『パール・ブルー』に生きる者よ
彼らの住む星は、いわゆる「地球」と呼ばれる類の、人が暮らしていくうえであまり不便が生じなかった、ある意味で奇跡的な星だ。海に、森に、砂漠に、草原に———。
ありとあらゆる自然が一通り存在しているような星。そこには勿論、古来より発展してきた都市や、それらが滅んでいった記録もそれなりに残っている。
例えば、この星に生存している生物として、哺乳類や魚類、鳥類に両生類、植物や鉱物など、数えきれないほどの種族が挙がる。
そして、これらには必ず食物連鎖や、弱肉強食といった理論が適応されていることも事実だ。同様に、それら一切の頂点に立つかのような振る舞いが、彼ら人間によってはるか昔から行われてきた。
人間という生き物は、進化を遂げた結果、色々なものを捨ては新たに身につけ、ついには脆弱なヒトという生物であることを忘れてしまったのだろうか。弱いくせに、あたかもこの世を自分たちの力で総なめしたかのような顔で生きているのだ。
失敬。別に、人間の悪態を吐こうというわけではない。
ただ、この星に住む人々は、そんなことに責任も負い目も感じずに、かといって、これほどまでにないくらい幸福だ、という様子もなく平穏に暮らしているというだけのことだ。ただ、それだけを知ってもらいたいだけなのだ。
ついで、この星は「地球」ではない。
そして、そんな弱い人間がひしめき合うこの星の、とある小さな町に住む一人の男。
彼の名は「ヘレニック」。
その小さな町、「ウェストミンスター」の一住民で、町役場に努める24歳。彼も勿論、そんな弱い人間の一人で、弱いという自覚があるのかないのか、傍から見るとかなり信仰に篤そうな人間と思われている。
というのも、彼がまだ子どもスクールに通うぐらいの、やっとオムツがとれたぐらいの幼いころから教会行くことが好きだったからだ。おそらく、自身が弱い人間であるから、神様に祈りを捧げていたわけではないのだろう。とにかく、毎日大して用事もないのに、暇つぶしのような感覚でひょっこり教会に顔を覗かせていたせいで、近所の人からはかなり信仰熱心なのだと思われていた、というわけだ。
こうして大人になった今でも、必ず毎日仕事帰りに教会に顔を出すのだ。言うまでもなく、両手は手ぶらである。花を買って行ったことは、記憶で一、二回程度。ただなんとなく、来ると落ち着く。それだけの理由だが、彼にとってはそれだけが重要なのだ。
ヘレニックは教会に訪れるたびに、どこか気が重そうな顔をして深いため息をこぼす。それはここ最近のことではなく、今から約3年前のこと。いや、もとはと言えば、全てのことの始まりは、彼がまだ9歳の頃に遡る。
9歳の頃の彼は、周りの子どもたちに比べると、些か大人びているような感じだった。いや、ただ単にふてぶてしさに磨きがかかり始めてきただけ、だったのかもしれない。どちらにせよ、その少し落ち着いた雰囲気とちょっと頭の良さそうな面立ちから、彼が一体何に悩んでいるのかだとか、そういうことは読み取りにくかった気がする。むしろ、ちょっと照れ屋なところが可愛らしくて、ついつい甘やかしたくなるような、そんな少年像だった気もする。
そして、そんな少年に一体全体、どんなことがあったというのだろうか。その出来事が一体、この少年のその先に、どんな影響を与えたというのだろうか。
あまりにも純粋過ぎた15年前のヘレニック少年は、その出来事———その出会いから一変して、夢でうなされるようになったという。うなされるといっても、実際のところ彼は毎晩、熟睡しているようだったし、たまに聞こえるうめき声と言っても、だいたいその朝は二日酔いという始末。だから、正確にはヘレニックは夢でうなされているのではなく、うなされている錯覚に陥っているだけなのだ。
けれど、ヘレニックはおそらく、そのことに関しても気付いている。自分はうなされてなんかいないし、うなされているという錯覚も、実は自身が思い込んでいるだけなのだということも。
『どうか騙されないで聞いてほしい』
眩しい。
キラキラしている。
こっぱずかしいけれど、そういった「美しい」と形容したくなるような、そんな言葉がぴったり似合うセリフ。
それは、少年にとっては、あまりにも衝撃的過ぎたその出会いの中で、強く記憶に残っている彼女の言葉。
少年の目の前に急に姿を現した彼女———ウェディングドレスを身に纏ったその女性は、無敵というか不敵というか、一瞬全てを忘れてしまいそうなほどの、惚れ惚れしてしまいそうなほどの眩い笑みを浮かべていた。その笑顔は、確かにヘレニックただ一人に向けられたもので、ヘレニックはぱっちりと見開かれた彼女の瞳に吸い込まれまいと必死だった。けれど、彼女の澄み切った青い瞳は少年を捉えたまま、決してぶれることはなかった。
『アタシの名前は「ミヨゾティ」』
『アタシはただの人間だよ』
『だから騙されないで聞いてほしい』
『次、この星に月が落ちてきたとき』
『アタシはあんたを迎えに来る』
そう言って、彼女———ミヨゾティは去っていった。
9歳の頃、無粋な神父のお告げを受けてから、なんとなく夢にうなされていると思い始めた。
それから2年後の11歳のとき、ウェディングドレスを身に纏ったミヨゾティと出会う。
そして、彼女と再会したのは、この星に月が落ちてきた10年後の21歳のとき。
15年経った現在、24歳になった彼は町役場に努めながら、あることに踏ん切りをつけようと決心する。
あの日、あれがヘレニックにとって人生で最初のプロポーズだと直感的に理解してから、彼は13年もの間、彼女にはお茶を濁すような態度で切り抜けてきた。
当時の彼にとって、プロポーズなんて言葉はあまりにも現実味が無さ過ぎる上、顔から火が出てしまうような場面に立ち会ってしまったのだから、仕方がないと言えばそうなのかもしれない。
けれど、飽きもせず毎日毎日、変わらぬ愛を振りまいてくる彼女に申し訳が付かなくなってきたこと。 そして、そんなちょっぴり鬱陶しい彼女に、ヘレニックは僅かに惹かれていってしまっていたこと。
これらが、大人となった今、彼がミヨゾティに対して決着の火蓋を切ったのだ。
いや、ここで火蓋などという物騒な例えは、場違いもいいところかもしれない。これは決して、戦いや競争などではないのだから。あえて言うなら、こういう場合、人は「恋は戦争」とでもいうのだろうか。
しかし、それも違う。
なぜなら彼は一度も、恋などしていないのだ。恋する前に、愛されてしまった少年時代を送ってきたのだ。初めてプロポーズを受けた11歳のときの彼は、その日以来、彼女から届くラブレターの数の多さに、何かの嫌がらせではないかと悩む日々を送ったりしてきたせいで、他の女の子に構っている暇はなかった。
心の余裕がなかった。
それほどまでに、不本意ながらもミヨゾティに夢中にさせられていた。
ラブレターの嵐に頭を抱えるまではよかった。
再びミヨゾティが彼の前に姿を現した時———すなわち、彼が21歳のとき———それ以降、彼女からラブレターは届かなくなっていた。しかし、それはヘレニックにとっての安堵を意味するのではなく、さらなる心痛の種が増えたことを指している。
ラブレターが届かなくなった代わりに、ミヨゾティは毎日ヘレニックに会いに来るようになった。彼が仕事終わりに、必ず教会に顔を出すことをミヨゾティは知っている。だから彼女は、愛しい彼を待ち伏せするかのように先回りして教会の長椅子に腰掛けているのだ。
そして、仕事帰りの憂鬱そうな顔をしてやってくる彼に、ミヨゾティは満面の笑みで振り返りこう言うのだ。
「おかえり」
屈託のない、光り輝くその笑顔に、彼は何度も激しいめまいに襲われかけたし、憂鬱な面持ちでこの教会を訪れるのも勿論彼女が原因で違いはない。けれど彼女は気にしない。そんなことお構いなし、といった様子で毎日毎日飽きもせず、ここで彼が訪れるのを心待ちにしているのだ。
だって彼女は、ミヨゾティはそれほどまでに、ヘレニックという男を愛しているのだから。
9歳の時分、ヘレニックはとある無粋な神父に「神のお告げだ」と、自身の将来の嫁になるであろうその人の特徴を淡々と告げられた。
「主は仰った」
「ロードバイクを乗りこなす、純白のウェディングドレスを身に纏った一人の女が現れたとき」
「その女は、お前の嫁となる者らしい———」
そんな突拍子も、信憑性のかけらもない子供だましなお告げは、見事に的中した。2年後の11歳の彼のもとに、確かに純白のウェディングドレスを身に纏った女が一人現れた。
けれど、1つだけお告げと異なっていたこと。
『アタシはあんたを迎えに来る』
そう言って、颯爽と去っていく彼女がまたがっていたそれは、ロードバイクではなく、ちょっといかつい感じのエンジンブースターが、洒落た感じに搭載されたオートバイだった。
ドッドッド、とけたたましいエンジン音が、本当は迷惑なはずなのに、ヘレニックの全身でビートを刻む。規則正しいその音が徐々に小さくなっていくにつれ、彼は、月へ帰っていく彼女の背中をぼんやりと目で追いながら、ぎゅっと締め付けられる心臓が、少しだけ痛むのだった。
秘かに、焦がれる———。
誰に悟られるわけでもなく、秘密裏に想いを馳せて生きている。
あからさまに目に見えるように愛を振りまく彼女に対し、彼の想いは、誰にも知られていない分、打ち明けることが難しい。
だからこそ。
これは、彼が有る丈の勇気を振り絞るまでの、一部始終を記録した物語。
ヘレニックが、ミヨゾティにプロポーズの返答をするまでを綴った、輝かしい青春。
舞台となるこの星の名は「パール・ブルー」。
前述したように、様々な生物が共存している、「地球」ではない星。
そして、この物語の中心人物となる男の名は「ヘレニック」。
無自覚にも青春を謳歌している、恥ずかしいことに関しては専ら照れ屋さんな24歳。
そんな彼に、ひたむきな愛情を注ぐライダーねぇさんは「ミヨゾティ」。
月と「パール・ブルー」を駆けていく、「ヘレニック」の将来の嫁。
最後に紹介するならば。
そんな彼らが住むこの町の教会の無粋な神父、「チャイナ・シー」神父。
他ならぬ、「ヘレニック」に将来の嫁についてのお告げをした者。
きっと平凡。けれど、確かに何にも代えがたい、それぞれの色を持ち合わせている彼らの玉響の人生。
今日もミヨゾティの、はつらつとした元気な声がヘレニックを迎える。
「お帰り、ヘレニック!」




