35:依頼
「鷹緒さん。あの……石川さんって……」
車の中で、沙織は思い切って理恵のことを尋ねた。
「ああ……なに?」
少し嫌そうに、鷹緒が聞き返す。
「あの……本当に、これから一緒の職場で働くんだよね。その……やりにくくないの? 結婚してたんでしょ?」
「……まあ、やりにくくないっていったら嘘になるけど……本当、結婚自体知ってるやつ、ほとんどいないんだ。それに、ヒロとも仲が良いわけだし、同じ事務所っていっても部署も違うし、出払うことも多いだろうしね……まあお互い、割り切ってるからどうってことないよ」
「へえ。そういうもの……」
「そういうものだな。じゃあ、ここでいい?」
鷹緒が、駅の近くに車を止めた。
「うん。今日はありがとう……突然ごめんね」
「いいよ。じゃあ、またな。ヒロに電話させるから、話聞いといて」
「わかった。じゃあ、またね」
沙織は車から降りると、去っていく鷹緒の車を見送った。
「……よし。やるぞ」
決意を固めてそう言うと、沙織はそのまま家へと帰っていった。
「シンコンのカメラマン? 俺が?」
事務所に向かった鷹緒が、かったるそうに言った。
「そう嫌そうな顔するなよ。シンコンっていったら、年に一度のビックイベントの一つだ。審査の一つにカメラテスト……まあ、カメラ映りがどうなのかを見るわけだけど、そのカメラマンの一人に、おまえへオファーが来てるわけ。ひいきがないように、他にも数名のカメラマンが来るわけだけどね」
鷹緒の前に座る、広樹が言った。目の前のテーブルには、有名なコンテストの資料が広げられている。
「わあ。今年もシンコンの季節ですか? 全日本・ミス・シンデレラコンテストっていったら、うちとしても外せないイベントになってきましたよね」
お茶を入れてきた牧が言う。
「そうなんだよ。でかいイベントだし、去年も鷹緒にオファーが来てたのに、仕事が被ってて断ったろ? 今年もこうして話が来たわけだから、願ってもない話だ。三次審査で、ちゃちゃっと撮るだけだよ」
「……わかったよ。事務所拡大のためですな」
腹を決めて、鷹緒が言った。
「よかった。助かるよ、稼ぎ頭!」
「おまえなあ……」
「オーケー?」
そこにタイミングよく、理恵が入ってきた。鷹緒は口を曲げる。
「なんだよ、オーケーって。おまえらグルか?」
「もちろんよ。同じ事務所の人間だもの。じゃあ、こっちもモデル選出に乗り出すわ」
やる気満々な様子で、理恵が言った。
「いやに力を入れてるな」
「もちろんだよ。今までうちは小規模でやってきたわけだけど、正式にモデル部署も出来たからね。事務所も大きくして新しくなったわけだし、事務所の名を世に知らしめるためにも、今回のシンコンは力を入れて、グランプリを狙うから」
同じく意欲を見せて、広樹が言う。
「ふうん……」
「ああ、それで、沙織ちゃんの方はどうなったか、おまえ聞いてるか?」
「え……まさか、沙織をシンコンに選出させるつもりなのか!」
鷹緒が察して言った。そんな鷹緒に、広樹は頷く。
「いやあ、もちろん、まだ候補だよ。でも、もし沙織ちゃんがオーケーしてくれるなら、十分いけると思うんだ。あの子は本当に可愛い子だし、雰囲気も持ってる。たったあれだけの雑誌出演で、多くのファンレターが来たんだぞ? キャンディスからのオファーだって何度も来てる。あの子は他のモデルに引けをとらないよ。まだ慣れてないところが、シンコン審査員の心をグッと掴んでくれると思うしね」
「……でも、あいつはモデルとしての心得とかまったくないし、第一、荷が重過ぎる……ただの小さいコンテストや、読者モデルレベルじゃない。たかが少しくらい反響があったからって、それはどうなんだ?」
熱く語る広樹に反して、鷹緒は冷静に心配して言う。親戚でもあるため、沙織の可能性を手放しで推せず、乗り気にはなれない。
「まだシンコンまで三ヵ月ある。これから教えていけばいいと思うよ」
「……でも」
「鷹緒が心配するのはわかるよ。赤の他人じゃないわけだし。もちろん本人の意思がなきゃ無理だし、他にも候補はいるからね」
いつになく慎重な態度の鷹緒を察して、広樹がそう言った。鷹緒も納得して頷く。
「……キャンディスの件は、オーケーだそうだ。近々契約に来させるから、連絡してやってくれ」
「本当か。キャンディス側も喜ぶよ。じゃあ早速、後で連絡入れるよ。おまえもシンコンの仕事受けてくれるなら、今度打ち合わせしてもらうから、そのつもりでな」
「わかった……」
鷹緒はそう言うと、立ち上がった。
「ようこそ。わざわざご足労いただきまして、すみません」
ある日。事務所に訪れた沙織とその母親を、広樹が出迎えた。
「いいえ。綺麗な事務所ですね」
辺りを見回しながら、母親が言った。
「越してきたばかりなので、まだバタバタしてるんですけどね……すみません。今日は鷹緒、出払っていていないんですが……」
「いいえ」
「では早速ですが、ご契約のお手続きをさせていただきましょうか」
広樹は契約内容を説明し、契約書を差し出した。これから沙織は、広樹の事務所に所属するモデルとなり、そこから依頼された雑誌社の撮影に出向くことになる。
「はい。これで契約は終わりです。ありがとうございました」
しばらくして、契約書への記入を終えて、広樹が言った。沙織の母親も、座ったまま頭を下げる。
「よろしくお願い致します……」
「こちらこそ。大事な娘さんですし、鷹緒の親戚ですからね。嫌な仕事はさせませんし、ご安心ください。それと、もう一つお話があるのですが……」