50:新生活
ドアの向こうをそっと覗くと、薄暗い鷹緒の部屋が見える。あまり生活感が感じられず、もちろん人の気配もない。沙織はそっとドアを閉めた。
「鷹緒さんと理恵さんが、暮らしてた場所か……」
沙織は少し、この部屋が嫌になった。きっと楽しい結婚生活だっただろう。二人の姿が目に浮かんだ。
その夜。沙織は寝つけずに起き上がると、リビングへ水を飲みに行った。電気をつけるとソファに座り、水を一気に飲み干す。
まだこの部屋に慣れていないからか、まったく寝られる気配がない。沙織がぼうっとしていると、突然、リビングのドアが開いた。
「キャー!」
驚いた沙織が、途端に悲鳴を上げる。しかし目の前には、鷹緒の姿があった。
「うわ、おまえか」
そう言う鷹緒も、少し驚いた表情を見せている。
「た、鷹緒さん! 超びっくりした。な、なんでここにいるの? 京都に撮影じゃ……」
「ああ。早く終わったから、日帰りで帰ってきたんだ。おまえ、今日からここか……忘れてた」
「ひどい。もう夏休みだよ? 夏休み入ったら私がここに住むって、ずっと前から言ってたじゃない。もう、本当びっくりした!」
沙織は驚きながらも、笑って答える。
「こっちもびっくりしたよ。ここの電気ついてるのがドアの隙間から漏れてたから、消し忘れかと思った。それより、初日から夜更かししてんじゃねえよ。さっさと寝ろ」
「わかってるよ。でも、眠れないんだもん……」
「なに、ホームシック?」
「違う!」
二人は互いを見つめて、思わず笑った。
「まあ、夏休みってことは、シンコンまでもう少しってことだな。ラストスパート、気合入れて頑張れよ」
「はーい!」
真夜中ということと、鷹緒に会えたという喜びで、沙織はハイテンションで答えた。そんな沙織に、鷹緒も笑う。
「ったく、夜中だっていうのに元気なやつだな。俺ももう寝るぞ」
「えー」
「俺は疲れてんの。おまえも明日早いんだろ? 早く寝ろよ」
「うん。鷹緒さんは、明日は何時?」
沙織が尋ねる。
「九時に事務所」
「九時か……ねえ、私は八時なの。一緒に行こうよ」
「一人で行け。それに俺は、おまえより一時間遅いんだよ」
「少しだけ早起きすればいいだけじゃない。いいでしょ? 私はシンデレラ候補なんだから」
「まったく……わかった、いいよ。どうせ仕事、山積みだし」
駄目もとで言った沙織の言葉に、少し嫌そうに、しかし優しく鷹緒が言った。そんな鷹緒に、沙織の興奮は更に高まる。
「嘘、嬉しい! 言ってみるものだね。じゃあ明日、朝ごはん作ってあげるよ。何時に起こせばいい?」
うるさいほど元気な沙織に、鷹緒は苦笑して返事をする。
「……七時半」
「オーケー。じゃあ、七時半に起こすね。おやすみなさい!」
俄然やる気の出た沙織は、そう言って立ち上がった。鷹緒も、自分の部屋へ繋がるドアに手をかける。
「……おやすみ。早く寝ろよ」
「はーい」
鷹緒はそのまま、部屋へと戻っていった。
沙織も部屋に戻ると、鷹緒と朝食や出勤を一緒に出来ることに、大きな幸せを感じていた。もっと近くにいたいと思う。
興奮した沙織は、そのまましばらく眠れぬ時を過ごした。
次の日。早くに目を覚ました沙織は、まだ静かな鷹緒の部屋のドアをそっと開いた。朝の光がカーテンの隙間から漏れているが、部屋の中は薄暗いままだ。
数えるほどしか入ったことのない鷹緒の部屋は、沙織にとって未知の世界であった。
改めて、部屋をぐるぐると見回してみる。生活感があまりないリビングだが、テーブルの上には無造作に、カメラや書類などが置かれている。
ふと時計を見ると、まだ七時前である。沙織は鷹緒の寝室には行かず、自分の部屋に戻って、キッチンへと向かった。そして朝食の準備をする。朝食が出来上がったのは、七時三十分ギリギリであった。
すると、リビングのドアが開いて鷹緒が入ってきた。
「わ! 鷹緒さん……なんだ。起きちゃったの?」
「もう三十分……」
まだ眠そうにしながら、鷹緒は時計を指差して、約束の時間が過ぎたことを示す。
「わかってる。朝食作ってたら、時間かかっちゃって……今、起こしに行こうと思ってたところ」
「あっそ……」
「おはよう」