廻る月日に宿るもの
これは、光り輝く月と、とある少女の話———————
「ミヨゾティ」—————。
彼女は月で生まれた。
優しい両親に恵まれて、何一つ不自由なく、幸せに育っていた。
明るく、活発なおてんば娘。
それが、輝かしい笑顔のよく似合う、少女の名前。
『月ではね、音がないのよ』
そう、月には音が存在しない。
誰もが眠りにつく静かな夜を照らすために、一切の騒音を排除してしまったせいで、本来なら聞こえるはずの微かな音が聞こえない。
否———————、微かな音さえも排除してしまったのだ。
だから、月には音が存在しない。
月に住む人は、音のない生活に何ら不自由を感じない。
というのも、生まれたときから、そこには「音」という概念が無かったから。
だから、まさか、自分たちに「声」という機能があったことも知らないのだから、会話も無い。
コミュニケーションは、まさしく、「阿吽の呼吸」といった要領で、行われてきていた。
それは、傍から見ればまるで、無機質で感情を持たない奴らの、哀れな末路。
────といった風に見えるかもしれない。
しかし、その実。
そんな彼女たちの月での生活を、ドキュメンタリー映画の如く取り上げて見ることがあれば、恐らく鑑賞するにあたって、
字幕付きの無音声。
あるいは、字幕すらオプションに無い、やはり、ただの無音声映画画になるのだろう。
イメージとしては、色味がない。
くすんだ黄色みがかかったような、モノクロ調のテイスト。
それは結果として、やはり、何のぬくもりも感じさせないのだろう。
それでも、彼女たちは生きている。
たとえ、どれだけそこが辺鄙な場所だと思われていても。
彼女たちにとっては、ごくごく当然の暮らしがある場所なのだ。
一見、なんら問題が無さそうに見えるこの月だが————。
そんな彼女たちですら、音のない世界にいることで、生まれてきて一度きりしか味わえない恐怖があるという。
そんな、唯一の瞬間があるのだ。
その反面、音が無いなら無いなりに、免れてきた徒死がある。
それは、10年に一度訪れる、月面表皮の剥落の巻き添えにならないで済んでいる、ということ—————。
実際、10年という一定の周期は、月での時間の流れ方を基準にしたものではない。
すなわち、この月面表皮の剥落のサイクルを見つけたのは、月に住む人ではなく、月から遠く離れた、「パール・ブルー」という星に住む、とある天文学者ということだ。
ただ、日記をつけることが趣味だった。
その天文学者が、何十年と年を重ねる中で得た、唯一無二の後世に残る発見。
彼は職業上、天文学者という位置づけにはいたものの、これといった研究成果を出せないまま、晩年を迎えていた。
しかし、死期を悟ったその天文学者は、「ここらで私もしまいどきか」と、自身の研究資料や私物を整理し始める。
そして、誇りまみれの自室で、その大発見は眠っていた。
それは、膨大に書き記した批評まみれの論文でも、東奔西走して収集した文献にも載っていない。
ページの黄ばみや文字のかすれが目立つ、何十冊にも積まれた日記帳————。
その天文学者が、懐古の情に駆られ、何気なく手にした日記帳だった。
まめな性格だった天文学者への、予期せぬ最後の、天からの授かりもの。
この謎の現象が明らかになるまでの、正体不明の落下物に、幾度となく怯えた人々の暮らしは、こうして、一人の天文学者の発見を機に過ぎ去った。
日記帳を読み返しながら、その天文学者は「10年に一度、空から何かが降ってくること。その日はだいたい秋の月であること。その中でも、月が一段と輝きを増す日だということ」に、そのパターンを見出した。
そして、現在に至るころには、幻のようなその光景を—————
「ライトシャワー」
——————そう、人々は親しみを込めて呼ぶのだった。
しかし、月に住む彼女たちからしてみれば、いかにも神秘的な意味合いを匂わせる「ライトシャワー」は、それこそ、命がけなのだ。
成長して肥大化する月は、ある一定の大きさを保とうと古くなった表皮を、震動を起こして剥ぎ落そうとする。
このときの震動による被害は、月で暮らす人々にとっては大きな問題となり、かつてはその犠牲者となった者も多かった。
そのうえ、月くずと化して剥がれていったその表面の欠片の、「パール・ブルー」へと降下していく勢いに巻き込まれて、消滅した者も少なからずいた。
このような惨事にならないいためにも、月に住む人々は月面表皮の剥落に合わせて、「パール・ブルー」へと一時的に避難するようになった。
月に住む人々が、宇宙に存在する無数の星々の中の一つから、避難する場所を「パール・ブルー」に選んだのは、きっと、いつかの天文学者がそうだったように、「偶然」だったのだろう。
降下していく月くずより一足先に、ミヨゾティたちは「パール・ブルー」に降り立った。
そして、初めて、月ではない—————音のある世界を知ったとき。
耳ををつんざくような、ありとあらゆる全ての音が、あまりにも賑やかで恐ろしい————。
そんな、人生に一度きりの衝撃と恐怖を覚えた彼女たちは、元通りになった光り輝く愛しの故郷へと、帰っていくのだ。
そして、普段通りの暮らしに戻ったとき、彼女たちが初めて知ったそれ(・・)は、ひどく、胸に響くものだったという。
このような経緯の元、月の表面が剥落する年は、その天文学者の死後も何十年、何百年という長い月日の間、今も変わらず訪れている。
けれど、それは「パール・ブルー」に住む人々から見た光景で、この星では、10年ごとに月が降ってくるように、感じているだけなのだ。
月に住む人々からしてみれば、その天文学者が死んだのは昨日のことのように思えて、月の表面が剥がれていったことは、随分懐かしいとさえ感じてしまう。
あまりにも、遠く離れてしまっている月と「パール・ブルー」の間には、時空の歪みが生じてしまっているのだ。
だから、同じ1年という期間が、月に住む人々には長くも短くも思える。
「パール・ブルー」での気の遠くなるような100年が、月に住む彼女たちにとっては、まばたきをする間に過ぎてしまう。
「ライトシャワー」と呼ばれる、命がけのこの現象は————。
光り輝きながら降下してくる、大量の月くずの情景を表して命名されたはずなのに。
どうしてか。
月くずに追われるようにしてこちらに向かってくる、彼女たちの懸命な姿のことのようにも思えた。
何が何だかはっきりとしない。
不確かな歳月だけが流れていく心細い月での生活に、一体、彼女たちは、何を頼りに「生きてきたこと」を実感するのだろうか————————?
『音の無い世界で生きるのが怖い、なんて、思ったこともなかったわ』
—————最初から音のある世界を知っていたら、そう感じるのかもしれない。
けれど、どんなこと言ったって、怖くないものは怖くないのよ。
アタシだけじゃなくて、月に住む皆、口をそろえて同じこと言うわ。
それが、アタシたちにとっての、普通な生き方なんだから。
音のある世界で生きてるあんたと同じように。
音のない世界でアタシたちも「ふつー」に生きてんのよ————
ミヨゾティは、ヘレニックに自分の住む月について語っていた。
自身の生まれ故郷を、誇らしげに、楽しそうに思い返しながら。
月を(・)触って(・・・)みたい(・・・)ヘレニックにとって、そんな彼女の言葉一つ一つは、まるでおとぎ話のように聞こえていたんだろう。
彼の瞳は、未知の世界を覗き込んでいるような、ワクワクが止まらないといった様子だった。けれど同時に、ミヨゾティの言っていることが現実味を帯びていないように思ったのか、半信半疑で漠然と聞いていただけかもしれない。
—————でもね、アタシもやっぱり、恐ろしかったって、思ったわ。
この星に近づくにつれて、急に頭が張り裂けそうな感じになるんだもの。
あぁ、これが音なんだってすぐに分かったけれど、ほら、何でも未知のものって怖いじゃない?
でも・・・アタシが初めて耳にした音は、夜空になびく風の音だった。
風って、肌にぶつかるだけのものだと思ってたから、これにはかなり驚いたわ。
だって、ひゅーとか、ごぉーって音を立てて吹いてたなんて知らなかったんだもの————
そんな衝撃的な体験をして月に帰った後、いくらか経って再び月が震動し始めた。
やっぱり、月の中心から揺れが伝わるだけで、「パール・ブルー」では聞こえてるはずのビシビシとか、ドドドっていうような地鳴りの音は一切聞こえなかった。
ただ、「揺れ始めたから、また逃げなくちゃ」っていうサインだと思って、また月くずから追われるように逃げてきた。
「運命」ってこのことかも、って初めて思ったのはこのときだった。
アタシは、この星を再び訪れたときに、やっぱり恐ろしいって改めて思ったわ。
このときばかりは、音があることが、じゃなくて。
音の(・)無い(・・)こと(・・)が恐ろしい、そう思い直したのよ。
そのきっかけとなった、「運命」ってのが——————
—————『どうか騙されないで聞いてほしい』
一目惚れだった。
まだ幼い、自分よりもうんと年下の男の子。
ミヨゾティが、周りのことに手付かずになったのは、それからのことだった。
毎日毎日、愛しいその子を思い出しては浮かれる日々。
月に帰ってから、ミヨゾティはとにかく手紙を出し続けた。
郵便ポストに入れると、配達人が宇宙をまたいで、「パール・ブルー」まで届けてくれるのだ。
返事は一度も来なかった。
けれど、ミヨゾティに気にしなかった。
どれだけ馬鹿馬鹿しいと笑われても、彼女は飽きもせず手紙を出し続けた。
ミヨゾティは、あの少年が大人になるまで待つことにした。
月に住む人間は、子供の間は耐性が付いていないからという理由で、他の星に住むことは禁止されていたが、大人になったらどの星で暮らそうが、誰と結婚しようが自由だった。
だから、ミヨゾティ自身が立派な大人になる頃、あの少年も同じように大人になっているんだろうと、そう思って待ち続けたのだ。
「今はまだ、アタシがそう思っているだけでいい。だけど、いつかあいつもアタシのこと・・・」
それは、あまりにも長すぎた彼女の片想い——————
『アタシは、誰しもが隠し持っている潜在的な、生まれ持っての心根が美しい人と一緒になるって、そう決めてるのよ!』
異性のタイプを、胸を張って鼻高々に語るミヨゾティは、最後に笑顔で付け足すのだ。
『それが、あいつだったのよ!』




