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3.毒を孕む花

 例えるならば、彼はトリカブトの花ではないかと思う。昔から花と花言葉が好きなのだが、この花ほど彼に似合う花と花言葉はない。植物の中では最も強い毒を持ち、未だに解毒薬は見つからないという花。だのに観賞用としても愛されているし、その毒性の強さや青紫の美しい色合いから文学の世界では重宝されている。事実、花自体は私も好きだ。猛毒を持っているというのに、その青紫の花弁の美しさで、人々を魅了する、花。否、もしかしたら毒を持つからこそトリカブトの花は人々から注目を常に受けるのかもしれない。

 人は、毒々しいものに惹かれる生き物だと、思う。それが触れてはいけないものだと言われれば触れたくなる。そういう生き物ではないだろうか。少なくとも、私はそうだ。触れてはいけないと言われれば好奇心を刺激されるし、ダメと言われれば言われただけ、興味が湧いてしまう。毒こそがもしかしたら、人を惹きつけるものなのかもしれない。まあ、中毒、なんて言葉もあるくらいだ。

 毒はその毒性が強ければ強いほど、中毒になりやすいのだという。最も死んでしまえばそこまでの話だが、身の内から徐々に毒に対して耐性をつけていくことは可能らしい。その場合、先にいった中毒、になるそうだけれど。

 話が逸れた。とはいえ、彼をもし花に例えるなら、私は真っ先にトリカブトの花を挙げる。きっと彼は、物騒ねえ、なんて綺麗な顔を歪ませるだろうけれど。

 トリカブトの花言葉で有名なのは、人間嫌い。あと私が好きなのは、美しい輝き、厭世家。厭世家、は言い過ぎにしても、彼はどことなく他者を拒絶するような空気をまとっている。だから初めて彼に声をかけられたときはひどく驚いた。人好きのする笑みを浮かべて、その実誰もその懐には招き入れない人。そんなイメージを勝手に抱いていたから。

 美しい輝き、に関してはそのままだ。だって彼は、美しい。男性にその言葉を使うのが正しいのかはわからないけれど、けれど私は、彼を美しいと思う。時々怖くなるくらいに。触れていいのか、躊躇ってしまう。それはまるで、触れただけでその毒に犯されるような、そういう類の恐怖に、似ているのかもしれない。

「…どうか、しましたか。」

「ん?何でもないわよ。次に何を飲もうか、考えてたの。」

「そうですか。」

 彼にしては珍しく、この日はぼんやりとしていた。心ここにあらず、といった風。珍しい、そういう意味を込めて彼に問えば、取り繕うような笑みが返される。スコッチをゆっくりと飲む彼は、そうやってグラスのアルコールを飲むのと一緒に、いつも何かしらの感情や言葉を飲み込んでしまっているように見えた。時々、彼がひどく遠く感じる。もっとも、彼との距離は常に遠いままなのだけれど。落ち込みがちな考えを振り払うように手元のカクテルを喉に流し込む。喉の奥が、ちりちりと熱を持った。

「…それ、美味しいですか。」

 彼の視線は、宙を彷徨っていた。それをこちらに向ける、方法が思い浮かばなかった。だから苦手だと分かっているのに、彼のグラスで揺れるスコッチを指差した。話しかけたいけれど、こんな、ぼんやりとした彼に何を話しかけたらいいのか柄にもなく躊躇ってしまったのだ。だから、彼の手の内でカラリと音を立てたグラスの存在に、頼ることにした。

「まあ、アタシは好きだけれど。」

「マスター、この人と同じものを。」

「え、」

 本当は、スコッチは苦手だ。一通りのアルコールは試しに飲んでみたことがあるから、何が飲めて、何が好きか、というのは自分でしっかり把握している。どんなふうに飲めば酔ってしまうか、も、同じく。ウイスキーはあまり得意ではなくて、すぐに酔いが回ってしまう。だから普段はなるべく飲まないようにしているのだけれど、今日は飲もうと思った。彼と同じものを飲んで、彼と同じ世界が見えるわけではないのに。

 珍しいオーダーをする私を、驚いたように見るマスター。それから隣の彼の、心配そうな、それでいて少し批判の色を帯びた目。けれどここでは引けない、と思った。何に対してという訳ではないけれど。

「これ、結構度数高いわよ?大丈夫なの?」

「大丈夫です。…飲んでみたい、そう思っただけです。」

 ねえ、と私に問う彼は、ぼんやりとした思考の海から完全に戻ってきたようだった。それだけでも万々歳というところなのだけれど、でもまだ足りない。私の可愛げのないリアクションに、ああそう、と少しばかり呆れたような声を寄越される。足りない、とは思ったけれどいつもどおりの彼の反応だ。それに、思わず笑う。

 マスターが、お待たせしました、と型通りのセリフで運んできてくれたのはスコッチのオン・ザ・ロック。グラスで揺らめく液体を、飲みきれる自信は正直なところなかった。けれど自分のオーダーだ。彼に止められもしたのに、オーダーをした自分の無茶だ。意を決して、アルコール度数の高いそれを飲み込む。

「…っ、」

 アルコール度数云々よりも、ウイスキー全般の味が苦手だ。ぎゅ、と目を瞑りつつ飲み下せば、グラスを持つ私の手に、そっと指先が添えられた。彼の、手だ。

「無理しないの。」

「…無理じゃないです。」

「でも、本当はアンタ、嫌いなんじゃないの?」

 全く、とでも言いたげな彼の声音。呆れられただろうか。そう思い、恐る恐る彼のほうを見やれば、意外にも心配そうに眉を寄せた彼の表情がそこにはあった。

「お酒は、無理してまで飲むもんじゃないわよ。」

 子供に言い聞かせるような、言葉。それが今の私にはひどく突き刺さった。心臓の内側をざらりと逆なでされるような、嫌な感覚が襲う。彼に他意があったわけじゃない。恐らくは、無理に苦手な酒を飲もうとしている私が痛々しく見えたか何かで、心配してくれているのだ、純粋に。でもその心配、という感情が今の私にとっては厄介極まりない類のものだった。

 ムキになって彼と同じ酒を飲もうとする、それが子供っぽいことは分かっている。同じ酒を飲んだところで彼が分かるわけでもないし、彼に近づけるわけでもない。それも分かっている。けれど、分かっていても他に方法が判らなくて、そもそもそんな焦燥に私を駆らせた張本人である彼が、そんな風に私を心配するなんて、と、ある種逆ギレのような感情が胸の内でとぐろを巻く。

「…ほっといて下さい。」

「え、…っ、ちょっと!」

 彼の手を払う、パシン、といういい音が店内に鈍く響いた。その直後に彼の驚いたような声。それらをすべて無視するように、グラスのスコッチを一気に嚥下する。ぐ、と息が詰まる。元々一気飲みは苦手で、それも苦手な酒ともなれば、苦行以外の何物でもない。それでも、そうでもしないとやっていられなかった。

「マスター!お水!お冷持ってきて頂戴!」

 グラスに入っていたけして少なくはない量のスコッチを一気に飲んで、喉の奥がアルコールの熱で焼けた。ぐらりと揺れる視界を持て余して軽く頭を抱えれば、隣で彼が慌てたようにマスターを呼ぶ。

「ほら、飲みなさい。…何やってんの、もう!」

 頬に冷たいグラスが押し付けられる。気持ちいい、と目を閉じると同時、飲め、と更に強く押し付けられる。それに渋々グラスを受け取って、よく冷えた水を口に含む。飲めば、多分体はアルコールではなく水分を欲していたんだろう。一気に半分以上飲んでしまった。水を飲んで、ほう、と息を吐けば、隣で彼が途方に暮れたように、どうしたっていうのよ、と呟く。

「…だって、」

 綺麗な彼の顔は、歪められた時にもその美しさが損なわれない。むしろ、際立って思える。今だって、私の答えを求めて眉間にしわを寄せた彼の表情が、とても綺麗だった。そんな彼の表情を、ゆらりと揺れる視界で見つめていたら、自然と言葉が唇からこぼれ落ちていた。

「だって、貴方が。」

「アタシが…?」

「…貴方が、遠い、から。」

 言い切ってから、何故か涙腺が緩む。急激に回るアルコールのせいではなく、涙でふるりと揺らめいた視界の中、彼が驚いたように目を見開いた。それから目を逸らして、再度グラスに唇を押し付けて水を喉に流し込めば 、彼から目を逸らした視界の端で、彼の指先がピクリと揺れる。顔を上げれば彼の目線は私の口元にあって、小首を傾げれば慌てたように顔を背けられた。

「…隣に居るのに遠いも何もないでしょ。おバカ。」

「物理的な距離のことを言ってるわけではないです。分かってる癖に。」

 少しだけ震えた彼の声は、恐らく目線の行先を私に見とがめられたためだろう、動揺を孕んでいる。けれどその言葉は、私を体よく子供あつかいする事で、距離を再度取りなおそうとするものだった。彼はずるい。そうやって彼が距離を保とうとする度に私の心が焼き切れそうになるのに気づいている筈なのに。

「アンタの言ってる距離は、」

 目を伏せれば、彼が言いにくそうに言葉を紡ぐ。思案げな声に促されて目線を上げた先の彼は、どこか遠くを見ていた。何かを見ているようで、何も見ていなかったのかもしれない。分からない。でも、その横顔は美しかった。

「無理して背伸びして、縮まるもんじゃないわよ。」

 視線が帰ってくる。本当は分かってるんでしょ?そう問う声は優しい。優しいけれど、だからこそ残酷だ。ぶくりと浮かんだ涙が視界を歪めるけれど、それを流すわけにはいかないから必死に瞬きを繰り返す。彼が言うことは正論だ。分かっているからこそ、心に刺さる。

「…今日はもう、そのくらいにしておきなさい。帰るわよ。」

「嫌です。」

「ダメよ。アタシと帰るの。」

 カタン、とグラスをカウンターに置いた彼の手が、私の背に添えられる。飲み過ぎを諌められたこと。彼に追いつきたいと思うのに、そう思うがあまり空回って逆に醜態を晒したこと。その二つが胸を締め付けて、彼の言葉に嫌だと頑なに首を振った。すると彼は一つ溜め息を吐いて、サクサクと帰り支度を始める。私の荷物も一緒に。

「! 私は帰らないですよ?」

「なら無理にでも連れていくだけよ。」

「え、ちょっと!」

 彼がマスターに目線をやれば、マスターは勝手知ったると言わんばかりに会計の金額を口にする。それが彼一人分ではなく私の分も含まれていると気付くのに間が空いてしまったのは恐らく、酔いが回り出しているからだと信じたい。あれよあれよと言う間に、私は彼に手を引かれ連れ去られるようにバーの外、夜の街へと連れ出された。

「え、あの、」

「アンタって本当に危機感ないわよねえ…それがアンタなんでしょうけど。」

「え…?」

 連れ出された店の外、あの夜みたいに彼は手慣れた様子でタクシーを捕まえると、そこに私を押し込む。状況の理解できていない私に、彼は含みのある笑顔で、少し黙ってなさい、と私の唇に人差し指を押しつけた。まるで、デジャヴだ。あの夜と違って、彼は攻撃的なぴりぴりとした空気を発しているわけではなく、私は相変わらず彼のなすがままだけれど、あの夜よりも冷静だ。だけれど、状況的にはデジャヴとしか言いようがないだろう。優しいけれど抵抗はできない位の力加減で、座席に押し込まれる。ついで乗り込んだ彼が口にしたのは、やはり彼のマンションだった。

 車内で会話はなかった。ちらりと彼の方を見やれば、彼はドアに肘を突いて窓の外、走り去る風景を見つめている。その顔に表情は浮かべられていなかったけれど、それでも美しかった。去りゆく街灯とテールランプに照らされた横顔。それを一瞬だけ見つめて、すぐに目をそらした。長く見つめていたら、手を伸ばしてしまいそうだった。触れたい、そんな欲求が首をもたげるのを胸の内で感じたのだ。

 目をそらした瞬間、座席に放置していた左手が、温かな体温に包まれる。はっとして彼に目線を戻せば、彼の眼差しの行方は変わらない。けれど視線を落とせば、彼の右手に包まれた自分の左手がそこにはあった。きゅ、と優しく掴まれた手。それだけで心臓が痛いほどに収縮を繰り返す。彼から繋がれた手から目をそらし、私も彼に習って外を眺めれば、数分後、目的地に到着したタクシーが緩やかに停車した。

 手を引かれたまま、彼の部屋まで向かう。開けられた扉の先に誘われるまま足を踏み入れれば、後ろから強く抱きしめられた。扉の閉まる音が、どこか遠くに聞こえた。

「…何故。」

「何が?」

「今日の貴方は、変です。」

「アンタ程じゃないわよ。」

 巻き付く腕の強さに、胸が軋む。彼を好いているから、抱きしめられれば嬉しい。けれど、彼の真意が分からないから苦しくて、辛くて、切ない。恋情とは二律背反を常に孕むものだけれど、心臓が痛むくらいのそれだとは、これまで知らなかった。それほどまでに私はきっと、彼に焦がれているのかもしれないけれど。

「今夜は珍しくセンチメンタルみたいだったけど、どうかしたの?何かあったの?」

「…何も。」

「嘘おっしゃい!いーい?アタシに隠し事ができるなんて思わないの。」

 耳元で、彼の声がする。ドキドキする。内容はけして、私にとってはいいものではないけれど。彼が心配してくれる、その事実はひたすらに私を喜ばせるものではあったけれど、それ以上に彼の言う私のセンチメンタルの原因は彼そのもので、どうしたらいいのだろう、と唇を噛んだ。彼が私を気にかけて、こうしてくれている現状は、恐らくはバーで彼の上の空な横顔を見ていた時に望んでいたものではあるのだ。けれど、何かが違った。きっと私と彼の、お互いへ向ける感情のベクトルの違いが生み出すのかもしれない。そう思うと、焦燥が胸中をかきむしった。

「…アタシには言えないこと?」

 何も言わない私にしびれを切らしたのか、耳元の彼の声が切なさを孕む。その声色は、多分私の方が使いたい。どうしたら貴方は、私を見てくれますか。そんな問いは、彼に投げかけられるわけもないのだけれど。好きだと言われても、どうしたって彼との間には壁がある。思いを告げ合ったのに、私たちの間には関係性を指し示す言葉が存在しないからだ。

「……うまく表せないだけです。言えないわけじゃなく。」

「それは、無茶な飲み方をしたのと関係あるの?」

「…はい。」

 真面目な声がした。耳を打つ彼の声に、段々と思考が溶けていく。一本の軸で考えていたことが霧散して、抱きしめられている現状と、触れる彼の体温のことしか、考えられなくなる。少し、声が震えた。

 まとまらない思考を放棄して、胸のあたりにある彼の腕にそっと手を添える。一瞬彼がぴくりと反応したけれど、彼は何も言わないから気にしないことにした。力強い、腕。電気もつけられないままの暗い玄関で抱き合う私たちはきっと滑稽だ。けれど気にならなかった。彼に抱きしめられている。彼に触れられている。それだけが今の全てだった。背中に感じる厚い胸板にそっと体を預ければ、心得たとばかりに腕の力が強くなる。アルコールのせいだろうか。密着した彼の胸から感じる鼓動はひどく早かった。とはいえ私の鼓動も彼に負けず劣らずだから、何も言えないけれど。

 酔いが回りだしたのかゆらゆらとする意識に身を委ねて目を閉じれば、耳元に彼の唇が近づいたのを感じた。そして吹き込まれたのは、初めて呼ばれた、私の名前。

「ーーーーー…奏、」

「っ!?」

 途端、弾かれたように体が反応する。バクバクと心臓の音が耳の奥で反響してうるさい。ただ名前を呼ばれた、それだけなのに、胸が軋む。痛い。ぎゅう、と直接握り込まれたような強烈な痛みと、それに伴ってうまく息ができなくなった。苦しい。

「な、まえ…。」

「奏。」

 驚いて急激に渇いた喉で、からからになった声を絞り出す。すると囁くように吹き込まれた先ほどよりもはっきりとした声音で、もう一度名前を呼ばれる。また少し、胸が苦しくなった。

「…呼んで?奏も、アタシのこと。」

「あ…。」

 ねだる彼の声は熱っぽくて、初めて聴くものだった。その声だけで脳髄からどろどろに思考が溶けていく。元々ほどけそうになっていた思考が、完全に私の手から離れていく。ただ一言、名前を口にすればいいだけのこと。それだけなのに何故か喉が貼り付いたようにうまく声がでなくて、ただパクパクと口を開閉するのが精一杯だった。けれど彼がそれで許してくれるわけもない。だめ押しとばかりにこめかみに唇を触れさせて、今まで聴いた中で一番低くて甘い声が、もう一度私の名前を呼んだ。

「………要、さん…。」

「もう一回。」

「要さん、」

「奏。」

 彼の名前を口にするのは、なんとも奇妙な感覚だった。からからの喉で渇いてろくに音にもならないような震える声でどうにか呼べば、ぐっと抱き込む腕の力が強くなる。もう一度、今度はさっきよりは震えもおさまってまともになった声で呼べば、耳元の彼の声が縋るようなものに変わった。抱き込まれた腕の中で、そのまま体の向きを変えられて彼と向かい合う形になる。

「どう、して…?」

「…今は、黙っててちょうだい。」

 どうして。浮かぶのはそればかりだった。抱きしめられた腕の中で彼を見上げる。すると、何かに焦れたような余裕を失った視線が寄越される。それだけで、もう、だめだった。熱っぽい視線と声で呼ばれて、求められて、腕の中に掻き抱かれる。意識がどろどろに溶けだして、正常な思考がどこかへと追いやられていくのを感じた。

 ただ、名前を呼ばれるだけで。ただ、名前を呼ぶだけで。こんなにも焦がれる感情が熱量を増すなんて、誰が想像できたんだろう。そっと降ってくる唇は、触れる瞬間は優しいのにすぐに乱暴に私のそれを貪る。その口づけだけで、彼に求められていると感じられるようで心拍が上がった。

 唇が離れた一瞬で酸素を必死に取り込みながらも、想いを口にする。好き、たった一言を紡げば、彼は泣きそうに目を細めて、それからまた私の唇を奪った。

 どうして彼は、突然私の名前を呼んで、私に名前を呼ばせたんだろう。わからない。これまでずっと、まるで何かの境界線みたいにお互い無言の内に守ってきたそれを、どうして突然破ってきたんだろう。それでも、わからないけれどただただ嬉しいことだけは事実だった。名前なんて誰が呼んでも誰を呼んでも一緒だと思っていたのに。違った。彼に名前を呼ばれた瞬間に体温が一気に上がって、彼の名前を呼んだ瞬間に胸の内の恋しさが氾濫した。

 好きだ、どうしようもなく。きっと彼に恋をすることは幸せだけが待っている甘いものではないと、第三者から見ずとも分かり切ったことなのに、それでもこうして溺れてしまう。とっくに溺れきったと思っていたのに。まだもっと、深いところまで落とされる。好きだ、好きで好きで、どうしようもない。きっと彼に傷つけられるなら、私はそれを幸福として享受してしまうんだろう。

 目を開ければ、すぐそばに彼の顔がある。絡め取られた腕の隙間から手を伸ばして、頬に触れてみる。そこで気づくのだ。私は彼を、猛毒を孕む花になぞらえた。きっと私は既に、彼の毒に魅入られている。とっくの昔に中毒になっていた。もう引き返せやしない。気づいて、諦めにも似た幸福感が胸を満たした。もう彼なしでは、生きられない。彼がいなければ、だめだ。彼がほしい、彼しか欲しくない。

 あとはもう、彼の毒に殺されるのを待つだけだった。

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