61:水と油
「鷹緒……鷹緒ったら!」
現代――。
その声に、鷹緒が驚いて目を開けると、そこには理恵が立っている。
「なんだよ。びっくりさせんなよ……」
「何が仕事よ。眠ってたじゃない」
「そうか……?」
眠い目を擦りながら、鷹緒が大きなあくびをする。
「……今、何時?」
「十一時半……」
鷹緒の問いかけに、理恵が時計を見て言った。
「どうしたの? あいつは……恵美は?」
「うん……もう帰ったわ」
理恵は鷹緒を見つめた。鷹緒は椅子に座ったままで、下から理恵を見上げている。
「……それで、なに?」
沈黙を破って、鷹緒が尋ねた。理恵は重い口を開く。
「私ね、どうしたらいいのかわからなくて……鷹緒とは、終わったってわかってる。だけど職場が一緒だし、恵美のこともずっと気にかけてくれてて、嬉しかった。それで……」
理恵がそう言いかけた時、鷹緒は椅子から立ち上がった。
「鷹緒……」
「おまえさあ……それ、どういうつもりで言ってんの?」
心なしか怒った様子の声で、鷹緒は背を向けながら言う。
「え……」
「俺にどうして欲しいんだ? 告白か、後悔か? もう一度つき合うつもりか? 恵美を引き取って欲しいのか? おまえにわからない気持ちが、俺にわかるわけないだろ」
少し強く、しかし静かにそう言った鷹緒の言葉は、いつになく重く、理恵の心に突き刺さった。
「……ごめん。どうかしてたね、私……」
「違う! 俺はおまえと別れたからって、おまえのことをないがしろにするつもりはないし、避けるつもりもねえよ。おまえの強いところも、弱い部分も知ってるつもりだ。だから、おまえが困った時や、恵美が呼んだら駆けつける。だからおまえも、少しは素直になれよ! おまえがフラフラしてたんじゃ、俺だって……どこへも行けなくなるだろう?」
「鷹緒……」
鷹緒はいつになく早口で、理恵を見つめていた。理恵は小さく頷く。
「ごめんね……こんな話、鷹緒にするべきじゃないってわかってたんだけど、他に言える人いなくて……」
「それはどうでもいいよ……」
溜息交じりで、鷹緒が言う。
「……わかってる」
そう言って、理恵は押し黙る。鷹緒は煙草に火をつけ、半地下の階段に面した窓のそばに立った。
長い沈黙が、二人を包む。
「……水と油だね。いつまで経っても、私たち……」
沈黙を破って、理恵がそっとそう言った。
「……そうかもな」
煙草の煙を吐き、鷹緒が口を開く。
「……理恵」
「鷹緒」
鷹緒の言葉を避けるように、理恵が呼んだ。
「鷹緒。私……私ね、やっぱり豪が好きなの……」
理恵が言った。鷹緒は口を挟む様子もなく、静かに聞いている。
「好きで好きで仕方がないのよ……忘れようとしても、全然忘れられなかった。それどころか日増しに想いが強くなる……こんなこと、鷹緒に話すことじゃないってわかってる。だけど、怖いの……このまま豪を好きでいていいのか。このままじゃ私、おかしくなりそうで……」
理恵が涙を流しながら、鷹緒の腕を掴んで言った。鷹緒は静かに理恵を離すと、煙草を消して、もといた椅子に座る。
「……理恵?」
静かに鷹緒が言った。理恵は尚も泣きながら俯いている。
鷹緒は小さく溜息をつくと、立ち上がって理恵の前へ歩いていった。理恵は泣いているばかりだ。鷹緒はそんな理恵の手を取ると、激しくキスをした。そしてそのまま、テーブルへと倒れ込む。理恵は、拒否することも受け入れることもなく、ただ泣いているだけだ。
少しして、急に理恵がハッとしたように顔を背けた。しかし、鷹緒は尚も続けようとする。
「やっ……嫌だ!」
理恵はそう言って、鷹緒を突き飛ばして起き上がった。その途端、理恵の長い爪が、鷹緒の頬を傷つけていた。
「ご、ごめん……」
理恵が言った。
「……もう帰れよ」
「血が出てる……」
「帰れ。俺はもう、おまえの顔なんて見たくないんだよ……!」
鷹緒は静かにそう言うと、理恵に背を向けた。
一瞬、理恵は目を丸くさせると、我に返って小さくお辞儀をする。
「ごめん。ごめんね……」
そう言うと、理恵はそのまま去っていった。
理恵が去った後、鷹緒はしばらくその場に立ちすくんでいた。
唇に触れながら、今の出来事を振り返る。ふと床を見ると、理恵のつけていたつけ爪が一枚落ちていた。壁の鏡を見つめると、左の頬に小さな切り傷がある。鷹緒は俯いた。
回想――。
「はい、諸星です」
数年前のある日、電話の受話器を取って、鷹緒がそう言った。
『ヒロだけど』
相手は、広樹である。
「ああ、なに?」
『またオファーが入ったよ。この間紹介した、デカイ仕事』
「お、マジで? サンキュー」
『でさ、おまえ今日、暇?』
広樹が尋ねる。
「夜は空いてるけど、なに?」
『この間のギャラも預かってるし、飯でも食いに行かない? 理恵ちゃんも誘ってさ』
「ああ、いいけど……あいつ今、出かけてるんだ。今日は遅くなるらしいから、一緒は無理だな」
『そっか。じゃあ仕方なく、野郎二人で飲むか。七時に駅でいいか?』
「ああ。じゃあ、後でな」
鷹緒は電話を切り、出かける支度を始めた。
広樹より早く着いた鷹緒は、駅で広樹を待ちながら、座り込んで煙草に火をつけた。そして、行き交う人並みを見つめながら、持っていたデジタルカメラで、徐にシャッターを切り始める。
その時だった。ファインダー越しに、鷹緒の目が奪われた。カメラから目を離して立ち上がると、一人の女性が立ちすくんでいる。理恵であった。隣には内山がいる。二人は腕を組んでいて、どこから見てもカップルであった。