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2.茨を食む少女

 初めて見た時から、彼女は目を引いた。明らかに年齢はアタシと二回りは離れているだろう、若い少女。少女は言いすぎか。それでも、少女、という表現が似合って思えた。

 ここ一、二ヶ月で通いだした彼女は、いつもカウンターに座っていた。手にしているのは大体ウォッカベースのカクテル。ベースがウォッカの時点でアルコール度数はまあまあ高いのだけれど、それでもカクテル、というところが可愛らしい。ぼそぼそとマスターと話す声は可愛らしく、それでいて落ち着いた話し方をする。多分、大学生くらいかしら。

 初めて彼女がこのバーの扉を開けたのを見た時には驚いた。大通りから外れたこのバーは、こじんまりしていて雰囲気もいいし、ゆっくりとできるアタシのお気に入り。だけれど駅から少し歩く路地にあるから、よほどの酒好きか、そもそも常連がほぼ、という店だったのだ。だから彼女の存在は、最初ひどく異質で、目を引いた。けれど彼女の姿がこの店に馴染み出して、今度は別の意味で、目を引くようになった。

 彼女は、笑わないのだ。

 どんなにマスターと親しげに話していても、その表情が変わることはあまりない。少し離れた席から眺める彼女は、いつも無表情だった。その表情に、惹かれた。

 黒目がちの瞳。頬に影を落とす長いまつげ。ぽってりとした唇は赤くて、毒々しささえ感じられた。一言で表すなら、刺のある花。美しいのだけれど、触れたら指先が茨で傷つけられる、そう予感させる雰囲気をまとっていた。

「アンタ、いつも一人なのね。」

「え?」

 声をかけたのに、きっかけは特になかった。アタシと彼女の指定席とかしていたカウンターのスツールがちょうど埋まっていて、いつもより彼女との距離が近かった、くらい。常より近い距離で眺める彼女は、綻びはじめた薔薇のように思えた。刺のある、美しい花。品種はブラックバカラ辺りだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら彼女を見つめていたら、常々思っていた言葉が唇からこぼれてしまった。

 あ、と思ったときには、もう彼女はこちらを見ていた。その大きな瞳に自分が映された瞬間に、よく分からないけれどドクリと心臓が跳ねる。それを押さえ込みながら、唇に笑みを刻み込んだ。余裕のある大人、という体裁を瞬時に作り上げる。

「ああ、ごめんなさいね。急に話しかけて。」

「…いえ。」

「ふふ、口調が気になる?」

「…ええ、まあ。」

 アタシの言葉は聞こえているはずなのに、こちらも見ているのに、どこかぼんやりとした目をこちらに向ける彼女に、小さく笑う。ああ、これか、と。

 自分が俗に言う変わり者、なのはとうに自覚している。だからこそ彼女のリアクションには見覚えがあった。見た目とのギャップが凄まじいと部下に言われたこともあるから、それかもしれない。そう思いつつ問えば、彼女は意外にも素直に頷いた。大体の人間が、腫れ物に触れるようにそんなことはないと必死に弁解するのに。思わず噴き出して笑ってしまった。

「アンタ、素直ねえ。いいわ。素直な子は嫌いじゃないわよ。」

「はあ、」

「ねえ、隣いいかしら?」

「あ、どうぞ。」

 なんとなくそのまま、席の移動を申し入れれば、彼女は特に悩む様子もなくそれに応じた。アタシ側の彼女の隣のスツールには、彼女のものであろう大きなカバンが置いてあったのだけれど、アタシが問うのと同時、すっとカバンは移動される。それに悪いわね、と一声かけて彼女の隣に腰掛けた。

 彼女の手元を見れば、今日はモスコミュール。それをまるでジュースでも飲むかのようにごくごくと飲む彼女は、多分アルコールに強いんだろう。今日見ていただけでも四杯目のはずだけれど、目に見えて寄っている様子は彼女には見受けられない。

「アンタ若いわよね。幾つ?」

「二十一です。大学三年生。」

「若!んな若いのに、おひとり様なんて珍しいわね。」

 年齢を聞いて、素直に驚いた。二十一歳。若いだろうとは思っていたけれど、こうして実際に聞くと衝撃が凄まじい。自分と比べてやはり二回り弱も年下か。くらり、とめまいに似た感覚が襲う。同時に、彼女くらいの年代でバーにひとりでやってきて、しかも常連、だなんて珍しくないだろうか、と疑問符が浮上する。このくらいの年代は確か、群れたがる年頃じゃなかっただろうか。不意に自分の遠い記憶を呼び起こしながら言葉にすれば、彼女は控えめに眉間にしわを寄せた。

「…変、ですかね。」

「いいじゃない。変じゃないわよ。」

 そうか。彼女の表情は目元と口元から察すればいいらしい。微かながらも彼女の表情の変化を間近で見て、思わず笑みがこぼれた。そのままカラカラと笑えば、彼女はちらりとこちらを横目で一瞥したあと、グラスのモスコミュールに夢中になってしまった。

 その逸らされた視線を残念に思った直後に気づく。彼女の口元が、少しだけ緩んでいることに。目線をそらされはしたものの、彼女を不快にさせたりだとか、怒らせたりだとか、そういうことではないらしいとその微かな変化から察し、ホッとする。

「ウォッカが好きなの?」

「え?」

「いつもウォッカベースのカクテルでしょ?好きなのかしら、って。」

「…あまり気にしたこともなかったですけど、そうですね。好きなのかもしれません。」

 そこから、少しばかり当たり障りの無い話をした。彼女の好きなアルコールの話。実はカクテル以外にシャンパンとワインが好きだということを知り、思わずオススメの銘柄を教えてみたりして。それに興味を持ったらしい彼女と、次にまた顔を合わせた時には一緒にそれを飲もう、なんて約束をしてみたりする。彼女はそのナンパまがいの誘いにも、表情を変えることも躊躇う様子も見せずに頷いた。楽しみにしています、と。その声音が少しだけ弾んだように感じて、あら、と思う。

 別に下心があって声をかけて、次の約束を結んだわけではないけれど、もう少し女の子なんだから警戒心があってもいいんじゃないのかしら。相手は見知らぬ男、しかも口調の怪しいやつなんだから。って自分で言ってて少し悲しいけれど。とはいえ、彼女のその淡々とした調子が気に入ったのは事実だった。声をかける前よりも、彼女に惹かれている。自覚があった。

「…そろそろ、」

「あら、もうこんな時間。」

 それなりに会話が盛り上がって、気づけば結構な時間が経っていた。おずおずと彼女に促されて腕時計を確かめれば、日付が変わる一歩手前だった。こんな時間まで彼女がこの店に残っているなんて珍しい。いつも十時半くらいにはそっと帰っていたから。というかこんな若い子をこんな時間まで返さなかったなんて、年長者としてどうなんだろう、と微かに頭を抱える。

「悪いわね、こんな時間まで付き合わせちゃって…。」

「いえ。」

 申し訳なさから言いよどめば、割合にきっぱりとした彼女の声がアタシの言葉を遮る。え、と顔を上げれば、彼女の真っ直ぐな瞳がアタシを見ていた。かちり、と目が合う。

「お話できて楽しかったです。もし迷惑でなければ、次のワインの約束、本気にしてもいいですか。」

「…迷惑だなんて、そんなことないわよ。」

「良かった。」

 真っ直ぐな彼女の瞳は、ひどく澄んでいた。強い眼差し、というわけではないのに、目をそらすことができない力を持っていた。その目に魅入られながらもどうにか言葉を返せば、彼女は小さく微笑む。微笑むというか、目元と口元が柔らかくなった。多分それが、彼女なりの笑顔なんだろう。ささやかな表情の変化だけれど、それでも、その変化にさえ気づけば、ひどく柔らかな表情だった。

「では、私はこれで。」

「気をつけて帰りなさいね。」

「はい。じゃあ、また。」

「ええ、またね。」

 少し名残惜しげに彼女は席を立つ。ひらりと手を振れば、彼女も軽く手を挙げてそれに応えてくれる。会計を済ませ、店を出ていく後ろ姿は凛としていた。長い髪を揺らして、振り返らずに去っていく彼女の姿が消えるまで、アタシの視線はバーの扉に向かっていた。やがて控えめな音を立てて扉が閉じて、初めてカウンターに視線を戻す。

 話に夢中になりすぎて氷の溶けたウイスキーを飲む。薄い。そう思いつつ、グラスに半分ほど残っていたそれを一気に飲み干して、マスターにお代わりをねだった。マスターはここ最近のアタシの目線の行方を知っていたから、含み笑いを浮かべている。それを黙殺して、差し出されたグラスを煽った。

 彼女は薔薇だ。刺のある、綻び始めたばかりの花。触れれば怪我をするけれど、その刺で指先に掻き傷を作ってでも触れたいと思わせる、美しい花。初めて間近で見たときに抱いた印象は、接すれば接するほどに強くなる。花が綻んでいく様子をより間近で愛でたくて、だから刺に、茨にさえ触れてしまう。いつしかその刺の痛みさえもクセになる。

 ブラックバカラの花言葉は、色々あるけれど確か、熱烈な恋、だとか、あなたは私のもの、だとか。永遠の愛だなんて束縛系の花言葉も多かったけれど、アタシが惹かれたのはこの二つだ。というより彼女に魅入られたアタシにとっては、この二つがしっくりくるだけの話なのかもしれない。もっとも、四十も超えてここまで女に入れ込むことになるとは思わなかったけれど。

「こんばんは。」

「あら、こんばんは。」

「約束は、まだ有効ですか?」

「んふ。ええ、勿論よ。」

 初めて会話をしてから数日後。来店した彼女はいつも指定席ではなく、まっすぐにアタシの元へとやって来た。そして、律儀に伺っては小首をかしげる。そんな彼女に思わず笑って、隣のスツールを勧めた。彼女はごく自然な動作でそこに座る。まるで、アタシの隣の席が指定席だとでも言わんばかりに。

「この間言ってたので良いの?」

「はい。」

「そう。…マスター。」

 初めて話した時に勧めたアタシのお気に入りの銘柄を飲みたいという彼女に、それなら、と、一杯奢ってやる。これはアタシの奢りね。そう言うと彼女は分かりにくいけれど、驚いたように目を丸くして、奢りなんて、と遠慮するけれど、それでも決めていたのだ。彼女が約束を覚えていたら、こうしよう、と。

「良いのよ。アタシの気まぐれなんだから。ね?素直に奢られてなさいな。」

「…ありがとうございます。」

 少し不服そうだったけれど、それでも最後には薄く笑って、彼女はグラスを手に取る。赤い唇から白い喉へと流し込まれる、赤い液体。彼女の年齢を考えれば、不相応なほどの色香を放っていた。これが、彼女という薔薇が放つ芳香なんだろう。

「どう?美味しい?」

「…思っていたより甘口で、飲みやすいですね。」

「甘口は苦手だったかしら?」

「いえ、美味しいです。」

 ふっと彼女が口元を和らげる。それに満足してアタシも、自分のグラスのワインを一口。彼女に勧めたのはアタシがお気に入りの中でも、一番甘口の銘柄だった。だが甘口ではあるものの、度数は割合に高い。それを彼女は気づいているのだろうか。普段彼女が口にしているカクテルよりも、遥かにアルコール度数が高いということ。そして、甘い飲み口のいいアルコールほど、悪酔いしやすいということ。

 きっとこのワインを選んだのには、アタシの無意識下の下心が顕れている。彼女を酔わせてしまいたい。無表情の仮面を、破りさってしまいたい。綻ぶ様を近くで見たいだけ、愛でたい、なんていうある種の庇護欲じみた感情と、淡々とした彼女から余裕を奪い去ってやりたいなんていう、加虐心が綯交ぜになって胸の内で暴れている。けれどそれを表には出さないよう、アタシは唇に笑みを刻み込んだ。

「お気に召したのなら良かったわ。」

 そこから目まぐるしいほどに、彼女との関係は親密なものに変わっていった。アタシの年の功、で彼女の悩みを聞くことが常。というよりも初めて言葉を交わすまでのけして短くはない期間、彼女を見つめていた為か、それとも彼女の変化が常に微かであるからそれを拾い上げようとして勝手にそうなったのか、彼女の心境の変化だとか、そういうものに過敏になっていた。どうしたの?と問えば、彼女はいつも少し悩んだように目を伏せてから、意を決したように言葉を紡ぐ。常連同士、そう表現するよりは親密で、飲み仲間、というか、何というか。そうやって、彼女との仲は次第に濃いものになっていった。

 一方で彼女との関係には不可侵の領域があった。まず、アタシも彼女もお互いの名前を知らない。アンタ、貴方、そんな味気ない呼称で呼び合い、指先すら触れたことがなかった。それが、いけなかったのかもしれない。

 不意に感情のタガが外れてしまった。気づけば彼女を自分の家に連れ込んで、キスをしていた。言うつもりのなかった焦がれる感情を彼女に告げてしまった。本当はそこで、彼女に拒絶されるはずだったのだ。告げるつもりのなかった感情だったし、そもそも無理矢理に唇を奪ってしまったのだから。

 ―――――それでも彼女は、アタシの感情を受け止めてしまった。

 そこで拒絶されれば良かったのかもしれない。恋を、愛を語るには、アタシは年を取りすぎてしまった。それも恐らくはひねくれた面倒な年のとり方をしている。歪んだ内面を押し殺しながら向き合っていたというのに、彼女はそれすらも気づいたような素振りでアタシに触れた。それが、怖かった。

「…どうか、しましたか。」

「ん?何でもないわよ。次に何飲もうか、考えてたの。」

「そうですか。」

 思いは告げたが、別段恋人同士、という関係になったわけでもないアタシと彼女。変わったのはお互いの名前を知り、触れたければ触れられるようになった、くらい。もっとも、名前を呼び合うことはほぼないけれど。グラスに残るスコッチをちびりちびりと飲みながら、隣でカクテルを飲む彼女を横目で一瞥する。相変わらず、彼女は綺麗だ。それは多分、未完成の美、というやつ。そしてアタシは、そんな彼女を汚してやりたいだけなのかもしれない。

「…それ、美味しいですか。」

「まあ、アタシは好きだけれど。」

「マスター、この人と同じものを。」

「え、」

 カラリとグラスの氷を揺らせば、彼女の目はこちらを向く。真っ直ぐな瞳だ。強い眼差しではないけれど、吸い寄せるような澄んだ瞳。一度魅入られれば、逃げられない。そんな気持ちにさせる。

「これ、結構度数高いわよ?大丈夫なの?」

「大丈夫です。…飲んでみたい、そう思っただけです。」

「…あっそ。まあ、止めないけど。」

「そういうと思いました。」

 瞳の端で彼女は小さく笑う。すぐ隣にあるのに、彼女とアタシの距離はいつまでも遠いままだ。それは、アタシがそう望んでいるから。近づきすぎて茨で掻き傷を全身に作ろうと思えるほど、もうアタシは若くない。指先に細かな傷を作ることにすら、本当は怯えていたのだ。けれど今は、その傷の痛みが心地よいと思っている。肉厚の瑞々しい花弁に触れるためならば、多少の痛みを伴おうと甘受できる。その程度には、彼女に絆されている。

 おかしいわね。こんなはずじゃなかった。軽い熱情だけで、一夜の情事だけで満足できる程度の感情くらいしか自分には備わっていないのだと思っていた。なのに、彼女の前ではどうだ。彼女の一挙手一投足を、全て自分のものにしたいと醜い熱が身のうちで蠢く。グラスに寄せられた赤い唇に触れたいと、指先がぴくりと反応を示す。

 どうやら彼女をブラックバカラになぞらえたアタシの感性はあながち馬鹿にならないものらしい。ブラックバカラの花言葉、あなたは私のもの。彼女は知らないだろうけれど、いつの間にかアタシは、彼女に囚われている。けれど、まだ、逃れられるはず。恐らくは彼女が、アタシの中の彼女を汚してしまいたいという劣情に気がつくまでは、まだ。

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