どうか固い決意を胸に
『何年経っても変わらないって、案外素敵なことじゃないか』
微睡の中に消えていく君の声が、聞こえたよ———。
ミヨゾティが住む月は、僕ら人間が住む星「パール・ブルー」より、うんと遠い場所にある。宇宙を泳いでいくと、1年くらいかかるのかな。まだ誰も、泳いでいったことは無いみたいだけど。
「ねぇ、ミヨさん。なんでミヨさんは月から来るの?」
このときも、暦の上では、秋だった気がする。まだ、夏がやっと過ぎ去ったぐらいの、少し汗ばむくらいの日々。夕焼け空があまりにも真っ赤に燃えていて、何度も手をかざしては、透き通る血潮をなぞったりしていた。
僕の隣に座る彼女のドレスが汚れないか心配だったけど、「へーき、へーき!」と笑い飛ばす彼女と、何をするでもなく静かな河川敷に座り込んでいるだけの、ある日の夕暮れのこと—————
ミヨゾティと知り合ったばかりの頃、僕は彼女に素朴な疑問を投げかけた。彼女は「うーん・・・」と唸ると、ちょっと小首をかしげて答えた。
「何て言ったらいいんだろうね。そんなの、『なんでミヨさんは月に住んでるの?』って聞いてるのとおんなじだろう?」
そしてまた、「うーん」と腕組みしながら唸って、隣で体育座りしていた僕の肩にそのまま寄りかかってきた。僕はびっくりして、彼女に負けないように力いっぱい肩でミヨゾティを押し返そうとした。けれど、彼女は全然びくともしなくて、僕は完全にミヨゾティになだれるように押し倒された。
僕は、彼女に男のくせに力で負けたことが悔しいからじゃなくて、家族以外の女の人と仲良くじゃれ合ったりしていることが、急になんだか恥ずかしくなった。
そんな僕の心の内を、なんとか彼女に悟られまいと、ひっくり返ったまま空を仰いだ。
「アタシも、なんで月に住んでるのか分かんないんだわ、ずっと」
「えっ?」
僕は意外な返答に驚いて、反射的に体を起こした。
「アタシが生まれる前からきっと、アタシは月に生まれてきますよ~って、誰か決めてたのかもしれないね」
「誰かが、決めてたの・・・?」
彼女の言っている意味が理解できないまま、僕はただ、確かめるように復唱した。
「そう、多分ね。でもって、アタシがあんたと会うことも、そのときもう決められてたのよ!」
楽しそうに話す彼女の瞳がキラキラと輝いていたのは、この頃からだったんだ。いや、彼女に言わせてみれば「アタシの瞳がキラキラしてるのも、きっと誰かがそうであって欲しい!と思ってくれてたからなのね」、といったところなのだろう。
彼女は間髪入れずに続けた。
「ちなみに、あんたが、アタシに会いたい~とか、アタシの目がキラキラしてるといいなぁ~って、思っててくれてたんだって!アタシは、ずーっとそう思ってるの」
今度は珍しく、ミヨゾティがおどけたようにして、はにかんでみせた。
「え・・・ぼ、僕が、思ってたの・・・?」
「そう。ヘレニックのおかげね!」
寝ころんだままの彼女は、僕の顔を見てやっぱり楽しそうに笑うのだ。鏡がなくたって分かるくらいに、僕の顔は今とてつもないくらい真っ赤なのに、彼女はそんなこと気にも留めやしないんだ。
こんなにもどかしいのに、僕はまだ、このむずむずしている気持ちが、若干気持ち悪いという認識しかできていなかった。けれど、大人になった僕なら、この気持ちにしっくりくる名前を付けてくれるのだろうか。
「だからね、ヘレニック———」
ミヨゾティは両腕をふって勢いをつけて起き上がり、はじめと同じように、僕の隣に座り込む。
「———アタシがなんで月に生まれたのかが分かったら、きっと、なんでアタシが月からあんたに会いに来るのかが分かるわ」
そう言って彼女は、くーっと背伸びをして深呼吸をした。
「そっかぁー・・・。じゃあ、分かったら今度教えてね」
答えは出なかったけど、きっとミヨゾティは教えてくれる。根拠のない自信が、なぜだかこんなにも頼もしく思えて、僕も彼女と同じようにはにかんだ。
「んーーー・・・、じゃあさ、なんで月が『パール・ブルー』めがけて、10年に一度落ちてくるか知ってる?」
唐突に、今度は彼女が僕に尋ねてきた。
そう、彼女の住む月―――僕らの星から見える月は、確かに一定の周期で落ちてくるのだ。
「え・・・なんで?」
「ふふん、教えてあげる」
ミヨゾティは得意げに答え始める。
――― 一説によると、正確には月が落ちてくることはないのよ。落ちてくるのは、月の表皮なの。
――― ひょーひ・・・って、なぁに?
――― 月の外側の部分のことよ。いちばーん、外っかわの月が剥がれて落ちてくるらしいのよ。でね、アタシ達みたく、月に住んでる人は、月の表皮が剥がれる年になると、月から出てかなくちゃいけないわけ。
――― え、なんで・・・?
――― だって、剥がれてく月と一緒に、アタシ達も連れてかれちゃうでしょ?
――― う、うん。確かに・・・。
――― で、なんで剥がれるのかっていうのは、月も成長して大きくなるでしょ?だから、元々の大きさでいようとして、外側の古くなった月の表面が剥がれていくのよ。
――― へぇ~、そうだったんだ。
ミヨゾティは、僕に分かるように噛み砕いて、一通りのあらましを語ってくれた。けれど、あくまでもそれは、ただの一説だと彼女は言っていたけれど。
じゃあ、月が落ちてくる本当の理由は何なんだろう?誰が知っているんだろう?
『それも、月ができる前に、誰かがそう決めたのかな・・・?』
ふと、胸のうちに沸き起こった疑問を、僕は口にはしなかった。
「でもさぁ」
ミヨゾティは、もうすぐ見えなくなる遠くの夕陽をぼんやりと、恍惚に眺めながら言った。
「ただただ、月がこの星に恋しちゃってるだけなのかもしれないなー、とかって考えると、なんかさー・・・、かなりロマンティックじゃない?」
彼女の頬を赤く染め上げたのは、きっと夕陽のせいなんだ―――。
でも、それだけじゃないってことに、今の僕は気づけないまま、二人の時間はゆっくりと過ぎていく。
「その真髄はどうであれ―――、何年たっても変わらないって、案外素敵なことじゃないか」
そう言って、どこか満足そうな表情を浮かべるミヨゾティの横顔が、僕にはなぜか、憂いているようにも見えた。けれど、やっぱり僕は、彼女になんと声を掛けたらいいのか分からずに、頷くこともせず、同じように沈んでいく夕陽を眺めていた。
それからすぐに、僕は思い立ったように口を開いた。
「じゃあ。だからミヨさんはこの星に、避難するために来てるってこと?」
それもそうだ。初めて彼女と会った時も、僕が11歳の頃で、その年は月が落ちてきた年。月の落下に合わせて、月に住む彼女は逃げてきたんだ。
きっと、そういうことだったんだと、先ほどのミヨゾティの話を聞いて、僕なりに結論付けてみた。
「えっ・・・うーん。そう、かもしれないわね・・・」
珍しく煮え切らない返答をするミヨゾティが、一体何を考えているのか知りたくて、僕は横目で彼女の顔持ちを窺った。
「でも、きっと、そんなことじゃないのよ」
え?
「そんなことのために、アタシはあんたに会いに来たわけじゃないのよ」
「絶対に、もっと素敵な理由があるのよ」
ひどく寂しげに呟いた彼女の言葉は、独り言だったのか、僕の耳にははっきりと届かなかった。
でも、もしかしたら彼女を、心ならずも傷つけてしまったのかもしれない。そんな不穏な考えが脳裏をよぎって、彼女に謝らなければいけないような気がした。
そうしないと、二度と真っ直ぐな彼女の瞳を直視できないような———そんな直感に襲われた。
それでも———。
臆病で、これっぽちの勇気も持ち合わせていない僕は、やっぱり、彼女に何んの返事もできないまま、彼女の言う「素敵な理由」が何なのかということだけを、必死に考えたのだ。
『ごめんね・・・ミヨさん・・・。きっと、きっと素敵な理由なんだよね・・・』
———僕も今ならそう思うんだ・・・—————
「————・・・おー、目ぇ覚めたかぁ?」
俺の顔を覗き込む、サングラス。現状を理解するのに数秒要したが、問題ない、神父だ。俺が全く動転せずにすんだのは、伊達に毎日教会に通い、アブナそうな神父の顔を拝んでいるわけではない。実際のところ、拝んでもいないが、こんな特徴の塊みたいな神父がいれば、嫌でも忘れる方が難しいだろう。
「あー・・・、あ、神父・・・?」
むくりと、礼拝堂の長椅子に横たわっていた体をゆっくり起こす。地味に、背中をジンジンと鈍い痛みが走る。しばらく横になっていたせいもあるだろうが、この痛みはおそらく————
「あー、ミヨゾティは帰ったぞ」
神父がコーヒーを差し出しながら切り出した。マグカップは人肌ぐらいに温かく、俺が起きるころ合いを見計らって淹れてくれたのだろうか。ズズッと、一口コーヒーをすする。そして、俺の眉間がひくついたことに気が付いた神父は、ニヤリとして
「あー言っとくが、それは歴とした淹れたてだ。インスタントの。そんで、これはシュガーたっぷりcoffeeだ。私好みの」
と、俺の言い分を当ててきた。
嫌みたらしい口調が、神父であることの弊害になっている。そう思うのは、今に始まった話ではない。そうだ、俺の知る神父はあくまでも無粋で、心遣いのかけらもないような男。俺は、何度もこの男のこういうところに、色々と騙されては成長してきたはずなのに。未だに進歩の形跡が見えないのは、悔しいが気のせいではない。
そして、わざと流暢な言い方で主張してきたコーヒーについてだが、俺は断固、ブラック派だ。
「もういいですよ・・・。それより、ミヨさん、もう帰ったんですね」
美味くなくなってしまったコーヒーをちびちびとすすりながら、神父に聞き返す。
「うん、お前が幸せそうに伸び切ってる間に、帰っちゃったよ」
彼は教壇に肘をかけ、本人はいたって至福だとでも言いたげな顔でコーヒーを味わいながら答える。そして、そんな彼のいちいち棘のある言い方に、ツッコむのも面倒になるが————
「幸せそう、は余計です・・・」
「そっ、か・・・。幸せそうじゃなくて、幸せなんだよな、事実。幸せで伸びてたんだよな」
相変わらず大人になれていない僕を、自身でこうも恨むことになるとは。言い返していては、それこそ彼の思うつぼであろうに。神父のクククッと、息を殺しながらほくそ笑む姿に、いい加減腹立たしさを覚えそうにもなるが、そこはぐっとこらえる。
「何でもいいですよ。ほっといて下さい・・・。神父の知るところじゃないでしょ・・・」
ぼそっと吐き捨てるように呟いたつもりだが、彼には聞こえてしまったかもしれない。本当は、こんな無意味なやり取りを繰り返して時間が過ぎていくことが勿体ないぐらいなのだ。
「ミヨさん・・・、今日もやっぱり?」
「そ、やっぱり今日も」
そう言って神父は、上を指差す。上と言っても、この教会の天井———2階にあたる裏部屋のある位置だ。
「でもまぁ・・・、物好きだよねぇ・・・彼女も」
その言葉に、俺は神父の指差す先の裏部屋に視線を移す。
「なーんで、月に帰らんかねぇ・・・。ミヨゾティなら、日帰りで行けない距離じゃ、到底ないだろうになぁ・・・」
あんな狭苦しいとこに住まわせてることが申し訳ねぇな・・・、なんて神父は軽く俯いてみせてはいるが—————。
————とどのつまり、これは俺への当てつけである。
————さっさと返事をしてやれ、という神父の隠れたメッセージなのだ。
何に対する返事かだ?
そんなの、決まってる。
—————彼女が月に帰らずに、ずっとこうして、この町にとどまる理由—————
「はぁ・・・そろそろ、かぁ・・・」
————プロポーズ———
その言葉が頭に浮かぶだけで耳先が熱くなるようでは、いつまでたっても、彼女に返事をすることはできないだろう。
自分が一番よく理解しているからこそ、もっと男を見せないといけないのに。
ミヨゾティはずっと待っているのだ。
幼い頃、俺にしてくれたプロポーズの返事を。
ラブレターを書くことはやめて、約束通り俺を迎えに来て、俺がそれを頑なに拒んだ後。現在に至るまでの3年間、一度も月に帰らずに、ずっと俺を待っているのだ。
「私はもう・・・、見てられないよ」
いいや、神父。見てられないのは俺の方だ。
目も当てられない———。
意気地のない俺を、彼女にこれ以上待たせるわけには———。
腹をくくるとするなら、このときのためにと決めていた。恥ずかしがりやな俺が、彼女に正面から向かい合う覚悟を、決める時が来たのかもしれない。
この日、教会を後にしたのは午後8時を過ぎたころだった。あれから神父と他愛ない世間話をしてしまったせいで、うっかり帰るタイミングを見失ったのだ。
今度ばかりは、こんなうっかりは許されない—————
俺は、「次の日曜日には彼女に答えを出そう」なんて無自覚にも、先延ばしな予定をたてながら家路を急ぐ。
過去も未来も曖昧な俺たちに、次の日曜なんてものが訪れるとするなら、ちょうどその日は「博愛祭」。俺は、ついに、13年ぶりのプロポーズに決着をつけるのだと、微かに聞こえた気がする彼女の寝息に、静かに誓うのだった。




