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月下桜

作者:

 下弦の月、華奢な白い手。パチッとした彼女の目にはきっと僕しか映っていなかっただろう。

 吸い込まれるような真っ黒な瞳に、自分の顔が映りこんでいたことを僕はよく覚えている。

 三月の月明りに映る君の顔は、どこまでも澄んでいて、美しかった。



 どこの学校にも都市伝説や噂がある。トイレの花子さんや、動き出す人体模型なんかはその代表だと思う。

 ただ、僕の通う学校で最も有名な噂は「桜の木に見守られながら異性に告白すると必ず成功する」という、これまたありきたりな、だがとてもメルヘンチックなものだった。

 今でこそ桜の樹に人が集まることはない。それでも春の気配とそのジンクス、そして艶やかな花弁に魅了され、卒業式を前にソワソワする生徒は男女ともに多い。

 僕はというと、そういうイベントには縁がなく、挙動不審なクラスメイト達を横目に見ながら淡々と卒業式を迎える予定だった。

 そう、あの日までは。


 入試試験も全日程が終了し、授業があるわけでもない二月の終わり。暦の上では春になり、暴風雨も通り過ぎたが本当の意味の春の足音はまだ遠い。桜の樹はまだ開花する素振りも見せず、物も言わずそこに立っていた。

「よう」

「おう」

 味気のない挨拶を交わしながら生徒玄関へと向かう。三年近くほぼ毎日通っているが、校長が口にする「明治時代建築の粋を集めた芸術的美しさ」は微塵も感じず、むしろあちこち痛みの激しい外観に舌打ちしたくなるような感情を覚える。

 部活動のある下級生は早朝から登校することも多いが、三年生はその部活がないため自然と登校時間が遅くなる。そもそも「受ける授業がないから登校する意味がない」と言って学校をさぼり、車の運転免許を取りに行く生徒がいるくらいだから、この時間帯に顔を出す三年生の絶対数は多くない。先程挨拶を交わした生徒も、そんな希少種の一人だ。

 卒業まで残り一週間。惰性で学校に来たことを軽く後悔しつつ下駄箱の扉――建付けが悪いせいかとんでもなく開けにくい――を開けると、中から封筒が一つ飛び出した。

 白地に水玉模様がプリントされたその封筒は、誰がどう見ても女子が使いそうなデザインだった。表には、いかにも女子らしい丸みを帯びた字で「高木たかぎ 深戸みと 様へ」とある。僕の名前だ。裏面を見るが、差出人の名前はない。

 真っ先に桜の樹にまつわる都市伝説を思い浮かべたが、すぐに考えを改めた。数こそ少ないが、都市伝説を隠れ蓑にいじめのターゲットに恥をかかせるべく樹下に呼び出すことがあることを、知識として知っている。

 それでも僕は封筒を開けた。丁寧に封を破くその手が震えているのには我ながら滑稽だった。落ち着くべく深呼吸を一つ入れてから、震えの止まらない指先を再度動かす。

 中身の便箋は無地に罫線のあるもので、書かれている文字は一見すると同一人物のように見えた。書かれている文字を読んだ僕は一瞬心臓が止まるような思いがした。

 視線の先には、短い文字でこうあった。

『来週の水曜日、夜八時に桜の樹の下でお待ちしております。 八神 芽衣』


 八神芽衣を「高嶺の花」と称す男子生徒は多い。

 保健委員の長を勤め、成績は常にトップクラス。高校を卒業した後は欧州のどこかの国に留学する予定という文字通りの才媛。加えて容姿も申し分なく、街を歩いていたらスカウトされたという噂もまことしやかに伝わっている。

 会計委員長を担っていた僕とは生徒会などで顔を合わせる機会はあるが、特に親しいという自覚はない。彼女が花なら、僕はそれを遠くから眺めているだけの雑草に等しい。

 そんな彼女がなぜ。疑問こそ尽きないが、悪戯なのではという疑念は結局頭から離れない。

 もやもやした思いを抱えながらも、手紙を誰かに見せるわけにもいかず通学カバンの中にしまう。万が一手紙をもらったことを誰かに見られて、変なことを吹聴されてしまうと困る。僕は内心の動揺を顔に出さないまま、遅刻にならないぎりぎりの段階で教室に滑り込む。

「高木、遅刻だぞ!」

「……すいません」

 残念なことに完璧だったはずのタイムテーブルは予期せぬ手紙一枚で大きく崩れてしまったようだ。


 以前はさぼりたいときや一人になりたいときは屋上を使っていたが、それまで壊れていて役目をはたしていない鍵が取り換えられてしまい、入ることが出来なくなってしまった。

 代わりに使っている体育館の屋外階段の踊り場からは校庭を一望でき、その端には件の桜の樹が植わっている。数日前まで寒波が来ていた影響か、蕾が膨らんでいる気配さえない。周囲には、立ち入りを規制するために黄色いテープで囲いがされている。体育の授業がないせいか、下級生を含めて生徒の姿はない。

 フェンスに身体を預けて呆然と階下を眺める。顔は呆けている自信があるが、心臓と頭は忙しなく動き回っている。

 一体誰が僕を呼び出したのだろうか。それが八神であったとしてもそうでなかったとしても心臓の鼓動は変わらない。結果が違うかもしれないというだけのことだ。

 こういう時、深く考えたところで答えが出ないことを経験上僕は知っているので、とりあえず考えることを止めて誰かが置いたパイプ椅子に腰かける。二限目の校舎は静寂に包まれており、幸か不幸か授業をサボる学生の声も、遅刻を悪びれず登校する不届き者の声も聞こえない。

「…………」

 目を閉じて寝ようかとも思ったが、不眠症の症状が邪魔をする。仕方ないと自分に言い訳しながら、八神との記憶を呼び起こす。

 ぽんぽんと思い出される記憶は多いが、そのどれもが生徒会活動の一環だった。会計委員長として生徒会予算の権限を握っていた僕は、必然的に他の委員長と会話をする機会が多い。細かな備品等の購入で頻繁に相談を持ち込む保健委員と彼女はある意味「上客」ともいえる。保険委員長はある事件のせいで副委員長の欠員状態が続いていたから、事あるごとに彼女と折衝していた。

 ……そういえば、と脳裏によぎるものがあった。


 あれは確か、新年度が始まって二か月が過ぎたころだったか。

その当時僕は会計委員長最大の悩みにして全校生徒参加の大イベント、体育祭の開催に向けて各委員会の予算をめぐる調整に頭を抱えており、予算の配分を練るために生徒会室にこもっていた。編成の大枠は完成していたが、実行委員から予算の増額を求められており、その原資をどこから補填するかで悩みぬいていた。

 どの委員会とも交渉を続けた結果かなりの部分において妥協してもらった分、実行委員の増額を呑む――それは翻って自分達の予算が削られることを意味する――委員会があるとも思えず、途方に暮れていた。

「あれ、高木君じゃん。お疲れ様」

「……ああ、八神か。忘れ物か?」

 不意に斜め上から声がしたので視線を上げると八神がいた。好奇心旺盛な眼差しが僕を、というか僕が作成している予算書に向いている。ちょっとだけ覗いた八重歯が妙に印象的だった。

「う~ん、シャーペン忘れちゃって……ねね、それ体育祭の予算書だよね?うわ~大変そうだね」

「まあな。とはいえ、大変さでは八神も同じだろ。二か月前だっけ、副委員長があんなことに巻き込まれたの?」

 数学の問題集より解きにくい難問に直面していたこともあり、殆ど反射的に言葉を返す。

「え、うん。そうだね。菜々美の事は残念だけど、これが終われば大きなイベントは終わりだからもうひと頑張りかな」

 もう一度視線を上げると、彼女は笑いながらガッツポーズをしていた。男性受けする容姿と女性にも支持を得られやすいその言動が彼女の人気を支えていることを僕はよく知っていた。

「高木君の方はどうなの?予算書、もうひと踏ん張りってとこ?」

「まあな。ただ、実行委員会の予算を捻出するのがかなり厳しいんだよなあ」

 苛立ち交じりに髪の毛をガシガシとかきむしる。そんな僕が作成した予算書を興味ありげな目でじっと見つめていたが、やがてぽつりと呟いた。

「……うん。あたしの委員会から少しだけ引いていいよ?」

「……マジ?」

「マジもマジ。その位の超過なら、旧校舎の備品をかき集めれば足りそうだから、浮いた分をまわしてあげて」

「超助かる。じゃあ、このくらいでどうだ?」

 即興で二重線を引いて、新しい予算額を赤字で書き込む。減少幅としては数万円程度だが、この内容で承認してくれれば本当にぎりぎりだが予算の範囲内には収まる。

八神は数字をじっと眺めていたが、やがて最初に見た時と同じ笑顔で「オッケー!」と朗らかな声を出した。

「これで、予算の範囲内だな。良かった……終わった」

「お疲れ様!」

 面倒な作業から解放された僕に、八神はバッグからジュースの入ったペットボトルと紙コップを取り出してきた。

「部活の後輩に差し入れで持ってきたんだけど、余っちゃって。よかったらどう?」

「貰っていいの?」

 形式的に確認はとったが、その時点で既にコップにはカルピスが並々と注がれた後だった。

「どうぞどうぞ」

「じゃあ、有難く」

 お礼代わりに乾杯の仕種をしてから一気に飲み干す。ずっと缶詰状態で飲まず食わずだったためか、飲んで初めて喉が渇いていたと思い知った。

「ねえ、高木君って彼女いるの?」

 もう数秒早く聞かれていたら、カルピスを盛大に吹き出していたかもしれない。

「な、なんだよ急に」

「ううん、なんとなく。ねえねえ、誰か女子に告られたことないの?」

 やけにノリノリで聞いてくる彼女の一面に困惑したが、僕は努めて普通に答える。

「一度だけあったけど、断った」

「え、なんで?」

「なんでってなんだよ」

 僕は女性が得意ではない。以前、ある女子生徒に交際を申し込まれた際のことが思い出される。僕は興味がないので断ったのだが、相手がしつこく食い下がってきたのだ。その時の一連を思い出すだけで、触れたくないものに触れてしまった不快感と苦々しさが口の中に広がってくる。

 だが八神にそんなことを説明しても意味はないので、適当にはぐらかした。彼女は「ふーん」とだけ零したが、直後ににやりと笑った。

「じゃさ、私とならどう?」

 もう二十秒くらい早く聞かれていたら、間違いなくカルピスを吹き出していた。

「はあ!?」

「冗談だよ」

 ケロッとした顔でそうのたまってから、悪戯っぽい笑顔を浮かべる彼女を見て、してやられたという気持ちに陥る。

「からかって楽しいかよ」

「まあ、それなりに?」

「八神はそういうことしないと思ってたよ」

 せめてささやかな反撃になればいいと皮肉を混ぜて返したが、彼女の反応はほぼ皆無と言ってよかった。

「さて、私は行くね。高木君も早く帰った方がいいよ」

「……ああ。そうさせてもらう。ただでさえ心臓を鷲掴みにされるようなイベントがあったばかりだしな」

「もう。そんな言い方する?」

 加害者が被害者に文句を言う。そんな理不尽があるだろうか。

 複雑な感情にしかめっ面をする僕の事なんてまるでお構いなしに、彼女は「またね!」と言って生徒会室を去っていった。


「あったなあ。そんなこと」

 腰かけたまま天を仰ぐ。思わずつぶやいた一言は青空に紛れて消えていく。

 あの時去り際に一瞬だけ振り返った八神の顔は、面白いものを見つけた子供のようにキラキラしていた。なんとなく、あれは上手くからかえたことに対する満足感のようなものだと思っていたが。

「……まさかな」

 あれがもし「からかい」ではなく本心だったとしたら。頭を振りたくなる思いと、認めたいような思いがぐちゃぐちゃにかき混ざっていき、冴えた頭が急速に混迷を極めていく。

 ただ一つ言えることがあるとすれば、あの手紙が本物である可能性が増えてきたということか。

「…………」

 誰もいなくてよかった、と思う。頬が緩んでいるのが自分でもよく理解できた。


 日めくりカレンダーをめくるのと同じくらい淡々と、それでいてリズムのように一定の間隔で日々は過ぎていく。三年生の登校日に顔を出したが、八神の姿を見かけることはあっても声をかけることはできなかった。視線が合うこともなかった。

 悶々とした不安と期待を内包し、かといってぶつける先もなく結果として膨れ上がった感情を持て余したまま当日を迎えてしまった。

 当日、それは奇しくも卒業式当日。高校の制服に袖を通す最後の日。

 学校に着いてクラスメイトや教師陣と挨拶を交わす。もしあの手紙をもらわなければ、「この挨拶が最後の挨拶なんだよなあ」と感傷に浸っていたかもしれない。だが、夜に控える大一番の存在がそういう感情を吹き飛ばしてしまう。

 以前はあの手紙が本物である理由付けを見出して浮かれていたが、その後日を経るに従ってその根拠は勢いを失い、今度は別の可能性をどうしても考えてしまう。浮き沈みが激しいのはわかっていても、どうすることもできない。

 そんな僕の揺れ動く内心などまるで存在しないかのように、卒業式は粛々と執り行われる。生徒会長に卒業証書が授与され、在校生が送辞を述べる。校歌斉唱も校長挨拶も特に混乱もなく進んでいく。

「――皆さんにはこのことを胸に刻み、人が苦しんでいたり悩んでいるときは優しく手を差し伸べる、そういう大人になっていただきたいと願いつつ、贈る言葉とさせていただきます」

 そんな締めの言葉の後に拍手がわく。胸が締め付けられる思いでその言葉を聞いていたが、その時どこかから視線を感じた。式本番で大きく首を振ることなんてできないので視線だけでどこからのものかを探る。幸いにも、視線の送り先はすぐに見つかった。

 八神だ。

 彼女の目が、まっすぐに僕を見ていた。卒業式の途中で感極まったのか、その頬には涙の後のようなものが見て取れる。ただ、その視線はとても力強かった。

 心臓がドキッと跳ねた。きっと、「心臓が口から飛び出る」というのはこういう時に使うのだろう。

 そんな僕の内心が表情に出ていたのか、八神は小さく微笑んだ。そして僕から視線を外し、まっすぐに壇上を見つめた。

 

 あの微笑みには何の意味があったのか。確認したかったが、結局卒業式後に彼女と顔を合わせることはできなかった。まるで避けられているかのようだが、その疑いに白黒はっきりつけるだけの根拠は当然ながらない。

 結局もやもやした気持ちのまま卒業式はつつがなく終了し、僕は家にたどりついた。

 この春から留学のためにオーストラリアへ行くことが決まっている。ホームステイなのでまとめる荷物は少ないが、それでも衣服の類や本類を持っていくことにしているので部屋には段ボール箱が散乱している。荷造りはまだ途中だが、来週の木曜日までには間に合わせないといけない。

 無心になって作業をしている間に時間は過ぎ、そろそろ出発しないと約束の時間に間に合わなくなるというところまできた。私用時に使う鞄に貰った手紙を入れて肩にかけ、三年間使い続けた自転車にまたがる。

 春の足音は近づき、卒業式当日には桜の樹も色づき始めていた。とはいえ夜の町はひんやりとした風が吹き抜け、うっすらと肌寒い。町中を転々とつなぐ街灯の明かりに沿うように自転車を走らせる。まだ夜は始まったばかりだが、人の数はやはり昼と比較すると少ない。

 高校は小高い丘の上にある。「心臓破り」と言われる坂を抜けるころには人影すらなく、街灯もいよいよまばらになる。遠くに鎮座する学校舎に明かりの灯っているところはない。

 いつもの癖で生徒玄関の駐輪場に自転車を止め、早足で校庭に向かう。闇になれてきた目を凝らすが、八神の姿は確認できない。冷静になって時計に目を落とすと、約束の時間までまだ十分ある。

 僕は桜の樹が見える物陰に身を潜め、様子を伺っていた。ことここに至っても、僕はあの手紙が本当に彼女のものであるか確信を抱けていない。故に警戒は怠らない。随分と臆病というか、周りを気にするようになったと我ながら思う。

 心臓がどきどきする。この先に待ち受けているのは希望か失望か。どちらの予感も脳裏をよぎる中、一分、また一分と着実に時は僕を通り越していく。

「……来た」

 およそ五分前だろうか。桜の樹の前に、今までなかったシルエットが浮かぶ。下弦の月の光は薄雲に覆われてか弱く、顔を識別することはできない。だが立体的な影が、そのほっそりとした姿が女性であることをうかがわせる。

 見た感じではスカートを穿いているようだ。

「…………」

 少しの間逡巡して、ボクは答えをはじき出した。否、元々答えは出ていたに等しい。ここまで来て、彼女がボクに言いたいことを確認しなければならない。

 その覚悟を乗せて足を動かした。向こうはまだボクに気づかない。……いや、違う。彼女は気付いていて、敢えてボクと顔を合わせないようにしていた。

 月の明かりと、ようやく桃色の蕾が膨らんできた桜の樹を立会人に、ボクと八神はそろって同じ場所に立つ。

「……来てくれて、ありがとう。高木君」

「手紙貰ってから一度も会えないとは思わなかった」

「色々準備があって……遅くなってごめんね」

 気にするな、という意思表示を乗せて肩をすくめてみる。彼女の黒い眼が、ボクのそれを掴んで離さない。吸い寄せられそうな魔力でも持っているのか、ボクの目が離れることを許してくれない。

「それで、こんなところに呼び出して何の用なんだ?」

「うん……」

 彼女が胸の前で手を組んだ。祈るような姿。喉を鳴らし、意を決するその一挙手一投足がよく見える。

「私、ずっと言いたかったことがあるの。今日、貴方をここに呼んだのは、どうしても聞きたかったことがあるから」

 ……心臓の早鐘が一瞬、止まった。何か嫌な予感がする。

 それは、言葉だけが理由ではなかった。何かどす黒いものが彼女から噴き出ているような、そんな恐怖心がボクを掴む。


「ねえ、菜々美を殺したのは、キミだよね?」


 色が、抜け落ちていく。時間が音を立てて止まる。

 今彼女は何と言った?言葉の意味は知っているはずなのに、その言葉が像を結ばない。

 表情は平静を取り繕えているか。冷や汗を流してはいないか。

 最早温度も湿度も関係ない空間の中で、僕はひたすらにそんなことに思いを巡らせていた。

「答えて。私の友人でもあった伊坂菜々美を屋上から突き落としたのは、キミだよね?」

 確認の意味はなかった。そこには「確信」があった。彼女は僕を殺人の犯人だと思っている。

「今」が砕けた強化ガラスのように粉々になる。そして再構築された世界は、あの日に戻っていた。


 一年前の三月に。


 きっかけは、噂を聞いたことだった。

「『桜の樹に見守られながら告白すると必ず成功する』という噂を逆手に取った悪戯がある」と。

 二年生の冬、その噂を聞いた時点では「そうか」位にしか思わなかった悪趣味な悪戯をもう一度思い出し、実行に移したのには二つの理由がある。

 一つは、この直前にあった定期テストと模試の結果がまるで奮わず、志望校の合格判定がE判定だったこと。そしてもう一つ、伊坂菜々美が僕を好いていると確信したからだ。

 伊坂とは、以前から時々視線がぶつかる感覚があった。だからといって自分が彼女に好かれていると自惚れるほど僕は自意識過剰ではない。放課後、通りがかった図書室の前で彼女たちのガールズトークが耳に入ってこなければ、あんなことにはならなかったはずだ。

「ほら~。あたしが言ったんだし、次は菜々美の番だよ」

「……え~えっと。私は、会計委員長の、高木君……」

「あ、彼。生徒会の仕事で時々会うけど、何考えてるかわからないよね」

「そうかな~。あたしはそのミステリアスさが逆に……」

 声が少しずつ遠ざかっているのを確認しながら、ボクは傍にあったゴミ箱を蹴り飛ばした。

 苛立っていた。試験の成績で自分はこんなにも苦しんでいるというのに、何故好きでもない女子の噂の種にならなければならないのか。

 その身勝手で理不尽極まりない怒りの矛先が向いたのが、伊坂菜々美だった。

 何をするかは、その時点でもうある程度決まっていた。


『放課後、屋上に来てください。くれぐれも他言無用でお願いします』

 スマホのメッセージアプリではやり取りが後に見られる可能性がある――悪戯感覚とは言え、変なところから足がつくのは嫌だった――という理由で、僕は便箋を使って彼女を屋上に呼び出した。

 屋上の鍵は相変わらずあってないようなもので、僕は難なく鍵を開け、屋上で彼女を待つことにした。階下には、桜の樹がよく見える。

「高木君、お待たせ」

 フェンスに身体を預けて外を見ていた僕に、伊坂の声が降りかかる。

 振り返ってみると、伊坂が少し離れたところにいた。急いでここまで来たのか、それとも恥ずかしいのか顔が上気している。この呼び出しが何を意味しているのか、その「本来の意味」を知っているのは一目で明白だった。

「すまない。急に呼び出して」

「それはいいけど、どしたの?」

 菜々美の、少し舌足らずさを感じさせる声がそう尋ねた。元来の童顔、背の低さ。中学校の制服を着せればそのまま通ってしまいそうな見た目。

 はっきり言ってしまえば、僕が彼女を好きになる要素は全くなかった。

「『桜の樹が見えるところで告白すると、それは必ず成功する』んだってね」

「そ、そうらしいね……」

 面白いくらい素直な反応が返ってきた。笑いをこらえるのに苦労する。

「だけど、告白しなければ思いは成就しないよな?」

「……え?えっと、それって……?」

「悪いな。僕は伊坂の事を何とも思っていない。この呼び出しは、伊坂が僕を好いていることを知った上で僕が仕掛けた悪戯だ。改めて言うけど、僕は君のことを何とも思っていない。君が僕の何に惚れているかわからないけど、諦めて欲しい。絶対に無駄になるし、何より僕にとって迷惑極まりない。いいね」

 言うだけ言った。心を抉って、砕いて、砕いたものをさらに踏み躙った。不気味な高揚感が僕の中に充満していった。期待が一瞬で壊れ、さらにぐずぐずにされていく。

 伊坂の表情はまさに天国から地獄へだった。僕の発言がすべて終わるころには、能面のような表情をしていた。後で思い返すと、あれは絶望の表情だったかもしれない。

「じゃあね。もう僕の話を人にしないほうがいい」

 棒立ちする彼女の横を通り過ぎ、屋上へと繋がる扉を閉めた。

 率直に言おう。この時僕には罪悪感など全くといっていいほどなかった。むしろ歪んだ清々しさと達成感が支配していた。それがとんでもない傲慢であったことに気づくのは、そのほんの十秒後くらいの事である。

 何か固いもの同士がぶつかる嫌な音がした。何が起こったか、かなり精度の高い予感があった。だがそれを信じることはできなかった。必死に湧き上がる感情を抑え、手近にあった窓から様子を確認する。

 最悪の予感は見事に的中した。

 僕は自ら直接手を下さず、言葉だけで伊坂菜々美の命を奪ってしまったのだ。


 その後の騒ぎは小説の中であったのとほぼ同じような展開になった。

 警察が学校に立ち入り、あれやこれを調べていく。報道機関は餌に群がる蟻のように現場を写真に収めては僕達の声を拾おうと躍起になり、生徒は皆一律に神妙な面持ちをし、その日は授業を受けることなく帰された。

 そうした突風みたいな大騒ぎが過ぎ、しばらくして全校生徒と保護者――ただし、彼女の両親だけは何故か出席しなかった――を対象にした集会が開かれた。

 そこで校長の口から発せられたのは「彼女は自殺である」こと、「自殺の原因は両親との不和」であること、「遺書はおろか、手紙のようなものもなかった」ことだった。実際にはもっと長く色々と説明していたが、途中からほとんど覚えていない。

 ただ、警察や教育委員会、そして学校による調査でも僕へたどり着くことができなかった。その事実だけが僕を安堵させた。

 

「……どうして?」

僕は全て吐き出した。飲み込めもせず、吐くことも出来ず、体に蓄積し続ける毒にも似た秘密を。

全てを聞き終えた八神は絞るような声でそれだけ呟いた。

「さっきも言った。僕のストレス発散だ」

「貴方のその身勝手さが、菜々美を殺したのよっ!」

校庭に凄まじい量の怒りと叫びが木霊する。桜と月は物も言わず、二人の成り行きを見守っている。

「……そうだ。僕は伊坂を殺した」

「でも、貴方は逮捕もされずここにいるじゃない」

「僕は彼女の自殺を助けたわけでもなければ、彼女を殺したわけでもない。だから罪にはならない」

 伊坂の自殺の原因は、長年にわたる母親との不和であり、僕の行為はいわば「背中を押した」ものである。こうした場合、法的な責任に問うのは難しいとインターネットには書いてあった。

 そして事実こうして僕は一般人として生活している。

「仮に僕の発言で殺人になるようなら、絶対的な証拠を突きつけられない限り僕は絶対に認めないだろうね」

 肩をすくめる僕に、少し前屈みになった八神の視線が突き刺さる。頬を伝う涙の元からびんびんに伝わってくる強い敵意。彼女の喪失と、その一端を担う僕への怒りが全ての原動力になっているようだった。

「ところで、僕からも一つ」

「人殺しの事実を吹聴されたくないっていうのならお断りよ」

「そんなこと言ったところで無駄だと思ってるからしない。それより、どうして僕が関わっていると思ったんだ?」

 当然だが僕はこのことを話したりしていない。ならば彼女はどこで糸口を見つけ、どうやってこの場を演出したのか。それは事件と関係ないところで興味があった。

 口の端で「なんだ、そんなこと」と嘲るように言ってから、彼女は少しずつ話し始めた。いつの間にか、彼女の手には通学用の鞄があった。

「前に体育祭の予算編成があったときに、あんた私にこう言ったのよ。『副委員長があんなことに巻き込まれたの?』って」

 あまり詳しく覚えていないが、そんなことを言った気がする。だがそれが何だというのだ。

「おかしくない?菜々美は自殺よ。彼女が私を『巻き込んだ』ならまだしも、『彼女が自殺に巻き込まれた』というのはおかしいわ。どんなことがあっても自殺は本人の意志。第三者がとばっちりを食らうことがあっても、自殺者が巻き添えを食うなんてことは考えにくい。その言葉を聞いたときに思ったの。『この人、菜々美の死が自殺じゃないと知っているんじゃ?』って」

「……そこらの探偵より鼻が利くんじゃないのか?」

 些細な言葉の使い方だと思って軽く返してしまった僕も軽率だが、その言葉で僕に疑念を向けた彼女の知性を、僕は素直に称賛した。

「お褒めにあずかりどうも。……それで、私はあんたを調べたの。そしたら、あの日あんたの友達が、菜々美の下駄箱に何か入れているのを見たっていうの」

「…………」

あの下駄箱は建付けが悪く、伊坂のところも力を入れないと開かず苦労したのを思い出した。苦々しい記憶に舌打ちが混ざる。

「残念ながら手紙の内容はわからなかった。菜々美は誰にも見せず、すぐに破いて捨ててしまったようね。でも、あんたが何かの事情を知っている可能性は高い。だから今日、あんたをここに呼びだした」

 なるほど、と僕は努めて冷静に返した。その裏には余裕もあった。ここでどんなに八神が騒いでも、また今後警察に行くなどしても、僕が刑事罰を受ける可能性は低い。

 この段階に至ってもなお、僕は伊坂への件を「不幸な他人の事故」くらいにしか思っていなかった。勿論、罪悪感が全くないと言えばうそになる。だが最終的に死を選んだのは彼女自身であり、僕が促した事実はない。この件が在学中になれば、僕の将来に悪い影響がある。そういう言わば「厄介者」程度の認識しかない。

 その意識は彼女にも伝わっていたのだろう。相変わらず漲る敵意はそのままで、溢れ出る涙を拭いもせず、だが呆然と立ち尽くしている。

 せめて僕が反省と後悔の念を口にしていればまだ違っただろうが、その欠片すら見せない僕に色々なものの許容量が振り切れてしまったようだ。

「もういいだろ。僕はこの辺りで帰らせてもらうよ」

 一方的に宣言し、踵を返す。相変わらず広い校庭には誰もおらず、月明かりの薄い光がわずかばかり外周を映し出すのみ。

 彼女の言葉を待たず、月と桜にも背を向けて数歩歩いたところで、何かが背中からぶつかった。同時に突き刺さるような鈍い痛みが全身を襲う。

「……あんた、菜々美と同じであの手紙誰にも見せてないでしょ。つまり、今あんたがここで会う相手を知っているのは、世界で私唯一人」

 少し離れたはずなのに、八神の声が酷く近いところで聞こえる。何が起こったか理解できず、状況でも把握したいと振り返ろうとするが。

――ガクッ

 逆に全身から一気に力が抜け、膝から崩れるようにその場に伏せってしまう。慌てて起き上がろうとするも、体が思うように動かない。

 まさか。

「こうなる可能性は予見出来てなかった? 学年トップクラスの成績であるあんたも、大したことないのね」

「て、てめえ……」

「人殺しめ」

 その冷たい声は、大した音量でもないのに校庭中に響き渡った気がする。

 背中の一点が熱を持つ。激痛が体を襲う。背中を何かに刺されたようだが、必死になって手を伸ばしても流れる血以外に掴めるものはなかった。

「お、お前、『本物の』人殺しになるのか……」

「冗談。人殺しに本物も偽物もないわ。私もあんたも、等しく『人殺し』よ」

「ふ、ふざけるな……!」

 視界が滲む。月が三つに分裂していた。もがこうとするも、既に手足が言うことを聞かない。

 後ろにいたはずの八神が、いつの間にか僕の真正面にいた。殺気は失せ、むしろ清々しい笑顔さえ覗かせる彼女の右手には、真っ白なハンカチを取っ手に巻いた一本の包丁。べっとりとこびりついた液体は……。

「最後に一つ、いいことを教えてあげる。私、明日から留学でオーストリアに行くの。その先も、日本に帰ってくることはもうないと思うわ。言っていることの意味がわかる?」

「……な……んだ……と」

 それはつまり……。だがその次の思考はふっつりと途切れてしまい、導けるはずの結論が導けない。

 意識が掠れていく。文字通り残り少ない命の灯を使い果たすかのように俺は叫んだ。

「卑怯者! 人を殺して裁かれないなんて、そんな身勝手が許されるか!?」

 俺の精一杯の、文字通り命を賭けた獣のような叫びに八神は表情を消した。そのまま、その表情から眉一本動かすことなく、八坂は屈みこんだ。そして両手で包丁を握り直しながら倒れ伏す俺を一瞥した。

 最後の表情はとても穏やかな笑顔を浮かべており、

 最後の一言は、恐ろしく無感情で氷のように冷ややかだった。


「あんたがそれを言う資格はないわ」


 もう一度の鈍い痛み。そして弾き飛ぶ桜の花びらにも似た血飛沫。

 何が起こったのか正確に理解するのより先に、全てが黒く染まっていく。


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