ACT12 WHOLE LOTTA LOVE
祖父が亡くなった。母が知らせてくれた。
母は何度かホステルに電話をかけてきている。一番最初にかけてきたときはクリッシーが意味が分からず切ってしまった。僕はそのことを後に送られてきた手紙で知る。僕はそのことをクリッシーに告げ、彼女は本当に心の底から申し訳無さそうに謝った。クリッシーがそこまで深刻に謝ることなんて無いので僕はビックリして「いいよ、たいして問題じゃないから」と言ったのだが、彼女は「家族の絆を切る権利は無い」と言い謝り倒した。
二回目に電話がかかってきたとき、クリッシーは母が驚くくらい「ちょっと待って」を繰り返し、部屋まで息を切らせながら駆け上がってきた。そのときの電話を含めて僕は母と電話で三回話している。二回目は国際電話を二ドル出すだけで無制限でかけさせてくれるテクニックを持ったジョンの遠い友人がやってきたときで(この日は皆が国際電話をかけまくった)、三回目が今日だ。
僕はその知らせを聞いてしばらくの間声が出せなかった。声は出せなかったが、僕の中で堰き止めていた液体が一気に流れ出したようだった。僕は思っていた、「時間はちゃんと流れていたんだ」と。
電話を切った後、クリッシーが「お母さん、話せて喜んでたかい?」と聞いた。僕は「じいちゃんが死んだんだ」と答えた。クリッシーは目を固く閉じてからゆっくり開き、「大丈夫かい?」と聞いた。僕は「大丈夫さ」と答えた。
僕はホステルに前家賃を払っていた。つい先日支払ったばかりだから後一ヶ月くらいは住んでいられるのだが、僕はミックの部屋まで行き、事情を説明し、明日ロスを発つことを告げた。僕はレストラン近くの旅行代理店の友人(彼は元々エディさんの友人だ)から一年間のオープンチケットを手に入れていた。だから望めばいつでも帰ることができたのだ。
「タクシー、残念だね。でも少しだけゆっくりしていくことはできないのかい?」
「うん、特に帰って何があるってわけでもないんだけど、僕は帰らなくちゃいけないんだ。」
「そうか、じゃあジミーに日割り分の家賃返すように言ってみるよ」
「あぁ、それはいいよ。僕は一ヶ月分払うことでただ同然で寝泊りしていられたんだから。これは僕と彼が交わした契約だ。返さなくていい」
「本当にいいのか?」
「うん、いい」
部屋で荷物の整理をしてからリビングに下りるとジョンとデイビッド、そしてジュエルがいた。三人はミックから僕のことを聞いたらしく「タクシー」とジュエルが言ったっきり誰も喋ろうとしない。僕が「ありがとう」と言うとジュエルはテレビの方を向いてしまった。テレビでは映画がやっていた。それはデニーロの若かりしころの映画で、彼が狂気のタクシードライバーを演ずる映画だった。デニーロの演技は尖っており、ビリビリとした殺気のようなものが画面を通して伝わってきた。
「実は俺も来週イギリスに帰るんだ」
そう言ったのはデイビッドだった。僕はテレビの画面を見つめていて、一瞬話しかけられたのか、それとも画面の中から出てきた言葉なのか分からなかった。デイビッドのほうに振り向くとジョンがその横を通りすぎてリビングを出ていった。ジュエルはこちらを見向きもしない。
「イギリスに帰ってバンドをやる」
「ジョンは?」
「ジョンはここに残るさ。彼はここの代名詞みたいなもんだ。こればっかりはしょうがない」
「ずっと一緒なのかと思ってた」
「何がだい?」
「君とジョン」
「タクシー、ずっと一緒なんてものは無いよ。永遠っていうのは瞬間の中に感じるものさ。ポールのコンサートのときジョンが言ってただろ」
「でも、何だか少し残念な気がする」
「俺も残念さ。でも流れに逆らうことはできない。これ以上俺はあいつと一緒にいることができない。俺がそうしたくてもジョンが許さない」
僕は少し黙ってしまった。ジュエルは相変わらず画面から目を離さない。それを観てるのか観てないのかも分からない。輪郭がはっきりしない。クリッシーとミックが受付で何かを話している。その言葉の輪郭もはっきりしない。外でエンジン音が聞こえる。ジョンが出て行ったのだろうか。
「今夜付き合わないか」
「え?」
「ディスコに行こう。近くにいいところがある。俺とジョンの行きつけの場所だ」
「う、うん。ジョンも一緒に行くの?」
「一緒ではないけどジョンも来るさ。何か特別なことがあると俺達はお互いあそこに行くんだ」
「そうなんだ。デイビッドとジョンはいつも一緒なのかと思ってた」
デイビッドは目を大きく見開き、そして目を細め、笑った。いつもながらデイビッドの笑顔は人を安心させる。
「俺とジョンは恋人じゃないよ。パートナーだ。OK。じゃ八時にリビングで会おう。おい、ジュエル、お前も行くか?」
ジュエルは「行かない」と一言言った。デイビッドは僕にウィンクをして、肩をすくめながらリビングを出て行った。僕はソファに座りジュエルと並んでしばらくデニーロの映画を観ていたのだが、ジュエルの画面に刺さるような視線に耐えられなくなり「また後で」と言ってそこを離れた。ジュエルからの返事は無かった。
八時に部屋から下りていくとデイビッドは受付の前で待っていた。
「何処へ行くのかなんて他の奴らに聞かれると面倒くさいからここで待ってた」
受付の中にいるクリッシーはそっぽを向いている。僕の姿を確かめると一瞬こっちを見て微笑んだ。
「じゃ行こう。クリッシー、遅くなるかもしれないから鍵はいつものところに入れておいてくれよ」
「分かったよ。楽しんでおいで、最後の晩餐だ」
そのディスコは本当にホステルから歩いて十分も無い場所にあった。デイビッドと僕は歩いている間一言も話さず、入り組んだ路地を右へ左へと折れていった。多分ひとりで帰れと言われても、どちらに向けて歩けばいいのか分からないだろうと思った。
ディスコの入り口にはブラックライトの蛍光灯が付いており、古びた看板には「WHOLE LOTTA LOVE」と書かれていた。扉を開けるとそこにはまるでロールプレイングゲームにでも出てきそうな屈強そうな黒人の男が待ち構えていた。僕の姿を見るなり険しい顔をして「IDを見せろ」と言った。でも後ろからデイビッドが顔を覗かせて「俺の連れだよ」と言うと黒人のモンスターはニッコリ笑って僕の肩をポンと叩いた。
中に入るとそこは予想していたのと違って結構広々としており、入口同様、ブラックライトで照らされていた。ブラックライトで僕の服についていた埃が浮き上がり、そんなに汚いとは思っていなかった僕は結構ショックを受けた。デイビッドを始めとして、そこにいる連中の服にはひとかけらの埃も見受けることができなかった。
僕はデイビッドに連れられ奥にあるガラスで囲まれたソファに腰掛けた。注文を取りにやってきたきわどい格好をした金髪の女にデイビッドは「今日が多分最後の夜だ」と言った。女は「残念ね。でもおめでとう」と言った。僕にはそのやりとりの意味が分からなかった。デイビッドはスピリタスのボトルを注文し、僕はジントニックを注文した。
運ばれてきたお互いの酒で乾杯し、デイビッドが「スピリタスは飲んだことあるか?」と聞いた。僕は「ない」と答えた。一杯飲んでみろよ、と勧められ、その酒を喉に通すと、胸の中が焼けるような思いがしてむせた。デイビッドは笑って「タクシーはやっぱりボーイだ」と言った。
僕らはあまり言葉を交わさず、フロアで踊っている人たちを見ていた。その中にはテレビで見かけた役者やミュージシャンの姿がちらほら見えた。でもどう考えても僕らのいるこの席がVIPルームだ。デイビッドは一体どんな男なのだろう。僕は彼の表の顔しか知らない。彼とジョンの“仕事”にもついていったことがあるが、僕はあくまで車番であって、彼らが何をしているのかは知らない。どちらかというと彼らは僕にただ表向きの仕事を与えてくれていたのかもしれない。デイビッドの横顔は悲しそうでもあるし嬉しそうでもあった。僕はその表情を見て、キリストのようだと思った。
そのディスコで流れていたのはロックだった。ピンクフロイドやドアーズや、そしてツェッペリンや。僕がこっちに来て好きになったサイケデリックな香りのするロックが流れ続けた。僕はそういった音楽をジョンとデイビッドから学んだ。彼らと同行する車の中ではいつもそういう音楽が流れていたのだ。「WHOLE LOTTA LOVE」が流れると場内は一気に盛り上がった。デイビッドは僕を見て「最後の夜にふさわしいだろ」と言った。僕は、ただうなずいた。そんなとき、僕らのいる場所とフロアをさえぎるガラス戸が開かれ音楽が一気に流れ込んできた。そしてそこには両脇に女を抱えたジョンがいた。
ジョンとデイビッドは見つめ合っていた。それはジョンの両脇にいた女達が顔を見合わせてしまうほど長い時間だった。ジョンがデイビッドに「ハッピーバースデー」と言った。デイビッドはニッコリ笑って「ありがとう」と言った。そしてジョンは「またな」と言うとそのままそこから立ち去ってしまった。デイビッドに話しかけようと彼の方を見ると、彼はジョンのいた場所を見つめながら涙を流していた。でもその表情は何ら変化しておらず、ただ涙だけが流れていた。ロスに来てからそういう涙によく出会う。僕は立ち上がってフロアの中にジョンの姿を探したがもう彼の姿は見当たらなかった。
デイビッドがスピリタスを一本開けて、僕はジントニックを五杯飲んだ。デイビッドが「出よう」と言い、僕らはそのディスコを出た。
夜風が肌に冷たく、皮膚の少し内側でアルコールの熱と混じりあって気持ちよかった。煙草に火をつけたデイビッドに「今日誕生日だったの?」と聞いた。
「そうだな。俺が生まれた日ではないけれど、誕生日なのかもしれないな」
「そっか。でも何にせよ連れてきてくれてありがとう。何だかすごく濃密な時間を過ごせたよ」
「そうか、タクシーが楽しめたんなら良かった。俺も最後に一度ここに来たかったんだけど、一人でジョンと向かい合う勇気が無くてね。タクシーが最も望ましいキャストだったんだ。もしタクシーが今日いなかったら、俺はジョンに撃たれてたかもしれないな」
「え?ど、どうして?」
デイビッドは吸っていた煙草を投げ捨て、ブーツの底でもみ消した。
「理由なんて無いさ。それが俺達のルールだったんだ。逃げるやつは留まるやつにやられることになってるのさ。でもジョンはそれをしなかった」
「ごめん、デイビッド。何を言ってるのかさっぱり分からないよ」
「だろうな」
歩きながら話していた僕たちはいつの間にかハリウッド大通りに辿りついていた。
「タクシー、悪いけどここからは一人で帰ってくれるか?俺は別のところに行くから」
「うん、分かった。明日、最後に会えるかい?」
「いや、多分会えないだろうな。これで最後だ。元気でな」
「そっか、じゃデイビッドも元気で」
僕らは握手を交わし、デイビッドはホステルとは反対の方向に歩いていった。僕はその姿を少しだけ見送り、そして振り返ってホステルへ向かって歩きだした。チャイニーズシアターの前を通り過ぎるとき、もうここで映画を観ることもないのか、と思うと少し寂しい気持ちになった。チャイニーズシアターでは安くで映画を観ることができて、僕は暇があればしょっちゅう訪れていた。そして同じ映画を日を分けて何度も観た。三回目くらいになるとスクリーンの中で語られる言葉が少しずつ理解できていることが実感できて、嬉しい気持ちになることができた。
闇の中にたたずむハリウッドの象徴とも言えるチャイニーズシアターの姿は、僕にこのハリウッドで出会い、別れていった人たちのことを思い出させた。夜空の彼方に、デイビッドが奏でるアルペジオの音が聞こえたような気がした。