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☆     ☆     ☆

2週間ほど前、僕は人間ドッグで引っかかり、検査で入院をした。

その時、同室に爺様しかいないのが嫌で、よく小児科病棟へ行った。

手先の器用な僕は、そこで重宝されることになる。

流行のキャラクターを目の前で描き上げたり、パロディッたり、プラモデルなんても作った。子供達は、そんなことに目をキラキラさせて喜んでいた。そんな子供達を見て、僕はつかの間の満足感を味わった。愛してくれる子供達を、当然僕は愛した。



再入院した時もまた、小児科へと足を運ぶことになる。

顔なじみの看護婦さんが、退屈をもてあます僕を見かねて

「また通い妻すればいいじゃない。」

と笑いながら言ったのだ。

「旦那の当てがない。」

「いるわよう、桜ちゃんが。」

彼女は書類をまとめながら言った。

「え? さっちゃんまだいる訳?」

「戻ってきたのよ。あなたと一緒。リターンズね。」

ふふ、と苦笑する。

一緒に括るなよ、と呟きながらも、僕は桜を思った。


桜。喘息持ちで、いつもコンコンやっていた。もの凄く若い保護者がいて、そのヒト女がもの凄く好みだった。

と言っても見かけたのは一度だけだ。忙しくてあまり見舞いに来られず、他の子が親に甘えているのを目で追う桜がいつもいた。

桜は言っていた。

「お姉ちゃんはね、私のお母さんじゃないの。・・・イトコなの。私のお父さんとお母さんはね、私が3歳の時に死んじゃってね、だからお姉ちゃんといるの。私のね、お医者さんに払うお金をね、今お姉ちゃんがかせいでいるの。だからお姉ちゃん、忙しいの。

お姉ちゃんが忙しいの、桜のせいなの。」

その言葉に、喉のヒューヒューと風の通る音に、気が狂いそうに胸が詰まったのを覚えている。

桜の痩せ方から見て、「すぐ治るよ。」とは言えなかった。

吸入器を持って、がんばって退院したのに。



「セイちゃん!」

小児科の病室を覗き、桜に手を振ると、彼女はしっぽを振りながら抱きついてきた。

「何だよお前、戻って来てやんの。」

「セイちゃんは?」

「俺も。」

しゃがみ込んで、視線を合わせる。周りの付き添いの親や、見舞いに来た人々が不思議そうに僕を眺める。

当たり前だ。普通なら健康に仕事もバリバリこなしているような年の男が、Tシャツにトレーナーで小児科病棟へ。ただじゃなくてもこの顔は目立つのだ。

桜は笑って、僕の手を取った。

「セイちゃん、見て見て。お姉ちゃんに色鉛筆買って来てもらったの。一緒に描こう。」

僕は勧められるがままに側の椅子に座る。

「12色?」

「うん。」

「一本ないよ。赤だな。」

瞬間、桜の顔つきが変わる。

「航ちゃんだ。」

そう呟くと、桜はベッドから降りて談話室の方へ走って行った。

走ると言ってもそう激しくではないので、大丈夫だろう。そう思って僕は紙の端っこにピンク色でうさぎを描いた。

頬杖をついて次に何を描こうか思案していると、周りの人の目が全て自分に向けられているのに気がついた。

「……。」

気まずく横に目を逸らして照れ笑いを隠す。僕は何でもなかったふりをして、病室を出た。

廊下では桜が、例の「航ちゃん」と揉めていた。返してよ、あんただってわかってるんだから!、何でわかるんですかー?証拠を見せて下さいー、他愛のない会話に聞こえるが、本人達は至って本気でやっているので面白い。

桜が肩で息をしたのを見て、僕はストップをかけた。

「桜、ちょっと落ち着け。はい深呼吸。」

ちょっと咽てから、桜はすーっ、はーっ、と息をついた。

「セイちゃん…。」

「わかってるわかってる。」

ちょっと笑う。そして、僕を疑わしげに眺める航ちゃんとやらに向き直った。

「えーと。」

「あんた誰だよ。」

ぶしつけな質問をぶしつけな言い方で聞けるのは、子供の特権だ。

「俺? 桜の恋人。」

桜は吹き出して笑うが、彼は僕を睨み付ける。

その目があまりにも強烈なので、笑っていた僕はちょっとまずったと思った。慌ててフォローする。

「ってのは嘘で…、友達だけど。」

「……。」

「これから絵を描いて遊ぶんだ。返してくんない?」

「俺持ってないよ。」

ふん、と航ちゃんは外を向いた。強情な奴だ。こういう子は、どうしてもこちらが苛めてしまう形になるが、仕方がない。

そう思って僕は彼の側に行ってしゃがみ込んだ。

腕に巻いてあるビニールのバンドに、「早川航太」と書かれていた。

僕がそれを見たのに気付くと、彼はそれとなく腕を後ろに回した。

「航太。」

怒られると思ったのか、ちょっとふてくされる。が、僕は笑った。

「交換条件って知ってる?」

「……。」

「例えば――」

「知ってるよ。何だよ。」

こういう時、大人って楽しいなーと思う。

俺は、桜に聞こえないよう、彼に耳打ちした。

――色鉛筆返してくれたら、桜が好きなこと黙ってるんだけど。

航太が耳まで赤くなったのは、言うまでもない。


「何て言って返してもらったの?」

「それは男同士のお約束で言えないなあ。」

桜のベッドで、キャラクターの下敷きを写しながら僕は笑った。

「あの子、いつからいんの?」

「先週かなあ。心臓に針金入れるんだって。」

「へえ。」

「セイちゃんはどこが悪いの?」

「頭。」

「あたま?」

「と顔。」

桜が苦笑する。

「嘘つかないでよおおっ!」

「本当だもん。」

ははは、と笑うと、ボカボカと殴ってきた。

「ごめんごめん、痛いってば。やーめーろ!」

瞬間、空気が変わった。強く言い過ぎたか?と思ってふと顔を上げると、そこには『お姉ちゃん』がいた。

桜は一瞬ぱっと喜び、それからすうっと切なそうに笑った。

「お姉ちゃん。」

僕は色鉛筆を置いた。

「じゃあ、俺、帰るわ。さっちゃん、またな。」

桜は何か言いかけたが、息を吐いて終わりにした。

『お姉ちゃん』とすれ違う時、軽く会釈をした。


自分の病室に戻ると、いつも10g程の絶望と脱力感が襲ってくる。

5人部屋のうち、2人がチューブで機械に繋がっていて、1人はボケていて、1人は肺癌なのにやたら明るい。

苦しい。

それ以上に、もっと悲しい。

看護婦は明るいが、その分無責任だ。

医者は何を考えているのかわからない。

世の中の冷たさが、笑い飛ばして見なかったふりをする現実が、そこに確かにあるのだ。





☆     ☆     ☆





『彼』を見たのは、これで4度目だ。

全て桜に会いに来た時のすれ違い。もしかしたら看護婦さんをナンパしているのも見たかもしれない。Tシャツにトレーナーパンツにサンダル。

全身ナイキで固めていた時もあったけど、ビールケースのおまけに付いてくるようなTシャツを着つぶしていたのも見たことがあるので、結局よくわからない。

桜から、「セイちゃん」のことはよく聞く。

彼の描いた絵も、全て見た。男の人が書いたとは思えない、繊細でかわいくて優しい絵。

桜が好きらしいうさぎの絵は、立体になったらこの手のひらでそっと包んであげたいような、そんな気がする。

?絵は人を表す?とはよく言われるから、話をしてみたいとは思っていた。でも話してみて最悪だったりしたら、このまま「桜に入院中絵を描いて遊んでくれた人」で終わる方がいい気もした。


私の仕事はフレックスで、10時までに出社して、8時間以上働けば良い事になっている。月給25万。高卒にしてはいい方だと思う。でも10万ずつ桜の入院費に消える……この言い方はよくない、・・使うから、残業をしなくてはならない。当然、桜に会いに行く時間は減る。平日はほとんど無理だ。

土曜に溜まった洗濯や掃除をして、午後会いに行く。

日曜日も、午前は起きられず、午後会いに行く。

桜の電話にも出られない。喉のヒューヒュー言う音の交じった留守電を、泣きながら聞く。

色鉛筆だって、本当は36色とか、買ってあげたかった。

でもそんなお金はない。もし桜に何かあったらと思うと、もっと貯めなくてはと思う。恋をして、結婚をする暇もない。    


私の親は私が卒業をすると同時に離婚した。みんなと一緒に大学生になりたかったけれど、家庭の事情が許さなかった。

それ以上に親に取り入りたくなかった。私の家族は、その時バラバラになった。

でも母の妹である叔母とは仲が良かった。母の我儘っぷりを同じような立場で受けて来たからか、笑っちゃうほど話が合った。よく遊びに行った。泊まりもした。桜とはだから、生まれたときから仲が良い。

私が独立して2年経ったとき、桜の両親が死んだ。2人でデパートに夕食の買い出しに行って、交通事故に遭った。

両成敗の事故だったため、一応保険は下りた。

憎み切れないほど親戚を憎んで、私は桜と保険金を勝ち取った。

桜は、訳が分らないくらい小さかった。


桜を保育所に預けつつ、働いて生活を続けた。小康状態というか、それなりに幸せライフだった。

再びガタが来たのは桜が小学校に上がって、少ししてからだった。

風邪を引いて、熱を出した。咳がずっと続いた。余りにも長い間治まらないので、おかしいと思って医者にかかったら、喘息だった。

吸入を自分でしたりして、桜も戦っていた。

有給を全て使ってしまって、後ろ髪を引かれる思いで会社に出なくてはならなくなった。その矢先、桜は発作を起こした。

119番を自分で押した桜を思うと、今でも涙が出る。

桜を一人には出来ない。

入院させることに決めた。


必要なものを取りに2人で家に帰ったとき、桜が言った。

「お姉ちゃん、忙しくしてごめんね。私がいなかったらお姉ちゃん、ダイヤモンド買えるのにごめんね。」

お金=ダイヤモンドと思っているような小さい子が、何度も謝るのだ。

「なぁに言ってんのー? 私は欲しいものは全部買ってるよ? 今はダイヤより桜がいい。桜、かわいいもん。」

ぴかっと笑って見せる。桜の泣き顔も、笑顔に歪む。

「ぬいぐるみは大きいの一つと小さいの一つだけだよ。タオルは……いいや、気に入ってるの全部持ってけば?」

そう言って、私はトイレに入った。崩れ込んで、息を止める。

桜は死ぬ訳じゃない。

今ちょっと頑張れば、きっと高校生の桜と一緒に、原宿のコムサカフェでお茶が出来るようになる。

未来像を描いて、自分を落ち着ける。

その時だ。桜の鼻を啜り上げる声が聞こえたのは。

――?私がいなかったら?

突如蘇る。脳が沸騰して、鼻血が出るかと思った。

今すぐここから出て、桜を絞め殺そうかと思った。

それぐらい、だった。

その時悲しかったのか苦しかったのか、淋しかったのか、愛していたのか憎んでいたのか、私にはわからない。



土曜の午後に桜に会いに行くと、沈んだ顔を隠さなかった。

「お土産。」

買ってきたコージーコーナーのプリンを置く。

「3つ買ってきたから、航ちゃんにあげたら?」

「あのね、」

「うん。」

桜を覗き込む。このセツナイ眼差しは男がらみだ。

航ちゃんと喧嘩したか、それとも純君が退院したか。小学生の恋は真っ直ぐで透明で、とても大切な事のように思う。

そして、そういうことをしている桜が、何だか嬉しかった。

「セイちゃんが……。」

「セイちゃん……。」

セイちゃん。セイちゃん…。反芻してみて,私は自分に突っ込んだ。

いきなり年上かい。しかし本人は大真面目だ。

「もう3日も来てくれないの。」

「……今までは?」

「1日空いても、ごめん元気にしてた?って来るのに。」

「通い夫かあ…。」

「何?それ。」

「ん〜…。遠距離恋愛の延長かな。」

私は桜を待ちきれずに、プリンに手をつけた。

「検査とかあったんじゃないの?」

「お熱だって。」

はい?私はプリンを口に運ぶ手を止めた。

「熱が出て、移すといけないから来ないんだって。」

「して、その情報源は?」

「看護婦さんが言ってた。」

「なら」

問題ないじゃない、と言おうとして、私は黙った。

心配なのね…。

ふぅーっと息を吐く。プラスチックのスプーンをカリカリ噛んでみる。

セイちゃん。私の桜を、ここまでゾッコンにするなんて,興味がある。

「…どこが好きなの?」

私が尋ねると、

「顔かなあ。」

と桜は言った。

ああ,そう言えばかっこ良かった気がする。芸能人の誰かに似てたなあ、誰だっけ。

桜は続けた。

「それから、手。」

ああ,絵、上手いしね。私も高校の時は美術部だったけど、彼のとは比べ物にならないわ。

でも、若干6歳の子が手に色気を感じるなんて、この子は将来有望だなあ。

「何より、性格。」

それは知らないなあ…。子供好きなんだろうけど。ロリコンだったら即面会謝絶ね。そしたら私、とうとう鬼だなあ。

「っていうか、全部。」

さいですか。溜息。

「……早く手紙書きなよ。」

「え?」

「航ちゃんじゃなくていいのね、最後のプリン。届けて欲しいんでしょう。?私の事忘れないで?って、大きな字で書けばいいじゃない。」

ぱあっと桜の顔が華やぐ。つられて、私も笑顔になる。

ピンクの鉛筆を取り出して、紙一杯にひらがなを書く桜を見て、幸せだ、と思う。

いいのだ、これで。例え場が病院でも。

例え、愛する人の苦しそうな呼吸が聞こえても。





☆     ☆     ☆





さっき、連日続いた検査後の気だるい体で、兄と話していた。バカ兄。クソ兄。能無し兄。

テレビに出すからと言って、全てのキャンバスを持っていった。周りは何も気にしない。きっと彼が人気のあるアーティストだという事も分らないだろう。

CROSSというバンドのギター。ギターが弾けて・絵・も・・・描けるかっこいいアーティストだ。

持ち前のよく言えば天真爛漫の、悪く言えば傍若無人の性格で、こんな状態になっても僕に世話を焼かせる。悪びれる様子もなく僕に取り入る。


何枚目かのCDジャケットのデザインを、僕が描いた。候補を10枚用意して、印刷会社に見せたら、すごく受けたらしい。

「すごいね、みんな君がデザインしたの?」

こう聞かれた見栄っ張りな兄が、NOと答える筈がない。

切ないメロディに悲しい作詞、甘いマスクのギタリストに、それの描く美しい絵。役者は揃った。それらはファンの心をくすぐり、オリコンに入っては消える、明るくハイテンションな曲とはまるで違った時代が流れているように、CROSSのCDは売れた。

駅張りのポスターは、盗まれた。

兄のファンが、兄が描いたと勘違いして盗ったのか。

僕の絵が純粋に良いと思って盗ったのか。

前者ならいい。

後者なら、泣けてくるほど悲しい。


先程の兄の言葉は、こうだった。

「絵の方、これから手を抜いて描けよ。」

僕は兄の顔を見ずにふて腐れていた。

「だんだん売れなくなるようにしろよ。カルトチックにしたりさ。いきなり『描かなくなった』じゃ世間様が納得しないだろう。

――ゴーストだって影武者だって、腐っても仕事だろ。死ぬってわかった途端全ての治療を放棄したんなら、責任を取れよ。」

わかったから放っとけよ、と僕は低く唸った。



今までいろいろな絵描きがいて、認められずに去った人がいる。

その人たちに足りなかったのは、運だ。

兄は、僕に運を引っ張ってきてくれた。世に出して、認めさせてくれた。

軽い気持ちで請け負ったゴーストは、雪だるまのように、ファンを巻き込んで重くなった。

罪悪感はない。

強いて言うならば、キャンバスに嘘を吐くことか。




「絵描きさん?」

兄が去って少し。あまりにも場にそぐわない女の人が来た。

ゆるくウェーブのかかった濃茶の髪に、幼さが残っているのか、かわいい唇。細いジーンズにTシャツに黒いジャケット。

どこかで見たことがあった。どこだ?

彼女はベッドにかかっているプレートを確認して、微笑んだ。

「望月誠也さんね。合ってるな。白川です。」

白川。白川、白川…?

わからないので、取り敢えず微笑んだ。

「……。」

「……。」

焦る。

「桜から……。」

「ああ!」

お姉さんは目をぱちくりさせた。俺とした事が。こんな美人を忘れるなんて。兄貴の事なんか軽く吹っ飛ぶ。

「桜…サクラチャンの。」

「ええ、母です。」

「イトコでしょう。」

「良く知ってるわね。」

僕は側の椅子を勧めた。彼女がごく自然に座る。

「絵描きさん? 本業なの?」

「まあね。」

「ウサギばっかり描いてるの?」

くすりとお姉さんが笑った。少し苦しくなりながら、

「生き物は描かないよ。」

僕は言った。お姉さんが、さっと僕を伺ったのがわかった。?地雷踏んだかな??の目。慌てて、

「風景専門なんで。」

と大げさに笑って見せる。

この時変に思えば良かった。

大抵の人は、人が絵を描いているのを知ると、描いた絵を見せてと言う。下手だとかヌードとか、よっぽど恥ずかしい絵で無い限り、絵描きは見せる。

ところが、彼女はそんな事はみじんも言わないで、僕の絵の具を見て言ったのだ。

「普通、青って空だとか海だとか、よく使うと思うけど、あなたはあまり使わないのね。」

自分でも知らなかった癖を見抜かれて、僕は思わずたじろいだ。

彼女はそれから、プリンを出し、紙を出した。

「桜から。手紙の内容は見てないから。」

と言いつつも読んでいる間の僕の顔はしっかり見ている。きっとこの人は、桜が手紙を書いている間も、彼女の顔をじっと見ていたのだろう。


?せいちゃんえ はやくよくなってね?


空白はピンク色のハートで潰されていた。口元が緩んでしまい、慌てて引き締めた。はっきり言って意味が無い。一部始終は全て彼女の手だ。

「もう熱はいいんですか?」

「…はい。」

「プリン、お嫌いかしら。」

何となく悔しくて、僕は復讐した。

「糖尿病なんで……。」

思いっきり悲しそうに肩を落として見せる。お姉さんが困惑する。

「……ま、嘘ですけど。」

呆気にとられる彼女。顔を向けると、ばっちり目が合った。

僕が口の端を上げると、彼女は楽しそうに笑った。


一旦彼女は桜の元へと帰ったが、すぐに桜は寝ていたとかで戻って来た。

「子供と違って自由なんでしょ。お茶しない?」

断る理由もないし、いつも僕を振り続ける看護婦さん達に見せつけるいい機会だ。我ながらせこい。

「何の病気?」

1Fの喫茶室で、席に着きながら彼女は単刀直入に聞いてきた。

「糖尿病だって。」

「プリン食べたでしょ。」

「そう、だから看護婦さんに見つかるとまずい。」

僕が肩をすくめると、にこにこにこーっとお姉さんは微笑んだ。

「糖尿病の人はコーヒーに砂糖入れちゃダメでしょう。」

シュガーポットを取り上げる指先は、綺麗な桃色をしていた。

「……。」

「……。」

「……すいません、嘘つきました。コーヒー砂糖ないと飲めないんで、返してください。」

お姉さんはコトンとポットを置いた。僕は言った。

「でも名なあ。」

「何?」

「これ言ったら桜ちゃんと俺会えなくなっちゃうからなあ。」

「……。」

「実は俺…肺結核で…。」

「結核病棟は別離でしょ。」

「じゃあ本当の事言いますよ。――エイズです。」

「……。」

「ヘルス嬢と付き合って半年…ああ沙織ちゃんが憎い!」

「沙織って私の名前だけど。」

「……。」げ。

「そろそろネタ尽きてきたでしょう。やめようか。」

「はいお願いします。」

僕はしゅんとした。お姉さんは微笑みながら紅茶をかき回している。

「一つ……。」

「一つ、本当の事言いますけど、桜喘息ちのゃん患者に影響する病気ではないですから。」

お姉さんの目が好意的なものに変わって、僕は彼女の詮索ポイントはここだったのだと改めて知る。

「退院の予定も当分ないですし。」

「ありがとう。」

お姉さんは笑った。

「お礼に、私も一つ本当の事言うわ。

――私の本名は、沙織じゃなくて昴よ。」

きゅっと問い詰めるような笑顔は、花のようにそこに咲いた。





☆     ☆     ☆





何やら深刻そうだったので、すぐに病室には入れなかった。

桜と話している時とはまったく逆の厳しい顔。相手は、お兄さんだろうか。サングラスをしているけど、口元がそっくりだ。

何か話しかけるのをやめて、そのお兄さんはベッドの横から大きな板のようなものを3枚、まとめてこれまた大きな紙袋に入れた。キャンバスだ。

それから病院特有の、ベッドをまたがるテーブルの上にあるものを少し触って……。絵の具が乾いているか確認したのだろう、それも中に入れた。

そして、もう一度『セイちゃん』を見て、出て来た。

?お見舞いに来た人に、何て態度だ?

最初そう思った。この病院駅は遠いし駐車場は混んでいるから、来るの大変なのに。私は少しお兄さんに同情した。

でもそれ以上に、彼のギャップに惹かれた。

彼がものすごく悲しい目で、最後のキャンバスがあったテーブルを見つめていたのだ。


絵描きさんって、自分の絵が売れると嬉しいのではないだろうか。

よっぽど気に入っていた絵だったのか、はたまた値段が納得いかなかったのか。

弟の絵のマネージメントをする兄。なかなかいいと思った。素敵な構図。腹を割って言い合う仲。

でも何か引っかかる。

どうしてかしばらく考えた。そして気付いた。

弟の方が大人っぽい顔つきをしている所が、そぐわないのだ。



何の病気か、彼は答えない。

すぐ退院してしまったら、きっと桜は悲しむ。淳君の時よりも。翔君の時よりも。

見た目は健康人そのもののだ。点滴とかされている様子もないし、地道に食事療法されている訳でもない。されていたのだとしたら、大変な掟破りだ。ポテトッチップを平気で一袋あける。

何より彼自身が、病人らしくない。

病院内でナンパはするし。(成功率もいいらしい)

病院を抜け出して買い物にも行く。(主婦並に買い物好き)

この間なんて、パチンコが出たとか言って、山程の缶詰めを紙袋でくれた。(助かったけど)

喘息の発作は夜中に起き易く、桜もそうで、夜眠れずに昼寝をよくする。

ベッドの脇で桜を見ていると桜がすごく気を使うので、私は彼女が寝ると外に出る。行くところがなくて、彼もついでに見舞う。

彼は大抵、仕事をしていた。

絵を描いていた。


「そんなに根詰めて、悪くなるよ。」

「大丈夫大丈夫。」

「そんなことするより、早く治してシャバで描いたら?」

「馬っ鹿お前、俺も今売り出し中なの。今逃したらアウトなんだよ。」

「マネージャーお兄さん?」

「ん? あぁ。よく知ってんね。」

「ならやり易いでしょう。」

「兄の力は借りん。」

彼は言った。

「俺は俺の実力で、100万の絵を描いてみせるぜ。」


病名を明かさないから、最初は余命幾ばくもないのかと気を揉んだ。

でも彼は夢にあふれていた。

一年後個展をやるとも言っていた。

だから私は安心した。それが彼の、叶えたい嘘だとも知らずに。


「ねぇ、何で青使わないの?私は青が一番好きだなぁ。」

彼の隣のイスの上で、体育座りをしながら私は言った。

彼の絵を描いている時の顔が、すごく好きだった。すごく神秘的で、何かを作り出す力に溢れている。何かを作り出す時、人はいい顔をする。

「青?みんな好きだから俺は嫌いなの。」

「あまのじゃくねえ。」

私は溜息をついた。

「空はどうしてるの。」

彼はふと手を止めて顔を上げた。ついでに、絵筆を洗う。

「紙、取ってくんない?」

彼は左手を出し、私はこれ?と聞きながらサイドボード上のノートパッドを渡した。

一枚めくってから、彼は絵の具を作り始めた。

「……黄色?」

「まあ見てなって。」

彼が続ける。

「――こうやって、黄色を塗るだろ。

だんだん、灰色っぽくグラデーションかけて、下の方は全くの灰色にするんだよ。

で、白で雲の動きをつけるだろ?

見てみ? 空っぽくねえ?」

綺麗だった。天使が降りて来そうな空だ。

感動して、彼の顔を見た。ほんの30秒で、どうしてこんな空間が生み出せるのだろう。

彼の得意そうな笑みが、私に向けられる。

「でも、キレイすぎてちょっと淋しい感じ。」

「ああ。」

「狙ってるの?」

「……どうかな。俺はこっちのが好みなんだ。明るい絵は嘘をつくみたいで、描けない。」

はっとして、彼を伺った。けれども、私の視線が行き着く前に、彼は顔を背けた。

「例えばさあ、キャピキャピの女子高生より、夫に死なれた未亡人の方が綺麗な気がしない? それと同じ。」

「何よそれ。」

私が笑うと、彼も笑った。

「その思想、やばいわよ。」

「そっかな。」

テーブルの上の描きかけの絵は、やっぱりどこか淋しい気がした。



火曜日の夜。

仕事から帰って来て、私はベッドに倒れ込んだ。

頭がぐるぐるして、食欲はない。忙しい日はいつもそうだ。

目を閉じても、都会の雑踏のような光がちかちか通り過ぎる。

ふと目を開けると、留守電の赤いランプが点いている。

私はふらふらと立ち上がってそのボタンを押した。

ピーッという音の後に、桜の声が入っていた。

?お姉ちゃん。――パジャマにご飯こぼしちゃったの。新しいパジャマ、持って来て下さい。?

ピーッ

?もう一つ、言い忘れてた。お財布が空になっちゃったので、看護婦さんに借りてイチゴミルク買いました。?

ピーッ

溜息をつく。

面会時間は8時から。明日は会社に行く前に病院に顔を出そう。

少し位遅刻しても、部長は許してくれるだろう。同僚もフォローしてくれる。いい会社だ。救われる。

私はカレンダーの明日の日付に、赤いバッテンを書いた。

――今月3度目…。

幾らフォローしてくれても、やっぱり迷惑はかけられない。

――差し入れしなきゃー…。

化粧を落とす為に洗面所に向かったが、怖くて鏡が見られなかった。



CROSSのジャケットを見たのは、そんな週の土曜日だった。

差し入れを持って会社に向かう電車の中で、隣に座った女の子が雑誌を眺めていた。

Now on Sale の文字とともに、綺麗過ぎる風景画が広がっている。

黄色、灰色、それをぼかす白い空。

それが枯れ草の原と、赤い屋根の家の後ろに描かれているのを見た時、私は一目で、彼の絵だとわかった。





☆     ☆     ☆





ICUを窓から覗きながら、桜は航ちゃん…、と小さくもらした。

航太の経過は良くない。手術後、意識が戻らないのだ。

僕は軽く、桜の手を握り返した。

桜は、ICUを凝視したままだ。

僕は彼女の頭を撫でると、行くぞ、と言った。

名残惜しそうな顔をしながらも、桜は僕に従った。


「航ちゃん何も悪いことしてないのに。」

ベッドに座った桜は、ぽつりと言った。

「桜の赤鉛筆取ったじゃんか。」

桜は抗議の目で僕を見た。

「航ちゃん死んじゃうの?」

「…さあ。桜は死ぬのが怖い?」

「ううん。」

これは予想に反した答えだった。

「自分が死ぬのは怖くないよ。」

「そうか?」

僕は笑った。

「私が死んだら、いろんな人にバチ当てられるもん。お姉ちゃんも守るんだ。」

「死んだら看護婦さんになれないぞ?」

「……。」

きゅうっと桜はふて腐れ、「いじわる」と呟いた。

「死んでお姉ちゃん守ったってお姉ちゃんは桜に守られてることわからないし。生きながら守ればいいじゃん。」

僕は言うが、桜には桜の、人にはみんな声の届かないブラックホールがあることを知っていた。

「お姉ちゃん、遅いね。」

しばらく沈黙した後、桜は明るいトーンで言った。

僕は息を吐きながらうなずいた。


桜がうとうとし始めた頃、お姉ちゃんが凄い勢いで入って来た。

僕が腰を上げて出迎えるより早く目の前に来て、CDを突き付ける。

「これ、あなたの絵でしょう。」

息が上がっている。僕は彼女を見上げた。

「有名な画家だったのね。嘘つき。貧乏なフリなんかしちゃって、馬鹿みたい。」

CDが目の前で震えている。

「昴。」

「気やすく呼ばないで!」

「……。」

予想以上の声に、彼女自身も周りも一瞬怯んだ。

「……とりあえず出よう。桜が起きる。」

桜を伺った後彼女に視線を戻すと、彼女の顔は蒼白だった。

「お姉ちゃん……。」

僕が差し伸べた手を振り払おうとした時だった。

昴が揺らいでCDが落ちた。

「おい!」

「ひどいよ…。」

昴は小さく呟き、大粒の涙をこぼした。

女の人に怒られるのも泣かれるのも久しぶりで、僕はひどく動揺した。

昴は投げ出されたカバンをたぐり寄せて、逃げるように病室の外へ向かう。慌てて,追いかける。

「…………お姉ちゃん。」

「桜に知られたくないの。」

「顔色がヤバイよ。看護婦呼んで来るから…。」

病室の外に出た途端、彼女は崩れた。支えた僕の手を、異様に冷たい手で掴む。僕は周りの人にナースコールを頼んだ。

昴は、病気の僕以上に痩せていて、華奢だった。

抱きしめたくなるのを、必死でこらえた。



「今日何してた?」

「午前中?」

「うん。」

「ケーキ買って会社に行った。」

「……なんで。」

「差し入れ。今週水曜日に遅刻しちゃったし…。」

「遅刻ぐらい。」

「今月3回目なの。」

「……。」

「私、高卒で馬鹿だから、一生懸命やって人並みだし…。」

「メシ食ってる?」

「昼はみんなでランチ食べる。」

「朝は。」

「食べない。」

「夜は。」

「この頃疲れちゃって、食べる気しない。家帰ったらすぐ寝ちゃう。」

「死んじゃうよ。」

「死なないわよ。」

「その状態をこれからも続けられると思う?」

「……。」

「どうにかしろよ。」

「……どうにかなるなら、とっくにしてるわ。」

「……。」

「私ね、兄弟姉妹がいなかったから、すごく桜が産まれてくるのが楽しみだったの。『桜』って名前も、候補の中から私が一押ししたの。私の名前、ほら、『昴』って男っぽいじゃない。だから、女の子らしい名前を!って叔父さん叔母さんに言いまくって…。」

「……。」

「高校卒業して両親が離婚した時、すごく孤独な気分だったの。ぐれても止めてくれる人いないのよ。笑っちゃうね。もうぐれるって年でもなかったけど。そんな時、叔父さんと叔母さんが家に呼んでくれて、私は救われたの。でも2人が亡くなって、桜が残された時、私は思ったの。?桜を愛して育て上げるのが、私の恩返しなんだ?って。だから、」

「……だから?」

「桜のために私は死ねても、桜のために私は死ねないわ。」



あなたの番よ、と言われた。何か、話すことあるでしょう?

昴は辛抱強く待った。僕は言葉を探した。

「……僕があの絵を描いていることを、誰にも言わないで欲しいんだ。」

「……? 何で。」

「CROSS、知ってる?」

「うん。」

友達がファンだと言った。あのCDでしょう。

「そのギタリストが絵描きなの、知ってる?」

「え……?」

「そう。」

僕は微笑んだ。まさか、と彼女が呟いた。明らかに困惑していた。でも心当たりがあるらしい。

「兄貴がね。」

……ごめんね、と昴はか細く言った。

「でも俺、君には絵を隠さなかったから、もしかしたら知ってもらいたかったのかもしれない。」

「辛い?」

「まぁね。どこまでが自分の力なのかわからないからね。」

僕は昴の手に触れた。大分体温が戻ってきていて、僕は安心した。

「…ずっと続けるの…?」

「……。」

ポロリと彼女の唇からこぼれた言葉は、容赦なく僕を殴った。

「あともって、半年だよ。」

「描くのやめるの?」

「俺が死ぬんだ。」

昴を慰めるために、僕はもう一度、微笑んだ。



小1時間程空いた診察室で横になった後、疲れ果てた昴は帰って行った。

肩を落として、異様なほど小さく見える背中と、スカートのすそから出るサンダルの上の白い踵。

それらを見ながら、僕はもう会わないと思った。その方がいいと思った。

これからグロテスクになるであろう絵も、彼女に見せたくなかった。

桜の病室に、戻った。

桜は目が覚めていて、僕を笑顔で迎えた。

「お姉ちゃん、やっぱり今日桜の誕生日プレゼント買いに行くから来れないって。あ、内緒にしてって言われてたんだけど。」

僕は笑った。

「俺がそう言ったこと、内緒な。」

桜から笑顔を奪わないための、精一杯の努力だった。

桜の笑顔が、すごく大人びて見えた。





☆     ☆     ☆





……脳腫瘍。

『家庭の医学』なる本をめくってみても、大した意味はなかった。生存率5分5分。これが手術をした人のだから、絶望的だ。彼のものは脳内の奥深くだから、手術不可能らしい。

お兄さんとの約束も聞いた。

「感覚障害が出る前に」

その言葉がセイちゃんの口から出た時、私は神様を呪った。

日頃思い出しもしない神様を、こういう時だけ呪うなんて、人は勝手だなと思う。

もしかしたら、神様が人を作ったのではなくて、人がこういう時のために神様を作ったのかもしれない。


彼はもう、私と会わない。

そういう人だ。

自分が人の人生に影響してしまう事を凄く怖がっている。退院してしまえば終わりの、院内だけの関係以上になるのを、拒否する。

間合いに入ったら、確実に傷つけられる。背水の陣の彼は、痛いくらい良く切れるだろう。

私は……。

私は、どうなのかわからない。

もう会わない方が良い気がした。痛すぎて、彼には会えない。

でも彼の、絵の具で汚れたあの大きな右手には、気が狂うほど会いたかった。


考えて、考えて、考えた。

仕事をしながら、同僚とランチをしながら、家に帰って寝て起きて、桜に会いに行く電車の中まで。

そして突如、私の脳裏にある映像が浮かんだのだ。

――死んだ彼の手を、抱いて泣く私だった。


久しぶりに、私は元気な顔になった。

行き先の決まっている道は、怖くないから。

波に乗れれば、サーフィンだって簡単なのだ。





☆     ☆     ☆





雷の中雨にうたれる十字架を描いてから、僕の絵はまっしぐらに暗くなった。

羽の破けたアゲハ蝶、釘の刺さった林檎、死んだ銀色の金魚に血だらけのナイフ。

キャンバスでは間に合わない。画材はイラストボードに変わった。

何枚も描き貯める。

嫌われる為に描かれるこいつらは、きっと僕を恨んでる。

証拠に、僕の左眼の視野は暗幕が垂れ下がったように狭まった。

頭痛薬はセフゾンでなくなった。頓服でもなくなった。

部屋のメンバーの内、ボケと植物人間は退院した。

あんなにチューブだらけだったのに、植物人間は意識が戻ると一週間で退院していった。もう一人の植物人間は死んだ。肺癌の中年は病院を変えた。

パチンコに出て行くのが面倒になったので、ゲームボーイでテトリスと麻雀ばかりやっていた。一人徹マンとは、相当いっちゃってるな、と思った。

……そのうち慣れる。

注文通り汚い色の絵の具を持って来る兄に、当り散らすこともなくなる。(そして取っ組み合いの喧嘩になることも)

情けない自分を見せたくなくて、桜にはここ一週間ほど会っていなかった。僕と昴の事を、うわさしている看護婦がいた。

事情を知っている彼女達は、始終昴に同情していた。当然悪者扱いだ。笑っちゃうくらい損な役回りだ。


タバコを買いに出た時、バッタリと昴に会った。

「これからあなたに会いに行くところだったの。」

胸を張って言う昴から、僕は目を逸らした。

僕達は中庭に出る事になった。逃げようかと思考を巡らせたが、面倒でやめた。



「桜が寂しがってるけど、もう来る気ないの?」

この言い方は卑怯だった。僕は当然「そんなことないよ。」と答えてしまう。それが誘導されたようで腹が立って、

「…何?」

と僕は迷惑そうに言った。

「何しに来たの?」

「会いに来たの。悪い?」

彼女は強かった。

タバコの封を切って、一本引っ張り出す。

「吸う?」

彼女は何も言わずに受け取って火を待った。僕に点けさせて、一息吐いた。

「久しぶりだ。」

「そう。」

「ハタチ以来。」

「普通逆じゃない?」

僕は笑った。が、笑わされたのがまた悔しくて、

「悪いけど保険金はあげられないよ。」

と言った。昴があからさまな目で僕を見る。

「裏稼業なんで。」

タバコを再び口に運ぼうとした瞬間、それは引っ手繰られた。芝生の上にそのまま投げ出されるのを、僕は目で追った。

昴は自分のを灰皿に押し付けると、僕に体を向けた。

「あんたねえ、いくつよ? 今更ぐれる年なわけ?」

馬鹿じゃないの、と彼女は言った。僕は投げ捨てられたタバコを拾い、灰皿に落とした。

「……。」

「……。」

「……ところで、あんたいくつ?」

真面目な顔をして聞く昴を見て、しまったと思う。慌てて前方を向くが、完璧に僕の負けだった。

僕は吹き出した。

「何笑ってんの。」

そう言う彼女も笑っている。

「24。」

「何月生まれ?」

「2月。」

「なんだ、タメじゃん。」

「その割に逞しいこと。」

「その割に爺臭いこと。」

「ほっといてよ。」

「爺臭くなきゃやってらんねーよ、絵描きなんて。」

「そっか。」

昴はすっきりとしたような顔をして立ち上がり、それから、伸びをした。

「…良かった。笑ってくれて。」

「おかげさまで。」

僕は微笑んだ。彼女が手を出してきたので、ぱしんと握り返す。

そのまま、握手をする。

「この手に会いたかったんだ。」

「て?」

「うん。」

昴はぴかっと笑った。眩しくて、僕は思わず目を細めた。

「私の人生という名誉ある舞台に立たせてあげるんだから、感謝しまくってよね!」

「喜劇女優が…。何言ってんだよ。」

うまく笑えず、半泣きになった。心がほぐされて、ポロポロと涙をこぼす。

「主演男優賞くらいは狙わせてあげるわ。」

昴がウィンクする。

完敗だった。

でも、涙は、男の意地でこらえた。

最期に、昴に出会えた事は、きっと真冬に咲く花のような奇跡なのだろう。

僕の、人生の最後に。





☆     ☆     ☆





問題は桜だ。そのことは彼とちゃんと話し合わなければならない。

桜の経過は、セイちゃんと反比例して順調だった。発作の回数も減り、退院も夢じゃなくなった。

桜の入院費用をセイちゃんが振り込んでしまって、私はどうしていいかわからなかった。

「俺と結婚しても保険金入らないし、あげられるのは未亡人と言う色気だけだから、愛人くらいならいいかなって。」

それを聞いて、私は思わず彼の首を絞めた。

桜が退院したら、セイちゃんは外泊許可を取って家に泊まりに来るという計画を立てた。

そして計画して一週間とちょっと、桜は無事退院した。桜の誕生日に、セイちゃんはケーキを持って泊まりに来た。驚くほどの量薬も持参していて、桜も吃驚していた。

セイちゃんは桜に隠さなかった。桜も、それで感づいた。

彼がソファでうたた寝を始めると、桜は声をひそめて尋ねてきた。

「セイちゃんの病気、悪いんだね。」

「薬見ればわかるよね。」

洗い物をしながら、私は言った。桜が、当たり前のように布巾で洗い上がった食器を拭いていく。いい子である。本当に。

「死ぬの?」

桜は、禁句を言うように(実際禁句なのかもしれないが)低い声で、しかしはっきりした言葉で言った。

「…人は、誰でも死ぬわ。」

私の堅い声に、桜は黙った。

黙って、食器を拭いていた。


お風呂にいつものように桜と一緒に入って、その後彼女を寝かし付ける。子供のテレビ番組は8時までと相場が決まっており、桜もそれに合わせて動く。

髪をドライヤーで乾かしながら、私はセイちゃんを待っていた。

バラエティーをやっているテレビ番組は明るく、泣きたくなるほど穏やかな時間が流れていた。

入ってから20分程で(病院の入浴時間は20分で、すり込まれている)彼は出てきた。フェイスタオルでごしごし、ワイルドに頭を拭いている。

「さっちゃんは?」

「寝た。明日覚悟しといた方がいいよー。朝8時から起こされるよ、きっと。」

「今何時?」

「9時過ぎ。」

「消灯だ。」

セイちゃんは屈託なく笑った。

「テトリスの時間だ。」

「まだやってるの。」

「うん。前みたくもう何万点もいかないけどな。」

私は少し、悲しくなった。

「剃り残しない?」

セイちゃんが顎を突き出して来る。

「ないわよ。」

私は少し近づいてぴしゃりと顎を叩いた。

「元々薄いくせに。ずうっと鏡と睨めっこしてたんでしょう。」

へへっとセイちゃんは笑った。

二重に見えるんだ、と言い始めたのはつい二日前だ。その前から視覚障害は出ていたらしいが、時々桜や私の手をすり抜けて掴むのを見るのは、居たたまれなかった。

「ドライヤー、いる?」

「いらない。自然乾燥。」

彼の目に、画面の切り替えの早いこのTVは、どう映っているのだろう。

「…ビーフシチュー、うまかったよ。」

「そう?」

「未来の旦那が羨ましいよ。」

「よく言う。ニンジン残したくせに。」

「悪いかよ。あれだけは死んでも食えねえんだよ。死んでも、だからな?俺の死体に詰め込んだりすんなよ。」

「好き嫌いの多い子は大きくなれませんよ。」

「それ、桜のセリフだろ。」

「元々は私のセリフだもん。」

私は笑った。

「似てるよな。」

彼は言った。

「桜がでかくなったら、きっと今のお前みたくなるな。」

ビール飲みたい、と彼が言った。

薬との相互作用があるから飲めないのは、彼もよく知っているのに。

洋酒でもいいや。ジンないの?

「ある訳ないでしょう、私飲まないし。」

「ちぇ。モルヒネで我慢するか。」

「ちょっと。そういう際どい発言やめてよ。」

セイちゃんはゲラゲラ笑った。

「何笑ってんのよ。」

怒っても笑いは治まらない。

「ごめん、俺今すっげえ幸せでさあ。」

セイちゃんは笑い涙をぬぐいながら言った。

「俺とうとうダメかなあ。」

「勝手に言ってろ、腐れ人参。」

私はソファから立ち上がった。

「紅茶でいい? キャラメルとアップルあるよ。」

「キャラメル。」

私が退いたソファに、セイちゃんは倒れ込んだ。

「薬は?」

「まだ、いい。」

「そう。」

「ねえ。」

「うん?」

「待ってる?」

じょぼぼぼぼ、とティーポットから紅茶が溢れた。

セイちゃんはまた笑った。

「ま、待ってるって、え?」

動揺を隠せず彼の顔を見ると、いかにも彼らしく、優しく笑っていた。

「………待ってる。」

情けないほど困惑した声で、私は答えた。彼がにっこりする。

「そっか。」

「そっか…?」

セイちゃんはソファで寝返りをうった。

「それで終わり?」

「ちょっと待てよ、考えてるんだから。」

「考えるって、何を。」

だんだんむきになってしまう。何考えてるのよ。言ってよ。

「……昴、よく聞けよ。」

不意に真面目になったセイちゃんが、ゆっくりと口を開く。

「多分、俺の体力とか精神力とかタイミングを考えても、・・今日・何・も・・・・・なかったら、俺達は・・一生・何・も・・・・なかった・・ことになる。」

「何言ってるの。」

「もし俺がお前を抱いたら、お前は一生俺を忘れない。人間の体なんて単純だしな。考えてみろよ、今までやった奴のことみんな覚えてるだろ? 中坊の時死ぬほど片想っていた奴より、行きずりで一回やった奴の方が鮮明に思い出せるだろ?」 

「な……。」

なんて残酷な人だろう。私は唇を震わせた。

「私に、忘れた方がいいって言うわけ?」

負けるか。

泣いてたまるか。

「馬鹿じゃないの。」

私は言った。馬鹿じゃないの。ライトセーバーのように強い視線がぶつかり合う。

その道もまだ間に合うって事だよ、と彼は低い声で言った。

「俺、幽霊なんて信じてないし、死後の世界は『無』だと思ってる。だから、お前が悲しんでても化けて出れないよ。」

「…出なくていいわよ。」

「それにお前、抱いたら泣くだろ。」

これは否定できなかった。一瞬意識が遠くなって、何も考えられなくなった。

「ってか、俺も泣きそうだし…。」

セイちゃんが、ソファに座りなおしながら、ははっと乾いた笑いをした。

「……っ。」

ガチャン!っと紅茶のセットを置く音が響いた。セイちゃんが吃驚して見上げる。

私は次に、ブチッとTVを消し、いつも点けっぱなしのルームライトのコンセントも抜き、順番が逆だったと思いながら洗面所に行ってブレーカーを全て落とした。

桜は起きない。熟睡している。

「これでいいでしょ。」

私は彼を睨みつけた。

「これなら、誰が泣いたかもわからないでしょ。」

近くの高速道路を行く車のライトが、まばらに、まるでホタルの光の呼吸のように部屋を頼りなく照らすが、セイちゃんの顔はよく見えない。私の顔なんて、もっと見えないはずだ。

しかし彼は言った。

「そんなんじゃないだろ?」

狂おしい程愛しい右手が、私に伸びてくる。彼の声が、辛そうに響く。

「そんなんでごまかせる感情じゃないだろ?」

私の目から、何かが落ちた。私は、噛みつくように彼に抱きついた。

ごめん、と彼の口から息が漏れた。





☆     ☆     ☆





……苦しい。

こんな甘くて苦しいセックスがこの世にあるのかと思った。

血の海に溺れるような、それでいてあたたかいセックス。

彼女は、見えもしないし、泣き声も洩らさなかったけれど、時々喉を苦しそうに詰まらせた。

「…泣くなよ。」

「泣いてない。」

頭の奥が痺れて、懐かしい快感が襲ってくる。僕は彼女の唇と自分の唇を丁寧に合わせながら、初めて見た彼女の唇を思い出した。

甘く結ばれた、幼い口元。一生懸命厳しい社会を泳いでいるのに、どこか甘え足りなさそうに見えた。

ぐしゃぐしゃにしてしまいたい感情を抑えて、僕はゆっくり彼女に触れていく。彼女は猫のように僕の手に擦り寄って来、時折首を仰け反らせた。

「セイちゃん…。」

昴が、子犬のように鼻を鳴らす。

「……何。」

……してる、と喉を詰まらせながら昴は言った。僕は体が震えるほど動揺した。看護婦さん達の、うわさする声が蘇る。

「あ――」

再びその言葉を洩らそうとした昴の口を、僕は反射的に押さえた。

昴が、困惑する。

「言うなよ。」

「……。」

「これ以上俺を悪者にするなよ。頼むよ。」

彼女の顔が歪んで、目尻から雫がぽたぽたと落ちた。この時は、流石に僕も涙を流した。





☆     ☆     ☆





彼の横で寝ていると、彼の辛さに、少し近づけた気がした。

そんなことを言ったらきっと「余計なお世話だからちゃんと眠れ。」って言われるのは目に見えてる。

彼は夜中、一時間ごとに起きる。

水を飲みに起きたと思ったら、トイレに駆け込んで吐い

たり。

追加の薬を飲みに。

いつもこうなのかと思うと、私はひどく絶望した。

夜中の2時。

高速道路の車はほとんどなく、あっても滑走路から飛び立つように通るだけだ。

カーテンをめくってそれを眺めていると、

「ごめん、起こした?」

とトイレから出てきた彼が言った。私は微笑んで首を振った。

「大丈夫?」「辛い?」「何かいる?」「して欲しいことない?」「私に、出来ることない?」…押し寄せる質問も、全て答えがわかってしまって、聞くのも残酷だ。

私の隣から、彼も外を眺める。

「綺麗だよな…。」

うん、そうだね、と私はうなずいた。きっと、夜中だからだよ。

「昼間は排気ガスで汚れるか。そんなもんだよな。」

何もかも知り尽くしたようなその眼は、泣きたいくらい優しくて、私はまた,神様を呪った。

「ねえ、もう一回キスして。」

「また? さっきあんなにいっぱいしたのに?」

あからさまな彼の言葉に、私は絶句した。

「サイテー。デリカシーなさ過ぎ男。」

彼が笑う。

彼の顔が近づいて来て、私は目を閉じた。

欲情とか、探しても見つからないくらい、神聖な口づけだった。



セイちゃんの病院に、桜はしょっちゅう見舞っていた。ついでに、自分の残してきた小児科の戦友にも会っているようだった。

私は前ほどは残業を入れなくなったので時間的に余裕があったが、あまり顔を出すとセイちゃんに心配されるので、桜を通して彼を知り、私を伝えた。病人にちゃんと食え、寝ろなどと言われたくないし、言わせたくもない。

桜からその事実を聞いたのは、外泊から4日後のことだたった。

「セイちゃん、病院変えるんだって。」

「どうして?」

「ホスピス行くって。」

ねえ、ホスピスって病院とどう違うの?と桜は言った。

「私もわからない。」

呆然としながらうわべだけで答える。何故か気が競って、私は立ち上がった。

「桜、お姉ちゃん病院に電話するから、先食べてて。」

はーい、と桜はテレビの音を小さくした。


「どういうこと? ホスピス行くって……別にいいと思うけど、今の病院でだって緩和ケアしかしてないでしょ?」

はっと声をひそめるが、桜が背中で聞いているのがわかって、やめた。

桜の方がセイちゃんと付き合いが長いのだ。子供だからって2人で隠し事をするのは卑怯な気がした。それに彼女と私は微妙にライバルでもあったのだ。小学校に再び行き始めた彼女には、また新しく気になる男の子が出来たようだが。

?ああ、でもそんな遠くないし、寧ろここより便利な場所にあるし。?

電話の向こうでセイちゃんが言う。

「まさかそんな理由で変えるわけじゃないでしょう。」

担当医が変わることが、結構な不安を呼ぶのを私は知っている。

セイちゃんは苦笑した。

?苦情が来ちゃって。?

「苦情?」

私は声を上げた。桜がぴくりと反応する。

?昴の家でもそうだったけど、俺、夜中ダメでさ。点滴ガラガラやりながら薬もらいに往復したり、看護婦呼びまくってたら、隣が眠れないって。?

私は言葉を失った。

?個室でもいいんだけど、相手も気まずいっぽいしさ。?

「……。」

?何よりお前ん家みたく居心地いいのが忘れらんなくて…。俺家庭に恵まれない子だったから…。?

「…本気?」

?バレた??

セイちゃんが音を立てて笑う。

?まあ心配すんなよ。?

「うん。」

彼の強さに、私は心底尊敬した。尊敬して、感動した。でもそれだけじゃいけないのだ。私達は、それが普通にならなければ何も乗り越えられない。

受話器を置く。

私は明るい声で、食事をしている桜に今日の批評を求めた。


「私ね、今日思い切ってセイちゃんに聞いたの。」

アニメの後天気予報に回し、明日の天気が終わると、桜は不意に言った。

「ふうん、何を?」

「何して欲しい?って。」

「?」

それのどこが思い切ってなのか、私は始めわからなかった。桜は私の顔を見ずにもう一度言った。

「死んだら何して欲しい?って。」

ドキリとして、私は慌てて桜から目を逸らした。何でもないように、

「そう、何だって?」

と聞き返す。

「いっぱいあったよ。」

「例えば?」

「幸せになって欲しいとか、元気でいて欲しいとか、小さいことでも笑って欲しいとか。」

桜は半泣きだった。

「でもね、私が聞きたかったのは、・・セイ・・・ちゃん・がして欲しいことなの。・桜・が・・セイ・・・ちゃん・に、出来ることなの。」

「聞けた?」

「うん。一生懸命聞き出した。」

桜が、嗚咽をこらえながら言う。

「何だって?」

「すっごい難しいこと言われた。桜はそんなことないって言ったけど、セイちゃんは難しいよって言った。」

「だから、何だって?」

私は、泣きそうな自分にイライラして、つい声を荒げた。

「桜の、大切な人みんなに、セイちゃんって言う人がいたことを話すんだって。」

自分の中で何度も繰り返したのかもしれない、一気にさらりと言った後、桜はぴえーっと泣き始めた。話の内容と泣き方のギャップに、私はしばし彼を忘れた。これは久しぶりで、自分自身も吃驚した。

そして、自分の中にある、日頃のドタバタで隠れていた桜への愛を、倒れるくらい必死に守った愛を、突如思い出した。

人間崖っぷちに立たないと、愛なんてわからない。見えないのだ。

「それで思い出したの。お姉ちゃんの言葉。」

「…え?」

いきなり話が私に振られて、はっと気付く。

「ずっと前、お姉ちゃん、私が絶交したユキエちゃんの話したとき、言ってたでしょ?」

桜にティッシュを渡しながら、私は「ユキエちゃん」を検索した。確か、桜と良くある小学生の絶交をしたのだけど、謝って仲直りする前に転校しちゃった子だ。

「人のね、大切の仕方はね、一つじゃないんだよって。仲良く遊んであげることだけじゃないんだよって。もしユキエちゃんのこと後悔してるなら、ユキエちゃんのこと思い出すたんびに3回、『ユキエちゃんに幸せがありますように』って神様にお祈りしなさいって。」

それは絶交の経験のある私が、苦し紛れに編み出した宗教だった。

「それで気付いたの。セイちゃんとお姉ちゃんは似てるって。」

セイちゃんとお姉ちゃん結婚できればいいのに、と桜は泣きじゃくった。桜の中の結婚の定義は良くわらないが。

……似てる。

……似てる?

少し考えてしまった。喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。

一番近くにで暮らしている桜が言うのだから、間違ってはいないはずだ。

私と同じ角度で世の中を見ている人に出会えたが、その人は死ぬ。

これは、紛れもない事実なのだ。





☆     ☆     ☆





僕がホスピスに移る日、昴は有休を取って同伴してくれた。

長く一緒にいられるのは久し振りで、妙に浮かれていた。自分でも馬鹿だと思った。

兄に知らせたのは今朝だから、明日にでも来るかも知れない。

痙攣する右手を左手で押さえつけて描いた絵は、期待通り売れないはずだ。

兄とは腹が立つほどの腐れ縁だ。画材に詳しくなった彼は、僕が絵を描く限り手放せない。

兄に、キャンバスを頼んだ。「何? もっと絵を提供してくれるわけ?」と馬鹿な事を口走る彼を罵倒しながら、僕はサイズを伝えた。

大きなキャンバスなら、多少のブレもごまかせる。


ホスピスに移った理由はそれだった。大きな絵が描きたかったのだ。何を描くのかも構図も既に決まっている。

グロテスクな絵で終わるのは嫌だった。

僕や、昴の愛してくれたような、自分らしい絵が描きたかった。

仕上がるまで死ねないと思った。桜のために死ねないと言った、昴を思い出す。

同じような愛情を、僕は感じていた。


思ったよりも移動が辛くて、昴に支えてもらってやっと部屋に着いた。トンチンカンな彼女は私服の僕と腕を組める事に嬉々としていた。この頃感覚が歪んでいる。早く解放してあげたくなった。もっとも、そんな事を言ったら世にも恐ろしい事になるので言えないが。

「ホスピスって病院と全然違うのね。ホテルみたい。」

昴ははしゃぎながら窓を開けた。

「線路が見えるよ。小さい電車っておもちゃみたいでかわいいわよね。」

情けない僕は、ベッドの上でつぶれていた。

「着替える?」

「…ちょっとタンマ…。もう少しパワー貯めさせて…。」

うつ伏せのままうめく。あまりの体力の無さに笑ってしまった。

昴は勝手に部屋を探索し始めた。

シャワードレッサーがついているのね、このソファーはベッドになるんだ、このTV家より大きい、桜がいなかったら私ここに泊り込んじゃうのに。

「病人の前でよくそんなに元気だね…。」

僕が呆れると、

「恋人の前だから元気なのよ。」

えへへっと彼女は短く笑った。


そのままでいいから横になったら、と言うので、僕は靴を脱いでベッドに上がった。耳鳴りと、パンチドランカーになったような頭を押さえようと、固く目をつぶる。

耳鳴りの奥で、彼女の立てる音が聞こえる。

流しで水を出したり、TVをつけたり、消したり。

窓を開けると、僕のベッドの側の椅子に座った。

鞄のファスナーを開け、紙のような物を取り出す。

しばらく沈黙した後、彼女はページをめくる。

ボールペンで何かを書く音が、聞こえる。


しばらく眠っていたのか、気を失っていた。

気付いたのは、彼女の声でだった。

「…ちゃん、セイちゃん。」

薄目を開くと、彼女のこげ茶色の髪の隙間から、小さな赤いピアスが見えた。

「息、してなかったよ。」

「ああ……。」

僕は言った。

「忘れてた。」

何よそれ、と彼女の笑う声がする。

間に合わないかもしれないな、とその時ふと思った。


僕が再び目を開けたのは、昴が兄を迎え入れる音がしたからだ。

初めまして、と昴は頭を下げた。

「よう。」

兄が言った。僕は睨んだ。

「この人か。」電話の。

「?」

昴が首をかしげる。

「うるせーよ、とっととキャンバス置いて消えろ。」

「お、まだ言葉は生きてるな。」

はい、とにっこり微笑んで、兄貴が昴にキャンバスの入った大きな袋を渡す。昴が戸惑いながら受け取るのを見て、相変わらずだ、と思う。そういうところが嫌いなのだ。

「かわいい方ですね。」

CROSSのギタリストに言われた彼女は、顔を真っ赤にした。

くだらない、と僕は顔を背ける。

「こいつが絵に描きたくなる気もわかる。」

「帰れ!」

全身の毛が猫のように逆立った気がした。

「ちぇ。折角スケジュール縫ってここまで来たのに、冷たい弟だこと。」

睨みつける僕に、やれやれと手を振ると、昴にも頭を下げて兄は出て行った。

昴は、何も言わなかった。



今朝早く、僕は兄の携帯に電話をかけた。

彼は徹夜でレコーディングをしていたらしく、すぐに出た。

「俺だけど。」

ああ、何、と彼は言った。僕は息を吸い込んだ。

「今から言う条件を全て飲まねえと、これからマスコミにたれ込む。」

「……。」

兄は黙った。黙った後、ちょっと待ってろ、と言い、場所を移動した様だった。

「で、条件は?」

「転院するから、その費用を振り込め。俺が死ぬまでだ。」

「それから?」

「CDジャケットが絶版になるまでの印税3年間、俺が死んでも振り込み続けること。」

「オーケー。わかった。交渉成立。」

「まだ終わってねえよ。あとでかいキャンバスを近日中に持って来い。F40か50だな。」

わかった、と兄は言った。そして笑った。

「どういう風の吹き回しだ? 俺の力なんて借りずに自分は自分の金で死ぬって言ってただろ。」

「うるせえな。使う用途が出来たんだよ。」

「女か。」

彼は何故か満足そうだった。僕は黙って受話器を置いた。





☆      ☆      ☆





夕方になって桜が学童から帰ってくる時間が近づいてきたので、私はセイちゃんに別れを告げた。

午後から少し楽になったのか、彼はキャンバスに向かっていた。

仕事をしながら、たまに話したり歌ったりして、私は病室から離れなかった。

「昴。もう……」

セイちゃんは帰り際の私に言った。言いかけて、言葉を変えた。

「じゃねえな、しばらく、来なくていいよ。俺もこいつに集中したいし。」

あまりにもさりげなさ過ぎて、返って真に迫る怖さがあった。女優並みの演技力で気付かなかった振りをし、少し拗ねてみせる。

「恋人よりアートですか。」

「ごめん。」

「本気に取らないでよ。わかっているわよ、それくらい。」

私は笑った。わかっている。彼とキャンバスの間は彼の手以外考えられない。

「やばくなる前に、兄貴に連絡させるからさ。」

「わかった。描き上げてもね。」

にっこりと微笑む。唇が震えたので、すぐに視線を外したが。

怖い。わかっているけれど、怖いのだ。

あの時、息が止まっても気付かなかった。誰も側にいなかったら、きっと、いや、確実に今ここにいなかった。

彼はもう、着々と別れを告げているのだ。この世に、私に、自分に。

?もう少し時間を下さい、もう少し時間を下さい、もう少し時間を下さい。?

祈るように、彼の体に呼びかける。

じゃあね、と手を振った私を、セイちゃんはベッドに埋もれながら笑って見送った。彼が凄く痩せた事に、改めて気付かされた。


ロビーから出て駐車場に足を踏み出した時、車のクランクションが2回鳴った。

振り向けば、セイちゃんのお兄さんだ。何てことだ。ずっと待っていたのだ。

愛車であろうBMWを私の横につけると、送りますよ、と彼は言った。

でも、と私はホスピスを振り返る。

「ちょっとお話したいんです。」

彼の顔は真面目だった。私がうなずくと、彼は急いで助手席の紙を退けた。よく見るとそれには、たくさんの音符が並んでいた。


「いやー、一種の賭けでしたよ。残り時間3時間23分。それだけ待っても出て来なかったら帰らなきゃならなかったし、貴女が車に乗っていたらアウトでしたし。」

「病院からここにはタクシーで来たんです。私が車出すって言ったのに、セイちゃん聞かなくて。」

「断られる理由も多かったですしね。」

お兄さんは笑った。

「俺すっごい嫌われてるでしょう。」

はあ…と私は萎縮した。何て答えていいかわからない。

「旦那さんとはどうなさったんですか?」

え?と聞き返す。

「お子さん、随分と大きいようでしたけど、幾つの時ご結婚を?」

「……。」ああ。

私は笑った。桜と会ったことがあるのか。

「結婚なんてしてません。」

「シングルマザーですか。」

「そうですね、そんなとこかな。」

「?」

「あれは、私の年の離れた従妹なんです。彼女の両親が死んで、私が引き取ったの。」

「そうなんですか。」

信号で、車が止まった。

「僕達も、母子家庭でしてね。」

お兄さんは信号を眺めながら言う。

「母はもう亡くなってるんですけど、随分苦労かけました。俺はちっとも気にしないタイプだったんですけど、あいつは優しくてね。バイトした金を家に入れたり、母が倒れると徹夜で看病したりしてましたよ。」

私は、他意なくしんみりしてしまう。

「自分達のせいで母が苦労しているんだって、良く説教されました。」

桜と仲良く遊ぶ彼が甦って、息が詰まった。

「俺なんてバイトした金でギター買ったりライブやったり、もうその頃からこっちの道にのめり込んでいたから、家庭振り返らなくって、嫌われて当然ですよね。」

彼はうっすらと笑みを浮かべた。

「ゴーストもやらせてますしね。」

「……。」

「今更言い訳にしかならないけれど、あいつの絵、世に送り出したかっただけなんです。稼ぎの少ないあいつに、お金を貯めさせて、いつか風景じゃない、生きた絵の個展を開かせるつもりだった。」

「風景じゃ…ない?」

「見たことありませんか。じゃあ期待して待っていた方がいいですよ。――あいつは、人間とか動物とか、生き物の絵の方が断然上手いんです。優しいと言うか、あたたかい絵を描きますよ。」

私は言葉を失い、ここ右ですか、と言うお兄さんの質問にうなずくしか出来なかった。

「こんなこと本人に言えませんね。照れるし、何より彼の前だとどうしても、『しょうもない兄貴』を演じてしまうし。本当にしょうもないんですけど。貴女が現れる前、あいつは淋しがって死に急いで仕方なかった。だから無理やり絵を描かせたり、俺を憎ませたりしましたよ。」

それっきり、彼は黙った。

次の信号、左です、と言う私の声は、とても大きく響いた。


「では、お子さんによろしくお伝え下さい。」

「ええ、そちらも。体に気をつけてお仕事がんばってください。」

マンションの前で、私は車の中とこんな会話を交わす。

「また近々会う事になるでしょうけど。」

お兄さんは苦笑した。私は顔が強張ってしまって、笑えなかった。

ウィンドの向こうで、セイちゃんと良く似た口元が、ありがとう、と動いた。

車が見えなくなるまで、私はしばらく見送った。


その夜私は眠れなくて、心配した桜が隣で手をつないでくれた。桜は何も聞かない。私の顔を見て、全てを知るのだろう。

彼女の寝顔を見ながら、私はセイちゃんとお兄さんを育てたというひと女性を思った。

小さな子と、支え合って生きる人生。





☆      ☆      ☆





昨日の夜中も、呼吸し忘れていたらしい。起きたら、酸素マスクをつけられていて、僕は溜息をついた。

起きたくても起きられない。体と繋がるチューブは、日に日に増える。

一日も、短くなる。

意識が朦朧として、視点も会わない。

看護婦に頼み込んで目の前にセットしてもらったキャンバスは、感覚だけを頼りに色を塗られていった。

色覚だけは、まだ残っている。偉い偉い、と僕は自分を誉める。


昴と桜に代わって、兄が最近良く来る。

「仕事しろよー…。」

と言うと、

「余計なお世話だ。」

と返ってきた。時々筆を洗ってくれたり、少しは役に立ってくれた。


筆を持てなくなった日の夜、僕は看護婦さんに言って兄に連絡してもらった。

「ちゃんと繋がりましたよ。『信用して安心してくれ』ですって。面白いお兄さんね。」

ピンク色のナース服を着たこの彼女を、兄は口説いたのだろうか。


病院に入って一番初めに失ったのは、季節感だった。

外が寒くても暑くても、僕はずっとTシャツ一枚だった。

その次に、心配させたくない友人。その中に、最後は桜も入ってしまった。

体力もなくした。

平衡感覚や握力など、僕はポロポロと落し物をしながら歩いているようだ。

もう落とすものは無い。何となく残った面影を胸に、魂だけで歩いている。

そんな気がした。



「セイちゃん。」

昴の甘い声が聞こえる。

安心する。愛してる。

出来れば、もっとずっと前に会いたかった。

もっとずっと、一緒に居たかった。





☆      ☆      ☆





セイちゃんの容体が急に悪くなったとお兄さんから電話が入った次の日、私は仮病を使って会社を休む事に決めた。

彼の死に立ち会うかどうか、桜には本人に決めさせた。

「行かない。」

予想に反して、彼女は言った。

「後悔しない?」

「大丈夫。」

それっきり、黙り込んだ。唇が震えているのを見た時、私は‶彼女は1人で泣きたいんだ″と悟った。私の前だと、つい我慢してしまうから。


異様に心臓が高鳴り、私も事故を起こしてしまうのではないかと緊張しながら車を出した。

いつか彼と見た真夜中の高速を、夢中で走る。

‶――待ってる?″

いたずらっ子みたいな笑顔が浮かぶ。

私を抱いた右手の感触が、よみがえる。

‶――これ以上俺を悪者にするなよ。頼むよ。″

泣いてしまえ、と思った。

病院に着くまでまだ20分はある。私はたたきつけるようにフットオンクラシックのCDの再生ボタンを押した。

ボリュームをガンガン上げる。窓も少し開けて、デコトラのマフラーの音も取り込んだ。

車の中は、嵐というより吹雪が訪れたように吹き荒れた。

私は張り詰めていたものを、自分からぶち切った。

そんなに泣いたこと、今までなかった。


涙はすぐに止まったけれど、しゃくり上げるのが止まらない。

仕方なく私はそのまま、鼻をぐずぐず言わせながら病室に向かった。

お兄さんはもう居て、ソファーでタバコを吸っていた。

医者と看護婦1人ずつが、セイちゃんのベッドに付き添っていた。

「セイちゃん。」

私が呼びかけると、看護婦さんも言った。

「望月さん、恋人が来たわよ。絵、見せるんでしょう?」

彼の目は、堅く閉じたままだ。

「セイちゃん。」

駄目だ。

私はまた嗚咽し始めた。あれだけ流したのにまだボロボロ流れる涙をぐいぐいぬぐって、お兄さんを振り返る。

お兄さんは顎で、向かいのソファーに立てかけてあるキャンバスを示した。

「上手いよなぁ。」

そこには、天使を抱く女神が静かに微笑んでいた。

足先から、鏡のような水面に波紋が広がっている。

お兄さんはそこを指して言う。

「ここらへん、もう指で描いたな…。」

セイちゃんの右手を見る。人差し指と中指が、絵の具にまみれている。

でも、ひたすら守って、左手にすべての点滴や注射をしただけあって、すごくすごく美しかった。

「セイちゃん…。」

私はその手を抱き締めて泣いた。

かすかに、握り返された気がした。



翌日の夕方頃、彼は日が沈むように息を引き取った。

私はもう泣かなかった。

お兄さんに通帳と印鑑をもらった時、それを胸に抱いてセイちゃんありがとう、と言った。

その時で最後だった。



お兄さんしか知人のいない小さな葬式に出て、彼に交じって桜と共に手伝いをした。

目の前の人達が病気までの彼を知っていて、それからのことを私が知っているというのは、何処か不思議だった。


彼の家の代々のお墓は鎌倉にあって、式もそちらで行われた。

悲しみも忘れる程バタバタと働いて、全てを終了した後、お兄さんは帰路に着く私と桜を、横浜駅まで送ってくれた。


「この辺に来るのは久しぶりです。」

「前はよくいらしたんですか?」

「ええ、叔父と叔母がこのあたりに住んでいた時があったもので。」

 私は目を細めた。

「高校の頃だから、もう5・6年前ですね。」

 懐かしさを込めて言うと、お兄さんがさらりと言う。

「じゃあ、その時誠也と会ったかもしれませんね。」

 え?と私は聞き返した。

「誠也の美大予備校、この辺りなんですよ。すれ違っていたかもしれませんね。」

「……。」

私はタイムスリップした。気がした。ガム出したい、という右のシートに座る桜の声が、遠退いた。


あの日、両親の離婚が決まり、まわりはまだ大学受験で忙しいのに就職も決まり、死ぬほど孤独だった。

そんな中、就職祝いをしてくれると言うので、伯父と伯母を訪ねることになったのだ。買ったばかりの新居も、彼らは見せたかったのかもしれない。

住所をたよりに、そのマンションを探した。大きくてすぐ分かるよ、と言ったのに分からない。

日は暮れ、すごく寒い冬だった。

私はかじかんだ指先に息を吹きかけ、マフラーに顔をうずめた。

前から人が歩いて来た。

その人も孤独そうで、厳しい目をしてマフラーに顔をうずめている。

明るい人に道を尋ね難かったので、相手も学生服を着ているのにかまわず声をかけた。

「あの、」

私は少し見上げたが、顔はマフラーに隠れてよく見えなかった。

「シティマリンマンションって、どちらですか。」

その人は黙って指を指した。左手で画材道具を持っていたので、ポケットから右手を出して指した。

その指に、絵の具がついていた。

見覚えのある指だった。

ありがとう、と言って私はそっちの方向へ歩いた。ごちそうが近づいたぞ、とか思いながら。




「どうもありがとうございました。」

お兄さんの車から降りた私と桜は、ぺこりと頭を下げた。

バイバイ、と桜が手を振り、彼も手を挙げた。

車が去ってゆく。


私は息を大きく吐いた。もう大丈夫。

「桜。ケーキ食べない?お姉ちゃん日本食続きで糖分足んない。」

うん!と桜がうなずいた。

空が青い。

やっぱり、私は青が好きだな。

と、私は彼に言った。







 Fin.


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