だったら違うよ。俺写真一枚も撮ってないもん」
「え?そんなことあるかよ、確かにお前写ってたよ。」
僕が写真に写っていた?そんなことは無い。思い返してみたけど、写真を撮った記憶は全く無い。
「いや、でも俺写真マジで撮ってないから」
「はぁ?じゃ誰だよあれ。お前だって。俺が間違うと思うか?場所ハリウッドだろ?大通りから折れた通りの裏手にあるところ」
困ってしまった。タクシーと呼ばれて僕と同じ顔をしている。そんな奴がもう一人いるとは思えない。でも僕は写真には写っていない。
「多分お前酔っ払ってたんだろ」
「その写真の俺は酔っ払ってたのか?」
「いや酔っ払ってるようには見えなかった。でもさ、いいんじゃね?記憶に無い写真があっても。とりあえず俺は偶然お前の住んでたホステルに泊まったんだ。おもしろいよな」
おもしろいも何も僕はその写真のことが気になって仕方が無かった。
「あのさ、それどんな写真だった?」
「もういいよ、写真のことは」
「いや頼むから、どんな写真?」
「えぇ。どんな写真って言われてもな。なんか住人のみんなで撮ったような写真だったと思うよ。まぁいいじゃん」
その後なし崩し的にベーシストがカナダでの色々な話をした。ギタリストのことを聞くと外国人のミュージシャンと一緒にバンドを組んでいるということだった。スティービーレイボーンの曲を演奏しているとのことで大学の近場にあるバーなどでも演奏し、周囲の人々に高い評価を得ているとのことだ。たまに二人で飲むときには僕の話をしていたそうだ。何よりもギタリストが自分の場所を見つけたことに僕は喜びを感じた。バイオリズムは下がれば上がり、上がれば下がるものだから、また彼にも、そして僕にも底が訪れると思う。でも一度底を体験しているから免疫はできているはずだ。僕の中でひっかかりがひとつ取れたような気がした。
「じゃ、そろそろ切るわ。もしかしたら年内に一度帰るかもしれないから、会えたら会おうや」
「そうだな。楽しみにしてるよ」
「んじゃ、あ、忘れてた。お前がうっとしい質問するから言い忘れてたけど、あのホステル、俺らが最後の日本人の客になるって言ってた。今月の末に無くなるんだってさ」
僕とベーシストは再び再会の約束を交わし電話を切った。僕は立ち上がり窓を開け、テレビを一度つけてからすぐに消した。ホステル・ハリウッドヒルズが無くなったら、彼らは一体どこへ行くのだろう。あそこを最後の場所と決めていた住人たちは、僕のように始まりのきっかけをつかむことができるのだろうか。でも、それは心配のしすぎなのかもしれない。十九歳の僕にだってうまくやれたんだ。彼らならきっとうまくやれる。
リアルの世界の片隅にひっそりと扉を開け、行き場所を無くした人が訪れるホステル・ハリウッドヒルズ。そこではどうしようもなくなった様々な気持ちが癒され、不要なものは熱砂に吸い込まれる水のように無くしてくれる。でもそこは最後の場所ではない。そこから出たとき、改めて人はその場所を愛することができる。そしてもう戻ることはできないし戻ろうと思うことも無い。
もし、誰か留まることしかできなくなった人がいたとしたら、きっと、ホステルはその人の実体と感情をオブジェにして、誰の目にも耳にも触れることのない至極の芸術作品を創りあげ、時間の無い空間にひっそりと飾ろうとするのかもしれない。