第2話 関東農業大学附属生物・環境研究センター -東京都小金井市
「ええ、どういうことですか?」
関東農業大学生物学准教授の高野義幸准教授は、東京都小金井市の大学附属生物・環境研究センターにある自分の研究室で、思わず声を上げた。
高野の片耳には、固定電話の、白い受話器が当てられている。
高野は30代半ば。背は平均より少し高いくらいだが、やや痩せている。
色白で、高い鼻、整った顔立ちは、歳よりも若く見せているが、どこか地味で目立たたない。本人が身だしなみを気にしていないことが、拍車をかけていた。
白いシャツと青いネクタイ、灰色のカーデガンを着て、濃い青のチノパンを履いている。
首からは職員証がぶら下がっていた。
彼は自分のデスクの上に座って、電話をしていた。
高野の研究室はひとつの窓と、その前に高野のデスク、部屋の中心にはテーブルと、それを囲むように6つのイスが置かれていた。
壁は2台のデスクトップパソコンを除いて、資料や本がぎっしり詰まった本棚で埋め尽くされている。
デスクの上の電子時計は『2月21日(月) 10時44分』と表示されている。
「……はい、はい……ええ、しかし……ええ? 矢上先生が私を?」
高野が、癖っ毛の頭をポリポリと掻きながら、困った表情をする。
ドアがノックされ、若い女性が入ってきた。
生物・環境研究センターの技術補助員の野崎佑香だ。
二重瞼に切れ長の目、整った顔立ちだが、こちらは華があって、人目を魅く容姿をしている。
しかし、どこか気だるそうな雰囲気があった。
ショートカットで、背の高い、スレンダーな体つきをしている。
緑色のミリタリーモッズコートを羽織って、前を空けている。開けたところから黒いタートルネックがみえ、下はジーンズをはいているというスタイルだ。
肩には黒いリュックを背負い、首には職員証がぶら下がっている。
野崎は、このセンターでは、高野の助手のような仕事をしている。具体的な仕事内容としては、研究データの整理や講義の準備の手伝いなどである。
このセンター以外でも、第一種銃猟免許をもち、猟師としての仕事もしている。
また、東京都の自然保護員のサポートもしているが、こちらはボランティアだ。
「……うーん、わかりました。詳細は23日に聴きます」
受話器に喋りながら、高野は、野崎の方を見て、右手を軽く上げた。
「ああ、では、こちらからも、随伴者を一人連れて行っても大丈夫ですか? ええ。随伴者の名前? 野崎佑香、私の研究所で助手みたいな仕事をしています」
野崎は、ドアの前で立って、高野を見ながら思う。
何か、良くない出来事に巻き込まれそうな気がする。
「では、そういうことで。はい、では、まず、23日の水曜、10時に……ええ、場所はだいたい……はい。よろしくお願いします」
野崎が、近くにあるメモにペンを走らせながら、頷く。
その話の内容が、野崎の不安を妙に喚起させる。
高野が受話器を降ろし、佑香の方を向く。
「高野先生、おはようございます」
野崎がお辞儀をする。すっと、姿勢の整った、綺麗なお辞儀だ。
「野崎さん、おはよう。さっそくなんだけど――」
「いやです」
野崎は高野の方を見て、きっぱり断った。
「いやあ、仕事だからさあ……」
困った表情をした高野の言葉に、野崎は、はぁ、とため息をつき、ドアから、部屋中央にあるテーブルへと向かう。
「話を続けてください」
彼女はそう言いながら、テーブルの上にリュックを降ろす。
高野はデスクから椅子に腰を下ろした。それから、野崎の方を見据える。
「まず、これから話すことは、誰にも話してはいけない」
野崎は、はあ、といって頷いた。
ますます、いやな予感がする。そう言いながら、テーブルの横にあった椅子に座る。
「例の、四国の未確認飛行物体で、政府内に、極秘の調査チームを設置することになった。そこのメンバーになれと言われた」
「極秘の調査チーム? 有識者会議ではないんですか?」
野崎は今朝のニュースを思い出しながら、言った。
「どうも違うらしい。というより、有識者会議の下にある調査チームだって」
「それ、怪しげな電話じゃないんですか?」
野崎は眉をひそめた。
高野は、そうだったら、どんなに良いことか、とつぶやいた。
「内閣府の官僚直々の電話だった。10時頃に、農水省の佐藤事務次官から電話があって、10時半に内閣府から電話があるからよろしく、って電話があった後でね」
高野は、農林水産省ともつながりがあった。
彼は、鳥獣害の研究をしており、有害鳥獣の研究や対策に関する政策や方針に関して、農水省に頻繁に赴いたこともあった。
佐藤事務次官とはその頃からのつながりだった。
高野は、ざっくばらんに自分の仕事を、一般的に説明する際、一言で「生物学者」と言っていた。
厳密にいえば、高野の専門分野は動物行動学と生態学だった。
動物行動学は、文字通り、動物の行動を研究する学問で、生態学は、生物と環境との関係について研究する学問だ。
しかし、気が付けば、さらに色んな分野に少しずつ手を出し、また多くの業界や分野からの声に応じて、多くの仕事もこなしていた。
ここ最近の彼は、自分がオーバーワークになっていることを後悔し、いくつかの仕事から手を引きつつある。
「その仕事も断ればよかったじゃないですか?」
野崎が言うと、高野は頭を抱えて、うーん、と唸った。
「10分位粘ったんだけど、折れてしまった……矢上先生からの推薦もあるとか言われたし」
高野は、今、京都にある国立大学の名誉教授をしている恩師の名前を口にしながら、両手で髪の毛をくしゃくしゃといじった。
野崎は、また、ため息をついた。
「――で、なんで私も呼ばれたんですか?」
「どうも四国山地に入る予定があるらしい、現地調査だ。君の手が要る」
「四国山地ですか。去年、剣山に登ったことがありますが、とても良かったです。山頂から望む、四国の山々は本当にきれいだった……」
そう言いながら、まるで、好きな異性のことを考える少女のようなまなざしと柔らかい表情で、天井を見ていた。彼女の目には剣山山頂から望む四国山地が見えているに違いない。
高野は、そんな彼女をほくそえみながら見ていた。
彼女、山や動物のことになると、ちょろいな。
「しかし、四国山地は雪が降りますからね。防寒対策や雪山登山の準備をしておかないと」
彼女はふと我に返って、現実的な問題を指摘した。
「うん、内閣府の人も同じこと言っていたよ。2月末から3月はじめに入る予定らしい」
顎を右手で抑えながら、真剣なまなざしで考え始めた野崎に、高野が言った。
「急ですね」
「うん、色々と急で、ね。しかも、この仕事を最優先してほしいって言われた」
「私もですか?」
「そうなるよね」
ちょっと驚いた表情で、野崎は高野を見ている。
高野も、少し困った顔をしている。
「私も他の仕事は後回しになった。大学にもそう根回しをするらしい。野崎さん、他の仕事は?」
「いや、3月中旬までは何も」
「あれは。ほら、自衛隊の」
高野は右手の人差し指を突き出して、くるくる回しながら、左手で頭を抑えて言葉を出そうとする。
「ああ、今年度の予備自衛官の訓練は、去年の8月やったので終わりです」
あっ、そうなんだ、と高野は指を止め、左手から顔を話して答えた。
予備自衛官とは、退役した自衛官などが、通常は他の職に就き、有事の際に招集がかかったら、自衛官として活動する制度のことだ。
他の軍隊ならば、予備役に相当する。
野崎は、数年前、陸上自衛隊にいた。
2年ほど隊員として所属していたが、やはり自分には向いていないと思い、自衛隊を辞めた。
だが、手当てをもらえるのと、年に一度5日間訓練するくらいなら刺激がある、という理由で予備自衛官には登録している。
「じゃあ、そういうことで頼むよ」
高野は指を引っ込め、手を降ろして、言った。
「わかりました……」
野崎は、あからさまにしぶしぶといった顔で返事をした。
高野は苦笑いをしている。
「で、明後日、23日の水曜、10時に第1回会合がある。誰にも本当のことは言わず、こっそり来いって」
野崎は、ジト目で口を開け、えー、という顔をしている。
「早急ですね。場所はどこなんですか?」
「立川の国立極地研究所」
高野の言葉に、野崎は、目を開け、口を大きく開けたまま、は? という顔をする。
国立極地研究所は、南極と北極に関する地理や生物など、様々な調査、研究を行っている機関だ。東京都立川市に所在する。
「ここなら、怪しまれないから、っていうのが理由らしい。表面上の名目は『南極における生物学的実地調査の研究会合』となっているみたいだ」
若干引き気味の野崎を見ながら、高野も苦笑いを浮かべている。
「……ますます怪しいですね」
「だよね。やっぱ、辞めればよかった」
頭を抱えて唸る高野を、野崎は冷ややかな目で見ていた。