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桜の舞う時  作者: 唯川さくら
第一章 サクラふわり
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3

「日本よい国 清い国 世界に1つの神の国

 日本よい国 強い国 世界に輝く偉い国」


桜山に行く途中、とある学校の前で、ふとそんな言葉を耳にした。いくつもの声が重なり合っている事からしても、クラス全員で言っている事は間違いなさそうだった。誰もがまるで誰かと張り合うかのように大きな声で、ゆっくりと読み上げている。


『うわ…イタイなぁ…。どんな授業だよ…。』


奈々の耳には、その言葉はただの自意識過剰な戯言にしか聞こえなかった。“自分はすごい自慢”みたいなものをする厄介な人間はたまに見かけたりもするが、それに似ているような気もする。これが教科書に書いてあるのだとして、その教科書を作った人が本気でそう思い込んで書いたのだとしたら、その人は即刻病院に行った方がいいのではないか…。それかもしくは、よからぬ宗教団体の洗脳にも似ているかもしれない。奈々はそう思って少し笑いそうになってしまった。そう思い込ませようとしているのか、はたまた本気でそう信じているのかは謎のままではあったが、確か現代でも似たような事を言っている国があったななんて事を思い出した。

その事が頭に残ったままたどり着いた桜山の頂上には、相変わらず大きな1本桜がそびえ立っている。地面から所々覗く、力強い根から伸びる大きな木の幹は、まるで何かを飲み込んだかのように大きくねじれあがっていて、そこからいくつもの太い枝が空に手を伸ばしている。

“桜は、空に憧れたのだ…。”奈々はこの1本桜を見るたびそう思う。澄み渡った大空に目一杯手を伸ばして、それでも空は高すぎて届かなかった。だから、その手の先から幼い花びらを舞いあがらせて、空に溶け込もうとする。その姿がきっと、切なくて儚く思わせるのだろう。


『…もうじき…終わりか…。』


奈々はそう呟いて、1本桜の下に仰向けに寝転んだ。ついこの間まで、ふわふわと風に揺れる花を抱えていたのに、もう3割ぐらいが赤みがかった茎のみになってしまっている。それでもまだ、散ろうとしない花はいくつもあって、それが尚更寂しさを掻き立てた。

先ほどの衝撃的な詞を思い出しながら、ぼんやりと現代の事を考えてみる。思えばなんだかんだと揉めている国はいくつもあった。その国が一体どこだったのかはよく覚えていないが、やれ空爆だのテロだのと、テレビの向こう側は連日忙しそうに騒いでいたっけ。世界情勢などに興味のない奈々ではあったが、週刊誌に載っていた写真にはショックを受けたのをよく覚えている。民族紛争だか何だかで揉めている国で、兵隊が民間人に銃を向けて撃ち殺した写真。おそらく頭を撃たれたのであろう…こめかみから血を流して倒れた人が写っていた。はたまた他の写真には、地雷で足が吹っ飛ばされた子供の写真、血だらけで横たわる母親にすがって泣く、骨と皮だけになった子供の写真…そんなものばかりだ。

見ただけで悲しくなるような写真やニュースなど、奈々は知りたくもなかった。それを知った所で、自分に何が出来るわけでもない。悲しい気持ちになるだけで、どうにかしてあげたくても出来ないジレンマを抱えるしかない。それならばいっそ、知らなければいいだけだと、ずっと見て見ぬふりをしていたのだった。

でも今現在、この時代の日本は、まさに奈々が目を背けたような情勢になりつつある。戦争という“殺し合い”をしている最中だ。その火の粉がいつ自分に振りかかってくるかなどは分からない。そう考えると、こればかりは見て見ぬふりなどは出来なさそうだと思って、あまりの気の重さに奈々は深くため息をついた。


『殺し合いなんかして、何になるんだか…。』


“戦争”と言う言葉を使ったところで、結局やっている事は大掛かりな“殺し合い”だ。それも、子供や女性などの一般市民が犠牲になる事は現代でも当たり前のようにある。見せしめのように一般市民を殺した後で、ようやくトップの人間が巨大な権力にひれ伏す形になる。それならば最初から、トップの人間同士で話し合うなり、無人島で殴りあうなりしてくれればいいのに…と、奈々はぼんやり思った。


『まーたそんな顔して。ずっとムスッとしとったら、しまいにそういう顔になってまうで?』


『…光ちゃん…。』


『なんや、また何かあったんか?』


急に姿を現した光は奈々を怪しむ事もなく、あっけらかんと歩いてきて横に座った。相変わらず、膝が擦り切れたズボンを膝下までまくり、学ランは前が全開…。“細かい事を気にしない”がモットーらしい光は、逆に言えば大雑把な性格のようだ。奈々は何だか面白くなさそうな顔をして、光に言った。


『何かさ…何で戦争なんかするかなーって思って。』


『んん?』


『だって、巻き込まれたら嫌じゃん。今のところ、本当に戦争なんかしてんのかなーって思うような感じだけど、これからどうなっていくか分からないでしょ?』


『なんや、そんな心配せんでも大丈夫や!なーんも心配せんでえぇねん。』


光はそう言って、不安のかけらもないように笑う。奈々はそれが不思議で仕方がなかった。戦争真っ只中だというのに…しかも、すぐに潰されてしまいそうな小さな島国の国民なのに、この余裕は一体どこから出てくるのだろうか?この70年という時空の歪みがなせる業なのか…奈々は気になって光に聞こうとした。しかし光は奈々の言葉をさえぎって、またも大袈裟な声を出して何かを見つけたようであった。


『なんやこれ!めっちゃキレイやなぁ!』


光の視線の先にあったのは、奈々のもんぺのポケットから覗くスマートフォンのカバーに付いたストラップだった。桜の可愛いストラップが1つと、幸せを運ぶ4つ葉のクローバーの埋め込まれたストラップだ。そうか…この時代にはこんなオシャレな物など存在しないんだ…奈々はそう思って、おもむろにポケットからスマートフォンを取り出して光に手渡した。光は新しいおもちゃを与えられた子供のように無邪気に喜んで、その2つのストラップを交互に見つめている。…スマートフォン自体には興味はないのだろうか?奈々がそう思った時、やっと光が小さな精密機器に気がついたようにきょとんとした。


『おもろいもん持ってるなぁ。この板何なん?』


『それは、“スマートフォン”って言うの。持ち運び出来る電話だよ。』


『電話を持ち運び出来るん!?めっちゃすごいやん!』


『そ。画面を押すとね、登録してある友達の番号とか出てきて、電話出来るの。あとはメールとかLINEとか。』


『…めーる?らいん?』


『あー…機械でやり取りする手紙みたいなものかな。』


『じゃあ、郵便局に頼まんでも手紙送れんねや!?』


『まぁ、そういう事になるよね。』


『へぇ~すぐに電話出来て、手紙もすぐに届くなんて、めっちゃえぇなぁ。何でそんな事出来んねん。』


奈々はスマートフォンの仕組みについてはそんなに詳しいわけではなかったが、衛星を使ってやり取りが出来るのだという事を説明するのは避けた方がいいのではないかと思った。なにせ、“衛星”を説明するのがまず面倒くさい。アンテナだとか何だとか、奈々でもよく分からない化学的な事を説明するのは出来れば避けたかった。光はそんな奈々の心を理解しているかのように、何も聞いてこない。色々なボタンを押してみたり、色々な角度から見てみたりと忙しそうだ。それは正直助かる事であった。


『…あかん…壊れたかもしれん…。』


『…えっ?』


『ほら、なんや絵柄がおかしなってもぉた。』


『あぁ、カメラのボタン押したんでしょ?』


『…これ、電話や言わんかった?写真機なん、電話なん、どっち?』


『カメラもついてるんだよ。』


奈々はそう言って、試しに頭上に咲く桜の写真を1枚撮って、光に見せてみた。光はそんな奈々の一挙一動を興味津々なまなざしで見つめている。そして、カシャッという音と共に撮られた写真を見て、これまた大袈裟に驚くのだった。


『めっちゃすごいやん!ほんまに写真機や!』


『すごいでしょ?あとはね、ゲームとかも出来るんだよ。』


『えぇなぁ…俺も欲しいなぁ…。めっちゃかっこええわ…。』


光はそう呟いて、カメラの機能を使ってやたらめったら色々な写真を撮っては、その1枚1枚に感動している。奈々にとっては、携帯にカメラがついている事などは当たり前だ。むしろ、カメラがついていない携帯なんて、携帯じゃないとまで思ってしまう。でも無邪気に遊んでいる光を見ていると、そんな当たり前に思っていた事でさえこの時代では奇跡になってしまうんだという思いでいっぱいになった。


『これ…さくらの時代ではみんな持ってるものなん?』


『まあ大体の人は持ってるよ。だって、持ってないと不便なんだもん。』


そう、携帯電話は“繋がり”そのものだ。ポケットに収まるぐらいの小さな精密機械があるだけで、簡単に他人と繋がる事が出来る大層な代物だった。まして、近代の携帯電話の進歩はめまぐるしいものになってきている。ただの電話がカメラ付き電話になり、そこから音楽プレーヤーの役割も兼ね備えるようになって、ゲームだとかインターネットだとか、ましてナビやGPS機能までも搭載していて、もはやただの電話とは呼べなくなった。放っておいても情報を仕入れてくれる、言葉を届けてくれる…今では、携帯電話のない生活なんて考えられない。なくなるだけでもとんでもなく不安になるどころか、時間が空くと無意識に携帯をいじるなんて事も珍しくはない。親友の小型ロボットを連れて歩いているような感覚に似ているのかもしれない。


『えぇなぁ…。なんや、漫画に出てくる未来の世界の道具やんな。』


『…うん…。これがないと結構困るんだ。』


光は羨ましそうに、色々なボタンをいじってみたりしている。よく分からないまま起動させた音楽プレイヤーが奏でる鮮明な旋律に驚いては喜んで、満足そうに笑っていた。奈々はそんな光に少しだけ違和感を覚えた。奈々にとってなくてはならない必需品である携帯電話を、光は知らない。持っていなくても全く不便そうでもなく、なくても困らないであろう事は想像がつく。自分とは正反対だ。

電波の全く入らないこの世界に来ても、奈々は携帯だけは肌身離さず持ち歩いていた。充電器がないため、電池がなくならないようにとOFFにしてあるのにも関わらずだ。この時代にいる限り、誰かと連絡を取り合う事はない。衛星がない世界ではインターネットで何かを調べる事も出来ない。それでも、電池がなくなってしまう事は避けたかった。奈々自身にも、なぜなのかは分からない。しいて理由を言うならば、「不安だから。」としか言いようがない。でも、よくよく考えたら奇妙な事に気がついた。確かに、この小さな機械の中には友達や家族とすぐに連絡が取れるように情報が入っている。この時代でも唯一使える機能であるカメラも音楽プレイヤーも健在だ。でも、ただそれだけなのではないか…。なぜこの世界で全く役に立たないものを、こんなにも大切にしているのか…奈々は自分で自分が分からなかった。


『ありがとうな。おもろいもん見せてくれて。』


『…あぁ…うん…。』


『なくしたりしたらあかんで?大事にせなな。』


『…あっ、誰にも内緒ね。こんなもの持ってるって知られたら、変な通信機とかと誤解されそうだし。』


『おう、分かった。さくらの宝物の事は、誰にも話さへん。約束や。』


“宝物”―――光にはそうとしか言えないのだろう。この機械の便利さも知らない、使い方も知らない、おそらくハイテクなおもちゃぐらいの理解しかない…そんな光にしてみれば、それ以上の言い方なんてない。そして光はきっと、奈々でさえも気付かなかった真実も知らない。現代を生きる人間のほとんどが、こんな小さな機械に縛られて生きている事を…これこそが、自分の分身…【ID】だという事を…。毎日毎日飽きもせず、友達を持ち歩いている。数えきれない思い出を持ち歩いている。拘束時間を過ぎているのにも関わらず、仕事を持ち歩いている。ただ持っているだけで、ほぼ強制的に…。そんな奇妙な存在であるこの小さな機械に、いつの間にか縛られているのが現代社会を生きる自分たちだった。


『宝物…か…。…この時代じゃ、持ってても意味ないんだけどね。』


『なんでや?めっちゃおもろいのに。』


『…ここじゃ、電話もメールも出来ないもん。…誰からも来ないもん。』


けして鳴る事のない携帯電話…それは、現代人である奈々にとっては“孤独”以外の何物でもなかった。いつも側にいたはずの隼人さえ、ここにはいないと思い知らされる。電話も繋がらないしメールも届かない…1人ぼっち。それは、肌身離さず持ち歩いている電子狂の産物がもたらした独特の感情だ。


『…別にいいんだけどね。元々、友達いないし。』


気付いてしまった現実を振り切りたくて、奈々はそんな強がりを言ってみた。今現在自分が持ち歩いているのは、精密機械でもなんでもない…“寂しさ”そのものだなんて思いたくなかった。光はそんな奈々を見て少し切なそうな顔をした後で、クリッとした目を細めて言った。


『ほんなら俺、さくらの友達第1号や!せやろ?』


くったくなく笑う光の笑顔は純粋そのもので、頑なに閉ざし続けた奈々の心を開くには十分すぎるほど優しくて暖かかった。それは寂しささえも吹き飛ばして、奈々の表情をほころばせたのだった。


『…うん。ありがと。』


携帯電話が鳴る事のないこの場所で…人との繋がりを断絶されたとも言えるこの時代で、奈々は幼い頃に忘れてきた純粋な笑顔を取り戻したかのように笑った。滑稽な事だ…技術も産業力も桁違いに発展したはずの現代でも、そんなものは生み出せなかったというのに…。便利すぎる現代でさえ、ちっぽけな機械がなかったら人と繋がる事も出来なかったのに…。でも、この不便極まりない時代だからこそ、電子を介した化学反応が起きる事なく、本当の友情を築く事が出来るのかもしれない。人の温かさが冷めずに伝わるのかもしれない。そう考えると、この小さな機械はそんなに大層なものでもなく、むしろ人との距離を開けてしまうものなのかもしれないと思った。



『あのさ…今って戦争中なんだよね?』


しばらくの沈黙の後で、奈々は何かを思い出したかのようにそう言った。あまりにものんびりした昼下がりの違和感に、奈々ははっと気付いて光にそう尋ねた。そう、今は1942年…第二次世界大戦まっ只中だ。それなのに、この雰囲気はどうだろう?うららかな春の木漏れ日の中で、他愛ない話をして笑い合う。どこかで“殺し合い”が起きているとは到底思えない光景だった。もっと切羽詰まった感じだとか、ピリピリしたものがあってもいいのではないか…奈々はそう思った。こんなに緊張感がないものだなんて、自分の中のイメージとは違いすぎたのだ。


『おう。そうやで。大日本帝国快勝中や!』


『…あれだ…真珠湾がどうたらこうたらってやつ…。』


『そうやねん!すごいねんで~日本軍は!まさに【神の軍隊】やな!』


大好きな戦隊物の話を振られた子供のように、光は無邪気に笑ってそう言った。


1941年12月8日―――歴史が世界を飲み込みながら動き出した。【ニイタカヤマノボレ 1208】の暗号を元に開始された、ハワイ真珠湾攻撃、通称【パールハーバー】。クリスマスも近い日曜日の穏やかな海の水面に、ゆっくりと黒い影が落ちた。大日本帝国海軍空母―――【赤城】【加賀】【蒼龍】【飛龍】【翔鶴】【瑞鶴】の6隻が、全機突入を表す《トトトトト》というト連送信号を合図に、ハワイの澄み渡った青空に無数の戦闘機を羽ばたかせた。轟く爆音と降り注ぐ弾丸が、うららかな空気を切り裂いて人々を襲い、紅く染まったハワイの真珠湾が赤橙色の炎を吹き上げた。宙を翔ける鉄の鳥は次第に影を大きくし、生ぬるいコンクリートの上に横たわる赤く無機質な人々の上を、あざ笑うかのように羽ばたいていった。澄み渡る青空は、もうもうと立ち込める黒煙に塗りつぶされ、爆音にかき消された幾多の悲鳴を飲み込んだ。2波におよんだこの奇襲攻撃は、アメリカ軍の戦艦4隻を沈没させたのを始め、航空機165機をも完全破壊して、陸・海軍の軍人と民間人合わせて計2403名が戦死、1178名が負傷という、文字通り日本軍の圧勝であった。


『…いや…人が死んでるのに、そんなドヤ顔されても…。』


身振り手振りだけではなく、効果音までも加えて熱心にそう説明する光は、目をキラキラと輝かせながらはしゃいでいる。正直な所、奈々はかなり引いてしまった。光が今詳しく説明した事柄はいわば、“人を殺した武勇伝”にすぎない。それを、光は分かって説明しているのだろうか?分かっているのだとしたら、これほど残酷なものはない。分かっていないのだとしたら、光もまたこの国に“洗脳”されていると言っても過言ではないのではないか…そう不安になった。


『ほんま憧れるわ~。俺も絶対飛行機乗りになんねん!バシバシ敵さん撃沈させんねん!』


国の命令だろうが何だろうが、人を殺したのにも関わらずこの英雄扱いは一体どういう事だろう?奈々はますます理解が出来ずに唖然としていた。こんな事を現代で言ったら、ネット上で大批判どころか炎上は必至だ。さすがにここまで価値観が違いすぎると、どう反応していいのか分からずに言葉に詰まってしまう。そんな奈々の気も知らず、光の白熱した演説は続いていた。


『あっ、さくらあれやんな?【九軍神】知らん言うてたな?』


『えっ…あぁ、こないだね。知らないけど…何なの?』


『真珠湾攻撃の時にな、魚雷と一緒に敵艦に突撃して行った人たちがおんねん。御国のために命をかけて戦った勇敢な9人の兵隊さんの事を、【九軍神】言うて崇めなあかんねん。』


『…魚雷と一緒にって…爆弾抱えてって事?それじゃあ死んじゃうじゃん。』


『そうや。でも死ぬ事も恐れずに敵に向かって行ったんやで?めっちゃ勇敢や思わへん?』


『…自分から進んで死にに行ったって事!?』


『日本人たるもの、そうやないとあかんわな。尊敬するわ。』


『…いやいや…死ぬのはどうかと…。』


この短時間で、せっかく狭まった光との距離が大幅に開いたような気がする。これが70年の時空の歪みだ…奈々はそう痛感した。平和なのが当たり前、ゆとりの時代に生まれた奈々にとって、爆弾を抱えて敵に体当たりするなんていう無謀な作戦は自殺行為に等しい。尊敬するどころかドン引きしてしまう。何でそこまでしないといけないのか…何が彼らをそうさせてしまうのか…全く理解不能な考えであった。


『…未来から来たわりに、何も知らないんだな。』


突然聞こえた皮肉っぽい言葉に、奈々と光は驚いて振り返った。記憶の奥にある聞きなれた声ではあるが、言い方からして隼人ではない事はすぐに分かる。そこにいたのは、登山道の所で呆れたように腕を組んで立ち尽くす雪斗だった。


『雪斗!?お前、いつからおったん?』


『…光が変な機械で遊び終わったあたりから。』


『あっ…剣には内緒な!あいつに話したらややこしなるし…。そうや、剣は?』


『荷物置いてから来るって言ってたから、もう来るよ。』


雪斗はちらっと疑いのまなざしを奈々に向けて、すぐに目をそらして光の横に腰かけた。明らかに先日の奈々の発言に対する反応ではあったが、奈々はそれよりも嫌な記憶が蘇って、心臓が大きく鼓動し始めて、一気に頭に血が上るのを感じた。


『ちょっ…あいつ来るなら、あたし帰る!』


『えっ、ちょお待てって!』


『やだよ!あたし、あいつ大っ嫌いなんだから!』


相澤 剣―――初対面にも関わらず、奈々に威嚇の視線を向けた挙げ句、あろうことか敵呼ばわりした失礼な奴…。奈々にとっては憎たらしい事この上ない。

1度嫌だと思った相手と、気持ちを押し殺してまでにこやかに接する事が出来るほど、奈々は人間が出来ているわけではない。どうしても顔と態度に出てしまう癖は、あの頑固な祖父譲りなのか、大人になりきれていない証拠なのか、奈々にもよく分からなかった。


『俺が上手くまとめたるから、大丈夫やって!』


『大丈夫じゃないし!あんな仏頂面、見たくもない!』


早々に立ち上がって、その場から逃げるように立ち去ろうとする奈々のもんぺの裾を、光は掴んで必死に説得しようとしていた。奈々はそんな光の言葉に耳も貸さず、「放せ」の一点張りであった。そんな2人のやり取りを、雪斗は冷ややかな目で見ているが、奈々にとってはそんな事はどうでもよかった。この切迫した状態では、気にすらもならない。しかし


『…仏頂面で悪かったな。』


奈々の苦労も空しく、剣はふてぶてしく姿を現した。その言い方といい、バリトンボイスといい、態度といい、すべてが上から目線で偉そうに思えて、奈々はカチンと来て思わず顔をしかめた。まるで苦虫を噛み潰したような、分かりやすい嫌がりようだ。


『…出たよ…ウザいのが…。』


奈々は小さくそう呟いた。思えば何度か、似たような場面に遭遇した事がある。あれは確か、生活指導の先生だか進路指導の先生だかに、廊下でばったり出くわしてしまった時だ。あの時の残念な状況に似ている。

奈々は完全にふて腐れて、剣と目すらも合わせる事なく、眼下に街を見下ろせる方を向いて座り直した。膝を立てて、更に頬杖までついて、誰が見ても不機嫌なのは一目瞭然だ。だからなのか、辺りは一瞬で気まずい雰囲気に包まれた。せっかくの桜景色も、この空気にはお手上げのようだ。


“お前、空気ぶち壊す達人だなぁ。”


どんな状況においても、場に流される事なく自分の意見を言う奈々の事を、隼人はそう皮肉っては笑っていた。良い意味でも悪い意味でも“KY”だと言われていた事が、どこか遠い日のような気がして、少し寂しくなった。そんな奈々を気にもせず、相変わらずの調子で気楽に笑える光の性格は、ある意味才能だと思う。先程話していた武勇伝の熱が収まりきらない光は、雪斗と剣にもその熱を振りまいて、いつの間にか2人をその独特の話術で引き込んでいた。


『このまま勝ち進むに決まってんで!今年中には戦争も終わるんちゃうか?』


日本軍の活躍がどうたらこうたら…現代では考えられない話題で盛り上がっている。奈々はそんな輪の中に入るそぶりも見せず、ぼんやりとこの場を覆う桜を見つめていた。はらはらと舞い落ちる桜の花びらは、地面に落ちても風に吹かれて再び舞い上がる。山の斜面をころころと転がりながら助走をつけて、この街に降り注ぐべく羽ばたいていく。桜がそんなに必死に空を目指す理由を、奈々は知らない。憧れた広く高い空を抱くように大きく手を伸ばして、届かなくても諦める事はない。今度は自分がばらばらになって、小さな花びら1つ1つを、風に乗せて空にばら撒くのだ。そんな風に、何としてでも空に舞い上がろうとするのは、一体なぜなのだろう?奈々は不思議で仕方なかった。そこに何か深い意味があるような気がしたからだ。


『…あーっ!そうや!』


しんみりと考え事をしている最中だというのに、突然隣で大声をあげた光に驚いて、奈々は我に返って光の方を振り向いた。光は何か凄まじい発見をしたかのように、嬉しそうな驚いたような表情をして奈々を見ている。


『…何?急に。ビックリさせないでよ。』


『さくら、未来から来たんやったな!?』


この不機嫌まっしぐらの時に、まして自分を良く思っていないで疑う2人の前で、よくぞそんな話を蒸し返す事が出来るもんだ…。奈々は若干呆れながら光を見ていた。ある意味、光は奈々に負けず劣らずのKYなのかもしれない。


『…とっても認めにくい空気だけど、そうだよ。…それが、何か?』


『ほんなら、戦争がいつ終わるんか、知ってんねやろ?』


奈々は息を飲んだ。この時代でただ1人、戦争の終幕を知る者…。結末を知っている者…そんな見えない圧力なんていうものは、光も雪斗も剣もきっと知らない。本当の事を話してもいいのだろうか?それともまた、ここでも嘘を突き通すべきなのか…奈々の頭の中は大きく渦巻いた。そして少しだけ下を向いて、小さな声で俯いた。


『…1945年の…8月15日…。』


『…めっちゃ長引くねんなぁ。でも、もちろん勝つんやろ?俺が敵さん撃沈させて、大勝利に拍車かけんねやからな!空母2隻でも3隻でも、かかってこいっちゅう話や!』


まるで勝つのが当たり前のように、憧れにも思える感情を笑顔に変えてそう言う光に、奈々は本当の事を告げる勇気がなかった…。言ったらいけない事なんじゃないかって、どこかで分かっているから…。この時代では不謹慎にあたる真実は、自分の中に閉じ込めておいた方がいいのではないか…。だけど、ここで奈々がまた嘘をつけば、真実が明るみに出たその瞬間に、自分は「未来から来ました」という事実を根底からひっくり返される事になってしまう。批判覚悟の真実か、自分の存在にますます疑いをかけるであろう嘘か…奈々の頭の中の大渦はますます大きく歪み始めた。


『…なんだ、未来から来たと言うわりに、そんな事も分からないのか。』


手招きをするように枝を揺らす桜の大木に寄りかかって、剣は皮肉っぽくそう言った。その嫌味な言い方が、奈々に覚悟を決めさせたのだろうか…?奈々は少しだけ顔を上げて恨めしそうに剣を見ると、大きく息を吐いて言いにくい思いを吐き出すように、わざとはっきりと言った。


『…日本は…負けるよ。』


場の空気が一気に変わった。重苦しい空気と、自分に注がれているであろう非難の視線が怖くて、奈々は顔を上げる事が出来なかった。これでよかったのだろうか…?今ならまだ、引き返せる…。あまりの空気の重さに、奈々の覚悟は一瞬緩んだ。でも、その沈黙を打破したのは、滅多に聞く事などない剣の大きな笑い声だったんだ。

奈々が驚いて顔を上げると、剣はゆっくりとこちらに向かって歩きながら言った。


『やはりそうか。貴様、敵国のスパイなんだろう?』


『なっ…違うよ!あたしは…』


『覚えておくがいい。天皇陛下様がお治めになるこの大日本帝国は、神の国だ。無敵の皇軍がいる限り、我が国に負けなどあるはずがない。』


『…神の国…?』


『そうだ。これは聖なる戦争だ。正義が勝たないわけがない。違うか?』


『…聖…戦…?』


奈々は剣を見上げた。いつかもそんな言葉を聞いた気がする。アメリカにそびえたつ2つの摩天楼が砕け散って、多くの人が亡くなった時だっただろうか…?あの時、その行為を正当化した人間たちが口走った言葉も確か…【聖戦】だと言っていたんだ。自分たちがした愚かな“大量無差別殺人”を、そう言って正当化しようとしたんだ。


『…もうシラをきっても無駄だ。貴様がこの戦争は負けると言った時点で、スパイである事が明白だからな。未来からきた人間が、そんな事を言うはずがない。おとなしく裁かれろ。』


その瞬間、奈々の頭の中のジレンマは怒りに姿を変えて、一気に全身の血液を沸騰させた。煮えたぎった血液が全身を駆け巡っていく。奈々は唇を噛み締めて、ゆっくりと立ち上がった。そして…

 

パァ…ン…


桜山に、乾いた音が響いた。雪斗と光は驚いて目を見開き、体を起こして奈々を見ていた。剣は一瞬、何が起きたのか分からないというように、しばらく呆然としていた。そしてスローモーションにさえ思える長い間の後で、赤くなった頬を抑えながら、厳しい目で奈々を睨んだ。


『…貴様ぁ…何を…。』


『聖なる戦争なんて、あるわけないでしょっ!』


突然火が付いたように怒鳴った奈々を、剣は信じられないとでも言うように見つめている。何かがはずれてしまった奈々は、もう後先なんか考えてはいなかった。歴史の圧力もジレンマも何もかもどうでもよかった。どうしても許せなかったのだ…。“殺し合い”を正当化されるのが。どうにでもなれと思えるぐらい、怒りを抑える事は出来なかったのだ。


『あんた戦争って何だか知ってる?殺し合いなんだよ!?国を挙げて大勢の人を殺していい理由がどこにあるって言うの!?』


『敵を殺さなければ、我が国がやられるんだ!大切な者が殺されるのを、黙って見てろとでも言いたいのか!?』


『…敵…?アメリカ人だって何人だって、同じ人間じゃない!あんたたちと同じように家族がいて、恋人がいて、友達がいて…何も変わらないの!大切な人を殺されたくないのは一緒なの!一生懸命生きてるんだよ!』


『どう考えても奴らが悪いだろうが!悪にそんな人情は必要ない!』


『戦争にねぇ、正義も悪もないの!やってる事は、どっちも人殺しでしょ!?どっちも間違ってるんだよ!』


神や仏を盾にして、悪だ正義だともっともらしい理想論を掲げて殺し合いをしているのは、現代でも同じ事だった。でも、それは奈々が目をそむけてしまいたかったほど許せない事でもあったのだ。目をそむけるしか出来なかった現代とは違う…突き付けられた真実に簡単に「YES」とは言えない。…今度こそは「NO」と言わせてもらう…奈々はそう決心して、烈火のごとく怒りをぶちまけた。


『…何だと…?』


『自分だって、家族や友達が殺されたら嫌なんじゃないの?この国も同じ事やってるの!誰かの大切な人を殺してるの!それのどこが正義なの!?神様が人殺せなんて、言うわけないでしょ!』


『…陛下を侮辱する気か…?』


『あんた頭おかしいんじゃないの…?例えどんな理由があったとしても、人が人を殺していい理由なんかないの!正しい戦争なんてどこにもないの!そんな事にも気付かないなんておかしいよ!』


『………。』


『命の大事さが分かるなら…戦争が殺し合いなんだって気付いたらどう…?それも分からないような冷たいあんたなんかに、偉そうに説教なんかされたくないの!』


そう言い放って、奈々は足早に剣の横を通り過ぎてその場を去って行った。後には重苦しい空気だけが残って、誰も言葉を零す人はいなかった…。



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