第5話 声のする方へ
夜。時刻は午前3時前だった。月の出ている夜だった。
暗闇の中、結は、鯨神島神社の境内にある、桜の木の下にいた。
神社は島の南東側にあり、北側にある集落とは離れている。周囲は森で覆われ、島の中心部は丘のように盛り上がっているので、ひっそりとしていた。
東の方角を見ると、常夜岩が見える。月の光に照らされて、影が伸びていた。
花はまだ咲いていない。それどころか、夜は寒い。
今年の寒さは記録的と言われるだけあって、特に冷え込みは厳しい。
結は厚手の青いジャンバーに手袋、ジーンズを履いていた。靴もシューズだ。
まるで登山に行くみたいだ、と結は自分の格好を思い返して思うが、あの岩場を歩くので、それに近いかもしれない、と思った。
しん、と静まり返った夜。
と、かすかに自転車を漕ぐ音が聞こえた。少しギイギイいっているのも聞こえる。
境内に、小さな灯りがすーっと入ってきた。自転車だ。
自転車は桜の木に近づき、止まった。
自転車には、のっぽの人影が乗っている。
「結か?」
誠治がそういって、前のかごから、懐中電灯を取り出した。
「そうだよ」
誠治は懐中電灯を結の足元から、顔に照らした。
結は目を細め、右手で顔を覆う。
「せいちゃん、眩しい」
「ああ、ごめんごめん」
そういって誠治は、ライトを下から自分の顔に向けた。
誠治はニッと笑うが、顔の作りのせいか、あまりこわくない。
「まじめにやろうよ」
結は少しムッとした顔で誠治を見た。
「あっ、うん」
誠治は、結の反応に少し心傷つきながら、真顔になって、ライトを消した。
結は、誠治が近くに見えると、その服装が確認できた。
やはり厚手の、紫色のジャンバーに灰色の、作業服のようなズボンをはいている。手には軍手をはめていた。
古くからある島の、船の整備を営む家の次男という格好だ、と結は思った。
誠治は桜の木の陰に自転車を隠すと、かごの中にあった、小さな黒いリュックを取り出した。
「例の声はきこえる?」
結は頷いた。
「昨日より、段々とはっきりきこえるようになってる。今はきこえないよ」
誠治も頷いた。
「わかった。じゃあ、行こう」
誠治はそう言った。
結も、うん、と頷く。
二人は境内から常夜岩を見た。
結と誠治は、鯨神島と常夜岩を結ぶ、砂州と呼ばれる砂の地形をさっと歩いて、常夜岩に着いた。
柔らかい砂の上を早足で歩いた後は、ゴツゴツとした硬い岩場をゆっくり歩く。
常夜岩を、南側に半周すると、人一人が入るほどの洞穴があった。
洞穴の両端には、黒く変色した、ボロボロになった縄の切れ端がぶら下がっている。
きっと、しめ縄で塞いであったんだ、と誠治は言った。
結と誠治はお互いの顔を見て、頷くと、誠治は懐中電灯のライトを洞穴の中へ向けた。
「じゃあ、行こう。頭に気を付けて」
誠治がそういうと、結は、うん、と頷いて、洞穴の奥へと向かう誠治の後をゆっくりと歩き出した。
洞穴は意外と深かった。狭く、足場の悪い洞穴の中を、誠治がもつ懐中電灯の灯りを頼りに、二人はゆっくりと前へ進む。
50メートル近いところに着いたところで、岩の壁に当たった。
行き止まりだ。
「ここまでか……」
誠治がそう呟くと、結が壁に何かを見つけた。
「せいちゃん、あそこを照らして」
結はそう言って、地面に近い場所に指をさした。
そこには何か、文字らしいものが刻まれていた。
そこの岩だけ、何か機械的に削られたように、なめらかな表面をしており、その上に大きなコインほどの大きさの、文字らしいものが1行10字前後ほど、3行くらいに書かれていた。
文字。
直線と曲線が入り混じったそれは、文字だと、誠治は思った。
しかし、日本語の文字や、ハングルや中国の漢字とも明らかに違う、かといってローマ字などとも違うものだった。
「これ……」
結がつぶやいた。
「私の家の御蔵にある……」
誠治は少し動揺した。
私の家、と、ここで、結が指したものは皆川家のことではない。
以前、結が住んでいた、神坂家の家のことだった。
そこは島の集落とは離れた、島のほぼ中心部にあり、広い母屋と、御蔵、つまり土蔵があった。
神坂家には、今、誰も住んでいない。結や皆川夫妻がお盆などに訪れて、埃などを払う程度だ。
集落から離れた、大きな家で少女が一人で住むのは難しいだろうという理由から、今は皆川家に、結は住んでいる。
「読めるの?」
「ううん」
結は首を振った。
「お父さんやお母さんも、なんて読むのかわからないままだった……」
誠治と結はしばらく呆然と、その文字を見ていたが、誠治ははっ、と我に戻った。
「これ、撮ろう。結、ちょっとライト持ってて」
誠治は懐中電灯を結に渡すと、デジタルカメラをリュックから取り出し、その文字を撮影した。
結はその間、その文字をずっと見ていた。
そして、あの声が、またきこえはじめる。
―――そう。こっち。
今までの声の中ではっきりとした、しかし、まだどこか遠い感じの声。
―――ぼくは、こっちだよ。
「結」
誠治は、結の様子を見て驚いた。
結は、その文字に身を近づけていた。
―――そのまま、こっちへきて。
結は声の誘われるまま、文字を見つめ、身をしゃがめた。
「結!」
誠治は、結の、そのいつもと違う様子に声を大きくした。
結は、じっとその文字を見つめ、文字に右手を重ねようとした。
―――そう。こっちへ。
声が、少し興奮したように、結に語り掛けた。
今までとは違う様子だったが、結は気に留めてなかった。
結の右手と文字が触れた。
結ははっ、と我に返った。しかし、その後に来たのは、右手から来る感覚だった。
「あったかい……」
ほっとするあたたかさ。岩なのに、ぬくもりすら感じる。
《やっと、きてくれたね》
ほっとしたような、優しい声が、まるで間近にいるかのように、はっきりと結にきこえた。
その時、2人の左側の岩肌が横にスライドし、まるで扉が開いたかのようになった。
その先には、広い空間が見えた。地面が淡い、青い光が入っている。
《こっちへ、きて》
声に誘われて、結は、広い空間へと一歩、足を踏み出す。
「結!」
誠治が、結の肩をつかんだ。
結が誠治の方を振り向く。
「今、こっちへきて、って……」
結はそこまで言って、はっと思う。
そうか、この声も私にしか聞こえてないんだ。
「そう、声が、言ったんだね……」
誠治がそういうと、結はうん、と頷いた。
「せいちゃん、行こう」
結がそういうと、誠治は頷いた。
そして、二人は広い空間へと歩く。
そこは、ドーム状の空間だった。壁から天井にかけて、さきほどの文字の書かれていた部分と同じように、なめらかな表面をしている。
広さも充分ある。2人はその真ん中に立った。
誠治は周りを見渡し、うちの学校の体育館位あるな、と思った。また、この空間の中は、外のような肌寒さも感じない。それどころか、ちょうど良い暖かさだった。
下から淡い、青い光が入っているのは変わらないが、空間の中に入っても、不思議と眩しいとか、目に刺激的ではない。
むしろ、心地よい、優しい感じの光だった。
誠治は天井を見渡した。天井には何も描かれておらず、傷一つも見えない。
彼は結の方を見た。結は下を凝視している。
誠治も同じ方を向き、そして息をのんだ。
床は一面透明になっていた。その下に、横たわっていた。
生物。そう、呼ぶにはあまりにも巨大だった。この広い空間の中でも、末端の一部分は空間からはみ出し、隠れていて、全貌は把握できない。
しかし、それは生物と呼ぶ以外に、何と呼べばいいのか、わからないものだった。
かの生物は床の下の、水のような液体の詰まった空間で、恐らく背の中を見せて、うつ伏せのようになっていた。
『恐らく』というのは、全貌が見えていないせいで、その生物がどのような形をしているかも、推測するよりほかなかったからだ。
濃い緑色をした肌は、硬質というより、艶やかだが、どこか強い弾力がありそうな印象を受けた。
上に向いている、恐らく背面の部分は濃い緑色をしていて、デコボコはなく、ゴムのようにつるんとしていた。
結ははっと、空間の床の端方を見て、そこに向かって走り出した。誠治も後に続く。
結が、数十メートル走り、空間の隅に着いた。そこには、大きな目が二つあった。
顔だろう。顔といっても、首のようなものは見えない。猪や魚のように、首が見えない状態で胴体とつながっている。
目ひとつは1メートル近い大きさだろうか。目と目の間は数メートルほどある。目は人と同じような構造、中心に黒い円があり、その周りを白い面が囲んでいる。
大きく、それでいて、少し垂れたような目だった。何か大きな威厳のようなものと穏やかさを同時に備えている。
《ぼくの声が、届いたんだね》
結は、あの、低く、落ち着きのある、少年の声をはっきりときいた。
そして、その声の主が、自分の眼下にいる、あの巨大な生き物だということもはっきりと、直観でわかった。
「きこえたよ」
結は頷いた。誠治は結の顔をぎょっと見た。しかし、誠治にもはっきりわかった。
結はまともだ。そして、恐らく声の主と話しているのだ、この自分の下にいる巨大な生き物と。
《ぼくは、メゴス》
「メゴス……」
結は言葉を反芻した。メゴス。その言葉を思うと、結の心の中に、何か愛おしさが芽生えてくる。
誠治は横で見ていた。
その言葉の意味について、結に尋ねようとしたが、まっすぐに、眼下の目を見て言葉を紡ぐ結に、何か話すべきではない、誠治はそう思った。
《きみの名前は?》
「結、神坂結」
《ゆい、っていうんだね。かみさかっていうのは……》
「苗字。神坂が姓で、結が名前」
メゴスは少し静かになった。そしてまた声を伝える。先ほどとは、少し低い雰囲気だった。
《……そうか。かみさか ゆい。新しい文明が出来たんだね》
結は頭の中が混乱した。新しい文明?
「おい、結」
結が黙ったのをみて、横にいた誠治が思わず声をかけた。
結は、誠治の服の袖をひっぱる。
「この人は誠治。藤堂誠治」
《とうどう せいじ。せいじが名前で、とうどうが苗字なのか》
「そう」
結はちょっと嬉しそうな顔で頷いた。この声の主に、とても愛着のようなものを持ち始めていた。
《ゆい、ぼくの声は、君にしかきこえない。声というより、情報、かな》
結はその意味を理解した。確かにメッセージだけではなく、何かの映像や他の音までもが流れてくる。
《ぼくは、この声を君の脳に送っている。だから声のなかにある言葉も、君の言語として理解しているはずだ》
結は少し考えた。
そうか、この言葉は、私の頭の中で、日本語として翻訳されている、ということなんだ。
「ということは、日本語がわからないの?」
《にほん……にほんというのが、君たちの今住んでいる文明なのか?》
結はまた少し考えた。
《ぼくは、ここでずっと眠っていた。ぼくは、ラルサによってつくられた、ウルクの文明が最後に産み出したもの》
「ラルサ……ウルク……」
結はその言葉をまた繰り返した。
《ぼくの使命は、文明を滅ぼすギドンを倒すことだ》
結はその生き物をじっと見つめていた。
言葉はわからないが、その声には強い意志、使命を感じた。
《でも、ぼくは、ずっと眠っていた。外のことはわからない。今、どうなっているのかがまったくわからない。だから、ゆい――》
大きな目も結の方をじっと見ていた。
やはりとても強い意志を感じるものがあった。
結は圧倒されそうになるが、それでも声もきき続けた。
《まず、ぼくに、外のことを教えて》