第3話 声の言い伝え
――きこえている? きこえているのなら、返事をして。
「……きこえているよ」
結はボソッとつぶやいた。
金曜日の朝、通学途中、鯨神島から能美島へと向かう小さなフェリーの客席でのことである。
「結、どうした?」
隣に座っていた誠治が、結の顔を見て言った。
「ん? ううん、なんでもないよ」
そう言って首を横に振る彼女の顔色はあまり良くない。
家を出る前にも、文子と健一に同じことをきかれたので、今と同じような返事をした。顔色もその時と変わっていない。
本当は、あまり大丈夫ではなかった。
声は、日、いや、時間を追うごとに鮮明になっていく。
それとともに、あの、静かでほの暗い空間のイメージもはっきりと浮かんでくる。
だけど、と結は思う。
これをどう他の人に説明していいかわからない。そもそも、周りの人に迷惑はかけたくない。
結は胸の前で右手をぎゅっと握りしめた。
誠治はそれをちらっと見ていた。
「結、どうしたの? 大丈夫?」
昼休み。今日3度目の質問を、同じクラスの黒江珠実が訊いてきた。
「ん? ううん、なんでもないよ」
「えー、ほんと?」
珠実は大きな目を疑い深かそうに細くして、結を見た。
2人は、教室で、席を向かい合わせにしていた。昼食を食べ終わったところだった。
珠実は背の高い、少し小麦色の肌をした、ショートカットの女子高生だ。この高校では女子バスケ部に入り、1年にしてエースになっている。
結と珠実はこの春に入学してから、同じクラスで隣同士の席になって以来、仲良くなっている。
「でも、心配だよー。私は」
珠実は言った。
そうかな、結はそう言って、お弁当箱をランチクロスに包む。お弁当はいつも文子が作ってくれている。
「そうそう。藤堂は、結のこと、気付いているのかな」
珠実がそう言いながら、購買で買った、チョコレート菓子の入った、六角柱の箱をあける。
藤堂誠治は、結と珠美とは別のクラスだ。
せいくんも、と、結は、学校では誠治と珠実の前でしか言わない、誠治のあだ名を言った。
「せいくんも、気がついているよ。今日、学校行く途中できかれたから」
「へぇー、で、結は、今みたいに返して終わり?」
結はこくん、と頷く。珠実は、んー、と悩んだ後に言う。
「結は、もっと人を頼んなよ。迷惑かけちゃうー、とか思ってるんだけど」
図星だ、と結は思った。
珠実は、箱の中にあった銀色の袋を取り出し、それを広げるように開けた。
「藤堂も藤堂だと思うよ。腐れ縁なんだから、もっと、こう、もっと積極的に――」
「神坂」
すっ、と、のっぽな男子が声をかけてきた。
誠治だ。
わっ、と、珠実が驚く。
「藤堂君、どうしたの?」
「ちょっと用事があるんだけど、今いいかな?」
「いいよ」
「黒江、話してるとこ悪いな」
藤堂が言う。
いつも笑みを浮かべているような表情の藤堂だが、今の彼の顔には、少し固さというか、ちょっと決意をしたような感じが見える。
黒江もそんな藤堂の様子に気が付き、ああ、うん、とちょっと返事に困りながら、こくこくと頷いた。
「コートも着てきて。ちょっと寒いから」
結は、お弁当箱をしまいながら、わかった、ロッカーにあるから、と言った。
藤堂が頷き、結を連れて、教室を後にした。
他のクラスメイトも、その様子をちらちらと見ていた。
「……あいつ、意外とできんじゃん」
そういって、珠実は、結と一緒に食べようと思っていた、動物の柄の入ったチョコレート菓子を一つ、口に入れた。
歴史資料室。
と、扉の前には掲げられているが、事実上、物置と化している。
東校舎3階の端、図書室の横にあるこの部屋を訪れる者はほとんどいない。
狭い部屋の壁には、書庫が置かれていた。上部はガラス張りになっていて、古そうな本や資料、ファイル、さらにトロフィーや額縁に入った賞状もいくつか置かれている。
さらに、学習机や椅子が2、3個雑多に置かれ、その間に地球儀や大きな巻物がいくつも入った円柱の入れ物、ボロボロのバケツなどがさらに足の踏み場を無くしている。
普段と違うのは、普段カーテンで閉ざされているが、結が誠治と入った時、カーテンは開かれていた。
暖かい、柔らかな日差しが入る。江田島市北西部にある、西能美島の山の中腹に立つ高校だけあって、窓から、広島湾と宮島がみえる。
また、普段から埃っぽい部屋だが、今日はいくらか埃が少ないように感じる。換気をしてくれたのだろうか。
ただ、部屋のなかは寒い。
コートを着た結は緊張した面持ちで、寒さに少し身を縮こまらせる。
「結」
そう言って、同じくコートを着た誠治はひざ掛けとカイロを渡した。
結は、ほっと力を抜き、笑みを浮かべた。
「急に呼んでごめんな、結」
誠治はそう言って、結を椅子に座らせた。
「ううん、いいよ」
「ここも、図書館の先生に黙って使ってるんだ。暖房とかで暖めておけばよかったけど、持ってこれなくて……」
「大丈夫だよ」
そういって、結はひざ掛けを足にあて、カイロを両手でつつむ。
誠治も、結の向かいにあった椅子に座った。
誠治も結も、それからちょっと静かになる。お互いうつむいて、考え込んだ表情になる。
結が沈黙に耐え兼ねて、口を開こうとした。
「あのさ、結」
しかし先に口を開いたのは、誠治の方だった。
「何か悩んでいるよね」
結は、どう答えていいかわからなかったが、返事をした。
「大丈夫、だよ」
「大丈夫じゃない、よね」
誠治は即答した。結は顔を上げた。誠治はまっすぐ結の目を見ている。
「結が、大丈夫、って言っている時は、つらい時だよ。おじさんやおばさんが亡くなった時も、口癖のように大丈夫、って言っていたよ」
そうか。そうだったんだ。
結は、はじめて、自分のそういったところを知った。
「……もっと、早く言えば良かったけど」
誠治はそう言って、肩を落とし、視線を少し下に向けた。
結は、自分の緊張がほぐれていくのを感じた。
「せいくん」
誠治は視線を上げた。柔らかな笑みを浮かべた、結の顔が見えた。
久しぶりに見る、結の柔らかな笑顔だった。
「ありがとう」
誠治も、口元を緩める。
結は誠治を見て、話を続けた。
「じゃあ、ちゃんと話すね。私も、どう、説明していいかわからないんだけど――」
「うーん、イメージと声、か……」
結の話を聴いた誠治は、右手で顎を触りながら、うーん、と考え込んだ。
「なんか、私、こわくて……」
結は不安げに目線を横にそらし、ひざ掛けの上で両手をカイロで包んで、落ち着きなく、いじっていた。
「でも、その話、きいたことあるな」
結はえっ、と誠治を見た。
「常夜岩の伝説にあるんだ」
常夜岩というのは、鯨神島北西の近海にある島のことだ。島と言っても、鯨神島と常世岩はつながっている。
砂州と呼ばれる、砂の堆積した土地が、鯨神島と常夜岩の間にあるからだ。このような陸続きの島は世界各地にある。日本だと、江ノ島などがそれにあたる。
歪なピラミッドのような形をしており、小さいながらもごつごつと尖った岩は、周囲の、なだらかな、緑あふれる島の中でも浮いた印象を受ける。
鯨神島とその周辺の人々にとって、古来より、信仰の対象とされ、禁足地、つまり入ってはならない場所とされた。
「鯨神島に住む人のなかには、古来から、常夜岩から声が聞こえる人がいたという伝説があるんだよ。7年に一度、声が聞こえてくるという話。それに合わせて祭事もやっていたみたい」
「……知らなかった」
少し驚いた顔をする結に、誠治は頷いた。
「平安時代にあった仁和地震で、その風習も潰えたらしいよ。今、島に住んでいる人の多くは、仁和地震以降にやってきた人がほとんどみたいし」
西暦887年に起こった仁和地震は、西日本を中心に大きな被害を与えた。
結も、昔からの言い伝えで仁和地震という言葉をよく聞いていた。
父親から、鯨神島も大きな被害や、昔から住んでいた人も大勢亡くなり、この地震の前と後で、島の歴史は大きく変わったときいたことがある。
そして、この地震の前の、鯨神島の記録はほとんど残っていない、とも聞かされた。
「そういえば、お母さん、言っていたよ」
結は、亡くなった母親のことを思い出しながら、言った。
結の母親は、鯨神島の旧家の娘だった。母の家は、昔からこの島に住んでいた家柄で、地元住民のまとめ役のような役割も担っていた。
「神坂家は、天孫降臨の頃から、この島に住んでいたって」
「……天孫降臨って、歴史上の出来事じゃなくて、日本神話の話だよ?」
「うん、お父さんも不思議がってた」
結は、この地域の歴史に詳しい父親のことを今度は思い出していた。
「お母さんも、お母さんのおじいちゃん、私のひいおじいちゃんからきいたんだって。ひいおじいちゃんは、倭の国の頃から、うちはこの島に住んでいたって言っていたみたいだよ」
そうなんだ、といって、誠治は右手で口を覆いながら、考え込んだ。
結は、そんな誠治を見て、少し複雑な感情を思った。
誠治が自分のことを思ってくれているといううれしさ、その反面で、心配させたり、迷惑をかけているんじゃないかという後ろめたさのようなものを感じていた。
誠治がうん、と頷いて、結を向いて、少し意を決したかのように、顔を引き締めて言った。
「結、明日、常夜岩に行こうよ」
結は真顔で誠治を見つめたまま固まり、それから、えっ、と返した。
「いやいや、でも入っちゃいけないところだよ?」
「でも、結の悩みを解決する手がかりが、そこにあるかもしれない」
誠治はまっすぐ結を見て、言った。
誠治の表情は、いつになく真剣だった。
困惑していた結も、そんな誠治の表情を見ていたら、落ち着いてきた。
「結、常夜岩へ行こう」
結は、うん、と頷いた。