episode:きっと忘れもしない
少し前の話をする。
これは、「ホワイト・レド」教会の今の神父、「チャイナ・シー」神父がまだ小さかった頃の話。
今でこそ、無粋だなんだと言われている「チャイナ・シー」神父だが、彼も人の子、最初から血も涙も無いような人間ではなかった。
語弊があるかもしれない。
彼は無論、血も涙もある。
幼少時代の彼は、父親が神父だったということが影響し、誰よりも真面目で清潔だった。
「チャイナ・シー」神父の父親は、「ウェストミンスター」にある「ホワイト・レド」教会の神父だった。
誰に対しても分け隔てなく接するその温厚な人柄で、町では言わずと名の知れた男だと言われていたらしい。
「チャイナ・シー」神父の母親は、そんな二人をあたたかい愛情で支える良妻賢母だった。
そして、彼女————「ポンパドール」は月から来た。
「チャイナ・シー」は、母からよく月の話を聞いていた。
月の食べ物や、町の話、動物に、植物など、いろんな話を聞いた。
その中でも、彼女が特に目を輝かせて話してくれたのは、この星の話だった。
月から見た「パール・ブルー」の美しさを、彼女は延々としゃべり続けた。
「母さんはね、月から見たこの星があんたや父さんと同じくらい、好きだったわ」
彼女は聡明な人だった。
月にいたころは、勿論彼女も音を知らなかった。
けれど、彼女は音の話は知っていた。
それは音を聴いたことがある、という意味ではなく、音という概念を聞いたことがある、という意味だ。
そして、彼女も月面表皮の剥落のために月を離れた際に、初めて音を聴くことになった。
そのときの感動を彼女は月に帰ってから、
『思ってたよりも思ってた通りだった』
と、まるで支離滅裂な感想を述べていたという。
そこだけを聞くと聡明どころか、かえってかなりの変人だったのでは、と周囲の人間は彼女を心配していたようだった。
けれど、本当の彼女は変わり者でもなければ、聡明でもない。
ただただ笑顔がよく似合う、さわやかな感じの人だったということだ。
「月から母さんはこの星のことをね、よく眺めては、あんたの父さんと文通したりしてたのよ」
月と「パール・ブルー」の間には、レールが敷かれている。
そのレールを走る鈍行列車や、特急列車が手紙や人を乗せて行き来していたという。
もちろん、運転手はすべて月に住む人間で、乗車出来るのも月に住む人間だけだった。
「パール・ブルー」に住む人間は、月に行こうとすると、たちまち目がくらんで、迷子になるという。
そうして、最後には「パール・ブルー」に戻れずに、その姿は宇宙に消えてしまうというのだ。
そんな彼女の話を、幼かった「チャイナ・シー」は作り話程度に聞いていたのだろう。
そして、彼女は結婚を機に「パール・ブルー」へと移住して、それ以来一度も月に戻っていない。
「ポンパドール」はこの星でできた恋人と結婚し、一人の子供を授かった。
その子供こそが、のちの「チャイナ・シー」にあたり、家族3人仲良く暮らしていたという。
そんな母親が話す月の話の中でも、「チャイナ・シー」が特に好きだったのは、「ライトシャワー」のエピソードだった。
それはまだ、彼が「ライトシャワー」を見たことがなかった頃。
彼女は、何にでも興味を示すまだ幼い息子にせがまれては、その話をしていた。
それは、月にいた頃の話。
「ポンパドール」はほかの仲間より、「パール・ブルー」に避難するのが遅れてしまったことがあった。
その際、彼女は命からがら、なんとか無事に「パール・ブルー」に到着できたのだが、その道中の光景を彼女は奇妙だったと話した。
彼女が必死に宇宙を渡っていたときだった。
すぐ背後まで月くずが迫っていて、その勢いに巻き込まれるか否かという瀬戸際で、彼女は不思議な声を聞いたというのだ。
まだ月を離れて、半分ほどの距離しかたっていなかったため、彼女はもう音が聞こえてくるなんておかしいと思い、それは今でも夢を見ていたのだと言っていたが。
星が話していたというのだ。
あまたの星たちが、会話をしていたと、彼女は語った。
「もうじき、ぼくたちも月の一部になるんだ」
「まだ生きてたかったなぁ」
「ここから動けたら」
背後から、そんな声が聞こえたという。
彼女が後ろを振り返ったときには、星たちの声はどこにも無かった。
かわりに、目が痛くなるほどの光を放つ月くずが、そんな星々を巻き込んでいく姿だけを、この目が確かに見届けたと言っていた。
星は、自由には空を動けない。
人が、流れ星と呼んでいるそれは、まさに、星を見守る番人が、光り輝く星たちのお尻を蹴飛ばしているのだということを、彼女はそれから知った。
だからこそ、彼女が見たその光景は、あまりにも空に従順すぎた星たちの最期の姿。
死にゆく星たちは、月くずに巻き込まれるその最後の瞬間まで、確かに輝いていたという。
あるときは、「パール・ブルー」から「ライトシャワー」を見ていたとき。
この星に来て結婚してから、初めて迎えた「ライトシャワー」のはなし。
その日は、「チャイナ・シー」の父親———すなわち、「ポンパドール」の夫と一緒に、自宅の窓から夜空を見上げていたときのこと。
月が異様に明るかったその日は、夜だというのに、部屋は明かりをつけているみたいだったという。
しばらく二人で空を眺めていると、「ライトシャワー」が始まった。
空からは、大量の月くずが光の粒子のように見えて、ここからみると、案外それは小さく感じたらしい。
そんな神秘的な光景を見ていた夫が、無意識で発した言葉に、彼女は不思議に思っていることがあったという。
彼は、降下してくる月くずを眺めながら、
「あの月くずには、流転した記憶があるんだよ」
と、ぽつりと語っていたというのだ。
彼女には、夫が何のことを言っているのか、正直分からなかった。
どういう意味か聞いてみたらしいが、夫は
「さぁ、どういうことなんでしょうねぇ?」
と、首をかしげただけだったらしい。
それはきっと、どれだけの月くずが滅んでいって消えたとしても、生きた記憶だけは巡り巡る、ということだったのだろうか。
いや、きっとそうなのだと、「ポンパドール」は、そう考えることにした。
なにせ、その滅んでいく月くずには、彼女が過ごした記憶があったのだから。
こうして、彼女は愛しい息子に、何度も話した。
飽きることなく、懐かしむように。
母親の話を聞く息子の傍では、必ず父も耳を傾けていた。
そんな両親に育てられた「チャイナ・シー」は、やがて神父となり、一度は「ウェストミンスター」を離れていった。
彼は旅先で、人知れず夜空を見上げては月を眺め、母親の話を思い出していたという。
そして―――――。
「ポンパドール」が不慮の事故で亡くなったのは、彼が「ウェストミンスター」を発った、その翌日のことだった。
その後、彼が再び「ウェストミンスター」に帰ってきたのは、父が病で亡くなった後。
「ホワイト・レド」教会の神父の後任として、指名されたからだった。
彼が、「チャイナ・シー」神父として「ホワイト・レド」教会で働くようになって、今年ではや15年が経った。
故郷に帰ってきた当初、彼は30歳になったばかりで、10年ぶりに懐かしの我が家へ帰ったのだが、彼はしばらくして実家を売ったという。
誰もいない家に帰ることは辛いと、彼は必要最低限の荷物だけをまとめて、「ホワイト・レド」教会の二階にある一室に落ち着くことにしたのだ。
こうして、彼はこの教会で多くの職務をこなしていき、現在の「チャイナ・シー」神父という人格ができるに至った。
ちょっと皮肉めいていて、いつでも安全地帯にいるような態度で、無粋といわれてしまうような所以のある性格。
けれど、彼でさえ、いくら月を眺めても聖書を読んでも、主に祈っても、この絶え間なく流れていく日々に、何が起こるのかだけはわからなかった。
もしそうでなければ、かつて夢に見た半信半疑のようなお告げを受けて、このお告げが誰かに届くようにと、主に祈ったりはしなかった。
そんな主のお告げが、あろうことか宇宙を越えて、はるか彼方の懐かしい月に住む少女に届いてしまうなんてこと。
それこそ、神のみぞ知る――――といったところなのだ。
そして、彼は一人の少年にも告げてしまう。
『ロードバイクを乗りこなす、純白のウェディングドレスを身に纏った一人の女が現れたとき。その女は、お前の嫁となる者らしい――――そう、主は仰った』
かつて、彼の父親が残した言葉と同様に、彼も揺るぎない信念で、その言葉を口にするのだ。
優しかった彼の父親は、ときに威厳のある顔つきで、幼い息子に伝えた。
『寂しくなるなら、思い返してはいけないよ。きっと、前には進めなくなる――――そう、主は仰った』
「母さんが死んだときも、父さんが死んだときも、えらく辛かった。でもな、私にはその言葉だけで、十分にまた一人で歩いていけるようになったんだよ」
「チャイナ・シー」神父は、当時のことをそのように語った。
かくして、「チャイナ・シー」という人間の、現在にいたるまでの話は終わる。
しかし驚くべきは、神父の目の前に現れた、月から来たという宿を探す一人の女性との出会い。
彼女は言った。
「次に、この星に月が落ちてきたとき、またアタシはここに来る。だから、それまでの間、アタシのための部屋を一つ、空けておいてほしいんだ」
頭を下げるその人を、神父は今でも忘れない。
頼まれたんなら仕方がない、と約束をしたときの彼女の笑顔を、彼はいつまでも忘れていなかった。
綻ぶようなその笑顔から溢れる「ありがとう」が、神父の記憶を少しだけ掠めていった気がする。
彼女の名前は「ミヨゾティ」。
まるで、死んだ母親とそっくりな彼女の眩しい笑顔は、神父にほんの少しだけ、寂しさを覚えさせるのだ。
―――――月にはいる人間は、みんな、あの人たちみたいな奴ばっかりなのだろうか?
神父にはあの大きな月の輝きは、そこに住む人々の、もしかしたらどんなときにも曇らない、愛おしい笑い顔でできているのかも知れない―――――
そう思わずにはいられなかった。




