87:絶望
「私、鷹緒さんに話が……」
理恵と茜が、沙織を見つめる。鷹緒はそばにあった机に座り、頷く。
「……そうだったな。じゃあ、沙織は後で俺が送るよ」
「そう。じゃあ、今日はこれで……」
理恵と茜はそのまま事務所を出ていった。
事務所には、眠った広樹のほか、鷹緒と沙織だけになった。広樹はソファへ横になり、大きないびきで熟睡している。
「相変わらず、すげーいびき」
苦笑して、鷹緒が言った。沙織は押し黙っている。そんな沙織を、鷹緒が見つめた。
「おまえは大丈夫なのか? さすがに疲れてんだろ」
「……大丈夫」
重苦しい雰囲気に、鷹緒は小さく溜息をつく。やがて沙織が口を開いた。
「鷹緒さん、本当に行っちゃうの?」
「……うん」
「どうして……私の気持ちに、気付いてるくせに!」
思わず大きな声で、沙織が言った。その目は熱く、鷹緒を見つめている。
鷹緒は机に腰をかけたまま、沙織を見つめた。
「……じゃあ、おまえは俺にどうしてほしいの?」
「どうって……」
「俺は日本を離れる。それは変えられないし、決めたことだ」
静かな言葉だったが、揺るぎない決意のような拒否が感じられる。沙織はもう何を言っても、鷹緒に自分の気持ちは届かないのだと悟った。
「わかった……もういい」
「……送るよ」
そう言って、鷹緒が静かに立ち上がる。だが沙織は強く首を振った。
「いい」
「送る。こんな夜に、一人じゃ危ない」
「いいってば!」
沙織は鷹緒の手を振り払うと、事務所を飛び出していった。
「沙織ちゃん……!」
事務所の入っているビルの下で、茜が声をかけた。
「茜さん……」
「ちょっと気になって……待ってたの」
その言葉に、沙織は茜に抱きついた。
「ひどい! どうして言ってくれなかったんですか? 茜さん、鷹緒さんがいなくなっちゃうの知ってて、どうして私の気持ち、応援するなんて……!」
泣き叫ぶように沙織が言った。涙が止まらないようで、肩をしきりに震わせている。
「沙織ちゃん。ごめんね……」
そう言った茜の目に、沙織を追いかけてきた鷹緒が映る。
鷹緒は茜に、軽く頷くような合図を送ると、そのまま事務所へと戻っていった。沙織は背を向けていて、鷹緒にはまったく気付かなかった。
「……帰ろう。沙織ちゃん」
泣きじゃくる沙織の肩を抱いて、茜が言った。しかし沙織は首を振る。
「でも、このままだと……」
「……実家に帰ります。お母さんにも会いたいし……」
沙織の言葉に、茜は頷いた。
「そう……じゃあ送るわ。今日はお酒も飲んでないし、鷹緒さんの車のキーを預かったたままだったから」
茜はそう言うと沙織を連れ、鷹緒の車で沙織の実家へと向かっていった。
「……鷹緒さんを、責めないであげてね……」
車の中で茜が言った。沙織はその言葉に押し黙る。
「……」
「私の父はね、カメラマンやってて、鷹緒さんが弟子みたいになってた頃があるんだ。父は私よりも鷹緒さんをすごく可愛がってた……私も鷹緒さんが好きで、カメラマンになりたくなったんだ」
静かに、茜が自分の生い立ちを話し始める。
「数年前から、父は友人に誘われてニューヨークに渡ったの。私も後から父を追いかけて、外国のカメラ技術を学んだつもり。父は向こうの雑誌社でカメラマンとして働いてたんだけど、今度単独で新しい雑誌を作ることになってね」
「……」
沙織は俯き加減で、茜の言葉に耳を傾けている。
「父が好きにやりたい雑誌を作ろうってことでね。それでどうしても、鷹緒さんにも手伝ってもらいたいって父が電話して、鷹緒さんが了承してくれたってわけなの。私もはじめ、鷹緒さんがアメリカに来るわけないって思ってたんだけど、父には恩を感じてるみたいで……」
「……茜さんは、鷹緒さんを迎えにきたんですか?」