ACT11 LET IT BE
ハリウッドに帰ると僕の非日常な日常が帰ってきた。初めてホステルに辿り着いたときはまるで映画のワンシーンに足を踏み入れたような感じがして現実感が無かった。しかし今やそこは自分を守ってくれる殻のような場所であり、その中で少しばかりの浮遊感のようなものに包まれながら毎日暮らしていることで、僕は何も求めずにいることができた。そこでできた友人たちと、時には深層に触れるような会話を交わし、今までに無いリアリティのようなものを感じながらも、どこかしら「演じている」という気持ちがあり、そしてその映画は永遠に続くように思われた。
一週間の旅について、ジミーもジョンも、そして他の連中も何も尋ねなかった。ただ「楽しかったかい?」と言い、それに対して僕が「楽しかったかどうかは分からないけど、行ってよかった」と答えると「それはよかった」と言い、その場を離れるのだ。僕にしたところで彼らがそれ以上のことを聞いてきたときに言葉につまってしまっただろうから、結局問題は無い。
ある夜、レストランでの仕事から帰ってきて部屋に上がろうとする僕をクリッシーが呼び止めた。
「今日電話があったよ。後になって多分あんたのことだと思ったんだけど、ニンジャはいるか?って言ってきたからそんな奴はいない、と言って切っちまった。悪かったね。友達かい?」
「悪いことなんて無いよ。それに知ってるやつかもしれないけど、僕はニンジャじゃない。間違った答えじゃないよ」
ハンティントンでの一週間は、僕にとって確かに大切な期間だった。ケンの言った「鍵」が一体何なのかは分からなかったけど、もしかすると僕の中の何かが変わった気がしている、このことを表していたのかもしれない。あそこには、特にサーフィンを一度でもやったことのある奴にとっては目に見えない鍵のようなものが存在するような気がする。ケンはアキラの姿を見て、僕に伝えてくれたのだろう。アキラもきっと僕と同じように自分の中で「カチャリ」という何かが開く音を聞き、一緒にいたケンはアキラの変化によって自分の中で何かを開いたのかもしれない。しかしこれはあくまで僕の勝手な想像であって、ケンが本当は何を伝えたかったのか分からないし、もしかすると何も伝える気なんて無かったのかもしれない。どちらにしても、僕はあそこに行って良かったと思っているし、もっと言うならばあそこに行かないと物語は続かなかったような気もする。そう考えると、やはり僕はケンに感謝すべきなのだろう。カギはカギ穴に入り、それが回り、ドアが開いたということだ。
しかし困ったことに(それが困ったことなのかどうか実際のところ分からないのだが)僕はハンティントンに行く前に感じていた自分が成長していく感じを感じることができなくなっていた。それどころかハリウッドに対して安堵を覚え、そこを終着駅と決めたがっている自分がいることを知った。僕がそこに居続けることで、現実的に迷惑する人はいないだろうし、悪いことでも無いと思う。でもいつしか、夜眠る間際にひどく不安にかられるような想像をするようになった。それはまるで本当にそれが映画のように、いつしかエンドロールが流れ始め、僕らはその舞台から消えてしまうような想像だ。映画は公開後時間を経てビデオやDVDになる。僕はそのビデオやDVDを観ながら自分自身がフェイドアウトしていることにさえ気づけないでいて、最後には無が訪れるのだ。でも朝目覚めるとそんなことはすっかり忘れていて、ハリウッドに自分のアイデンティティをしっかりと定着させている自分がいる。
ホステルの皆だって呼吸をし、仕事をし、食事をし、排泄し、恋愛をし、生きている。そんなことを生々しく感じることができることもあれば、彼らは本当はただのイメージで本当はそこにいないのではないかと思うこともある。
そこで出会い、僕の元を去っていったエディさんやフレディ、アキラ、ケン、そして最後となったジェフ。彼らだけが現実の人間であって、そのメッセージの中で僕を現実に引き戻してくれようとしていたのかもしれないのだ。しかし夢にせよ何にせよ、僕は今いる環境が好きであって、そこから出ようとは思っていない。たとえ悪夢に時折襲われるにしても少しだけ我慢すればいい。得るものあれば失うものもある、それがトレードオフというものだ。
十一月も終わりに近づいていた。ある金曜の夜、僕はレストランの仕事から帰ってきて、部屋に戻らずそのままリビングに入った。するといつもより多くの奴らがテレビの前に固まっている。ソファの中央にはジュエルが女王様のように先週スゥエーデンからやってきたという男の肩に足を乗せていた。ジュエルは僕が帰ってきたことに気づくと僕をテレビの近くに招いた。
ブラウン管に映っていたのはビートルズだった。どこかで演奏している映像が流れており、曲はLET IT BEだった。僕も知ってる。ビートルズはそこまで聞き込んだことは無いけどやっぱり知ってる。とりあえず日本で音楽に興味無い奴らもその名前は知ってるし、曲を聴けば聞き覚えがある。でも僕にとってもそれに毛が生えた程度で大して興味は無かった。とりあえず画面を観ている僕にジュエルが話しかけてきた。
「タクシー、あなたビートルズ知ってる?」
「うん、知ってる」
「へぇ、日本人もやっぱり知ってるんだね。ポールが来るのよ、明日」
「来る?来るって何処に」
「ハリウッドボウル!」
「何処にあるの」
全員が僕の顔を見た。厨房から出てきたジミーがわざとらしく声を荒げて「だからタクシーはボーイなんだよ」と笑い放って再び厨房に消えた。ジュエルはあきれ顔でテレビの方を向いてしまった。
一度髪を切ってもらったことがあるイギリス人のリンダという美容師の女の子がそっと僕に教えてくれた。
「ハリウッドボウルは屋外のコンサートホールよ」
「そうなんだ。で、何処にあるの。何でみんな盛り上がってるの?そんなにビートルズ好きなの?」
少し切れ気味に言う僕にリンダは少し笑って答えてくれた。
「みんなそこまで好きなわけじゃないと思うわ。でも有名人が近くに来るとなったら大抵の人は盛り上がるでしょ。それにここの人たちは基本的に暇だから、お祭りを求めてるのよ」
「え?じゃぁ近いんだ」
「近いわ」
「どこ?」
「裏よ」
「裏?どこの」
「ここの。ホステルの裏」
全く知らなかった。前に泊まった日本人が置き忘れていった“地球の歩き方”を開くとハリウッドのページにしっかり載っていた。そしてそれは本当にホステルの真裏にあった。僕の部屋の窓があるのと丁度反対側で、裏庭に生い茂る木の奥の森の向こう側にあるのだ。感心している僕が持っていた“地球の歩き方”をもぎ取ってジュエルが言った。
「あーなーたーはっ、どれくらいここにいるのですかぁ?」
大笑いしながらジュエルはリビングを出て行きクリッシーに「ディスコに行ってくるわ、カミラと」と大声で告げた。
僕はジュエルがいなくなって丁度空いたスペースに腰掛けブラウン管に目をやった。ハリウッドにポールが来るということでだろうか、番組はビートルズ特集のようだった。僕は生まれて初めてビートルズの映像をじっくりと観ていた。そして僕はその世界に引き込まれ、ハリウッドボウルでコンサートを見つめる自分を想像していた。
ホステルに住み始めて一年近く経っていたが、裏山に登るのは初めてだった。いつもバーベキューをしている裏庭の隅のほうに一箇所だけ木と木の間に人為的に設けられたものと思われる空間が開いており、ジョンを先導に僕らは山の中に入った。
「ジョン、ここはよく来るの?」
「あぁ、好きなコンサートがあるときはいつもここから観に行くんだ」
「知らなかった」
「だろうな。教えてないからな」
「なんでさ?」
「この道は特別な道なんだ。そうやすやすとは教えられない。でもお前らは運がいい。ビートルズのメンバーのコンサートでなければ教えることはない」
「ポールのコンサートだから教えてくれたの?」
「そうだ。ここでケチったらジョンレノンに祟られるよ」
ジョンは後ろを振り返らずに答える。出かける前にチケット代を尋ねたら、「お金なんていらないよ。ポップミュージックは全人類の前に平等に存在しているのさ」とジョンが答えた。
メンバーは八人。ジョン、デイビッド、ジュエル、カミラ、リンダ、ジュエルの取り巻きの男二名、そして僕。ジュエルは一人の男に手を引かせ、一人の男に後ろから押させながら、リンダとカミラは腕を組みながら、ジョンとデイビッドと僕の後をついてくる。山道は結構険しく、中腹まで来ると木々に隠れてほとんどホステルが見えなくなった。時折鳥が鳴く声が聞こえ、枝が弾け、皆の呼吸する音がまるでトンネルの中で響いているようだった。太陽も沈みかけており、僕は少し不安に駆られた。でも僕の前を行くジョンとデイビッドは言葉無くただ頂上を目指す。立ち止まっても確実に置いていかれるのが分かったから誰も立ち止まらない。ジュエルはいつの間にか僕のすぐ後ろでひとりで歩いている。取り巻きの男二人は登ってきたことを少し後悔しているようだ。カミラとリンダは汗をかきながら結構平然と登っている。
コンサートのチケットを買ったという奴らが出かけるとき、このメンバーはそしらぬ顔でフットボールのテーブルゲームの周りに集まっていた。僕とジョンが試合をして、その周りにただ五人が立っていた。デイビッドはソファに座りギターを奏でていた。時折聞こえてくるメロディはビートルズのいろいろな曲だった。どれも聞き覚えがある。昨夜ジョンが僕に「ポールを観たいか?」と聞いた。僕は「観たいけどお金が無い」と答えた。
「金のことなんか聞いてない。観たいんだな」
「うん、観たい」
「じゃ明日夕方の四時を過ぎたら俺の近くにいろ」
その言いつけを守り、僕は四時少し前からジョンの近くにいた。ジョンはキッチンでホステルの何かの設備を修理していた。とても上手い手つきだったが、僕には何を修理しているのか分からなかった。五時過ぎにジョンが手を洗い、フットボールのテーブルゲームのある部屋に入ると他のメンバーが待っていた。ジュエルの取り巻きを見てジョンが少し顔をしかめると、ジュエルは「いいでしょ。私と一緒にポールを観たいってんだから」と言った。ジョンがジュエルに何か耳うちすると、ジュエルはOKと言った。多分そのOKは、今や最後尾を歩いている取り巻き二人がそれぞれ片手に持っているビニール袋の中にあるビールのことなのだろう。交換条件だ。
あとどれくらい登ればいいのかとジョンに尋ねそうになったとき、急に人のざわめきが聞こえてきた。
「ジョン」
「あぁ、もう着くぜ。こっから先は山がひらけてるんだ。」
ジョンの言った通り、それまで鬱蒼と茂っていた木々が急に開けて、人が三、四人横並びで歩けるくらいの道になった。坂もなだらかになり、いつしかフラットになった。フラットな場所までたどりついたとき、歓声が一気に大きくなった。足早に僕の十メートルくらい先まで歩いていったジョンの輪郭に光の筋がかかった。ジョンとデイビッドのいる場所に辿り着くと、そこから遠く斜め下の方にハリウッドボウルのステージが見えた。ジュエルが、カミラが、リンダが、そして取り巻き二人が辿り着き、僕らは疲労など忘れてその遠くに見えるステージを言葉無く眺めた。
ステージ上にポールが現れた。遠く山の上まで歓声が弾けるように響き渡った。
「ビールを開けよう!」
ジョンが叫び皆の手にビールが渡った。
「チアース!」
僕らの乾杯とほぼ同時にポールマッカートニーのコンサートが始まった。
僕らは始めこそ盛り上がりポールの名前を叫んだりしていたが、そのうち誰も喋らなくなった。チラリと皆の顔に目をやると、それぞれの顔に遠くから届く照明の光が色を映し出しており、そして彼らは透き通るような瞳でステージを見つめていた。
MCの後、ピアノの伴奏が入ったところでジュエルが「LET IT BEだ」と呟いた。僕は少しだけジュエルを見て、ステージに目を移した。
ポールの歌う“LET IT BE”は静かに、そして力強く時を刻んだ。ひとつひとつのメロディが浮遊し、僕らの上で透明な雲になり、暖かい雨となってハートに降り注いだ。ジュエルが言った、「永遠ってあるんだろうか」と。ジョンが答えた、「今が永遠そのものさ」。僕はそのやりとりについて少し考えた。いつしか僕は時の流れから無理やり目を背けていたような気がする。僕はいつまでも護られていて、そしてそれを邪魔するものは何も無いと、そう思っていた。でも永遠は果てしなく遠くにあり、そして永遠は、ジョンがいったように瞬間の中に存在する。それはとても大切なもので、あくまでも時の流れに流されている、それから逃れることはできぬ自分を認め、いつしか辿りつく“死”を認め、でもだからこそ、“死”までの時間の中で「探し続ける」ことをやめず、深く、限りなく深く潜って己の核にある悲しみを知り、水面を通して差し込む光線を見つけ、肺が破れぬようゆっくりと浮上し、そして予想もしえなかった場所に辿り着いたときにだけ、得られるかもしれないものなのだ。でもその場所は、予想できなかったとしても、確実に自分が歩んだ道のみが、そこへ辿り着くルートなのだ。
僕は遠い昔にわざとそれを忘れ、ハリウッドでそれを完全に閉じ込めていたのだった。
ポールの歌が止んだとき、僕を包んでいた魔法が解けた。僕は「ハロー」と言った。ジュエルが「グッバイ」と言った。デイビッドが僕を見て一瞬微笑んだ。そして僕らは次の曲の演奏を始めたステージに背を向けたジョンの「帰ろう」という言葉に頷き、山を下りたのだ。後ろで響く音楽が、僕がそれまで見ていた幻影を少しずつ浄化させているような気がした。