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桜の舞う時  作者: 唯川さくら
第一章 サクラふわり
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『…CD…パソコン…コンビニ…全部ダメか…。じゃあ、“コロッケ”とかも“揚げ物”になるのかな?』


この時代、日本国内では【英語追放】の動きが高まっていた。

アメリカ、イギリスなどの英語圏の国と戦っているからなのだろう。英語は大和魂を培う妨げになるものとして、外国語のカタカナや表現を禁止するとの通達が内務省からあったのだった。この時代に都合の悪いものや風紀上良くないもの、そしてカタカナの名前などはすべて和名に変え、敵を言語もろとも排除する事で更に戦気を高めようとする国の方針らしい。

奈々は1本桜の下に座り込んで、空を見上げながら眉間にしわを寄せて考えていた。思えば自分の周りには、カタカナや英語が氾濫していたのだと、初めて意識した。それを今になって急に「使うな。」と言われても、うっかり使ってしまいそうだ。


“私と2人でいる時は、使ってもかまわないわ。私だって、画材道具や画家の名前を言う時は外来語を使うから。でも、外では使ったらダメよ?今は厳しくなってきてるから、スパイ扱いされかねないわ。”


昨日、伊吹にそう言われてからは極力カタカナは使わないように心がけてはみたものの、そうすると自然と口数が少なくなってしまう。それだけ奈々の周りには外来語が溢れていて、それを使わないで会話をスムーズにするなんて無理難題であった。まず、どれがカタカナでどれが外来語かなんて考えた事もなかったし、それが分かったとしてカタカナだったものを和名で話そうとしても、その肝心の和名を知らない。何とも話がしにくくなって、あまりのぎこちなさに伊吹に笑われたほどだった。現代では、わざとカタカナを使わないゲームなんていうものもあったようだが、これは確かに難しいと実感した。


『…ハンバーガーとかポテトって、何て言えばいいんだろう?ジュースだってそうだし…。』


ここのところ、奈々は毎日1回は難しい顔をして悩まなければならない場面があった。ここに来て数日…やっとお風呂にも慣れた矢先の【外来語禁止】だ。もういい加減うんざりしてくる。

この時代のお風呂は、奈々が知っているようなお風呂ではなかった。シャワーなんて気がきくものはあるはずがないし、風呂場に鏡もない。トリートメントなんかもないし、ましてお風呂に浸かっても足が伸ばせない。窮屈な思いをして入るお湯が冷めた時も、ワンタッチでお湯を温めるなんてハイテクな事は出来ず、外にいる伊吹に薪をくべてもらうシステムだ。微妙なさじ加減を間違えたら、お湯は煮えたぎってしまう。元々お風呂好きで長風呂な奈々だったが、あまりの面倒臭さにお風呂が嫌いになってしまいそうだった。こんなに不便な思いをしないといけないなんて…。気軽にシャワーを浴びるなんていう事も夢物語だ。疲れを取るために入ったはずのお風呂で逆に疲れ果ててしまった奈々の様子に気付いた伊吹に、奈々は現代のお風呂の話をした。あまりに見違える設備になった事に驚く伊吹であったが、この時代のお風呂事情を聴いた奈々の方が驚く結果となった。考えられない事ではあるが、この時代にお風呂がある家はほとんどないと言っても過言ではないらしい。みんなお風呂を持っている家に“借りに”行くという驚愕の事実に、奈々は驚きを隠せないでいた。満足に髪も洗えない所を持ってきて、洗うのも浸かるのも何もかも、他人の垢の浮いたドロドロの残り湯…信じられない事だ。

それに驚いたのもつかの間、今度はカタカナが使えない。奈々は心底「帰りたい。」と思った。


『超くだらない…。英語使うなとか、どんだけだし…。』


小学生のいじめみたいだと思った。この国を動かしている人たちは、みんなお子様なんだろうかと疑ってしまう。そう考えれば、まだ現代の政治家の方がまともなのかもしれないと、妙に納得してしまった。

大体、奈々が見に行こうと思っていた映画は洋画だ。大好きな俳優もアメリカ出身のハリウッド俳優だし、映画の舞台も外国。もしこの時代だったら、何もかもすべてがアウトではないか。そうだとしたら、この時代の映画というのは時代劇しかやってないのではないか…奈々は先日あった龍二の顔を思い浮かべながら、ぼんやりとそんな事を思った。


『はぁぁ…不便っつーか…この暮らしナイわ…。』


考えれば考えるほど奈々の頭はオーバーヒートして稼働を止めてしまいそうになる。好きな歌、好きな歌手、好きな映画、好きな遊園地、好きなマンガ…全部にカタカナか英語が入っている。いっその事、一言も喋らなければ問題ないのではないか…なんて、無謀な考えが頭をかすめる。

そして、こんな風にゴロゴロと、終わりの見えない考え事をしていて1日が終わる。他には何もする事がない。テレビもなければパソコンもない。楽しみにしていたドラマも見れないし、ネットで遊ぶ事も出来ない。ゲームもないし、カラオケもない。ここでは自分がやる事すらも見つからないのだ。

この時代を知れば知るほど、現代に帰りたい想いは募って、今まで当たり前に思っていたものが愛おしい。ただただ、帰りたい ―――――。色々なものが溢れ、何でもあるあの時代に…。


『…あっ、ハンドクリーム塗らないと…。』


奈々は気分を変えて、鞄の中からクリームの入ったチューブを取りだした。きっとこの時代では“保湿剤”とかそういう言い方になるんだろうな…と思いながら、もう中身が少なくなったチューブを思いっきり握ってクリームを絞り出した。そろりそろりと出てきた白いクリームから広がる、この場所に合うような桜の香りが鼻をくすぐって、少し穏やかな気分になった気がする。奈々は軽く手をこすり合わせながら、クリームを手全体と、特に念入りに折れてしまった爪の部分に塗り込んだ。

ふと目をやった先には、ぽっかりと口を開く鞄がある。鞄の中には、勉強道具なんてものはほとんど入っていない。しいて言うならば、何かと役立つルーズリーフと携帯ショップでもらったシャープペンシル、そしてほとんど使われた形跡のない消しゴム。それも、ペンケースに入れるでもなく、単にルーズリーフの袋に放り込んでおいているだけだ。

その時、こないだの授業で使った歴史の教科書が目に飛び込んできた。奈々ははっとして教科書を鞄から取り出して、ペラペラとページをめくった。こんなに真剣に教科書を見た事などなかったし、まして教科書を有り難く思ったのは初めてだ。今の奈々にとっては、この教科書は全く知らないこの時代の出来事が細かく書いてあるであろう、救いの本でしかない。


『第二次世界大戦…確かこのへんだったはず…。』


縄文時代も鎌倉時代も江戸時代も飛ばして、教科書はあっという間に歴史を駆け抜けていく。そして、教科書の後の方のページの所に、第二次世界大戦のページはあった。あの授業の時、ちょっと目をやっただけで閉じてしまった、この時代の足跡。確か、先生は黒板に世界地図とたくさんの矢印を書いていた。カラフルな色のチョークを何本も使って説明していた。真剣に聞いておけばよかったなんて、今更遅いけれど…。


『…ドイツとイタリアと日本…三国同盟?』


何の事だか、さっぱり訳が分からない。でも詳しく読んでみると、どうやらその3国は日本の味方で、他の国は敵という事らしい。それが、あの授業で先生が書いていた矢印の意味だ。奈々は遅ればせながら納得して、念入りに教科書を読んだ。


1939年9月1日、ヒトラー率いるドイツ軍がポーランドに侵攻したのが、ヨーロッパ戦争の幕開けとなった。ドイツは当時、ヒトラーと犬猿の仲と言われたスターリン率いるソ連軍と独ソ不可侵条約を結び、互いに協力しあうという約束のもと、共にポーランドに侵攻した。

それに対して、ポーランドとの相互援助協定が有るイギリス、フランスは、ソ連に対しては宣戦布告はしなかったものの、ドイツには宣戦布告し、戦火はヨーロッパ全体に広がっていった。

勢いに乗ったドイツは、ポーランドをソ連と分割したのちにデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギーを次々に支配し、占領下にある国々でユダヤ人に対する強制収容、および虐殺といったホロコーストを行い、フランスをも降伏させてしまった。それに便乗するかのようにドイツ側についたのがイタリアだ。

1941年になると、ドイツは突然ソ連に宣戦布告、モスクワに攻め入った。このソ連とドイツの争いの始まりによって、自由主義国であったイギリスやフランスとソ連は共通の敵と戦う事になり、連合国軍が形成される事となったのだ。


同じ頃、日中戦争に行き詰った日本は、石油やゴムなどの資源を求めてインドネシアやフィリピンなどの東南アジアに侵攻を始めた。それと同時に、当時1番勢いがあったドイツ、イタリアと日独伊三国同盟を結び、翌年に日ソ中立条約を結んで北方の安全を確保すると、フランス領インドシナ南部にも侵攻し、駐留する事となった。

それに対し異議を唱えたのは、ルーズベルト大統領率いるアメリカだった。アメリカは日本に対して強い経済制裁を加え、これにより日米関係は悪化。業を煮やした日本は1941年12月、マレー半島に上陸すると共にハワイ真珠湾に奇襲攻撃をかけ、アメリカやイギリスに宣戦布告。ついに大東亜戦争が幕を開け、日本はドイツ、イタリアと共にアメリカ、ソ連、フランス、イギリスなどの大国を相手に戦いを始めた。こうして第二次世界大戦が始まったのだ。


つまり、ヨーロッパ戦争と大東亜戦争の総称が、第二次世界大戦という事になる。文字通り、世界中で戦争が起きているのだ。これが、今奈々が置かれた状況であると同時に、戦争はまだ始まったばかりだという事になる。奈々は教科書を一旦下に下ろし、唖然としながら空を見つめた。


『…ちょっと…これからますますヤバくなってくるって事…?』


これはぼやぼやしている場合ではない…奈々はそう思って不安になった。小さな島国である日本はいわば、世界の大国を一斉に敵に回してしまった事になる。そうなれば、無事ですむはずがない。そんな大国からしてみれば、小さな島国を潰す事など容易な事なはずだ。


『…冗談じゃない…。何であたしが巻き込まれなきゃいけないの…。』


奈々はただの女子高生だ。戦争など全く知らない時代に生まれ、何事もなく平和に過ごしてきた。今の日本と同じような立場にある国の情勢を、テレビごしに見ていては文句を言っていた。それなのに、いきなりこの不便な時代に放りこまれた挙げ句、散々文句を言っていた国と同じ立場にある日本の人間として戦争に巻き込まれる…理不尽にも程があるではないか。


『…ちょっと待って。この後どうなるわけ?』


もしかしたら、自分は死んでしまうのではないか…そんな大きな不安が押し寄せたせいで、奈々は急にこの時代に恐怖を感じた。不便さしか感じなかったこの時代に、初めて恐怖を覚えた。それは、この時代に対しての恐怖だけじゃないかもしれない…。知ってていいはずのこの時代を知らなすぎるあまり、どうなるのかが分からないという怖さも混じっているような気がする。

奈々は慌てて教科書の続きに目を通した。目は泳ぎ、寒いはずはないのにわずかに手が震えている。しかし、肝心の事が載っていない。大まかな戦いと、大まかな歴史の流れ、そしてこの戦争の結末…それしか載ってはいなかった。青ざめながらページをめくってみても、そこにあるのは戦後の日本がどうなったのかというページに切り替わってしまっている。そう、この時代は歴史のわずか2ページにしかならなくて、戦時中の事などはページの半分にしか書かれていないのだ。


『1942年、ミッドウェー海戦で日本が負ける…。1943年、スターリングラードの戦いでドイツが負ける…。その後にイタリア降伏、1945年にはドイツが降伏、日本も降伏を呼び掛けるポツダム宣言を出されるけど、シカトした挙句…8月6日に広島に原爆投下、8月9日に長崎原爆投下…8月15日、敗戦…。』


奈々は教科書の半分をぼそぼそと小さな声で読み上げた。風にさらわれてしまいそうなほどに小さくか細い声は、この歴史の象徴のような気がした。この日本を揺るがす大事件なのにも関わらず、こんなに小さくしか載っていない。たったの半ページ…その日本史の瞬きにも満たないほどの密度でしかない扱いは、どこか現代がこの戦争を風化させているようにさえ思える。この過酷であろう時代からわずか70年しかたっていないのに、もう色あせてしまうなんて…早すぎる時計の針がいけないのか、それとも豊かすぎるゆとりの現代がいけないのかは、分からないけれど…。


『…なんか、大雑把すぎてあんまりよく分からないけど…。とにかく、大変な時代なんだ…。』


それでも、奈々はどこか他人事に思えてしまう気がした。自分は大丈夫だろう…ゆとりがもたらしたそんな考えが頭に浮かぶ。この半ページの文章が言う通りならば、とりあえず自分は大丈夫かもしれない。戦いが起きたのはどこか遠くの海の上で、原爆も遠くの広島と長崎に落ちるらしいから、死ぬ事はないのではないか…そう思った時、ふと教科書の端にある日本地図に目が行った。その図のすみには小さく【空襲を受けた日本の都市】と書かれていて、かろうじて肉眼で見えるほどの数字が細々と書いてある。


『…東京…横浜…名古屋…神戸…北九州…。…えっ、空襲って何?日本も攻撃されるんじゃ、あたし死んじゃうかもしれないじゃん…!』


特に大きく書かれた数字の中に、自分が今現在いる地名と近い場所を見つけて、奈々は慌てふためいた。今いる場所も、間違いなく爆弾の標的になっている。この教科書は古代の預言でも何でもなく、100%起きる出来事しか書かれていない確実な預言書そのものだ。それがこの街に爆弾が降る事を書き記している。


『…いつ…いつ空襲が起きるの!?何でどこにも書いてないの!?』


何年の何月何日に空襲をうけると書いてあれば、逃げる準備も出来たかもしれない。でも、この預言書にはそれ以外は何も書いていなかった。大雑把な事のみで、いつどこで何が起きるのかが全く分からない。分かっているのは、この場所も間違いなく空襲にあうという事、そして日本は負けるという事…それぐらいだ。奈々は恐怖しかない中で愕然としながら、教科書をゆっくりとおろした。


『…肝心な事が全然書いてないじゃん…。』


あぐらをかいて座り込んでいる青い芝生の上で、奈々は茫然と眼下に見える街を見つめていた。桜の雨は、変わらずに降り続けている。慰めるように吹く春風が、穏やかに奈々の髪を揺らして頬をくすぐった。

この街がどうなってしまうのかも分からない。空襲の規模はどの程度なのか、広島と長崎に落ちる原爆の威力はどれほどなのか、何も分からない。

おそらく、どこか遠くの海の上では、銃か何かでドンパチと撃ち合いが起きていて、街を滅ぼすほどの原子爆弾が投下され、そして…この戦争は終わる。日本の敗北という形で、あと3年後の8月15日に幕が降りる。それだけしか分からない。

もちろん教科書には、この時代の暮らしぶりも載ってはいなかった。どんなものを食べ、どんな不便な生活を強いられたか…外来語が禁止だとか、食料もわずかしかない状態だなんて載っていない。奈々がうんざりしている状況をあざ笑うかのように“なかった事”扱いされていると言っても過言ではないのではないか。


『…なんだよそれ…。いつ空襲が起きるか、何で書いてないんだよ…。日本で起きた事が何で全然書いてないんだよ!』


奈々のようなゆとり世代の人間が、“戦争に関して無知だ”と言われても仕方がないのではないか…少しだけそんな気がした。肝心な事は何1つ教えてもらえない。だから、そんなに重要だとも思えず、ほんの歴史の一幕だと聞き流してしまう。

奈々は怖くて仕方がなかった。結末を知っているのに、内容を知らない。何とも滑稽な事だ。これからこの時代がどうなっていくのか、全く予想も出来ない。壊滅的な打撃を受ける事は分かっている。それでも、何が起きてどんな事がそうさせるのか、全く知らない…それが恐怖を駆り立てた。すっぽりと歴史から消えてしまった、この歴史の空白部分はきっと、奈々がこれから身を持って知る事になるのだろう。その悪夢がどうしたら覚めるのかも、今は知るよしもないけれど…。


『…何であたしが空襲に合わないといけないんだよ…。マジ、意味分かんないし…。』


奈々は半分パニック状態になっていた。それもそうだ。当たり前だが、爆弾なんて全く馴染みがない。その物騒な兵器がこの街をどう変えてしまうのかも想像がつかない。必死に祖母から聞いた話を思い出そうとしても、微塵も思い出せない。適当に相槌を打っていた証拠だ。それが今更、悔まれて仕方がない。

奈々はがっくりと肩を落として、教科書を軽く放った。あまりにも使えない教科書に対してもはや憎しみしかなく、しばらく不機嫌な表情を浮かべて睨みつけていた。ほっこりと花開いたまま落ちてきた桜の花が、そっと教科書の上に舞い落ちて、表紙の殺風景な柄に色を添えた。


『…どうなっちゃうんだろ…。』


適応出来ない時代に放り出された、荒れ狂う歴史の結末を知る者…。そうこの世界でただ1人、この戦争の行く末を知っている者…それが事もあろうか、ただの女子高生だ。でも白羽の矢が当たった奈々でさえ、自分がどうなるのかはさっぱり分からない。せめて、爆弾が当たって死ぬとかがないように…生きて帰れますようにと願うだけだ。


『…はぁぁ…。…ん?』


ため息交じりにますます肩を落として、ぽつんと落ちている教科書から目をそらすと、そこには青々とした草の中に紛れるように、鉛色の小さな長方形のものが落ちている。風に揺れる伸びた草がその正体を隠して、何なのかは分からない。一瞬、爆弾なのではないかと思ってどきっとしたが、そんなに小さいものではないだろうし、音もなく落ちるわけがない。奈々は恐る恐る様子を伺って、腰を上げてそれを拾い上げた。


『…ハーモニカだ。』


何でこんな所にハーモニカが落ちているのだろうか。誰かが奈々のいない時にこの場所に来て、うっかり落としてしまったのかもしれない。不思議に思いながらそのハーモニカをくるくると回してみると、うっすらと名前が書かれているのを見つけた。


『…あいざわ…。…どっかで聞いたな…。』


古ぼけたハーモニカには、小さく“相澤”と書かれていた。律儀に自分の持ち物に名前を書く、真面目な人物のようだ。しかし、このハーモニカの持ち主が分かった所で、その人物がどこに住んでいるのかまでは分からないし、届けてあげる事も出来ない。置いておいたままの方がいいのだろうか…奈々はしばらく考えて、急に記憶が鮮明になって顔を上げた。


『…あっ、伊吹さんが言ってたガリ勉の人、確か相澤って人だったかも…。』


それならとりあえず持って帰って、伊吹に事情を話して届けてあげるなりすればいいかもしれない。もっとも、奈々の苦手なタイプらしいから、届ける役目は伊吹にお願いするつもりなのだが。奈々はそのハーモニカを適当に鞄の中に放って立ち上がり、大きく1つ伸びをした。とても気持ちのいい、穏やかな春風が吹くこの桜景色の山も、もう少ししたら桜色を忘れるように緑一色になってしまうのか…。そんな寂しさが、奈々の頭をよぎった。



❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.



奈々が“相澤”という人物と会ったのは、それから数日後の夕方の事だった。

伊吹に事情を話した所、「会った時に伝えておく。」と言われたので、いつかこのアトリエに取りにくるだろうとは思っていたが、伊吹の留守中に来るというのは予想外の出来事であった。

その日、奈々はアトリエで伊吹が持っている画集を見てのんびりと過ごしていた。いつかもあったように思えるこの光景は、どこか懐かしくさえ思えた。

厚い画集のちょうど半分ぐらい…奈々が好きな【後期印象派】の画家のページに差し掛かった時だっただろうか、軽く扉をノックする音が聞こえて、奈々はハッとして息をひそめた。家主がいない時に、勝手に出てもいいのだろうか。出来る事なら自分の存在はあまり多くの人に知られたくないというのが奈々の本心だった。いつ墓穴を掘るか分からないし、どこまで嘘が付きとおせるのかも分からないからだ。知らない事だらけのこの時代で、どこまで嘘で逃げきれるか…それは奈々にとって大きな問題であった。

もう1度、ノックの音が響く。振動でガラスが微動する音が、余計に緊張の糸を刺激する。奈々は恐る恐る玄関を覗き込んでみた。影だけ見れば、少し背の高い男性だという事ぐらいしか分からない。もしかしたら、龍二なのではないか…奈々はそう思って、そろそろと扉に近づき音をひそめるようにゆっくりと扉を開けた。


『…はい…。』


ゆっくりと覗き込んだ奈々の目に飛び込んできたのは、仏頂面という言葉がぴったりなほど無表情の男性だった。しまった…龍二ではない…そう思ってももう遅い。半分近く開けてしまった扉を閉めるわけにはいかず、奈々はそのまま固まってしまった。


『…相澤と言う者ですが、落し物を拾っていただいたと聞いたので。』


こちらを観察するかのような不自然な間の後で、彼は表情1つ変えずに手短に用件を伝えた。伊吹に言われて想像した、【ガリ勉で学級委員のようなタイプ】ではない。簡単に言えば、バリトンボイスとも言える低めの声をした侍のような印象の人物だ。相手をまっすぐに見つめる瞳は、ぶれる事を知らない一刀のような鋭さがあり、つい怖気づいてしまいそうになる。


『…えーっと…落し物…?』


『…。』


扉を両手で掴んで顔だけちょこんと覗かせた奈々は、先日拾ったハーモニカを思い出してピンと来たようだった。確か、あのハーモニカに書かれていた名前は【相澤】だ。


『…あ、あのハーモニカね。ちょっと待っててください。』


瞬間、彼の眉間がぴくっと微かに動いた。奈々はそんな事には気付きもせず、足早にアトリエの中に入って、印象派の画家ルノアールの代表作である【花瓶の花】の絵の模写の横に置かれたハーモニカを手に取った。とにかく、早く帰ってもらおう…そんな気持ちが奈々の心を急かした。学級委員もさることながら、あんな堅物なタイプは苦手の域を優に超えている。会話も続かないであろうし面白みもないし、出来れば関わり合いたくないタイプだ。ハーモニカを片手に玄関に戻った奈々は、半分だけ開いた玄関の扉から見える彼の険しい顔にびくっとしながらも、平静を装って彼にハーモニカを手渡した。彼は少しの間、手渡されたハーモニカを見つめて、そしてまた威嚇にも似た目で奈々を見ている。奈々は一体どうこの場を乗り切ればいいのかと額に汗をにじませた。重苦しいと言うか、何を言われるかが分からないピリピリした緊張感が漂っている。


『…君が伊吹さんの親戚だとか言う人か。話は友人から聞いている。』


『…はぁ…。松下 奈々です…よろしく…。』


『…俺の名は、相澤 (つるぎ)。…ところで…。』


『…?』


『君は“これ”を吹けるか?』


話題に乏しそうな侍が、半ば強引な話しの展開を迫ってきたせいで、奈々は逆に警戒して剣を見た。剣の表情からして冗談ではなさそうだし、会話を楽しもうという気もなさそうだ。とりあえず、無難な返事を返してこの場はお帰りいただこうか…奈々はそう思った。


『…いや…ハーモニカは分からない…。どこがドでどこがソなのかも分からないし。難しいよね。』


『…そうだな…。』


気のせいか…言葉とは裏腹に剣の目つきが険しくなったような気配を感じた。おかしな事は言っていないはずだ…奈々は何度も自分が言ったセリフを頭の中で反復させながら、剣の次の言葉に警戒していた。しかし、剣は何かを納得したように軽く頷いた。…納得してもらえたのだろうか?


『あら、剣くんも来ていたのね。』


直後に聞こえた伊吹の声は、天からの助け船にさえ思えた。穏やかな雰囲気は張り詰めていた緊張の糸をほぐし、奈々に安らぎを与えてくれたようだった。よかった…これで誤魔化せる…そんな安心感が、奈々の表情を和らげた。


『…もう洗濯物流されたりしてへんか?』


伊吹の後ろから、人懐っこい関西弁と、落ち着いた穏やかな声が聞こえる。すぐに姿を見せたのは、雪斗と光だった。確か、剣とも2人は友達なはずだ。友達がくれば、きっと険悪な雰囲気にもならないだろう…奈々は一気に味方が増えた気がしてますます安堵の表情を浮かべた。そんな奈々の様子に伊吹も気付いたようで、首を少し傾けて微笑んだ。


『ちょうどそこで、雪斗くんと光くんに会ってね、奈々ちゃんの話になったのよ。せっかくだから、お茶でも飲んで行ってもらおうかと思って。』


伊吹の声と雰囲気は、この時代も変わらずにその場の雰囲気を和ませる作用があるのだと、奈々は実感した。彼女がいなかったら、この時代では四面楚歌だ。そう考えると、伊吹の助言やフォローは有り難い事であった。

雪斗と光は冗談交じりに話をしながら、伊吹のアトリエに入っていった。剣はそんな2人にも笑顔は見せず、まだ警戒心に満ちた表情をして扉の所に立っている。奈々は、何とか気楽に話せる2人と話すようにすればいいかと安易な考えを浮かべていた。小難しい剣の相手は、友達である雪斗と光、そして伊吹に任せておけば大丈夫…そう高をくくって剣に背を向けてアトリエに上がった、その時だった。


『…伊吹さんの親戚との事だが…それは嘘だろう?』


頭に電流が流れたように全身がしびれるのを、奈々は感じた。背後から刃のような険しい視線が突き刺さるのを感じる。この時ばかりは、伊吹も驚愕の表情を浮かべているようだった。雪斗と光は何が何だか分からないと言うように、奈々と剣を交互に見ている。


『…えっ…何で…。』


ここまで言葉が出ないのは初めてだった。恐怖にも似た感覚が脳内を麻痺させて、言語をも支配しているようだ。奈々はただ後ろを振り返って、微かに震えながら剣を見つめた。


『…何者なのかは知らないが、今外来語は禁止されている。この楽器の名は“口琴(こうきん)”、音階も“はにほへといろは”だ。…日本国民であるならば、知らないわけはないと思うが。』


まさか、あの何気ない会話がすべて罠だったなんて…奈々は愕然とした。要注意人物だとは聞いていたものの、こんな狡猾で疑心の強い人物だとは思わなかったし、計算外であった。自分の安易な嘘が、通用しないどころか逆手に取られてしまうなんて…。


『…髪の色や形にしても話し方にしても、どうにもこの国の者とは思えないのだが…。』


『…いやっ…そんな事はないと思いますけど…。』


『ならば、簡単な質問に答えてもらおうか。…今の総理大臣の名は?』


暑いわけでもないのに、尋常じゃない汗が額ににじむ。この時代の総理大臣の名…そんなもの、知るはずがない。おそらく授業で習うはずの事なのであろうが、奈々はまったく知らなかった。名前の1文字目すらも思い浮かばない。それに、気の利いた言い訳さえも浮かんではこない。


『…あの…あれ…名前、ド忘れしちゃって…。』


苦し紛れにそう言った奈々の精一杯の笑顔はきっと、想像以上に引きつっていた事だろう。逃げ場がなくなって追いつめられていく…。そうか、だから伊吹は“気をつけろ”と言っていたのだ。相澤 剣は、“要注意人物”だと。


『…それならば、海の九軍神とはどのような方々の事を言うか。これは先日新聞にも載った事だ。ド忘れしたとは言わせない。』


万事休すとは、こういう事を言うのだ。“九軍神”なんて言葉、今まで聞いた事などない。念入りに読んだはずの教科書にさえ書いてはいなかったから、授業ですら習う事柄ではないはずだ。奈々の脳裏に、“諦め”の2文字が何度も浮かんだ。もう、逃げ切れる道さえも閉ざされてしまったような気がして…。


『…剣くん、今はいいじゃない?そんな難しい話しは。せっかくだし…』


『伊吹さん、貴女にこんな事は言いたくはないが、身元不明の怪しい人物をかくまっていたとなれば、貴女も無事では済まされない。せめて、この者の正体をはっきりさせた方がよかろう。それとも、貴女はそれを知っていてここに置いているのですか?』


さすがの伊吹も、フォローのしようがないらしく困った顔をして俯いてしまった。どこまでもまっすぐな目をして言葉を突き付ける剣が抱くその自信はどこから湧いてくるのかは分からない。しいていうならば正義感が成せる技とでも言えるだろうか。

奈々はしばらく唇を噛みしめて考えて、そして確信した。この帝国軍人を絵に描いたような剣の前で、嘘を突き通すのは不可能だと。有能な検事の前に無知のまま立ちはだかって喰らい付く、往生際の悪い容疑者のようなものだ。

でも…嘘をついてこの時代に溶け込もうとしようが、真実を言おうが、疑わしき者だというのは明白な事となってしまうだろう。なにせ、証拠も何もない。「未来から来ました。」という見苦しい言い訳のような事を証明する事など出来ない。逃げ道どころか、1歩も動けない状況だというのは奈々でも分かった。


『…嘘ではないよ…伊吹さんの親戚だっていうのはね…。ただ…信じてもらえないと思ったから、あえて遠い親戚って事にしようとしただけ…。』


『…ほう…。ならば、どういう関係にあたるのか、説明してもらおうか。』


緊迫した空気の中で、伊吹は不安そうな表情をして奈々を見つめている。雪斗と光の2人は、ただ事の成り行きを見守るしか出来ずにその場に立ち尽くしている。

本当の事を言えば、最悪警察に突き出されるぐらいの事はあるかもしれない。場合によっては殺されるのではないか…奈々の頭に、最悪の想像が浮かんだ。でも、もしかしたらその最悪な状況こそが、この時代を抜け出す突破口になるかもしれない。理論的に考えて、この時代に“生きているはずのない”存在が、“死ぬ”事など出来るわけがないのだから…。奈々はそんな机上の空論だけを胸に、決心したように凛とした目で剣を見て言った。


『…あたしは…伊吹さんの孫だよ…。』


『…孫だと?伊吹さんはまだ…』


『知ってるよ。まだ未婚で子供もいないのに、孫がいるはずはないって言いたいんでしょ?』


『…。』


『伊吹さんに、孫はいる。…2020年ではね。』


一気に空気が張り詰めて、自分に冷ややかな視線が突き刺さるのを感じた。自分でも、意味不明な事を言っているのはよくわかる。雪斗も光も、そして目の前にいる剣も、呆気にとられたような表情をしている事など容易に理解出来る。そしてその呆気にとられたような表情が疑いに変わるのに、そう時間はかからなかった。


『…2020年…?』


『あたしがいた時代だよ。だから…あたしは今この時代に何が起きてるのか、さっぱり訳が分からない。』


『…正気か…?そんな事、あるはずがないだろう。』


『正気だよ。あたしだって信じられないよ。あるはずがない事でも、実際にそうなんだからしょうがないでしょ?』


『…まさか…。』


『あたしの家には、伊吹さんが描いてるあの絵が完成されて飾られてる。あの絵の完成した色合いも、何ていう先生に習ったのかも、おばあちゃんに聞いたから知ってる。だから伊吹さんは、あたしが未来の孫だって信じてくれたんだよ。知らないはずの事を知ってたから。』


『…それならば、俺たちにも証拠を見せてみろ。』


開き直ったように強気に出た奈々だったが、ここで脆くも行き詰ってしまった。そう、剣に納得してもらえるであろう証拠など、どこにもないからだ。それがどこか悟られているのか、剣は動揺したそぶりも見せずに冷静に返答を待っている。奈々は感情を誤魔化す事など出来ない。どうしても顔に出てしまう。おそらく剣にはもう見破られているのだろう。証明する手立てなどない事を…。

一瞬、あの教科書を見せてみようかとも思った。あれはこの時代では預言書だ。見せれば効果はあるかもしれない。でも、1冊しかない教科書だ。「偽造されたものだ。」と言われたら否定する材料はない。まして、あの教科書には第二次世界大戦の結末が書かれている。そう、“敗戦”と…。過敏になりすぎて、外来語さえも排除しようと躍起になっているご時世だ…預言書を偽造した挙げ句、そんな不謹慎な事が書かれていると言い切られてしまったら、火に油を注ぐようなものだ。この帝国軍人は烈火のごとく怒るに違いない。教科書は避けた方がいいだろう。だとしたら、奈々が持っている物で未来を証明出来る物…奈々の頭のギアはめまぐるしく回転して、持ち物すべてをスキャンした。携帯電話なんてものは、逆に精密機械すぎて怪しまれるかもしれないし、ハンドクリームなんて役に立ちそうもない。偽造出来ない物で、未来を証明出来る物は…。


「…偽造…?」


奈々の脳裏に、1つだけ証明出来るかもしれない物が浮かんだ。もう、これしかない…。逆に考えれば、現代でも国家機関しか作る事が出来ない特殊な方法で作られるため、精巧な偽造など出来ず、そして時代を明確にしてくれるものだ。これなら証明出来る…。奈々は急に自分の鞄を手に取って、中から桜の柄の黒い財布を取り出した。何をするのかと警戒する雰囲気が辺りに満ちていく。奈々はその財布の中からありったけのお札と小銭を取り出して、側にあったテーブルに置いた。


『…それ、よく見てみ。』


『…何だこれは…?』


『お金だよ。この時代のものとは違うかもしれないけどね。1万円札と5千円札と千円札…ちゃんと“透かし”があるでしょ?それに、小銭の方にはいつ作られたのかも書いてある。全部、未来の年数になってるはずだよ。』


『…平成…?』


『平成29年…ちょっと前のものだけど、平成はあたしがいた時代。もちろん、“透かし”が簡単に偽造出来るものじゃないって事も、知ってるよね?』


剣は初めて、驚愕の表情を浮かべて散らばった金銭を手にとって隅々まで見ていた。これで何とか形勢逆転か…奈々はそう思って、少しだけ安堵の表情を浮かべてため息をついた。その時、ずっと黙っていた光が沈黙を破って大きな声をあげてお札を手に取った。


『1万円!?あんた、何でそんな大金持ってんねん!?』


『…大金?』


『…こんなもん、簡単に手に入るもんちゃうやろ!?』


『…いや…ちょうどお給料おろしたばっかりだから…たまたま…。』


『給料!?何の仕事したらこんなに稼げんねんな!』


奈々は何だか拍子抜けしてしまった。深刻に金銭の隅々まで調べている剣の横で、まるで話を聞いていなかったかのような光のそんな発言だ。一瞬呆気に取られてしまった。それに、光の言っている事の意味がよく分からない。奈々はたまたまバイト代をおろしたばっかりで、それが財布の中に入っていただけだ。高校生がアルバイトして稼げる金額なんてたかが知れている。まあ、携帯代の支払いさえすれば、あとは自分のお小遣いとして自由に使えはするが、そんな大金持ちというわけではない。


『…いや…そんな大金持ちっていうわけじゃないけど…。』


『アホか!大富豪やんけ!』


『…大富豪…?…マジで!?』


まだ高校生なのにも関わらず、この時代ではバイト代で大富豪にまでなれてしまうらしい。ということは、この時代の金銭感覚は現代とは全く違うはずだ。奈々は試しに光に尋ねた。


『あのさ、この時代のお給料って月だいたいいくらぐらい?』


『せやなぁ…。稼げてもせいぜい50円ぐらいちゃうか?』


『50円!?たったの!?』


奈々は驚愕のあまり、ついつい思った事をそのまま口に出してしまった。給料がワンコインだったとは驚きだ。現代だったら50円じゃ何も出来やしない。とすると、1万円を持っているなんてとんでもない大富豪だと思われても仕方ないのかもしれない。この金銭感覚のズレは、奈々にとっては予想外の事であった。


『一応説明しておくけど、あたしがいた“平成”ではね、普通の会社員でお給料はだいたい月20万いくかどうかぐらいなの。だから、あたしはお金持ちっていうわけじゃないんだ。』


『えぇなぁ~。1度でええからそんなお金手にしてみたいもんやわ。』


そう言って、お札を嬉しそうに見る光のおかげで、緊迫した状況だけは脱出出来たようだ。ある意味、お調子者の存在は時として非常に重要な役割を持つ。奈々はやっと緊張が解けて、少しだけ笑う事が出来た。


『…なぁ…でもこのお金、変ちゃう?』


『…えっ、どこが?』


『何で字が全部、逆向きで書いてあんねん。』


『…えっ、左から読むものなんじゃないの?』


『いや、右からやで?』


そう言えば、昔の雑誌だとか看板だとかは全部字が右から読むようになっていたような気がする。なるほど、文字の読み方さえもこの時代は現代とは違うのだ。奈々は何だか不思議な感覚になってきた。70年前を生きる人たちに、70年後の事を教えているなんて、おかしな話だ。この時代で、自分は本当に生きているのかどうかさえもあやふやな気がしてきてしまう。奈々はぼんやりと考え込んで、難しい顔をして立ちつくしていた。今この瞬間、本当に自分はこの場所に立っているのだろうか?


『…なるほどな。実に面白いものを見せてもらった。』


剣は一通り金銭を調べ終わると、またあの威圧的な表情を浮かべて奈々を見据えた。奈々はぼんやりとした感覚を残したまま、黙って剣の言葉を待った。


『確かに、透かしがあるのも確認した。これは一般人では作る事の出来ないものであろう。しかし、これが“敵軍”の国家機関で作られたものだとしたらどうだ?』


『…はぁっ?』


『敵軍の国家機関であれば、このようなものを作るのはたやすいのではないか?国の紙幣を作るのだから。』


『…あたしみたいな小娘が、敵だって言いたいの?』


『その可能性がないとは言い切れんだろう?』


剣の言っている事はもっともだった。普通よりも少し明るい髪をした奈々の事を、そう疑うのは無理もない。まして、これだけ過敏にならざるを得ないご時世だ。怪しい者がいれば、真っ先にそう考えるのも頷ける気がする。さすがに、自分が敵軍ではない事を証明する事は出来ない…奈々はそう確信した。さあどうする…万事休すか…そう思った時、ずっと沈黙を守っていた伊吹が口を開いた。


『剣くん、疑うのも無理はないと思うけど、ここは私を信用してもらえないかしら?私は仮にも、裁判官の娘よ。この国の司法を扱う者として、敵軍をかくまうなんて愚かな真似はしないわ。』


ふいに目をやった時に視界に映った伊吹の顔は、真剣そのものだった。ああ、確か祖母の父親は裁判官だったんだと、いつか祖母が話してくれた気がする。山口県萩市の、有名な名家の1人娘。裁判官である父親が溺愛していたお嬢様。それが、奈々が知る伊吹の正体だ。父親に似たのか、それとも幼い時に病死している母親に似たのか、誇り高く頭の回転が速い。弁論の腕が優れているのも、きっとそのせいなのだろう。


『…分かりました。貴女に免じて、とりあえず怪しい者ではないという事にしておきましょう。』


ここは、さすがの剣も折れたようだった。伊吹の言っている事は確かに納得が出来るからだろうし、それに身分の事も付け加えればこれほど説得力のある言葉はない。奈々はやっと全身から力が抜けた気がして、大きくため息をついた。剣はそんな奈々を横目に見ながら


『覚えておけ。君を信じたわけではない。…それでは失礼する。』


そう言葉を残して踵を返して去って行った。奈々はそれが気に食わなかったのか、ムッとして小さく呟いた。


『…何だ、あいつ…。』



❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.



その夜、奈々はお風呂の薪をくべる手伝いをしながら、ぼんやりと星空を眺めていた。伊吹の家は、裕福だからかちゃんとお風呂がついていて、それは奈々にとって有り難い事であった。他人の家にお風呂を借りに行って、ドロドロの残り湯で体を洗うなんて事は絶対に嫌だからだ。伊吹のおかげできれいなお湯に浸かれるのは有り難い事だが、こうして近所の人がお風呂を借りに来た時は奈々がすすんで手伝いをするようにした。お世話になっているせめてもの恩返しだ。

あれから、剣と奈々の言い争いのせいで居心地が悪くなってしまったからなのか、雪斗と光はそそくさと帰ってしまった。奈々は伊吹に謝ろうとしたが、伊吹は笑いながら事が落ち着いた事を喜んでいた。


“一時はどうなる事かと思ったけど、何とかなってよかったわ。切羽詰まると、人って意外に気の利いた事を言えるものね。”


そう笑いながらお茶を入れる伊吹を見るたび、奈々は現代に生きているであろう祖母に会いたくなった。度胸が据わっているのは、この頃からなのだと妙に親しみがわいたからだろうか?


『…今日は疲れたなあ…。』


奈々は小さめの薪をポイッとくべて、ため息交じりに星空を仰いだ。こんなに星が明るいものだったなんて、今までは気付かなかったかもしれない。闇を忘れてしまったような現代の夜が、どこか懐かしいものにさえ思った。夜はこんなにも暗いものだったのだ。


『おっ、おったおった!大富豪が風呂焚きかぁ?』


聞きなれた関西弁に振り返ると、そこにはタオルを首にかけて笑いながらこちらに近づく光の姿があった。瞬くネオンも眩しい街灯の光もない闇夜ではあったが、お風呂場の光でようやく姿が見えた。


『…大富豪じゃないってば。何してんの?』


『あぁ、風呂借りてん。おおきにな。』


『あたしの家じゃないけどね。』


奈々はまだ虫の居所が悪いようで、半分ふてくされたように枝で薪を小突いてみたりしている。光はそんな奈々の横に座って奈々のふてくされた横顔を見ると、大袈裟に驚いて声をあげた。


『なんちゅう顔してんねん!何かおもんない事でもあったんか?』


『…あんた、その場にいたでしょ!?』


すっとぼけた光の発言に、奈々も思わず上ずった声をあげてしまう。どこまでお調子者なのだろう?奈々はそう思って小さくため息をついた。


『何や、まだ怒っとったんか。』


『…怒るよ!何なの?あんたの友達の、あのサムライ気取りの奴。マジむかつく。』


『剣かぁ?』


奈々は先ほどのひと悶着を思い出して、ますますふてくされて手元にある枝を勢いよく折って炎の中に放った。


『剣なぁ、剣道めっちゃ強いねんで。』


『…はぁっ?』


『あいつ、剣道部の主将やねん。強いで~竹刀持ったら。』


『…だから…何?』


『ほんまやって!剣のおとんが剣道やっとってな、それであいつも小さい頃からやっててん。名前の由来も、そのまま【剣】から来とるからなぁ。』


奈々は唖然とした顔で光を見た。確か、さっきあの場に光もいたはずなのだが…何でこんなに呑気な事を言っているのだろう?あんな緊迫した状況を見ていながら、そんな話を振ってくる光の真意が分からなくて、奈々は訝しげな顔をして言った。


『ちょっと、あいつの素性なんかどうでもいいし!知りたくないし!』


『まぁまぁ、そないに怒る事ないやんか。あいつはちょっと堅物な所はあるけど、根は良い奴やねんで?』


『…どこがだよ…。』


『似とると思うけどな?大富豪と剣は。』


『だから、その呼び方やめてよ。しかも、あんなのと似てるとか、やめてくれる?』


『お互い、頑固やねんもん。いや~初めて見たわ!あの剣に盾突く女がおったとは。』


そう言うと、光は先ほどの出来事を思い出してゲラゲラと機嫌良く笑いだした。奈々は相変わらず、訝しげな顔をして光を見ている。一体、どこまで呑気なお調子者なのだろう?ある意味、人と目の付け所が違う個性的な人なのかもしれないが。


『…っていうかさ…あんたはあたしを疑わないの?』


『えっ?何で疑わなあかんの?』


『さっきの話、聞いてたでしょ!?あたしはこの時代の人じゃないんだよ?2020年から来たんだよ?そんな嘘みたいな話、信じてくれるの?』


『…嘘みたいな嘘付く人って、あんまおらんやろ?』


『…えっ?』


『もしかしたら、そういう事もあるかも分からんやん。ないとも言い切れんし。』


『…まぁ…そういう事がありえない証拠もないけどさ…。』


どうも光の言動には、拍子抜けしてしまう事が多いような気がする。奈々は何だかふてくされてるのもバカバカしくなって、ふと星空を仰いだ。この時代の空はこんなにも広くて近い。手を伸ばせば届きそうな気がした。


『…あの山のてっぺんにある一本桜の下にいたらね、すごく強い風が吹いて、桜吹雪で辺りが桃色になってね。気が付いたら、この時代に来てたの。』


『ほぉ~。』


『そこで、あの雪斗って子に会ってさ。それからは何だかよく分からないうちに、こんな事になってて。』


『…ほんなら、俺があの桜の木の下におったら、2020年に行けるかも分からんねや?』


『…まぁ、ないとは言い切れないよね。』


『そう考えた方が、おもろいやん。』


そう言ってケラケラと笑う光を見ていると、自分がすごく小さく些細な事で悩んでいたような気がして、奈々は気を抜いて笑った。自分が塗り固めた嘘に怯える事も、どうにもならない事を考えて悩む事も、何だかどうでもよくなってきてしまった。おそらく、光のこの大らかさはそういう作用があるのだろう。


『…この時代にも、部活ってあるんだね。』


『おう。射撃部とか相撲部とか、色々あんで。あんたも部活やってたんか?』


『あたし?あたしは帰宅部。』


『…きたく部?何やそれ?』


『学校が終わったら、すぐに“帰宅”する部。』


それを聞いた光は少し考えるように間をおいて、奈々の言っている事を理解した途端に腹を抱えるように笑いだした。この時代には、帰宅部なんて言い方はしないのだろう。ただ単なる“無所属”なだけだ。それでも、光の笑いようを見ていると自然と奈々の表情も緩んで、笑いがこみあげてきて2人でケラケラと笑った。


『大富豪、おもろい奴やな!』


『だから、大富豪って呼ぶのやめてってば!』


『ほんなら、俺があだ名付けたるわ。…せやな、【さくら】ってあだ名に決めた!』


『…あたしの名前は【奈々】なんだけど…。』


『細かい事はえぇやんか!桜が好きなんやろ?』


『…まぁね。』


『ほんなら決まり。桜が好きで、あの一本桜の下におった人やから“さくら”な。』


光はさもご機嫌そうに、子供のように無邪気な笑顔を浮かべて笑っている。光は悪い人ではなさそうだし、この調子ならきっと仲良くなれるはず…奈々はそんな期待にも似た思いを浮かべて、薪を1つくべて手をはたくと、何かをふっ切ったような笑顔を向けた。


『じゃああたしもあだ名つけてあげる。…光くんだと呼びにくいから、別の読み方して“(こう)ちゃん”って呼ぶよ。』


『おっ、今まで呼ばれた事ない名前や。気に入った!』


光はそう言うと、子供のように無邪気な笑顔を浮かべて喜んだ。白い歯を見せて太陽のように笑う光を見ていると、何だか気持ちが和むような気がする。この時代に来て数日、奈々は1度も気を抜いた事などないような気がしていたのだ。無理もないかもしれない。真っ暗で何も見えないこの時代の中で、手探りで生きていくにはそれ相応の精神力が必要だった。そう考えてみれば、疑う事を知らない素直な光の存在は、名前の通りこの時代の“光”だと思った。


『なぁ、さくらは毎日あの桜の木の下におるん?』


『うん。あそこにいたら、何かのはずみで帰れるかもしれないし…。それに、あそこの桜を見るのは前から好きなんだ。』


『そうなんや。俺らもよぉあの場所に行くねん。会ったら遊んだりしよな!』


『うん。ありがとう。』


この時代で見せる、奈々の気の緩んだ笑顔に、光は笑いながら手を振って去って行った。伊吹と光…たった2人しかいない味方かもしれないが、奈々にとっては2人でも心強い。光という呑気な理解者が増えただけでも、奈々にとっては百人力であった。

見上げた夜空には三日月がぶら下がっていて、その周りには無数の星がきらめいている。その中の1つが零れ落ちたかのように、奈々の頭上に1枚の桜の花びらがひらひらと落ちてきて、ちょうど奈々の肩の上に柔らかく乗った。それは、あの1本桜から届く、桜の季節の終わりを告げるかのような、寂しい余韻を残す足跡だった。


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