4.惑わすもの
お互いの名前を初めて知ったのは、涙をこぼす彼女に初めて触れた晩だった。出会ってから数ヶ月目のこと。飲み仲間としてそれなりに親交を深めながら、アタシが一方的に熱情を募らせていたとき。突き放すような言葉を吐いてみせるのに、行かないで欲しいと全身で叫ぶ。けれどその想いを言葉にはせず、ただ無表情はそのままに涙をぼろぼろと流す彼女が見ていられなくて。衝動的に自宅に連れ込んだ。
自宅に連れ込んで、気づけばその唇を何度も塞いでいた。なんで泣いてるのよ。問いかけはうまく声にならなかった。むしろ苛立ちに似た衝動が胸を突いた。恋情と言うには醜い欲にまみれた感情が、焦燥となってアタシを突き動かす。触れた唇は柔らかで、甘かった。それまで彼女が口にしていたアルコールの味を咥内からぬぐい去ってやりたかった。そのくらい、深くキスをした。キスなんて甘いものではなかったかもしれない。まるで彼女の何かを貪るように、唇を食んだ。
取り決めがあったわけではないけれど、それまでアタシと彼女は、お互いの名前を知らなければ、お互いに触れることもなかった。名前に関しては、ただ単純に最初はタイミングを逃しただけ。けれどそれは、後々自分自身にとって一つの壁となる。彼女に徹底して触れることのないようにと気を張る程度には。彼女に触れなかったのは単純な理由。一度その体温を欠片でも知ってしまえば、もっと、もっとと焦がれるだろう事を予見していたから。
そしてその予感は、嫌なくらい綺麗に当たるのだ。
「…奏、」
「あっ…かな、め‥さ、」
自宅に連れ込むのは、二度目だった。玄関先で抱きすくめて、キスを繰り返して、彼女の唇を貪る。それだけじゃあ足りるわけがなくて、乱暴に靴を脱ぎ捨ててリビングのソファーに彼女を運び押し倒した。腕の中の華奢な体は震えているけれど、それが拒絶の意味を孕んでいないことを知っている。縋るように、強請るように、彼女の細い指先がアタシのジャケットの袖を掴む。それに馬鹿みたいに煽られて、呼吸もできないくらい深く口づけた。
好き合っているのは確かな事実。けれど、恋人、ではない。多分。アタシは彼女に付き合おうとも言っていないし、彼女もそうだ。関係性は曖昧なまま。否、今までは飲み仲間、という呼称があった。けれど、今は?ただの飲み仲間ではないし、恋人でもない。一線を超えたわけでもないからセックスフレンドでもない。というか、一線を超えたら最後、アタシは彼女をどんな手を使っても自分に縛り付ける自信がある。セックスフレンド?そんな関係で終わらせるわけがないじゃない。
アタシと彼女の関係は、どうなるんだろう。どこへ行き着くんだろう。どちらかが何かを、例えば触れることのなかった手を触れ合わせた瞬間みたいに境界線をもう一つ超えない限り、どこにも行き着けないんだろう。そんなことをぼんやりと、考えていたのがいけなかったんだろうか。
「…ほっといて下さい。」
「え、…っ、ちょっと!」
バーで、苦手なんだろうスコッチを一気に飲み干した彼女の痛々しい姿。パシン、と音を立てて振り払われた手のひらの痛みが、ジンジンと残った。手にではなく、胸に。彼女からの拒絶は、どんなものでもアタシの心臓に鈍く掻き傷を付ける。そもそも、アタシの持つグラスに視線を注ぐ彼女の横顔が、どことなく思い詰めているのには気付いていた。けれどまさか、そこまで無茶を自分からするような子ではないと思っていたから驚いた。
無茶をしてアルコールを流し込んだ理由を問えば、それはアタシが原因だと彼女は呟く。遠い、と。ねえ、それは、アタシも思っている事だって何故気付かないの。気づいて欲しくないなんて、馬鹿みたいな大人の意地も確かにあるけれど。
アタシと彼女が遠いのは、当たり前の事なのだ。年だって離れているし、社会的な立場も違い過ぎる。端的な言葉で表すならば、住む世界が違う。だからアタシは躊躇う。彼女に触れる事、これ以上溺れる事、全てに。ただでさえ彼女に焦がれていて、いっそ赦されるなら縛り付けてアタシだけのモノにしてしまいたいくらい欲していて。一度彼女に触れて、その体温を知ってしまってからはその欲が夜毎に膨れ上がった。アタシの色に汚してしまいたい。名前を呼んで欲しい。彼女への熱情は、彼女と離れている時間にすら募って、夢にまで見る始末。
だからこそ、離れたところまで遠ざけてしまわなければならなかったのに。
アタシに縋る彼女に、胸のうちで問いかける。アタシのいるところまで、アンタは一緒に堕ちてくれるの?だってそういう事よ。アタシが必死に汚してしまわないように自分自身の感情が暴走しないよう遠ざけているのに、それが辛いと泣くんだから。ねえ、汚してしまって、いいの。
「どう、して…?」
熱に浮かされたように、何度も唇を塞ぐアタシに彼女が問いかける。純粋な疑問符の浮かんだ目に見つめられて、どうしてかしらね、と胸の内で苦笑した。そんなの決まってるじゃない。恐らくは、アンタが無茶したのと同じ理由。それを口にするのは流石に躊躇われて無言ではぐらかす。
「…今は、黙っててちょうだい。」
腕の中でアタシを見上げる彼女の目に映る自分は、余裕のない男の顔をしていた。情けないわね。彼女が絡めばきっとそれだけでアタシは余裕がなくなる。心が完全に、彼女に囚われている。その声で、視線で、仕草で、体温で、どうしようもないくらい惑わされる。
彼女に溺れていくのはどうしようもなく甘美だけれど、それを自覚しながら、というのは頭の片隅の理性が引き止める。その理性の声をふりほどくように彼女を掻き抱いた。華奢な体が軋むんじゃないかと不安になるくらい、強く。
彼女を汚してしまいたい欲と、汚してはいけないという相反した感情。おかしいことに、どちらに転がってもアタシが彼女に触れたいという想いは変わらない。汚したくはないけれど、そっと触れて、愛でるくらい許してほしい。一度触れた瞬間から、彼女の体温に焦がれていた。滑らかな肌に心拍が上がる。優しく、愛でるだけだから。傷つけはしないから。そんな風に自分に言い訳をして、なるべく優しく彼女に口付けた。けれどその甘さに触れた瞬間、理性が崩れる。優しく、そう思っていたはずなのに唇を貪る内に荒っぽくなってしまう。
「奏、」
キスの合間に、有りっ丈の想いを込めて名前を呼んだ。壊したい、汚したい。ドロドロになるまで甘やかして、縛り付けて、アタシなしじゃ生きられないようにしてやりたい。少なくとも、もうアタシは彼女なしじゃ生きていけない。堕ちてきて、アタシのところまで。そんな劣情を込めた声は、少し掠れていた。
「かなめ、さ…。」
唇が離れる一瞬に、彼女は荒く呼吸する。酸欠からか、生理的なものか、涙に塗れた目でこちらを見上げる彼女は、名前を呼べば嬉しそうに目を細めて、応えるようにアタシの名前を呼んだ。愛おしいとでも言いたげな、甘い声。それに胸が締め付けられて、また唇を塞ぐ。
「…す、き…。」
不意に、彼女が呟く。掠れた小さな声。抱き締めた腕の隙間から白い手のひらが伸びてきて、そっと指先がアタシの頬を撫でた。その体温と言葉に、泣きそうになる。思わず目を細めれば、彼女は薄く微笑んだ。その表情はまるで、アタシの全てを包み込むとでも言わんばかりの柔らかなものだった。無表情だった彼女が、アタシの前でだけ見せる表情が、仕草が途方もなく愛しかった。
「…ねえ、」
胸を締め付ける切なさに、思わず繰り返していたキスをやめる。代わりに、彼女を強く抱きしめて、その首もとに顔を埋めた。その状態で吐き出した声は、自分でも驚くほど弱々しい。続くべき言葉は、喉の奥でつかえていた。声にならない想いが、胸の内で鉛のように重くなる。言ってはいけない、言ってしまいたい、そんな二律背反の感情が、声帯をべったりと覆って、そこを振るわせまいとしていた。
「要、さん。」
するり、と彼女の細い手がアタシの髪を梳く。冷たい指先が心地よくて思わずそれに身を委ねた。多分彼女は、彼女なりに何かを察したんだろう。何を彼女が囁くのか、それに少しだけ、恐怖した。
「私、要さんの事が好きです。」
「…知ってるわ。」
「いいえ、きっと、知らない。」
続く言葉は、少し尖った音をしていた。まるで咎めるような声音。首もとに埋めていた顔を少し上げれば、彼女は真っ直ぐにアタシを見つめていた。深い深い、瞳。至近距離で見つめ合って、その瞳に吸い込まれそうになる。アタシが体を少し起こしたことによって自由になった両手で、彼女はアタシの頬を包んだ。低体温の細い指先。日に焼けることを知らないような、透けるような皮膚。可愛らしいピンク色に染め上げられ、整えられた爪。
「好きなんです。貴方以外何もいらないくらい。」
言い切った途端、ぽろり、静かに涙が彼女の頬を転げた。それを指先で拭ってやる。拭う瞬間、まるで初めて女に触れる思春期の少年みたいに指が震えた。長い睫毛に絡まった涙に触れて、ぐらり、と何かが自分の中で揺らぐのを感じた。
きっと、彼女を手に入れてしまったら、手放せなくなる。それだけが怖かった。否、それ以外に、もしかしたらそれ以上に、アタシはそんな衝動じみた劣情をも、全て受け入れてしまいそうな彼女に恐怖していた。拒んで欲しい。拒まれなければ、どこまでも、堕ちてしまうから。同じところまで堕ちて欲しい。それは事実抱いた感情だ。同時にきっと、アタシが堕ちてくるのを待っている彼女から、目をそらしてきた。
「傷つくだけでも良い。貴方の傍にいられるなら。貴方に傷つけられるなら、むしろ本望です。だから、っ!」
どんな言葉が続くはずだったのかは知らない。もうどうでも良かった。訥々と、切々と紡がれる彼女の言葉に、アタシの中の何かが壊れた。ぷつり、音を立てて理性とでも呼ぶべき意識の糸が途切れていく。胸の内で押し止めていた感情をすべてぶつけるように、また彼女の唇を塞いだ。いい加減重ねすぎて、赤く腫れぼったくなった唇。それでも、彼女と重ねられるなら、それが全てなのだ。
「アンタは、後悔しない…?」
「え?」
唇を離す瞬間、囁くように問えば、彼女は涙で揺らいだ瞳をパチリ、瞬かせる。その頬に指先を寄せれば、彼女も同じようにアタシの頬に触れる。その指先を掴んで、頬に押しつければ、冷たい体温が心地よかった。彼女の頬は上気していて熱いというのに、アンバランスも良いところだ。
「汚しても、いいの。」
汚して、傷つけて、アタシだけのものにしても、いいの。それは最後通告だった。問いではない、確認。じっと彼女の瞳をのぞき込むように見つめれば、どこまでも深い黒い瞳が、ゆるりと微笑んだ。多分彼女なりの、満面の笑み。その表情が、答えだった。
「後悔なんて、するはずがないでしょう。」
紡がれた言葉に、腹の奥底で飼い慣らしていたはずの劣情がとぐろを解いて、その鎌首をもたげる。どくり、心臓が大きく音を立てた。ソファーに広がる彼女の乱れた黒髪、涙で濡れた長い睫毛と、ただでさえ赤いのにキスのせいでより鮮やかに色づいた唇。全てがそろって、アタシを誘う。
「…好きよ。アンタのこと、言葉じゃ足りないくらいに。」
きっとアタシは彼女を幸せにはできない。幸せにしたいとか、そんな優しい感情は何一つ沸いてこないのだ。それよりも彼女が欲しくて欲しくて、その熱だけなのだ。だからアタシは、ほぼ間違いなく、いつか彼女をひどく傷つける。分かり切った未来に吐き気はするけれど、それでもその未来への恐怖の方が、欲よりも小さかった。それだけのこと。
アタシに、アンタの全部をちょうだい。そう願いを、欲を吐き出せば、彼女は今まで見た中で一番綺麗に笑った。まるで、それが幸せだとでも言いたげに。
「要さんに、なら。全部あげます、私が持っているものなら何だって、要さんが欲しいなら。全部。」
彼女の手が、まるで壊れ物にさわるかのようにアタシの頬を包む。柔らかな声で囁かれた睦言に、随分献身的な愛ね、と軽く鼻で笑いたくなってしまったけれど、きっとこの価値観の差が、アタシと彼女の差だ。その差はきっと、埋めてはいけないもの。埋めたら最後、アタシと彼女の距離はゼロになって、その瞬間訪れるのは破滅だ。色恋沙汰は身を滅ぼすもの。だからある程度距離を保たねばならない。ここまで溺れておいて今更といわれればそこまでだけれど。
押し倒していた彼女をゆっくりと抱き起こす。彼女はなされるがままだ。こぼれた涙を片手で拭って、もう片方の手で緩く抱き寄せる。そういえば、寝室に誰かを連れ込むなんていつ以来だろうかと不意に思う。後腐れだとか何だとかが面倒で、そういえばかなり長いこと、適当な相手しかいなかった。適当な相手を寝室に、そもそも自宅に連れ込むなんて発想はなくて、どれだけアタシが彼女に入れ込んでいるか、改めて自覚してしまった。
今夜はもう、帰してあげられないわ。彼女のこめかみに唇を押し当てて、低く囁く。その音に、彼女の体が小さく跳ねた。それには気づかなかった振りをして、彼女を寝室に運ぶ。先刻までのキスにすっかり腰が抜けてしまった様子の彼女は一人で歩くのもままならない。それを良いことに、アタシに縋らせてベッドに横たえる。黒いシーツと月光に、彼女の白さは一層際立って見えた。
「っ、」
「…怖い?」
横たえた彼女の体に跨がるように覆い被されば、彼女の呼吸が微かに乱れる。揺れる瞳と、そっと触れれば震えている体。怖いか、と問えば彼女は分からない、と呟いた。嬉しいのか、怖いのか、はたまたもっと別の感情なのか、分からない。そう、と返しながら考える。アタシも、分からない。待ちこがれていた瞬間なのに、心のどこかで警報が聞こえるような、様々な感情が混ざりすぎて絡まり合って、元の形が見えなくなってしまっている。
「分からないのは、アタシも一緒よ。」
「え…?」
「―――――でも、もう離してやれない。」
彼女の震える手を取り、手のひらに口付ける。アタシのモノになって。アタシだけのモノに。そんな想いを込めて、彼女の手のひらにキスを一つ落とした。
そこから会話はなかった。彼女の服を脱がして、アタシも服を脱いで、脱ぎ捨てた服が床の上で皺になるのなんか気にもならなかった。ただ、心が震えた。白い彼女の体は、アタシの考えていたより柔らかで儚くて、素肌で抱き合った感触に、馬鹿みたいだけれど泣きなくなった。思春期の餓鬼みたいに震える指先が情けない反面、それが彼女に気づかれないようにと、わざと余裕のある振りをしてみて。
優しくしてやる事なんてできなかった。彼女に溺れて、劣情のままに抱いた。言ってしまえば、あまり覚えていないのが正直なところ。彼女の奥深くにまでアタシを刻みつけてやりたくて、彼女の全てが欲しくて、ただ、抱いた。残っているのは、涙で潤みきった瞳がアタシを見つめる度に胸が苦しくなったこと。アタシを呼ぶ彼女の声が、熟れきった桃のように甘ったるくて、背筋が震えたこと。掻き抱いた体の、瑞々しさと香水ではないだろう、あまやかな香りにクラリとしたこと。
「っ、奏、」
名前を呼べば、溶けそうに瞳を潤ませる彼女に、感情の全てを注ぎ込んで果てる。経験の浅い若い体は、最後、アタシにしがみついて、愛の言葉を呟いてから意識を手放した。その言葉に、胸が締め付けられる。
「…恨むなら、恨んで良いわよ。」
後始末だけして、眠る彼女の隣に潜り込む。裸のままの胸に彼女を抱き込めば、無意識だろう、すり寄られる。それだけの仕草なのに、ひどく満たされた気がした。彼女の髪を梳きながら睦言とは呼べないだろう、本音がぽろりと唇からこぼれる。
恨んで良い、恨めばいい。否、恨んで欲しいのかもしれない。幸せになんてしてやれないのは分かり切っているのに、もう手放してやることもできないアタシを。多分彼女は、そんなアタシの想いすら全て、幸せだとでもいって許容してしまうのだろうけれど。どう考えたって、幸せなんかじゃないだろうに。傷つくだけの道だ、彼女は勿論、アタシも。それでもそれを選び取ってしまうのは、彼女への感情に惑わされてしまっているから。
「…幸せにはしてやれない。でも、アンタの全部を頂戴。アタシの全ても、あげるから。」
馬鹿馬鹿しい事この上ない。本気の恋なんて面倒で、誰かに執着するのもされるのも嫌って生きてきたはずなのに。結局は誰よりも一人の女に執着して、本気になっている。どこかで、これまでのアタシが叫ぶ。自分の矜持を捨ててまで、彼女が欲しいのか、叫ぶように問う。つまりそういうこと。彼女を欲して、選ぶということは、これまでの生き方を自分自身で否定することだ。けれど、それでも構わないと思った。
ブラックバカラの花言葉、永遠の愛、なんて綺麗なものじゃない。貴方はわたしのもの、そう、捕らわれている。きっと、出逢ったときから、捕らわれていた。幸せにはしてあげられないけれど、アタシのもつ全てをアンタにあげる。だからアンタも、アタシに全部頂戴。アタシだけを欲して、アタシと同じところまで、堕ちてきて。
古代、薔薇は美しさで人を魅了する、惑わすモノだと、ある種悪しきものだとされたらしい。その古代の人々の気持ちが分かる気がした。惑わされたら最後、もう、逃げられやしない。