120:すれ違い
鷹緒は事務所にいた。目の前には広樹もいて、写真や書類を並べている。
「今、何時?」
そわそわした様子で、鷹緒が尋ねた。
「時間なんか気にせず、手を動かせよ」
苛立った様子でそう言う広樹に、鷹緒は手を止めて時計に振り向いた。時計の針は、夜中の一時を回っている。
そんな鷹緒の頭を、広樹が叩く。
「イテッ」
「手を動かせっつーの」
「やってるよ」
「おまえが昨日片付けてれば、こんなことはしないよ」
鷹緒は仕事に追われていた。昨日、沙織と過ごしたおかげで後回しになっていた仕事が、タイムリミットに近付いていたのだ。今日の撮影も思いのほか長引いてしまったので、これにかかり始めたのは、すでに夜中といわれる時間であった。広樹が手伝っても、朝までかかることは目に見えている。
鷹緒は溜息をつきながら、今日の沙織への電話は諦め、仕事にかかった。
「……で、何があったんだよ」
仕事を続けながら、広樹が尋ねた。
「え?」
「何かあったんだろ? 離婚した時だって淡々と仕事をこなしてたおまえが、今日は一日中、上の空だ。ミスはするし、溜まった仕事もやってない。何があったんだよ」
「……べつに。何もないよ」
そう言って、鷹緒はそのままソファに寝そべった。その顔はどことなく嬉しそうに見える。
「おい、鷹緒。寝てる暇……」
「五分寝かせて。このままやっても、何も進まない」
「……わかった。べつにおまえが言いたくなければ、何も聞かないさ……」
広樹の言葉を聞きながら、そのまま鷹緒は眠りについた。
次の日。ほとんど寝ずの晩で、鷹緒はやっと仕事を片付けた。しかしその日は、押せ押せで仕事がぎっしり入っている。わずかな休憩時間も削られた鷹緒は、その夜にはやっと戻ってきた自宅で、帰った途端に眠りについていた。
沙織への電話は意識していたものの、結局その日も連絡が出来なかった。
沙織は一向にかかってこない電話を待ちながら、涙を流していた。いらぬ心配をしてしまう。やはり鷹緒は自分と一線を越えたことで、思い悩んでいるのではないか。嫌いになったのではないか。本当に一夜限りの遊びだったのかもしれない……。
その日、不安に怯えながら、沙織も寝不足で倒れるようにして眠りについた。
また次の日。早朝から仕事があった鷹緒は、未だ眠り足りない目を擦りながら、事務所へと向かっていった。
「鷹緒さん、大丈夫ですか?」
事務所に着くなり、助手の俊二が尋ねる。
「ん? ああ、平気……」
「でもその顔色、尋常じゃないですよ。この間の風邪がぶり返したんじゃ……」
「いや、ただの寝不足だよ。まだ頭が起きてないし……起きればすぐに復活するよ」
そう言いながら、鷹緒は栄養ドリンクの蓋を開ける。
「でも、フラフラしてるじゃないですか。ちょっと横になったほうが……」
「平気だっつーの。そんなに心配してくれるなら、さっさと仕事終わらせようぜ」
「ハハハ。そうしたいのはやまやまですけど、今日の予定も夜までびっしりですからね」
「仕方ない……気力と体力で頑張らなきゃな」
鷹緒は栄養ドリンクを飲み干すと、仕事に取りかかった。
夕方。沙織は自分の仕事のため、事務所へと出向いた。
鷹緒からの連絡を待つ沙織は、自分から連絡する気にはなれなかった。なにより連絡がない今、鷹緒に会うのが恐い。
「沙織ちゃん、これから撮影?」
事務所にやってきた沙織に、広樹が尋ねる。
「あ、はい……」
返事をしながら、沙織の目は鷹緒を探している。そんな沙織を察して、広樹は苦笑した。
「鷹緒なら、仕事でいないよ」
「あ、そうですか……」
ほっとしたような残念なような、複雑な気持ちで沙織が言った。
「夜には帰ってくると思うけど」
「あ、いいんです。なんでもないですから……」
「……もしかして、鷹緒と何かあった?」
沙織の様子に、広樹が尋ねた。沙織は驚いて聞き返す。
「えっ?」
「ああいや、なんとなく……最近あいつ、いつもと少し様子がおかしいし」
「……そう、ですか。いえ、べつに……」
明らかに沙織は動揺していたが、広樹はそれ以上、何も聞かなかった。
「そっか……」
「じゃ、じゃあ、仕事に行ってきます」
そう言うと、沙織は事務所を出ていった。
鷹緒はいつも通り仕事をしている。それなのに、なぜ連絡をくれないのか。沙織の心は、不安でいっぱいになっていた。