今日という一瞬を曲がり形にも
ゴォン———ゴォン———・・・
夕方6時を告げる教会の鐘が、秋の空に遠くまで響き渡る。
この季節になると、異様に空が燃えて見える。
きっとそれは、果てしない先の太陽がうんと燃え上がっているから。
だから、こんなにも綺麗な橙色と、鮮やかな赤色が交互に揺れて見えるのだ。
鐘の音がどこへともなく消え行ってしまうと、今度は途端に吹いてくる北風に肌寒さを覚える。
今日は一段と冷え込むと、昼食の時に食堂で雑音交じりに流れていたラジオのニュースを思い出す。
コートを一着出しておいて正解だった。
頬を撫でていく、変に気遣われているかのような北風から、コートの襟もとに顔をうずめて隠すようにして、すたすたと単調な足取りで歩いている一人の男————「ヘレニック」がいた。
彼は短髪のオールバックヘアーで、クリーニングがしてある今朝下したばかりの、だいぶ着古されたベージュ色の足元まで隠れるほどのロングコートを羽織っている。
長身であるからか、その姿はなかなかに決まっている。
町役場から出てきたところを見ると、ここに努めているのだろう。
彼を追い越していく、彼より少し年配だったり、若かったりする男女らは、彼の背中越しに「お疲れ様」とねぎらいの言葉をかけているのが聞こえた。
その呼びかけに対して、彼も「お疲れ様です」と軽く会釈をする。
少し疲れているのだろうか。
何となく元気のない彼の後ろ姿と、目立ちはしないが控えめに主張している目の下の隈が気になった。
季節柄、どうしても体調を崩しやすくなるところは、子どもの頃から変わっていない。
やはり、そのせいで風邪でもひいてしまったのだろうか。
そうこうしている間も、ヘレニックは歩調を変えることなく、歩を進める。
彼が黙々と向かう先は、教会だ。
先ほどまで鐘が鳴っていた、あの教会。
いつ見ても汚れや傷1つ見当たらない、真っ白な外壁の教会。
彼はまさしくその教会———「ホワイト・レド」教会へ、大した用もないのに毎日の日課とでもいうかの如く、仕事帰りに一人で向かうのだ。
町役場を出てから15分ほどかけて、直進、右折、左折、右折、そして直進と、なるべく遠回りにならないルートを早すぎないペースで進んでいく。
しばらくすると、比較的人通りの多かった大通りから、一気に人気の落ち着いた一本道へと出た。
街路樹のイチョウはとっくに葉を散らし、足元は辺り一面金色の絨毯が敷かれているかのようで、この景色には毎年、心が弾む。
ちょっとした豪勢な気分を味わえるからだろうか。
教会へ続く道を、侘しいと感じないのは。
秋の終わりを感じさせる風が微かに揺れるたびに、イチョウの葉が可憐に舞う。
程なくして、白壁の尖塔型の建物が視界に移りこむ。
天辺には、そこそこの大きさの鐘が覗いて見える。
目的地の、教会である。
「ホワイト・レド」教会。
それがこの町―――ウェストミンスターに住む人々が通う教会の名前だ。
200年ほど前に、人々からの寄付を募り建設された教会だと、この町の者は口をそろえて答える。
誰に教えてもらったというわけではない。
しかし、どういうわけか当たり前のように、まるで生まれてくる前に予め用意されていたとでもいうような感じで、あくまでも基礎知識かのようなものとして、認識しているらしい。
摩訶不思議とは、まさしくこのことであろう。
けれど、この町に住む人々が特殊なわけではない。
もっと広い目で見てみれば、この星に住む者自体が、とりわけ特殊なだけである。
「パール・ブルー」に生きる我々には、過去だとか未来だとか、そういう時系列的な要素の認識が幾らか疎いのだ。
なんとか精一杯、現在を生きる。
すると、たちまち去っていく現在が、一瞬のうちにして過去になる。
過去を認識できるのは、せいぜい後ろを振り向いたときに、自身の背後に何かがしがみついていると感じたときだけ。
そして、未来のことになると尚いっそう、先が見えない。
目が見えない、というような物理的な視覚の話ではなく、一寸先は闇、が見事にマッチするような話。
とにもかくにも、彼らにとって何より重要なのは、どのようにその日その日を暮らしていくかということ。
パンを焼く毎日でも、せわしなく働く毎日でも、きっとそれだけで、この星の人々は誰よりも懸命に瞬いているのだ―――。
教会の中へ入ると、まず呆気にとられる。
厚い木製の扉を開けると、すぐに礼拝堂へと続く造りのため、奥行きが広く天井も高い。開放的な空間に、つい立ち止まって深呼吸をしたくなる。
深呼吸ついでに天井を見上げると、頭上には外から見えた時刻を告げる鐘が、空洞になっている塔の先端に吊らされているのが分かる。
真下から見ると鐘は存外、小さく見える。
そして、礼拝堂中央を通る一本の通路を基準に、シンメトリーで設置されている木製の長椅子と、一段高くなった壇上の教壇。
普段はこの教壇で神父がミサや、洗礼、婚姻に聖職者を任命する叙階などの儀式を執り行っているのだ。
けれど、本当に呆気にとられるのは、整列された長椅子でも天井の鐘でもない。
教壇の奥、その背後のステンドグラスの壁である。
何色にも散りばめられた鮮やかなグラスが、差し込む陽の光の受けて眩しいほどに揺らめく。
この季節だと曇り空のせいで、床に映りこむ鮮やかな光はなかなか見ることができない。だからこそ、快晴の日なんかにたまたまここに立ち寄った際には、最高の瞬間に立ち会えるということだ。
幼い子どもらが、まだ理解に苦しむであろう神父の小難しい話を、ぐずることなくおとなしく聞いていられるのは、このステンドグラスのおかげで違いない。
「やぁ、ヘレニック」
礼拝堂の奥から声がした。
高すぎず低すぎず、けれど、独特な柔らか味のある、聞いていて落ち着く声―――。
その主は、ほかならぬこのホワイト・レド教会の神父―――「チャイナ・シー」神父だった。
仕事中だったのだろうか。
彼は書物室から出てくると、その両腕いっぱいに抱えた書物を、よいしょ、と礼拝堂の長椅子にどさっと置いた。
「仕事帰りか?」
神父が尋ねると、ヘレニックはあたりをきょろきょろと見渡す。
何かを探している、のかもしれないが、その動きは明らかに怪しすぎる。
「神父・・・あの人、今日はいないのか・・・?」
いい年した大人が、身を縮こまらせ怯えている姿は、なんというか、ちょっと情けない。
礼拝堂の隅々にいたるまで、念入りに不審な点がないかを探る。
「えー・・・、さぁね。私は見てないけど」
あまりにも挙動不審な彼を横目に答えながら、神父はれやれと肩をすくませる。
不審な点―――とは言ったものの、それはあまりにもその人に対して失礼すぎる。
彼の言うところの「あの人」が、この場合、「不審な点」に当てはまるのかもしれない。しかし、その人を知る人からしてみれば、別にどこが怪しいというわけではない。
だとすると、神父はもちろん、ヘレニック自身も、その人のことをよく知る人物の一人なのだ。
むしろ、彼以上に、彼女を知る人がこの世にいるのだろうか?
「ヘレニック・・・いい加減入るかはいらないかどっちかにしてくれ・・・。寒いうえ、おまけに主が風邪をおひきになるだろうが」
「他人事みたく言わないでください・・・。第一、主は風邪なんかひかない・・・」
教会の扉を上半身が入る分だけ開けているせいで、冷たい風が入り込んでくる。
その隙間から、もう一度礼拝堂を隈なく見渡すが、長椅子や教壇の影にも彼女の姿は見当たらないようだった。
(今日は来てないのか・・・)
ほっと安堵で一息ついたかと思い、ヘレニックが完全に礼拝堂内へ入った矢先――――
「おかえり!ヘレニック!」
まずった――――、ヘレニックがそう思ったときには、時すでに遅し。
どこからともなく聞こえてきたその声は、まさかの天井―――10mほどの高さのある教会の先端に吊らされた、鐘の方から降りてきたのだ。
声が降りてくる、だと違和感があるかもしれないが、読んで字の如く。
彼女の声は徐々にヘレニックめがけて、降下してきた。
否―――彼女自身が降下、落下してきたといった方が想像しやすいかもしれない。
「あ、あ、あぶな―――
ヘレニックは咄嗟に両腕を差し出し、近づいてくる彼女との距離感を確かめながら息をのむ。
―――トサ、という軽い衝撃が、彼の腕の中で静かに伝わった。
ヘレニックが恐る恐る目を開けると、そこには「不審な点」ならぬ「不審な人」の笑顔があった。
「ナイスキャッチ!さすがだね、ヘレニック」
それは、あまりにも風変わりな光景―――。
冷や汗が止まらないオールバックヘアーの青年が、純白のウェディングドレスを身に纏った女性を、いわゆるお姫様抱っこしているこの構図を、風変わりと言わずしてなんと形容すればいいのだろうか。
極めつけは、まるで新郎新婦のような二人を、陰といわず、堂々と壇上の真ん中から眺めている神父の、なんともいえないニヤニヤとした表情。
頬杖をつく神父の、ヒュ~と冷やかし混じりにそんな二人を祝福しているかのような素振りには、ヘレニックは気づく暇なんて少しもない。
「あ・・・危ないじゃないか!?ミヨさん!!」
ミヨさんと呼ばれるウェディング姿のその女性は、ヘレニックに両肩をガシッと掴まれる。
けれど、彼女は一瞬驚いたかのような顔をして、いつものように、ニッと笑ってみせた。
「やっぱり、アタシのことほんっっっっとうに、好きなんだね」
「ミヨさん!好きとか嫌いとかじゃなくて、俺はただ心配なんだ・・・」
ヘレニックは、茶化す彼女に言い聞かすようにして、キッと睨んだ。
「なーに言ってんのさ」
ヘレニックの眉間に寄った皺を、彼女は右手の人差し指でぐりぐりと軽く押して、怒鳴る彼の左胸にその右の掌を重ねる。
ドクン、ドクンとヘレニックの心音が彼女の掌を伝わる。
「心臓、うるさいくらいに大好―――
「だから、俺は好きとかじゃ・・・!!」
ヘレニックは彼女の言葉を遮ると、ぷいと顔を背けた。
あまりにも不意打ち過ぎた彼女の行動一つ一つに、ヘレニックは身がもたない。
命がいくつあっても足りない。
自分のことと同じか、それ以上に心配。
気が気でない。
彼の耳が、茹でダコのように真っ赤なのは、彼女の危なっかしい行動に、ただ心拍が上がっているだけなのか。
それとも、何をしでかすか行動の読めない彼女に、うっかりときめいてしまっているからなのか。
ヘレニックとしては、限りなく前者であると信じてやまない。
けれど、彼女はおそらく、極力後者に比重を置いた両方であると確信している。
「―――違うよ。確かにあんたはアタシのこと、好きじゃないって言うんだろうけど」
彼女は、ヘレニックに遮られた言葉の続きを紡ぐ。
「心臓、うるさいくらいに大好きなんだよ、アタシって奴はさ!!」
そう言って、満面の笑みを零す彼女―――「ミヨゾティ」は、今度はギュウッときつくヘレニックを抱きしめた。
ともなると、ヘレニックの心臓は本当に忙しい。
彼女の一挙手一投足に、過敏に反応する彼の純粋な心は、やはりどんな意味でも彼女のとりこなのだ。
ふと、ヘレニックが何か言いた気にしている様子に気がつくと、彼女は「ん?」と、そっぽ向いたままの彼の顔元に、そっと耳を傾ける。
ヘレニックはしばしば、だんまりを決め込むつもりだったのだろう。
しかし、すぐ傍で待機している彼女の、目を瞑っていてもびしびしと伝わってくるオーラに押し負けた。
ヘレニックはなるべく彼女と目を合わせないように、うつむき加減で口を開く。
「・・・す、・・・好きじゃない・・・とは・・・い、言ってない・・・・・・」
あまりにも小さくて、かき消されてしまいそうな声。
それだけ言い終わると、ヘレニックは再び顔を背けようとした。けれど、今度ばかりはそうはいかない。
ミヨゾティに、がしっと両腕を首に回されたせいで、身動きが取れなくなったのだ。
あたふたと、両の頬を染めるヘレニックは、一瞬、意識が飛んだような錯覚に陥った。
実際、そのまま目を回しその場に崩れ落ちていったわけだが、こればかりは、ミヨゾティに一本とられた、といったところだろう。
「心臓うるさいってさ、生きてるって感じするよね!!」
彼女の住む月は、あまりにも静か過ぎるせいで、逆に何も聞こえないのだという。
一切の騒音がかき消された世界のため、かえって音が無くなってしまったというのだ。
まるで、幻。御伽噺のようだが、まごうことなき事実である。
そして、そんな世界に住んでいたミヨゾティにとって、この音は何よりも確かな愛の形をしているのだろう。
いつまでも鳴り止まないヘレニックの心音に、彼女はいつだって胸が高鳴るのだ。
意識が飛ぶ直前、ヘレニックは確かにきらきらと輝き、ほころぶ笑顔を見た。
自分と同じように頬を染める彼女の純粋な笑顔が、彼にはきっと眩しいくらいで———。
そして、ヘレニックはこの後、チャイナ・シー神父に介抱されるなどとは知る由もない。
まるで夢のような瞬間———彼女の溢れんばかりの愛が詰まった口づけが、ヘレニックの頬に降ってきたことを境に、彼は意識を手放したのだった。




