1.薔薇とトリカブト
「ちょっと。アンタ、どうしたの?今日は全然飲んでないじゃない。」
「飲んでます。大丈夫です。」
「…それならいいけど。いつもより元気ないわよ。」
「気のせいですよ。」
目の前で、酒をかっ喰らいながら、威勢のない私を心配してみせる男。口調こそこんなんだが、れっきとした男性だ。というか彼は最早男性というくくりよりも、オッサンという年代だろう。ちびちびとグラスのカクテルを飲めば、気遣わしげな眼差しが寄越される。普段なら、それこそ水でも煽るように酒を飲む私を知っているからこその彼の態度だ。
「何か、あったの?」
「何も。」
「アンタ、アタシに隠し事してるんじゃないでしょうね?」
「してませんよ。というかできないでしょう、貴方には。」
割合にしつこいところのあるこの男。今まで隠し事が出来た試しはない。ただの一度も。だけれど今まさに私は、隠し事をしようとしている。というか、隠している感情が、ある。
心地よいジャズが流れる、こじんまりとしたバーは私と彼のお気に入りの店だ。酒好きが高じて、女一人でもゆっくりと飲める店を探してこの店に行き着いた私と、元々この店の常連だった彼。お互いが一人でゆっくりとカウンターでマスターと少しだけ会話をしつつアルコールを流し込むのが常だったのだけれど、いつの間にやら一人客の常連という共通点から、一緒に飲むようになった。最初に声をかけてきたのは彼の方。今でも覚えている。
「アンタ、いつも一人なのね。」
「え?」
「ああ、ごめんなさいね。急に話しかけて。」
「…いえ。」
初めて言葉を交わした夜。まず私は彼の口調に驚いた。彼の見た目はなんというか、仕事もできるけれどイイ年して遊んでます、と言わんばかりの不良中年っぽい雰囲気を漂わせていたから。ポケットチーフとか、シャツとかにこだわりを感じさせるスーツの着こなしと、店に入ってすぐに寛げられる首元から覘くネックレス。それまで私が彼に勝手に抱いていたイメージと、口調とのギャップが凄まじかったのだ。
「ふふ、口調が気になる?」
「…ええ、まあ。」
問いかける言葉に素直に頷けば、彼は噴き出して笑った。素直な子は嫌いじゃないわよ。そんな風に言いながら、隣いいかしら?なんて、ナチュラルに席を移動してきて。そこからだ、彼と話すようになったのは。
「アンタ若いわよね。幾つ?」
「二十一です。大学三年生。」
「若!んな若いのに、おひとり様なんて珍しいわね。」
「…変、ですかね。」
「いいじゃない。変じゃないわよ。」
カラカラと笑う彼の横顔に、私はいつの間にか見惚れていた。そもそも私は、彼に話しかけられる少し前から、彼のことを知っていた。というか、気になっていたのだ。いつも静かにグラスを揺らす横顔が、周りにいる同年代のお子様な男子達とかけ離れたもので、格好良く見えて。多分、一目惚れに近かったのだと思う。だからいつも、そっと横目で彼を伺っていた。まさか言葉を交わす日が来るなんて、思ってもみなかったけれど。
「…考え事?」
「まあ、そんなところです。」
出逢った頃に思いを馳せていれば、恐らく私が上の空なことが気に食わないのだろう。少しだけ不機嫌そうな彼の声が耳を打つ。少し低めの、甘い声。口調はさておき、彼の見た目も、声も、好みどストライクだと言ったら彼はどんな顔をするのだろう。
とはいえそもそも、私は彼の名前すら知らないのだけれど。
出逢った時から、何となくアルコールの話だとか、ぼんやりとした身の上話っぽいことは喋った。だが、何故かお互いに名乗らなかった。だからそのままずるずると、私は彼の名前を知るきっかけを失ったし、彼に名乗ることもできていない。この関係は、なんというのだろう。謎だ。そして彼は、私とどうして毎回毎回、ここで顔を合わすたびに話してくれるのだろう。何故、気にかけてくれるのだろう。分からない。
「アタシが横にいるっていうのに、考え事とはいいご身分だこと。」
「…貴方のことを考えてるんです、って言ったらどうしますか。」
「は…?」
出逢って、話すようになって、何となく飲み友達みたいな関係になって、はや半年。恋心が育つには、十分な期間だったと思う。ほぼ週に一回のペースで会っては、隣同士、なんとなくお酒を飲んで、ぼんやりと言葉を交わす。お互いがどんな立場の人間で、どんなバックボーンを持った人間か、全く知らないまま。何も知らないからこそ惹かれた。何も知らないからこそ、焦がれた。そんなことを言ったら、彼は笑うんだろう。お子様ねえ、なんて、綺麗に笑って。
「すみません、酔ったみたいです。気にしないでください。」
「酔ったみたい、って、アンタほとんど飲んでないじゃない。」
一体どうしたのよ。途方に暮れたように呟く彼の声。そのリアクションは正しい。私が突然、彼への恋情を持て余したことがそもそもの過ちなのだ。仕方がない。
「…別に、くだらないことですから。」
「…。」
彼が心配してくれているのは、わかっている。けれどどうしたって告げるわけにはいかないのだ。私が彼に恋をしていること。なんとなくの会話から、彼が口調が女性的なだけで、恋愛対象が女性であるということは知っている。だけれど、明らかに二十歳近く年上の彼が、こんな小娘を恋愛対象に見てくれるはずがないから。好きだと感情を告げて、気まずくなって、関係がなくなってしまうのは、どうしたって嫌だ。もどかしくてもいい。辛くてもいい。どんなに苦しくても、彼のそばに、恋愛対象としてでなくとも居られれば、それでいいのだ。それ以上は、望まない。
「アタシには言えないの。」
「…違いますよ。」
「じゃあなんで!」
「貴方だから、言えないんです。」
突き放すような言葉になってしまった。それを後悔したけれど、もう遅い。彼は一瞬目を瞠って、それからそっと目を伏せた。男性にしては長い睫毛が、彼の頬に影を落とす。綺麗だと思った。その眦に、触れたいと思った。その衝動を、手のひらを握り込んできつく耐える。
「…所詮、アンタにとってアタシはその程度ってことね。」
「そういうことじゃないです。」
「違わないでしょ。今アンタが言ってるのは、そういうことよ。」
何かを堪えるような彼の声音と、彼から突き放すような、言葉。それに慌てて言葉を返すけれど、もう彼は私の言葉に聞く耳を持つつもりはないようだった。けしてアルコール度数の低くはないはずの、グラスに半分ほど残っていたウイスキーを一気に飲み干して、彼は並んで座っていたカウンターのスツールを立つ。その拒絶を前面に押し出した背中を、引き止めることはできなかった。
私は、何をしているんだろう。
「…っ…!」
彼の傍に、飲み友達の立ち位置でいいからずっといられる未来を望んでいたのに。それなのにそれを望むがあまりに、彼を自ら突き放してしまった。後の祭りだ。多分少なからず酔っていたに違いない。酔いの過ちだと弁解したって、それでももう、彼は席を立ってしまった。
ぼろりと涙がひとつ溢れた。嗚咽が漏れそうになって、それを必死に飲み込む。まだ、バーの扉は開いていない。彼はまだ、店の中にいる。一度、地獄耳なのよ、と彼が冗談めかして笑っていたから、もし本当にそうだったら、嗚咽が聞こえれば彼は何を思うだろう。それが怖くて、必死に唇を噛み締めた。立ち上がった彼の背中を見て、その拒絶を感じてからそらした視線は、今や完全に下を向いていた。うつむいて、唇を噛み締めて、彼が店を出るのを待つ。彼が店を出たら、自分の愚かさを嘆いて泣こう、そう、思った。思っていたのに。
「…何で泣いてるのよ。」
離れていったはずの彼は、私が俯いた次の瞬間には靴音を鳴らして、戻ってきていた。思わず顔を上げれば、予想外に近い距離に彼の整った顔があって、思わず息を飲んだ。
「なん、で…っ、」
「泣かれて、そのまま帰れるわけがないでしょ。」
全くもう。そう言って、彼は至極面倒そうにガリガリと頭を掻いた。その仕草から苛立ちを感じとって、私はまた俯いてしまう。ぽたり、足元に涙がひと雫落ちた。それを見た彼は、何も言わずに私の手を取る。初めて触れられた彼の手に、びくりと肩を揺らしてしまったのは、仕方のないことだと思う。
「場所、変えるわよ。」
「え、あのっ!」
「いいから。来なさい。」
グイ、と、手を引かれて、そのまま引きずられるように店を後にする。お会計をしていないと慌ててマスターの方を見やれば、薄く微笑んで小さく頷かれた。その仕草の、意味は?
「あの!どこに行くんですか!?」
「いいからアンタは黙って付いてきなさい。」
「でも!」
背中から苛立ちが伝わって来る彼に引きずられるまま、タクシーの多く走る大通りまで連れてこられる。ここからどこに連れて行かれるというのか。私の手を、掴むというよりも強く握り締めたまま彼は私の質問に答えることなく、タクシーを捕まえる。乗り込む瞬間に、人差し指を突きつけられた。
「これから、アタシがいいって言うまで、そのお口にチャックしておきなさい。いいわね?」
「何で!」
「いいから!もう、黙ってなさい。」
会話はそこまでだった。無理やり押し込まれたタクシーの後部座席。彼は慣れたようにタクシーの運転手に行き先を告げる。それは、バーの最寄駅から一つ先の駅前にある、高層マンションの名前だった。え?と彼を見つめるけれど、彼は私の視線などハナから存在しないかのように、憮然とした表情を保っていて、その鋭い眼差しに、何も言えなくなった。
私はどこに連れてかれるのか。彼はどうして、ここまで怒っているのか。全てがもう、私の理解の許容範囲を超えていた。そして、私から冷静さを奪っているのは状況だけではなかった。タクシーに押し込まれたとき、一瞬だけ離れた手は、今もまた、繋がれている。というか、掴まれている。彼は相変わらず私の方を見ようとはしないけれど、手だけは、ぎゅ、と私のことを離さないと言わんばかりに強く握られていた。
思えば、彼に触れるのはこれが初めてだと、気付く。いつも隣同士飲んでいたけれど、お互いに触れるということは一切なかった。それこそ、名前をお互いに知らないように。まるでそれが何かの境界線かのように。
初めて触れた彼の手は、大きかった。私の手は、平均よりも少し小さめだけれど、それを鑑みても、彼の手は大きかった。私よりも体温の高い手のひら。飲んだあとだからか、少ししっとりとした硬い皮膚。
意識してしまえばそこまでで、私の心拍は一気に跳ね上がる。状況自体は全くもって芳しくないのだろうけれど、それでも好意を寄せる男性と二人きり、タクシーの中で手を繋いでいて。ドキドキしない女がいるだろうか。触れた手のひらから、彼に私の動揺が伝わりませんように。それだけを願った。
「…来なさい。」
十数分して、タクシーは彼の目的地であるマンションの前に着いた。タクシーを降りてすぐ、また彼に手を引かれて、マンションの中に入る。オートロックを解除する指先は慣れたもので、もしかしてここは彼の自宅なんじゃなかろうかと推測する。けれど、まさか。彼が私を自宅に引っ張っていく理由がない。混乱が深まった。
混乱している内にエレベーターに乗せられ、あれよあれよという間に、どこかの部屋に着いた。キーケースから鍵を取り出した彼を見て、やはりここは彼の自宅なのだろうかと、再度疑問符を浮かべる。だけれど私は今、彼から黙っているようにと命令されている状況で。何も問えないまま、不機嫌そうな彼の背中を見つめていた。
「入りなさい。」
促されて、一歩、玄関に入る。と、同時に、扉が閉まって、彼に玄関脇の壁に叩きつけられるようにして押し付けられた。
「っ…!」
「アンタ、バカじゃないの?」
強い衝撃に、一瞬息が詰まる。背中全体がビリビリと痛んだ。痛みにギュッと瞑ってしまった目を必死に開ければ、少し動けば触れられそうなほど近くに、彼の顔があった。息を呑む。ハッとして状況を認識すれば、どうやら私は彼に壁に押し付けられるようにして動きを封じられているらしかった。顔の両脇に、彼の手がある。それも私の手を掴んだ状態で。動けない。
「バカって。いきなりなんですか、それ。」
「バカだからバカって言ってんのよ。」
反論しようと声を出せば、強気の声音を選んだはずなのに、声帯を震わせたそれは、ひどく弱々しいものだった。まるで、彼に怯えているかのような、追い詰められた獲物のような声。対する彼は、私の反論になっていない反論を封じ込めると、ただでさえ近い距離をグッと縮めてきた。体ごと密着させて、完全に私の動きを止める。多分今触れていないのは、唇くらい。それも吐息が触れ合う程近い距離だ。きっとタクシーの中からドキドキと忙しない私の心拍は、彼に伝わってしまっている。
「ねえ、アンタ忘れてるでしょ。」
「何、を…?」
「アタシも、男よ?」
右手が解放される。と、同時に彼の指先が私の唇の淵をなぞった。ぞくり、と背筋が震える。きゅっと鋭くなった眼差しが、そっと伏せられる。常より少し、低い声。その低音が孕む甘さに、体の芯がじわりと熱を帯びた。
「もう少し警戒なさい。…もう、遅いけど。」
「え、ちょ…んっ!」
一瞬だった。唇に触れていた指先ですっと顎を掬われて、何も言葉を発することも許されず、唇を塞がれた。薄い、彼の唇。かさついた感触と、さっきまで飲んでいたアルコールの匂い、味、それから微かに、タバコの苦味。
何度も何度も唇を奪われて、そのうちに深くなった口づけに、私は抵抗することもできなかった。というより、抵抗できるはずがなかった。だって私は、ずっと夢見ていた。彼とキスすることを。尤も、何故キスしているのか全く状況理解が追いついていない今、それは甘受してはいけないものだとわかってはいたけれど。それでも、その唇を拒むことはできなかった。
「っ…はあ、」
やっと解放された時には、酸欠でクラクラしていた。けほ、と咳き込むと、彼の唇が労わるように、もう一度、腫れぼったくなった私のそれに一瞬だけ触れる。とっくに力の抜け切った体は、彼の体が離れると同時に玄関先にずるずると座り込む結果となった。生理的に浮かんだ涙で滲む視界で彼を見上げるも、暗い室内、彼の表情は伺えない。
「大丈夫?」
「…っ…は、い。」
「ふふ、少し、酷くしすぎたかしらね。」
かすれた私の声に、彼は小さく笑う。その声から先程までの、苛立ちの刺々しさがなくなっていることに目を瞠るのだけれど、そっと額に落とされた口づけに、心臓が軋んだ。ぎゅう、と心臓が強く痛む。それは、私が彼を好きで好きでたまらないからだ。好きだからキスされればドキドキして、理由がわからないから切なさが増して。胸が、軋む。
「…謝らないわよ。」
「え…?」
「ねえ、アタシも、男なの。」
彼はさっきと同じ言葉を繰り返す。イマイチ的を射ない彼の言葉に、私は小さく首をかしげた。
「アンタはアタシの口調がこんなんだから意識してなかったかもしれないけど。でもね、」
彼はそこで言葉を切った。ようやく暗闇に目の慣れてきた私は、やっと彼の表情を伺うことができる。何かを決意したような、そんな、思いつめた表情。真剣味を帯びたその眼差しに射抜かれて、ぎゅ、と胸が痛くなった。
「アタシはずっと、アンタのこと女として見てた。ずっと、あの日から。」
言い切ると同時、彼は私の腕を引く。腕を引っ張られるその勢いのまま、私は彼の腕に抱きこまれた。無理やり胸元に顔を埋めさせられて、強く強く、掻き抱かれる。
「…ごめんなさい、ね。」
体に回された腕は固くて、女の私とは違うのだとまざまざと教えられた。きつく抱きしめられる力が痛くて、だけれど触れた場所から伝わる体温は高くて、火傷しそうな温度に胸が高鳴った。私にとっては甘美でどうしようもない拘束が、緩やかに解かれる。目の前で膝をついた彼は、片手で顔を覆っていた。何かを悔いるように。
「全く、何やってんのかしらね…年甲斐もなく。」
力ない笑みに、心臓を締め付ける切なさが増した。思わず、手を伸ばす。バーにいた時から、触れたいと思っていた。もっと言えば、好きだと気づいた時から触れたいと思っていた彼の頬に、触れる。指先が頬をなぞれば、彼は弾かれたように顔をあげた。
「貴方は知らなかったでしょうけど、私、ずっと貴方が好きだったんです。」
「は…?ちょっとアンタ、何言って、」
「一目惚れでした。話をするようになって、それからもっと好きになった。子供な私を恋愛対象に見てもらえるわけがないと思って、ずっと言わずにいたんです。」
私の突然の告白に、彼は目を丸くする。その表情の変化を、愛しいと思った。触れた頬の温度を、恋しいと思った。
彼は私を、女として見ていたと言った。それは、期待してもいいのだろうか。自惚れてもいいのだろうか。彼と比べて子供な私を、少しでも恋愛対象として見てくれていると。彼に焦がれる想いを、彼は分かってくれるだろうか。
「アンタって…ほんっとうにおバカさんね。」
アタシみたいな、変わり者のオッサンを好きになるなんて。囁かれる声はどこか非難めいていたけれど、同時にそっと伸ばされた彼の手が、緩く私の頬を包む。その表情は、ひどく柔らかかった。
「勘づいてるだろうけど、アタシ、しつこいの。だから…もう逃げられるなんて思うんじゃないわよ。」
「逃げません。むしろ、逃がしません。」
「言ってくれるわねえ。全くもう…。」
頬に触れていた手が、そっと後頭部に回される。そのままもう片方の腕が私の体を包んで、再度私の体は彼の胸に抱き込まれた。押し付けた頬から伝わる、彼の少し早い心音にそっと目を閉じた。軽口の応酬にクスクスと笑い声を漏らしていた彼が、不意に息を潜める。
「…好きよ。アタシも、アンタのこと。」
耳元に注ぎ込まれた、甘い声音。その声にドクン、と心拍が跳ね上がる。じわりと皮膚の下で細胞がざわめいた。胸の奥底に生まれた熱が、全身を伝って、私を溶かしていく。きっと熱に浮かされたような顔をしているんだろう。とろりと溶けた視界の中で、彼が綺麗に微笑む。その笑みに、一瞬、呼吸の仕方を忘れた。