閉じた世界に窓1つ
—————俺は子供の頃、あの丸い月がとても好きだった。
月は、昼の間はそっと人々を見守って、夜にはまるで、舞台の主役のように輝いている。
そんな、あたたかい月が好きだった。
そのことを、昔、ミヨさんに話したことがある。
俺は少し、馬鹿げていると自分でも思いながら、そんな子供の話をしていた。
ミヨさんは、そんな夢見がちな子供の話を楽しそうに、まるで、自分のことのように、幸せそうな笑みを浮かべて、聞いてくれていた。
頬杖をつきながら、うんうんと相槌をうって、真面目に聞いてくれていた。
「一回でいいから、月に触ってみたいなぁ・・・」
この際だからと、俺は突拍子もないことを呟いてみた。
別に、わがままとかではなく、それこそ、純粋な子供の夢を語ってみただけ。
『なんで、こんなに腕を伸ばしても届かないんだろう』
あの当時は、そんな素朴な疑問に答えを見つけようと、色々、空想を膨らませていたものだ。
なけなしのお小遣いをはたいて、うんと長いリールの釣竿を造ったり、ずっと遠くまで飛ぶラジコンを買っては改造してみたり。
好奇心に胸を躍らせては、またダメだったと落ち込んで、何かと忙しい少年時代だった気がする。
すると、ミヨさんはクリクリした丸い瞳を大きく見開き、一瞬、びっくりした、とでも言うような、少し間抜けそうな顔をしてみせた。
そして、またすぐにいつもの、あの可愛らしくて眩しい笑顔でこう言った。
「じゃあ、アタシがそれ、叶えてあげる」
そう言って、ニカっと覗かせた丈夫そうな白い歯を、俺は今でもはっきりと覚えている。
今度は逆に、俺の方が信じられない、といった拍子抜けな態度でミヨさんの顔を見上げた。
そんな俺の心情をいち早く察したのか、彼女は目いっぱいに俺の脇腹やらをくすぐってきた。
ケタケタと笑い転げる俺は、涙目になりながら、多分、すごく幸せだな、とどこか俯瞰的な、子供らしさが欠如してしまったかのような、少し達観したようなことを思っていた。
「あんた、本当にこどもなの~?」
ミヨさんはそう言いながら、俺をくすぐる手を止めて可笑しそうに笑い続けた。
「えっ・・・。確かにもう11歳だけど・・・、まだ子供だよ!・・・多分」
子供と大人の境目って、一体何なんだろう。
ミヨさんに聞かれて、ふと考えた。
皆、生まれた瞬間から年を取って、最後は死んでいく。
このことに間違いはないはずだけど。
皆が皆、同じように年を取るわけじゃない。それぞれの暮らし方や考え方1つで、重ねる年の重みが変わるのかな。
なんて、とりとめのないことばかりが、頭の中をよぎった。
「人って、いくつ年を重ねれば大人になった、っていうのかしらね・・・」
「ミヨさんは、大人じゃないの・・・?」
俺はじーっと、ミヨさんの瞳を見つめた。
そうしていると、ミヨさんの透き通るような青い眼に映り込む、小さな俺の姿があった。
でも、あんまりじっと見つめると、それがなんだが、吸い込まれるようで少し怖かった記憶がある。
「アタシは大人よ。あんたに比べれば、立派な大人の女性よ?」
高らかに語る彼女は、胸を張って僕にきらっと、ウィンクをよこした。
「そっかぁ・・・。じゃ、じゃあ!僕も大人になったら月に行けるの!?」
「えっ・・・?」
「だって、だってそうでしょ?ミヨさんは立派な大人だから、月に住んでるんでしょ・・・!?・・・ち、がうの・・・?」
あぁ、無知なヘレニックよ———、無知なかつての俺————。
立派な大人になれても、お前は月には行けないよ。
今に行ってみろ。そんな小さな体じゃ、どうやってもすぐにかき消されてしまうよ。
ミヨさんは、無邪気なこの子供になんて答えたらいいのか、迷っているようだった。
そして、彼女は何かいい名案を思い付いたと言わんばかりの勢いで、俺の右手に自身の左手を重ねって言った。
「だいじょーぶ!アタシが持ってきてあげるわよ!」
「億万の数に飛び散った月くずを、へったくそな感じで繋ぎ直して、送り付けてあげるわ!」
「パール・ブルー」に住む人間は、宇宙を超えて月に行くことはできない。
そのことを知ったのは、俺がもう少し大きくなった後のことだった。
「それがアタシからの、あんたに対しての、せーーーーーーーーいっぱいの、愛のカタチってやつだからね!」
だからこそ。
このときの俺は何も知らなかったから、幸せな夢の中で、彼女との約束を待っていられたんだ。
「分かった・・・。じゃあ、待ってるね!ミヨさんが月を持ってきてくれるの、僕はちゃんと待ってるね!」
————それからというもの、ミヨさんが月に帰った後は、毎日欠かさず手紙が届いた。
あれだけ楽しかったはずの二人の時間が過ぎてしまった今。まるで、あのとき交わした言葉も約束も、全てが夢幻に思えた。
届く手紙の数が、いやに恐ろしく思えたせいか、俺はすっかり忘れてしまっていたようだった。
そうやって、届けられる手紙の置き場に困り果てていたころ、彼女は再びやって来た。
あれから10年後、いつもの月の落下に合わせて、月からオートバイで向かってきた。
そのとき、近づいてくるまで気付かなかったけれど。
彼女は確かに、持ってきていた————
オートバイの後ろに、無理やり牽引ロープを巻き付けて、あの頃の約束を果たしにやって来た。
「久しぶりーー!ヘレニーーーーーック!!」
真夜中の星空を見上げたとき、まるで、大海原を駆けてくる純白に包まれた姿は、俺にとっては、つい見とれてしまうようなものだった。
「持ってきたよーーーー!!」
そう言って、僕に見せるように空中をオートバイで一周して、それ(・・)を確かめさせた。
「きれー・・・」
言葉を失った。
あの日、約束したミヨさんからのプレゼント———「月」がそこにあった。
「ヘレニーーーック!あーいしてるよーーーー!」
一切照れることなく、彼女は、家の窓からのぞく俺に向かって大きく手を振ってみせた。
その月は、いかにもって風なツギハギだらけでちょっと歪んでいた。
けれど、その月は目を疑うほど、今までに見たことがないくらい、瞬いていた。
ずっと向こうにある本物の月より、ずっと小さい。
それにも関わらず、こちらに向かってくるその小さな月はだんだん大きくなって、あっという間に夜空を隠してしまった。
ふわっと。
気が付いたら、いつの間にか彼女は家の窓際まで来ていて、俺は目が合った。
「はい!触ってみて!」
そう言って、ぐるぐる巻きにされたロープをほどくなり、両手でそれをガシッと抱えて、俺の目の前に差し出した。
俺はじっと見つめて、静かにそっと手を伸ばした。
ひた—————
「あぁ・・・」
案外、冷たくはなかった。
第一印象は、思いのほかあっさりしていた気がする。
「・・・月って、光ってるけどやっぱり、ちょっと冷たいのかな・・・って思ってた・・・でも————」
————あたたかい。
剥がれた月の表皮でも、こんなにも、優しくてあたたかい。
かすかに鼻先をくすぐったこの匂いは、今までに嗅いだことのない、透き通った感じがした。
「月はね、あんたたちが思ってるより、けっこー、燃えてんのよ?」
彼女も、同じように月に触れる。
すると、月はその感触に呼応するかのように、チカチカっと閃いた。
大人になったはずの俺は、今やっと、息を吹き返したのかもしれない。
彼女と再会したことが、子供のまま成長した俺の時計の針を、目まぐるしい勢いで右に回し始めた気がした。
「ミヨさん・・・ありがとう・・・」
俺は、よほど嬉しかったんだと思う。
心の底から、はじけるような音を響かせて、クシャッとした笑顔。
ほろりと、自然に俺の口から出た言葉。
ミヨさんは、そんな俺を見て改まった風もなく、でも、はっきりとこう言った。
「迎えに来たよ、ヘレニック」
俺は、彼女の言葉に返事はできなかった。
何年も待ち続けていてくれた彼女は、そのときの俺を、どう捉えていたんだろう。
彼女は、俺を好きだと言った。
けれど、俺は分からなかった。
彼女と出会って10年経ったけど、あまりにも衝撃的過ぎたあの日から、俺は何も変わっていない。
どれだけ手紙をもらっても、どんなことを話したって。
あの日、幼かった俺には、恋慕の情なんてありもしなかった。
ただ。
一緒に話して過ごした、あの瞬くような日々は、確かにかけがえのない————
今なら、あのときからの不確かな気持ちに、なんて名前を付けるのだろう。
その日の真夜中、彼女と俺は、そんな再会を果たした。
すると、俺たちが触れていた月は、たちまち風化してどこへともなく消え去った。
月の去り際、微塵になった月くずが、優しくそっと俺の頬をかすめた。
『あぁ、宇宙の匂いだったんだ』
そのとき————月が形を完全に失ったとき。
あの透き通るような匂いが、宇宙の匂いだったんだと、俺はそう考えた。
あたかも都合よく、彼女の言うところの————
『ロマンティックじゃないか』
————そんなセリフを使ってみた。
夜空には、満天の星と、剥がれて落下してくる無数の月くず。
降り注ぐ月くずたちも、この星に近づくにつれて、徐々に小さくなっていった。
だから、隕石のように墜落してくることは無い。
まるで儚い。
人々が、10年に一度のこの光景を、「ライトシャワー」と呼んでいる理由が分かった気がする。
今日の星空は、一段と眩しくて。
その命を終える、最後の一瞬まで
—————月は、何度もきらめいていた。
俺は、そんな懐かしくて、目もくらむような、夢を見た。




