56:気になる関係
「諸星さん」
理恵が声をかける。事務所では、二人がかつて夫婦だったと知っている者はほとんどいないので、態度もあくまで他人行儀である。
ファックスを見つめながら、鷹緒が返事をする。
「ん?」
「これ……昨日はごめんなさい……」
他の人に見つからないように、理恵がそっと携帯電話を差し出した。昨日、鷹緒が理恵に貸したままの携帯電話である。鷹緒は優しく笑った。
「大丈夫?」
「うん。ありがとう……」
「ああ」
それ以上は何も聞かず、鷹緒はファックスをまとめて理恵に背を向けた。理恵も、もうそれ以上は何も言わない。
そのまま鷹緒は、慌しく広樹に近付いた。
「ヒロ。俺、打ち合わせに行ってくる」
「ああ。鷹緒……」
広樹が言いかけた。内山が帰ってきたことで、内山と確執のある鷹緒と理恵に心配を抱いているものの、人目もあるのでこの場では聞くことが出来ない。
「うん?」
「あ、いや……なんでもないよ。行ってらっしゃい」
広樹の言葉に、鷹緒が察して苦笑する。
「何もないよ。じゃ、行ってきます」
小さな声でそう言った鷹緒は、沙織と目が合った。鷹緒は小さく微笑み、沙織の背中を叩く。
「頑張れよ」
「う、うん……」
「行ってきます」
鷹緒はそう言うと、事務所を後にした。
沙織の目に映る今日の鷹緒は、いつもと同じように見えて違う気がした。
「沙織ちゃん?」
その声に、沙織はハッとして顔を上げた。するとそこには、沙織の顔を覗き込む理恵の顔がある。
「理恵さん……」
「どうしたの、ぼうっとして。大丈夫?」
「あ、はい。なんでもないです……」
「そう。今日はボイストレーニングよね? その前にとりあえず、奥の部屋に行きましょう」
理恵はそう言って、沙織とともに奥の部屋へと入っていった。
「……どうかした? シンコンが不安なのかな?」
奥の部屋に入るなり、理恵が沙織に尋ねる。沙織は驚いて顔を上げた。
「え?」
「なんか、心ここにあらずって感じだから……」
「そ、そうですか?」
沙織が言う。顔に表れているということなど、考えていなかったのだ。
「落ち込んでるように見えるわよ。何か悩みごとでもある?」
理恵の言葉に、沙織は一瞬戸惑った。しかし理恵の目を見つめると、静かに口を開く。
「あ、あの……昨日、鷹緒さんと会ったんですか?」
意を決して、沙織が尋ねた。
「あ、いえ、あの……昨日、鷹緒さんが出かけるの、気付いたから……」
言い訳をするように、少し焦った様子で沙織が続けて言った。そんな沙織に、理恵は少し驚いた表情を見せた後、静かに微笑む。
「沙織ちゃん、もしかして、彼のこと……?」
少し悪戯な瞳で、苦笑しながら理恵が尋ねた。沙織は困った様子で否定する。
「いえ、そういうんじゃなくて、あの……」
「そう? それならごめんね……でも、もし私と鷹緒に何かあると思って落ち込んだりしてるんなら、それは間違いだからね」
静かに微笑んで、理恵が言った。
「……でも、お二人は、夫婦だったんですよね?」
「そうだけど、もう昔の話よ?」
「……鷹緒さんは、そうは思ってないんじゃないですか?」
沙織の言葉に、理恵が驚いた顔を見せる。
「……どうしてそう思うの?」
「だって……ヒロさんが前に、鷹緒さんは恋人を作らないって言ってたから……」
「……だからって、私と別れたことが原因で、恋人を作らないんじゃないわよ。もちろん、それがきっかけで、私がトラウマ作っちゃったのかもしれないけど、彼がまだ私を好きでいてくれてるとか、そういうのはないわよ」
理恵が言った。沙織は切実な目で理恵を見つめる。
「どうしてそう思うんですか? 鷹緒さんが、理恵さんを好きでいることはないなんて、どうして断言出来るんですか?」
勢いをつけて沙織が言った。理恵はそれを聞いて、静かに微笑む。
「……出来るわよ。あんな別れ方したんだもん……昔から、私たちは水と油で、しょっちゅう喧嘩ばっかり。もうそれが楽しいと思える子供じゃないわ。沙織ちゃん、やっぱり鷹緒のこと……?」
理恵に尋ねられ、沙織は小さく頷いた。