散歩する者(1)
まだ初夏であるのに、気温が例年よりも上がっている。
そんなニュースが流れたある休日、俺は北見太朗さんと共に都内の病院に訪れていた。
面会の受付を済ませ、静かな廊下を歩き、一つの病室の前に立ち止まった。ノックをして、声を掛けて中に入る。そこには、一人の男性が窓の方へ目を遣っている。顔を横に向けていてもわかるくらいに頬はこけており、病衣から覗く腕は痩せ細っている。回復しているというよりも、衰弱しているという言葉がふさわしいくらいである。
変わり果てた養父—栄口広助の傍に、俺は病室内にあった折りたたみの椅子を開いて座った。視線はこちらに向いていない。
「広助さん、お久しぶりです」
声を掛けてみるも、広助の反応はなかった。
「しばらくの間、来れなくてすみませんでした。避けていた訳ではなかったんですが、大学の講義やバイトがあって、時間が取れなかったんです」
言っていることの半分は事実で、半分は言い訳だった。大学の空きコマもあったり、バイトも単発であったりしたことから、広助の元に訪れる時間はここ数週間あったのだ。だが、母を殺した殺人犯に会うのには、思っていた以上に心の整理が必要だった。
整理しきれた、と断言できるわけではないが、『ある報告』も兼ねて今日こそ広助に会うべき日だと思った。
「広助さん、病院の先生や取り調べに来た警察から聞きましたよ。窓から飛び降りようとしたんですって。あまりそう言って無茶なことは止めてくださいよ。二度も自殺試みるなんて心臓に悪いですから」
無言。ずっと視線は窓の外のままである。
「あと、報告があります。俺、戸籍を北見家に移すことにしました」
俺がそう言った瞬間、初めて広助はこちらに目を向けた。そこには驚きやら、悲しみやら、様々な感情が複雑に混ざり合った表情をしている。何も言葉を発していないが、こちらを凝視している。
「栄口家として、『栄口平吾』と会うのはこれで最後だと思います。次は『北見平吾』としてあなたに会います」
「それでは、失礼します」と言って、俺は立ち上がり椅子を折りたたみ始めた。後ろで見守っていた太朗さんは、「平吾くんのことは僕らに任せてください」と言った。
病室を出る前、「平吾くん」としゃがれた声が小さく響いた。振り返ると、こちらに頭を下げている広助が「すまない」と絞りきるように言った。それに返す言葉が見つからず、扉を開けてそのまま足早に去った。
その日が、広助と最期に交わしたやり取りだったのである。
***
病院から去り、電車に乗っている間、俺と太朗さんの間には沈黙が流れていた。駅を降りて、休日で人が賑わっている商店街を歩き始めた頃に、「大丈夫かい?」と太朗さんが心配そうに声を掛けてくれた。
「はい。付き添ってくださり、ありがとうございます」
「どういたしまして。こちらこそ、今回の事件に同行してくれることにお礼を言うよ」
太朗さんが柔らかい笑みを返した。
同じく数週間にわたって、俺は北見家の人間—太朗さんと近い年の佐久弥とだけだが—と親交を深めていった。その証に、初めにあった太朗さんの丁寧な口調は、親しく年下の自分に向けられる少し砕けた口調に変わっていた。
「お礼を言われるほどでもありませんよ。俺から行きたいと言い出したんですから」
「だけど、一人でも同行者がいてくれると大いに助かるから、ありがたいよ」
「けど、まさか佐久弥が同行拒否するとは思いませんでしたよ」
「佐久弥くんには佐久弥くんのペースがあるからね」
「…例えお世辞だとしても、懐が太すぎますよ」
この人はお世辞とかは言うイメージがないけれど。
先日のことを思い出し、人々が行き交う中、俺はため息を漏らし呆れていた。
***
「高倉和彦と申します」
昨日、北見探偵事務所に初老の男性が訪れた。
太朗さんが高倉さんの向かいのソファーに座って話を聞いている。その間に、俺はキッチンで茶器の後片付けをしながら、耳を立てていた。
「実は、息子の一義が行方不明になりまして…」
高倉さんが語り始めた時に、行方不明という言葉にデジャヴを覚えた。先日、自分の依頼を引き受けてくれたのも行方不明の事件であったが、調査によって家内で行われた殺人事件であることがわかった訳だが。
「行方不明ですか。一義さんがどこに行ったかという心当たりはありませんか?」
「それが…信じられないかと思いますが…一義がいなくなったのは、家の中です」
「家の中、ですか」、太朗さんが問い返した。
「ええ、そうなんです。正直に申し上げますと、一義は日中引きこもっていて、普段から外を出歩かないんです。それが、昨日帰宅したら部屋のどこにも姿が見当たらなくて…今に至ります」
「そうですか。靴は履かれた形跡がなかったんですね」
「ええ。玄関にそのままありました」
「窓なども開かれた形跡は」
「全くありませんでした。どこもかしこも閉まっていたんです」
「そうなんですね」と太朗さんは思案するように、丸めた人差し指を顎に当てた。
「警察にも相談しようにも、できないような状況なんですよ」
部屋の隅で書き物をしていた佐久弥が、手を止めて客間の方へ顔を上げた。
「ですから、お願いします。見合った金額は出します。どうか私の家に来ていただいて、息子を、一義を、一緒に捜してください」
「お願いします」と再度言い、高倉さんは頭を深々と下げた。太朗さんは一瞬驚いたように目が見開いたものの、「高倉さん、顔を上げてください」と落ち着いた様子で対応した。高倉さんは恐る恐る、顔を上げていった。
「わかりました。一義さんの捜索、お手伝いします」
太朗さんの承諾を聞くと、高倉さんは太朗さんの手を取り、「ありがとうございます」と繰り返しお礼を述べていた。
そして、『一義行方不明事件』の捜索は翌日に決行されることとなった。