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ACT10 ビッグ・ウェンズデー

 アキラとケンから絵ハガキが届いた。それは彼らがホステルを発ってから、ちょうど一ヵ月後の日曜日だった。何故ちょうど一ヶ月後だったと覚えているかというと、きっと彼らはオーロラまで到着したら連絡をくれると思っていたからだ。僕は彼らからの連絡をまるでカウントダウンでもするかのように待っていたというわけだ。その絵ハガキには雄大なオーロラが映し出されており、アキラの字で数行の手紙が書かれていた。

「タクシー、元気かい。僕とケンは辿り着くことができた。君は分かってると思うけど、この旅はただオーロラの下に来れば良いというものでは無かったんだ。しかるべき手順を丁寧に踏みながら、そこにあるものを自分たちの糧とし、オーロラの元に立ったことで、僕らはスタートを切ることができたんだ。僕とケンは日本に帰ったらもう二度と会わないのだと思う。それはそうあるべきことであって、それに僕とケンはそうして別れるために出会い、人生でもしかしたら一番強い絆を作り、お互いがお互いの生存のために働いたんだ。タクシー、君も僕らのそんな行程をフォローしてくれた。感謝してるよ。ではまた。永遠に会うことの無い友へ」

 僕はそのアキラの手紙を数回読み返した。読み返すたびに切ない気持ちになり、しかしそれは次第に勇気のようなものに変わっていった。ハガキを最後にジッと見つめて、本の間に挟もうとしたとき、何かしら引っかかってもう一度絵ハガキを見つめた。するとそれまで気づかなかったのだが、オーロラの中にデザインのような文字が書かれていた。あまりに芸術的なデザイン文字だったのでよくよく見ないとオーロラの一部に見えてしまう。おそらくそれはケンの仕業だった。アキラの筆跡とは確実に違うその文字を一文字ずつ読み解いていくとこう書いてあった。

“ハンティントンの鍵”

ハンティントンの鍵?ハンティントン、ハンティントンビーチのことだ。アキラは言ってた。アラスカへ行く前にハンティントンビーチでサーフィンをしていくと。アキラはケンがこの文字を書いたことを知っているのだろうか?そしてケンはこれを書くことで僕に何か伝えたかったのだろうか?ハンティントンの鍵。サーフィンのバイブル、ビッグ・ウェンズデーの舞台となったビーチ。

 ハガキをしまってベランダに出て、海のある方を向いたら潮の香りがした気がした。アキラとケンのように、僕は今オーロラの元に辿り着くことはできない。でも、“鍵”があるのか、それとも“鍵”そのものなのか、どちらにしてもハンティントンビーチには行くことはできる。同じロサンゼルスだ。そんなことを考えていると僕に確信のようなものがやってきた。

「僕はハンティントンビーチへ行かなくてはならない」

 瞬間的に魔法にかかったように僕は荷造りを始めていた。僕の後ろでハリウッドの空が赤みを帯びていた。


 その夜のディナーはバーベキューだった。ジミーが大量に素材を持ち込み裏庭にバーベキューコンロがセッティングされた。ジミーは何かいいことがあると必ずディナーをバーベキューにする。でもいつも「どんないいことがあったの?」と尋ねても答えてくれない。ジョンとデイビッドだけはバーベキューナイトの理由を知っているようだが、彼らに聞いても教えてくれない。最初の数回は尋ねていたのだが、ジュエルも何かしら知っているのではないかと尋ねたとき

「私は何もしらないわ。でもいいじゃない。魔法っていうのはタネが分かってしまうとマジックになってしまうの。そうするとそこからファンタジーは消えてしまって味気ない日常になってしまうのよ。タクシーもそういうこと覚えたほうがいいわ」

と言われた。それ以来理由について尋ねないようにしている。喜ぶべき時に対しては、それに対して集中することだけを考えるようにしなければならないのだ。それがエンターティナーに対するオーディエンスの役割というものだ、そういう哲学を僕は身につけた。

 ジミーは言わばバーベキュー奉行だ。肉や野菜は彼の決めたフローに沿って焼かれ、彼のフローに沿って取り分けられる。何人たりとも口出しすることはできない。口出しした奴は即刻退場処分を受けることとなる。以前一度口出しをしたジェフも二度と「ウィンナーだよ。俺はドイツ人なんだ。ビールを飲んでウィンナーを食いたいんだよ」というセリフを口にすることは無い。多少残念な顔をして野菜を受け取るだけだ。

 皆お腹がいっぱいになり、ビールを飲みながらあちらそこらでプライヴェートな雰囲気の中会話を交わしていた。僕は木にもたれ、木々の隙間から覗く星を見ていたジョンに話しかけた。ハンティントンに行くためには休みを取らなければいけない。ジミーにいきなりそれを伝えてもバサッと却下されそうな気がして恐かった。だから助けてくれそうなジョンに話しかけた。

「アキラとケンからオーロラの下に辿り着いたって手紙が来たよ」

「アキラとケン?あぁ、あの日本人の二人組か。そうか、良かったな。オーロラの下、俺も一度は行ってみたいよ」

「ジョンはさ、ヴァケーションとることはあるの?」

「ん?ヴァケーションか?勿論取るさ。その時はな、誰にも行き先を告げない。俺だけの秘密の場所に出かけるのさ」

「秘密の場所、きっとそれが何処かなんて聞いちゃいけないんだよね」

「分かってるじゃないか」

 ジョンは女なら絶対惚れるだろうな、というような微笑を浮かべてビールを一口飲み星を見上げた。

「実は、僕もヴァケーションを取りたいんだ。ジョンやデイビッドやミックのように、ここの仕事を十分にやってるとは言えないけど、でも与えられた仕事を手伝うって約束で僕は優遇してもらってる。ジミーとの約束だ。それにヴァケーションを取るにはレストランのほうにも休みの許可を得なけりゃいけない。レストランのオーナーにだって随分良くしてもらってて、、、」

「タクシー、お前何が言いたい?」

 ジョンに正面から見つめられ、僕は言葉が出なくなった。ジョンのような目を持つには一体どんな経験を積み重ねればいいのだろう。固まってしまった僕から再び星に視線を移しジョンは続けた。

「ヴァケーションを取りたいなら取ればいいさ。確かにジミーやレストランのオーナーや他の奴らからお前は色々もらったんだろうな。でも今タクシーがここに存在してるのは、そんなこともひっくるめてお前の力だろ。遠慮するくらいなら口に出すなよ。そんなことしてると、いつまでもお前ボーイのままだぜ」

 ジョンはそう言って顎をしゃくった。その先にはジミーがいた。僕はジョンに「ありがとう」と言いジミーの元へ向かった。ジミーはジャックダニエルを飲みながらミックと話をしていた。

「ジミー、ちょっといいかい?」

「ヘイ、タクシー。楽しんでるか?」

「明日からヴァケーションが欲しい」

「お前は今ずっとヴァケーションのようなもんだろ。日本から出てきてるんだから」

 言われてみればそうだ。でもそういうことではない。僕はジミーに伝えきらなくてはいけない。

「そうさ。僕は日本から飛び出してきて、今はロサンゼルスで幸運にも仕事に恵まれながらヴァケーションを満喫してるさ。でもそうじゃなくて、僕は少しここを離れた場所に行きたいんだ」

「ほう、離れた場所?何処へ行く?」

「それは秘密さ。男の秘密だ」

 僕がそう言うとジミーはミックの方へ振り返った。そして再び僕の方を向き「ハハーッ」といきなり大声で笑った。

「男の秘密じゃ仕方ないな」

「え?いいの?」

「何日だ?」

「え、えと、丁度一週間。来週の日曜には帰ってくる」

「OK、分かった。ただし条件がある」

「何?」

「くだらない場所へは行くなよ。俺は少なくともエディにお前のことを頼まれてるんだ。言ってる意味分かるな」

「分かる。僕だってだてにジョンと行動を共にしてたわけじゃない」

「そうだ、ジョンみたいなギャングがいるような場所には近づくなよ」

「大丈夫だよ、ジョンみたいなギャングがいるような場所には近づかない」

 すぐ後ろにジョンが立っていて僕の頭を小突いた。

「おめでとうタクシー。幸運な旅を」

 そう言ってジョンはあくびをしながらリビングの中へ消えた。僕が「ありがとう」と言いその場を離れようとするとジミーが「ところで、何処へ行くんだ」と言った。僕が「男にはそれぞれ人には言えない秘密があるのさ」と言うと少し不満気な顔をしていた。近くに座っていたジュエルが笑いながら立てた中指をジミーに向けていた。


 リビングに入るとジョンがソファで眠っていた。僕はそのまま玄関にある電話機のところへ行きレストランのオーナーに電話をかけた。急で申し訳ないのだが、明日から一週間休みが欲しい、と言うとオーナーはすぐに快くOKの返答をくれた。そして「良い旅を」と言い「一週間後にまた会おう」と言った。

 僕は電話を切ってから、受付で小説を読んでいるクリッシーにおやすみと言い、自分の部屋へ戻った。部屋にはいつの間にかジェフが戻ってきていた。アキラとケンが去ってからこの部屋に住んでいるのは僕とジェフの二人だけだ。

「明日から一週間ここを離れるよ」

「そうか。実はな、さっき決めたんだけど、俺は来週の日曜までにここを去るよ。ドイツへ帰るんだ」

 僕は突然の告白にびっくりしてしまった。でもジェフはいつも帰るタイミングを探し続けていたのだ。急に帰ることになっても不思議ではない。

「来週の日曜までって、いつかはまだ決めてないの?」

「あぁ、でも多分土曜日は待たないと思う」

「じゃあ今日が最後か」

「そうだな。タクシーには見送ってもらえると思ってたんだけど、そううまくはいかないな」

 ジェフも僕もそれぞれベッドの上で横になり、しばらくの間黙っていた。もう眠ってしまったのかと思ったときジェフが口を開いた。

「タクシーは、ここに来て何か変わったかい」

「何か?うん、そうだね、多分変わったんだと思う」

「そうだよな。タクシーは変わったよ。十九歳というのは絶妙のタイミングだったのかもしれないな」

「ジェフはどうだったの?」

「俺か、俺は変わってないな。それを願ってここへ来たんだが、ドイツを出る前の俺はすでに完成品だったらしい。でも、良かったと思ってる。何も変わらなかったけど、何も変わらなかったということを知れた分だけ、俺は一歩前に出た気がするよ」

 開け放った窓から一匹の蛾が舞い込んできた。

「今日は相当飲んだな。ジミーが良くウィンナーをまわしてくれたせいだな。おやすみ、タクシー」

「おやすみ、ジェフ」

 僕はしばらく目を開けていたのだがジェフの寝息が聞こえてきて僕も眠ることにした。明日は旅立たなければならないのだ。体力を備えておく必要がある。

 部屋の電気を消し再びベッドに横になり窓の外を見るともなく見ていると、さっき部屋に舞い込んできた蛾が、光を求めて再び外へと飛び出して行った。閉じた瞼にその蛾と月の残像があり、蛾は光る粉を振りまきながら月へ向かって羽ばたき続けていた。その姿は月に辿り着くと静かに溶け、最後にわずかな粉が降り注ぎ、蛾の姿は完璧に見えなくなった。蛾を取り込んだ月の下方から微かにメロディが聞こえた。時折聞こえる女の人の歌声だった。


 まだ暗い時間に目を覚まし、アーミーバッグに最低限の荷物をつめて部屋を出た。まだ深い眠りの中にいるジェフに向かって「さよなら」と言った。勿論返事は無い。この部屋で出会った友達と呼べる人間たち。ジェフと別れることで僕はその全てと別れることになる。ジェフは言っていた。「いつかドイツに来い。お前の好きなビールと本場のウインナーを嫌というほどご馳走してやるよ」と。そのとき僕はとても嬉しくて「きっと行くよ」と言った。でも多分僕とジェフはもう二度と会うことは無いのだろう。彼は十九歳の僕の物語に出てきた登場人物のひとりなのだ。本のページを閉じたら、そこには思い出だけが残る。

 リビングに下りるとテレビがつけっぱなしになっていた。ソファのところに人影が見え、電気をつけずに近寄るとそれはジョンだった。ジョンは僕が近づく音で目を覚ました。

「ヘイ、タクシー、おはよう」

「おはようジョン。ずっとそこで寝てたの?」

「あぁ、そうらしいな。行くのかい?」

「うん、早い時間に向こうに着きたいんだ」

「いいことだ。何事も人より早い時間に始めて、早い時間に終わらせるほうがいい」

「実は置き手紙をして行こうと思ってたんだけど、ジョンにお願いしてもいいかな」

「何だ?」

「荷物。ベッドの上に置いてるやつ。昨日のうちに預けておけば良かったんだけど」

「OK。クリッシーかミックの部屋で預かってもらうようにしとくよ」

「ありがとう。じゃ、行くよ」

「いいヴァケーションになるといいな」

「うん」

 外に出ると少し肌寒かった。太陽はじわりと姿を見せ始めており、まるでハリウッドの寝息が聞こえるような朝だった。僕はバスをロングビーチ経由で乗り継いでハンティントンビーチへ向かった。バスの中でぼんやりと外の景色を眺めながら、日本を発ってからこれまでにあったことを思い返していた。僕ははっきりいって日本を逃げるように飛び出した。何かに追われていたわけではない。追っていた者がいるとすれば、“未来の自分”だろう。高校を卒業した時点で僕は未来を完全に見失った。いったいどうすればいいのか、全く分からなくなってしまった。未知な物は時に恐怖の対象になる。高校を卒業するころくらいまでには自然と自分の行く道が示されるのだろうという甘い考えは完全に押し潰され、現実的に「呼吸をすることすら」自然に行えなくなっていた。僕はそのときアメリカに行くことを思いついたのだ。それはケンの「ハンティントンの鍵」という言葉を見てハンティントンビーチに行こうと思い立ったのと似た感情だった。アメリカに来ることを決めたことも含めて僕は自分の直感は信じるようにしているし、そしてそれは今回のことについても間違っていなかったと思っている。エディさんは言った。「何処にいるかではなく誰といるかだ」と。そのことを僕は正しいと思っている。でも、場所を移動しなければ出逢えない誰かもいるのだ。僕は遠い距離を移動することで、その誰かに出会ってきて、そして僅かながら自分に対して希望を見出してきている。希望がなくては未来は存在しないのだ。あのとき、日本で現在の僕を追っていた“未来の自分”は、次第に現在の僕に同化しつつある。シンクロニシティがおころうとしているのだ。その最後の詰めがハンティントンビーチにあると僕は思っている。

 日本でサーフィンを始めるきっかけとなったのはアルバイト先の先輩の家で酒を飲みながらビッグウェンズデーを見たことだった。そのビデオを見て僕は自分のアイデンティティとして「サーフィンをする」ということを獲得したくなった。先輩はいつもは軟派な人だったがサーフィンをするときは別人だった。彼は僕に、サーフィンの醍醐味とは波に乗ることではなく波と同化することであると教えた。そんな先輩と初めて太平洋側のビーチでサーフィンをしたとき、先輩は初心者の僕には構わず次々に来る波のセットをつかまえてギラギラした笑顔を放ちながら滑り続けていた。僕は長い時間をかけ、やっとのことで沖に出て全身で息をしていた。でも夕陽でオレンジに染まった海に浮かんでいるだけで僕はビッグウェンズデーの世界に少しだけれど近づけた気がしていた。僕の下をすり抜けていく波に高く運ばれて、僕はいつかハンティントンビーチへ行こうと誓っていた。

 ロングビーチからの車中、僕は眠りについてその時の夢を見ていた。人々が動く音で目を覚ますと、いつの間にかハンティントンビーチに到着していた。バスを降りるとそこには映画で観たのと同じ風景が広がっており、ビーチから突き出た長い桟橋を挟んで多くの人々がサーフィンをしていた。僕は桟橋の先端に向かって歩きながら彼らが滑る姿を眺めた。地元のサーファーたちだろう、めちゃくちゃ上手く波をつかまえて、滑らかにそしてダイナミックにボードをさばいている。そんな光景を眺めているだけで何かしら特別な気持ちになることができた。一日中こうやって彼らの姿を見ているだけでも楽しめそうだ。先端まで辿り着き、目の前いっぱいに広がる海を吸収するように深呼吸した。僕はあの憧れた世界の住人になっている、そう思うと心の奥から、今に辿り着くために数々の選択をしてきた過去の自分に「ありがとう」と言えた。“答え”なんて多分どこにも無いんだ。今が、いつか過去になったとき、その過去の中で比較的上手くいったことを人は“答え”と呼ぶのだろう。自分の物語が二十年目に入る前にそう思えたことを僕はラッキーだと思った。風はオフショア、波は芸術的に崩れていく。これ以上何を求めろと言うのだ。


 メインストリートから少し入った路地にあるホステルを僕はこの一週間の宿に決めた。部屋はハリウッドのホステルよりも狭く、与えられた二段ベッドの下側には潜り込むように入らなければならなかった。居心地がいいとはいえなかったが僕はここで生活する間は朝早く起きてサーフィンをし、夜は早々と寝てしまうつもりだったので問題ではなかった。

 僕のベッドの上にはグァム出身のサーファーが住んでいた。彼はハンティントンにあるレストランで働きながらサーフィンをしているとのことだった。名前をスティーブといった。

 スティーブは僕にサーフィンのいろいろな話をしてくれて、安くでボードが手に入るサーフショップも紹介してくれた。彼はいつも照れ臭そうに話し、サーフィンのことを話すときは子供のようだった。でもその仕草や話から、かなりレベルの高いサーファーだということが分かった。下らないことで申し訳無いことだとは思ったが、僕は自分の核心に近づくためにスティーブにひとつ質問をした。

「スティーブは自分の未来についてどう考える?」

 スティーブは一瞬とまどったが、ニッコリ笑うと紳士的に答えてくれた。

「僕はいつも波のことを考えてるのさ。だから自分の未来じゃなくて、自分が乗るであろう波とそれに乗っている自分のことは想像するよ。イメージだよね。そしてイメージの中の自分と現実の自分がマッチするように毎日滑ってるのさ。波に乗り始めるときは過去の時間において描いたイメージを体いっぱいに広がらせて、海から上がるときは次出逢う波に思いを馳せる。子供のころからそうしてきたからね。それが多分僕の未来に対する考え方だよ。これでいいかい?」

「パーフェクトだよ」

 スティーブについてもそうなのだが、幸せな顔をして話す人の言葉は理解できる。多分それはその表情によって、話す言葉にリアリティが生まれているからだろう。彼の話を聞いていると、僕はその生き方がどんなに素晴らしいものであるかを少なくとも想像することができる。

 スティーブに教えてもらったサーフショップで僕は十五ドルのボードを手に入れた。その価格通り融通の利くボードではなく、ただ真っ直ぐ乗るために作られたような代物だったが僕は自分の力量に見合っていて良いと思った。僕は一週間の間、朝早く起きて海に入り、波のある日はただ陸に向かって真っ直ぐ滑り、波の無い日は沖に浮かんでそこから見える景色を楽しんだ。スティーブに教えてもらった初心者レベルの場所で滑っていたため彼と一緒に滑ることはなかったが、一度遠く離れた場所で滑るスティーブを見ることができた。その姿はまさしく波と同化しており、アートだった。僕が滑る初心者レベルの場所にしたところで、他のみんなは僕よりずっと上手く滑った。夕方になると学校を終えた小学生がやってきて、夕陽が沈むまでの時間を使って波と存分に戯れて帰る。そんな彼らに笑われながらも中には数人顔見知りができて、少しだけコツを教わったりもした。彼らは僕に「忍者はもっと上手く滑るのかと思ってた」と言った。

 ハリウッドへ帰る前日にも夕方彼らと一緒になった。「明日発つよ」と告げると彼らは悲しそうな顔をしてくれた。そして「またおいでよ。次来るときは向こう側の高い波が来る場所で一緒に滑ろうよ」と言ってくれた。夕陽が沈む時刻になり、僕は最後に彼らと挨拶しようと思ったのだけれど、僕は随分流されてしまっていて、彼らからは遠く離れた場所におり、話をすることができなかった。僕は最後の波を慎重につかまえ、波の波動を感じながらハンティントンでのサーフィンを終えた。その足でボードを買ったサーフショップへ行き、「明日帰るから」とボードを無料で返そうとすると、真っ白い髭を存分に蓄えたショップのおじさんは僕の手に三ドル握らせて「一日二ドル、六日で十二ドル、お釣りで三ドルだ。ハンバーガーの上手い店があるからそこで何か食え」と言った。僕はお礼を言ったがおじさんはこちらを見ようともしなかった。まるでクリッシーみたいだ、と思い少しおかしくなった。

 ホステルに戻ると住人のみんなにディスコに行こうと誘われた。毎週土曜の恒例行事なのだということだ。一旦は「明日早く帰るから」と断ったのだが「だったらなおさらだ」と連れていかれた。ホステルの入口にいると、何処に隠れていたのか続々と人が湧き出て来て、まるでツアー客の集団のようになった僕らはハンティントンのストリートを大行進し、ディスコへと向かった。

 ディスコで僕は忍者と呼ばれた。安易だが、自分の名前(本物にせよ、ロスで授かったものにせよ)を説明するのも面倒臭かったのでそのまま忍者と呼ばせた。彼らのコミュニティにおいて日本人は珍しいらしく、僕のところにはいろんな奴らが集まってきた。僕をディスコに誘った男が、いつの間にかマネージャのようになっていて、僕のことを色々な人達に紹介した。面倒くさくなったりしたのだが、結構可愛い女の子も話しかけてきてくれたりしたので、僕はプラスとマイナスを考えた結果、「悪くない」と日本語で独りごちて結局その場を楽しんだ。

 フロアでは一九七十年代のディスコミュージックが流れていた。そこには音楽とアルコールが作る非日常があり皆それに酔っている。そんな雰囲気は日本でもアメリカでも同じだ。僕はそんな光景をぼんやりと見るともなく眺めていた。

 僕の肩を誰かが叩き、いつの間にか薄れていた現実感を取り戻した。振り返るとそこにはスティーブが立っていた。

「やぁタクシー、君も来てたんだね」

「スティーブ、遅かったね」

「あぁ、レストランが忙しくてね。一体何枚皿洗ったんだろうか」

 そう言ってスティーブは笑った。サーフィンの話をしているときの彼は完全に自由人に見える。でもそんなわけは無いのだ。暮らしていくために彼だって、時には大変な思いをして働いている。でもそんなことはサーフィンの中で生きている彼にとって“問題”とすら認識されないのだろう。

「明日、ハリウッドへ帰るよ」

「ハリウッド?そうか、でもハリウッドには波が無いね。残念だ」

「僕もそう思う。でも僕はハリウッドに帰るんだ」

「波が無くてもかい?」

「そう波が無くても」

「そうか、でもタクシーがそう言うのなら、タクシーにとってそれは正しいんだと思うよ」

「ありがとう。僕もそう思えるようになった」

「ハンティントンの波はどうだった?」

「うん、僕の力では及ばないけど、素晴らしかったよ」

「だろ、素晴らしい波だよ。僕の故郷の波にはパワーでは負けるけどね」

「スティーブは故郷にいつか帰るの?」

「ノーコメントでもいいかい?」

「あ、OK。ノーコメントでもいい。スティーブ、これからも素晴らしい波を」

「ありがとうタクシー。君にも素晴らしい波を」

 そして他の友達に話しかけられたスティーブは僕と握手を交わし別のテーブルに移っていった。それが僕と彼の最後の時間であり、それ以来会話を交わすことは無かった。宴は明け方まで続き、僕らはホステルに戻った。スティーブはどこかへそのまま行ってしまったらしく部屋には戻らなかった。僕は仮眠を取り、九時前には目を覚ましてホステルを出た。

 サーフショップのおじさんに紹介されたハンバーガーショップでハンバーガーをひとつ買い、最後に桟橋へ向かった。先端まで行き、ハンバーガーをほおばるとジューシーな味わいが口の中に広がった。確かに美味しいハンバーガーだった。僕はお釣りをくれたおじさんに感謝した。日曜ということもあって、海ではもう多くのサーファーが波を待っている。沖の方に大きな波のセットが三本見えた。一本目に何人かのサーファーが乗り、続いて二本目も流れていった。波をつかまえるサーファーの群れの中にスティーブを見つけた。

「スティーブ!」

 叫んでみたが風のせいで僕の声は届かなかった。スティーブは三本目の波を待っている。セットの中で一番でかい奴だ。そのために彼は二本見逃した。波が大きく膨らみスティーブの体が持ち上がる。そして波がブレイクし始めて、スティーブはその波と同化し滑り下りた。僕の姿に気づいていて、最後に見せてくれたのだろうか。ボトムまで行ったその体は大きくトップに向かって駆け上がり、波の上で大きくジャンプした。与えられた世界で、その男は日々耳を澄ませ、感じ、イメージし、妥協性のないハッピネスを追い求め、そして最高級のマジックを味わう権利を得たのだ。

 僕はその光景に声も無く、ただ感動していた。「さよならスティーブ。さよならハンティントン」そう呟いて僕はハリウッドへ向かうバスが待つ停留所に向かった。風はオフショア。今日も良い波があなた達に訪れますように。

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