道程
闇の中に仄かに浮かび上がるのは、地下鉄のホームのような場所だった。列車の代わりにあるのは、人がやっと二人くらい乗れる木製のトロッコだ。ホームに向き合う壁にはミケランジェロのアダム創造の絵が大きく描かれていた。
足音が残響する。一組の若い男女が寄り添いながら、長い階段を降りてきた。
「いらっしゃいませ。ようこそおいでくださいました」
紺色のスーツと紺色の帽子の女性が九十度のお辞儀で二人を迎えた。
トンネル内部は極北のように冷えた。カップルの女性が強く手を絡める。男が励ますように手を握り返す。
「ここはどこなのですか?」
男が、緊張しいしい早口で訊ねた。
「あら、ご存じではないのですか?」
二人は顔を見合わせ、困惑した表情を浮かべる。
帽子の女性は柔和な笑みで、業務の説明を始めた。
「ここは、道程の一通過点です。私が、お二人の道行きをお手伝いいたします」
道程
白瀬道夫は大学卒業を控えた二月の末、恋人の相田美和子との関係継続に危機感を覚えていた。
美和子は鼻筋の通った美人であり、大学のミスコンに優勝したこともある。男女ともに分け隔てなく接する人柄の良さから、競争倍率は非常に高かった。
道夫は彼女と同じゼミに所属していた。猛アプローチの末彼女と結ばれたのは、三期生も終わりの頃である。丁度就職活動が激化し、お互い会える頻度は少なくなった。
それでも耐えることができたのは、お互いの夢を尊重することができたからである。道夫は希望の設計事務所に入社が決まり、美和子も出版社の入社が決まっていた。
「これからますます会えなくなるけど、大丈夫かな? 俺たち」
名残を惜しむように学内のカフェで二人は語り合っている。美和子はスプーンでモンブランを小さく切って、口に運んでいた。
「心配性だよね、道夫って。でもさ、みんなそんなもんなんじゃない?」
「そんなもんって・・・・・・、何だよ」
道夫の声は明らかに剣呑であった。美和子はフォークからモンブランを落とした。
「変な意味で捉えないでよ。べったりするだけが、愛じゃないでしょ。お互いもう社会人になるんだし、責任を担う立場になるわけじゃない? それなのに、自分たちだけっていうのはねぇ?」
道夫は美和子ほど大人になり切れていない。ふてくされている。それを見かねたのか美和子が深々と、ため息をつく。
「なんか心配だな、未来の旦那さまがふがいない」
「え?」
美和子は両手のひらで道夫の頬を挟んだ。
「私はそのつもりだったけど、道夫は違うの?」
「いや、違わない!」
二人は時間を名残おしみながら過ごした。社会に出れば距離は確実に離れる。美和子は毅然としていたが、内心では不安がっており、それが恋のエッセンスに彩りを添えたと言っても過言ではない。
ある日、二人はデートの帰りに些細なことで、諍いをしてしまった。原因は道夫にあったが、どうしても謝ろうとしない。美和子は、あきれて帰ろうとした。
「待てよ、お前だって悪いんだぞ。予約してた店に文句言うなんて」
「今日は何の日?」
道夫は、言いよどんだ。美和子の誕生日は七月だし、付き合い始めた記念日でもない。
「今日は道夫の誕生日でしょ?」
道夫は美和子を喜ばせることばかりに気を取られて、自分のことをすっかり失念していた。美和子もまた道夫を喜ばせたいのであり、その機会を得られないことにかっかしていたのだ。
「プレゼントも用意してたのに、道夫ったらすっかり忘れてるし、言い出せないんだもの」
「ごめん。そうか・・・・・・、もうそんな時期か」
道夫は二十二歳になったのだ。実感もなく、成人式を迎え、今度は社会人になる。受験も就職活動も辛かったけれど、エスカレーター式なのは疑いようがなく、そもそも人生は平穏無事が一番。出る杭は打たれるというし、美和子も少なからず嫉妬を受けて苦しんでいた。ミスコンなんか出るんじゃなかったと言っている。
「大人になるんだな、俺たち」
「何言ってるのよ、今更」
塞いでいた美和子の顔も和らいで、道夫は安堵する。美和子が側にいれば、自分は道を誤ったりしないと誓うことができた。
「美和子」
道夫は真顔になって美和子の細い肩に手を置いた。美和子も目を細め、身を委ねる。
「やっぱりここじゃなんだから」
我に返った道夫は往来を気にして、場所を変えることを提案した。美和子は意外と無頓着だが、夜八時を過ぎても街に人は絶えない。 「まだ帰るのは早いし、ちょっと歩こうか」
「そうね」
二人は静かなBARを探したが、行きつけの店は生憎お休みだった。飲み屋街の怪しい灯明に誘われるように、狭い小道に入った。
道はどんどん狭く、猥雑な雰囲気が濃くなった。赤や、紫の光を前に、二人は身を重ねるように歩いた。
「ちょっと道夫。どこまで行くの?」
「んー、もう少し」
道夫の下心は見え見えだったが、あえて美和子は放置した。彼女もその気がないわけではなかった。
二人は黙々と歩く。道夫は気づかず通り過ぎようとしたが、美和子は道ばたの小さな看板に目を留めた。白いペンキが塗られた上に、赤い文字で書かれている。
「ねえ、道夫道夫」
「何だよ」
美和子が引き留めると道夫は怒ったような声を上げて、看板を食い入るように見つめた。 「なになに・・・・・・、道程。アングラの芝居か?」
看板の背後のビルに地下への階段がある。
美和子が、演劇に興味があることを道夫は知っている。それでも今この時においては似つかわしくないと思ったのである。高村光太郎の道程くらいしか思い浮かばない道夫は、乗り気ではない。
「もう遅いしさ。やってないよきっと」
「わからないじゃない。行ってみようよ」
美和子の確たる態度に促され、道夫は渋々暗い階段を降りることになった。墓石のように冷たい冷たい階段を。
そうしてたどり着いた先が芝居小屋ではなかったことに、二人は驚きを禁じ得なかった。 「道程って何ですか?」
暗いホームで、美和子が訊ねると、帽子を被った女性が一度頷いて、トロッコを手で指し示した。
「ここはお二人の人生の道行きを、シミュレートすることができる施設です」
「人生? こんな場所でどうやって人生を知るんですか?」
からかうように道夫が言うと、帽子の女性は薄くほほえんだ。どこか商売的な笑みだけれど、人に害意を与えないものだった。
「そうですねえ、怪しむのも無理ないと思います。人生なんて言われても、構えてしまいますよね。あまり難しく考えずにアトラクションとして楽しんでいただくのがよろしいかと」
「おもしろそう。やりましょうよ、道夫」
美和子はあっけらかんとしていて、今の状況にのめり込んでしまう。道夫はそこまで頭が柔軟ではないので、今にも逃げだしたくなった。
「お、お金は? お金取られますよね」
「いいえ。ここにたどり着かれたお客様は、それだけで資格がおありです。お代は結構でございます」
ますます怪しいと、道夫が拒否反応を示そうとしたが、美和子は案内の女性の手を借り、既にトロッコに乗り込んでいた。これでは男の立つ瀬がない。
「道夫ー、乗らないの?」
美和子がにやにやしながら言った。
道夫はジェットコースターのようなアトラクションが苦手だ。目の前のおんぼろトロッコも似た趣向に違いない。
トロッコは有り合わせの木の板を継いだような粗末なものだった。底が深くなっており、道夫が乗り込むと大げさな音を立てて揺れた。前方に鉄製のレバーがついている。レバーを手前に倒すとスピードが出ると教えられた。
「大切なことなのでございますが」
ホームの上で案内の女性がまじめ腐った顔になった。
「どんな道ゆきを歩むことになっても、お二人の力で乗り越えて頂きたいのです。お約束頂けますか?」
まるで結婚式の制約のようで、若い二人は苦笑する。
「たぶん、大丈夫じゃないかな。ねえ? 道夫」
「お、おう、まかせとけ」
道夫が頼りなく請け負うと同時に、トロッコの振動が激しくなった。前進しているのだ。
ホームの上から、案内の女性がハンカチを振っていた。右手側の壁画が遠のくのを、美和子は何とはなしに見送る。
車輪とレールが火花を発し、トロッコはトンネルを走る。灯明はなく、視野は一向に開かれない。トロッコの振動が体に伝わるのと、美和子の体温で道夫は何とか平静を保つことができた。
「どこに続いているのかしら。何だか怖くなってきたわ」
威勢のよかった美和子が弱気なことを言うので、道夫は彼女の柔い肩に触れた。
「二人だけで何とかしろって言われたろ。がんばろう」
「そうね。じゃあ、もっとスピード出さない?」
トロッコの速さは、坂道を転がる自転車くらいの速度と同様だ。これだけでも道夫は参っているとは言い出せない。レバーに手をかける。
「い、いくぞ、準備いいか?」
「私はいつでもいいわ」
道夫は力を込め、レバーを手前に倒した。思ったよりレバーは軽く、女性の美和子でも恐らく苦にならないだろう。
レバーを倒した途端、ぐんと背中を引っ張られるような感覚を味わい、風が道夫の髪をわしわしとなぶった。
加速の恩恵は予想以上で、二人は声を上げるのも忘れ、互いに体を寄せあい、倒れないように踏ん張った。
「み、道夫、速すぎ!」
「わかってる。ブレーキは・・・・・・」
アクセルの講習しか受けていない二人は、気が動転した。トロッコは耐久性に不安があったし、振り落とされたら命も危ういと思ったのだ。
道夫は激しい揺れと、今にも壊れそうな箱船に動揺しつつ、美和子を気遣うのを忘れなかった。
「でもいつかトロッコは止まるよ。加速しなけれりゃね」
「あらどうして?」
「道は平坦だし、抵抗があるからね。そのうち減速するんじゃないかな」
「なーる」
道夫の言は結果的に正しかった。トロッコは十秒もしないうちに、元の鈍行に戻った。
「道夫、意外と冷静ね」
「俺がしっかりしないとだろ。意外は余計だ」
二人は声を立てて笑って抱き合った。暗闇なので感度が普段と比べものにならないほど敏感になった。
「はあ・・・・・・、こんなところじゃなけりゃ」
道夫は嘆息し、レバーに手をやった。余興はもうたくさんとばかりにまた速度を上げる。そこで気づいたのだが、速さが増すたび、レバーが重くなっている。道夫は腕の力だけでなく体重をかけ、汗だくになりながらレバー倒した。
「あまり無理をしないで」
道夫の必死さに当てられて、美和子は悲痛な声を上げた。
道夫は我を忘れて、レバーを倒しまくった。腕の筋肉は緊張と収縮を繰り返し、火を吹きかねない勢いであった。
やがて、一つの点が道夫の視野に入る。点が一条の線に変わり、白い光にトロッコは突入した。二人はきつく目を閉じ、衝撃に備える。
「・・・・・・、どうなった?」
道夫は、目を閉じたまま隣にいるであろう美和子に訊ねた。美和子は息を飲んだ様子だ。一緒にいる時間が長いから、すぐにわかった。道夫は堪えきれず目を開けた。
鈍色の空の下、トロッコは水辺を走っていた。辺りは、マングローブ林が繁茂している。水に沈んだ線路の上を、トロッコは軽快に突っ切る。亜熱帯の気候が、美和子の首筋に玉の汗を作った。
「どこなんだここ!?」
道夫と美和子は手を取り、狼狽した。トロッコは止まらない。マングローブ林の間をくねくねと迂回する。
「は、早く出よ? 何かヤバいよ」
「そ、そうだな」
道夫はレバーを動かすが、水の重さ増した分思うように進まなくなった。
甲高い猿の鳴き声がこだました。美和子は身を縮め、道夫を急かす。
「ねえ? まだ? まだ?」
「うるさいな。一生懸命やってるよっ!」
焦りを吸うように、レバーは重くなる。汗で手が滑る。道夫は恐慌状態にあったが、一度深呼吸してレバーから手を離した。
「どうしたの? 早くしてよ!」
火急に命の危険が迫ったわけではない。今はまだトロッコは走るし、線路は繋がっている。
道夫は美和子の肩を掴んで揺さぶった。
「美和子、落ち着くんだ。これはアトラクションだ」
「え?」
美和子は四囲を何度も見回し、最後に下を向いた。我に返り、恥ずかしくなったのだ。
「取り乱しちゃったね」
「いいよ。誰にも言わないでおいてやるよ」 「道夫のくせに生意気」
落ち着いた美和子が、トロッコを操作したいと言い出した。道夫は腕が痺れてきたため、渋るふりをして喜んで位置を変わった。
「道夫が疲れたらさ、私がこうやって支えるの」
「頼もしいな。美和子は」
美和子は額に汗し、レバーをけなげに動かしている。道夫は後ろを向いて、元来た道の水の流れを見ていた。
「ねー、見てる?」
「見てるよ」
道夫が背を向けているのに気づくと、美和子は鼻の頭に皺を寄せた。
「はあ、私今すごい顔してる」
「どんな顔でもきれいだよ」
「鬼みたいになってる。見たい?」
「見たく・・・・・・、ない」
道夫が再び船頭になる。美和子は、にこにこ顔で道夫の脇に立つ。
マングローブの根本に、色とりどりの蟹らしい影がちらほらする。美和子はトロッコから身を乗り出しそうになった。
「結構楽しくなってきたかも。道夫はどう?」
「まあまあかな」
最近、運動不足だった道夫は体がガタガタするのだが、不思議と興奮は冷めやらない。トロッコは気持ちよく水を切り線路をひた走る。
彼らの頭上を影が横切った。美和子は顔を上げ、興奮した面もちで道夫の袖を引いた。
「ねえ、ねえ、見たこともない鳥がいたわ」
「え? どこどこ」
道夫が視線を上げた時、七色の尻尾めいたものが樹上をかすめるところだった。
「い、いた! なんかきれいな奴」
道夫は同意したけれど、美和子より反応は芳しくなかった。見かけた鳥の尾は美しかったが作りものめいたものだったし、一刻も早くこの場を切り抜けることに頭が占められていたのである。
「どこ行ったのかな」
美和子は首を目一杯伸ばし、鳥を探す。その無邪気さに道夫は腹立ちのようなものを覚える。それを紛らわすように強くレバーを倒した。
「ねえ、もっとゆっくり走ってよ」
「はあ? 何でだよ」
道夫は我知らず怒鳴ってしまった。美和子は目を丸くした。
「・・・・・・、何よ。怒んなくてもいいじゃない」
「怒ってねーよ」
「怒ってるじゃない」
美和子は、遠慮なく道夫に唇をひるがえす。
気まずくなり、押し黙る二人。道夫は謝る機会を探すものの、いよいよ腕の力は弱まりトロッコの勢いは衰えた。
「ちょっと、遅くなってるけど」
「わ、わかってる・・・・・・」
「代わろうか?」
男の沽券に関わると思っているのか、道夫は返事をしない。
そうこうするうち、大きな木の根の本が近づいてきた。そこを起点に線路が二股に分岐している。ここまで一本道だっただけに、警戒感が一気に跳ね上がる。
まるで二人に道を選ばせるつもりだろうか。分岐にさしかかるにつれ、トロッコは急速に勢いを落とし、レバーの指図を受けなくなった。
「・・・・・・どうしようか」
道夫は迷っているが、美和子は前を見つめたまま答えてくれない。完全にへそを曲げている。
仕方ないので道夫が進路を決めようと口を開きかけた時だった。
「おい、早くしてくれよ。後がつかえてるんだぞ」
道夫たちの乗るトロッコのすぐ後ろに、同じ型のトロッコが停止していた。そのトロッコには三十代くらいのサラリーマンらしき男が腕を組んで立っている。額が後退して、頭髪がちょっと薄くなっていた。
「え? 誰ですか」
道夫は、自分と美和子しかいないと思いこんでいたので、面食らった。
謎の男は舌打ちし、恫喝する。
「誰だっていいだろう! 早く進んでくれよ・・・・・・、全くこれだから子供は」
男が美和子を意味ありげに見つめた。不快な視線だったので、道夫は彼女を自分の背に隠した。
「す、すみません。俺たち行きますから、ちょっと待ってください」
「ふん、早くそうすりゃいいんだ」
男が唇を曲げ皮肉な笑みを浮かべた。
「でも、どうやって動かせばいいかわからないんです。わかりますか?」
「知るわけないだろ。なんなら水に降りて、トロッコを押せばいいじゃないか」
男の横柄な態度に、美和子の怒りがぶつけられる。
「さっきから何なんですか、あなた。いくらなんでも失礼じゃないですか」
美和子の直情的な言葉に男は、目をそらす。案外、気の弱い男らしい。
「もういいよ、美和子。俺が押せばいいんだ。川は浅いし、すぐすむよ」
「気をつけて」
二人の意志疎通を、男は横目でうらやましそうに眺めている。
道夫が水を触って、安全を確認しているとトロッコが自然と動き始めた。二人は何の操作もしていない。
「さよなら、さっきは感情的になってすみませんでした」
別れ際、美和子が謝罪すると、男は早く行けと手を振った。男の姿は、木の陰に遮られ消えた。
「さっきの人、一人で来たのかしら」
「そうなんじゃないか。遊園地一人で行く人だっているんだし」
「・・・・・・、そうね。そういうものかもね」
道夫は拘泥しなかったが、美和子は気になるらしかった。しばらく背後に目を注いでいた。
川幅が狭まり、水も浅くなってきた。ゆったりと、まのびした音だけが線路を走る。
暗いアーチが目前に迫った。煉瓦で組まれた低いトンネルだ。
「今度こそ終着だ。長かったな」
「ほんとね」
美和子は名残惜しそうだったが道夫は、はやる気持ちを押さえきれなかった。大汗をかいて、疲労困憊しているのだ。
トロッコは生き物の口のようなトンネルに吸い込まれた。途端、命の気配は消え、蓋が閉まったように何の物音も聞こえなくなった。
傾斜がきつくなったが、道夫が操作しなくてもトロッコはトンネル内部を昇っていく。
やがて、見覚えのあるホームの明かりがうっすら目に付いた。道夫と美和子は手を取り合い、己の無事を喜んだ。
「おかえりなさいませ。お疲れさまでした」
出発時と同じ女性が、二人を出迎えてくれた。道夫はホームの段差を上がることができず、女性に手を借りた。
「はー、ひどい目に遭った」
「道夫、その言い方はないわよ」
美和子に窘められ、道夫は口を押さえた。
「いえいえ、その様に感じるお客様も少なくないのでございます。人生はつらく厳しいもの。でもそれだけではございませんわよね?」
女性が愛くるしくウインクすると、道夫たちは顔を赤くした。
「最後に一つ聞いてもいいですか?」
道夫は一人で階段を上りかけていたが、美和子はまだ女性と話し込んでいた。
「もし、間違っていたらごめんなさい。ここは入り口と違う場所ではないですか?」
「どうしてそう思われます?」
「入り口で案内をしてくれた方とあなたは、そっくりですけど、あなたの目元にほくろがあります。それから壁画の向きが反対なんじゃないかって」
「まあ! よくお気づきになられました。なかなか気づかれる方はおられないのです。おみそれしました」
女性は嬉しそうに顔を綻ばせる。
「それから気になることがあるんですけど、どうして線路がまだ続いているんですか。ここは終点じゃないんですか?」
美和子の矢継ぎ早の質問に嫌な顔一つせず、女性は答えてくれる。
「お察しの通りここは終点ではございません。先はございます」
「やっぱり!」
美和子は首を伸ばした。薄ら寒い闇に線路はとけ込んでいる。先ほどまで安穏としていた道とは明らかに違う緊張をはらんでいるようだった。
「ですが、この先へ向かわれるのはおすすめできかねます」
「どうしてですか?」
女性の顔から笑顔が消え、能面のような顔形が残る。
「既にご体験されたように、ここは人生を考えるための施設でございます。時には立ち止まり考えることも必要なのですが、あまりに夢中になるのは危険です」
「のめりこんで帰れなくなるってことですか?」
階段から道夫が、不思議そうな顔で振り返っている。美和子は女性との話に戻った。
「・・・・・・、一人でトロッコに乗っている人と会いました。もしかしてあの人も?」
「あるいは、そうかもしれません。夢を追うのは楽しいことでございますから」
美和子は唾を飲み込んだ。自分の望んでいた真実がここにあると考えたのだ。
「もう一度、トロッコに乗っちゃ駄目ですか?」
美和子は上目遣いで訊ねた。
「人生は楽しくありませんか?」
「・・・・・・、人生はこことなんら変わりません。誰かが作った線路を走って、偽物の楽しみにふけって、人を見下して帰って行くんです」
「それが人生の一側面であると認めざるをえないでしょう」
「だったら、どうしてこんな施設があるんですか? 本当のことなんて知りたくないのに」
「知りたくないのでございますか? 乗りたいのでしょう? トロッコに」
美和子は道夫を一度振り返る。彼も現実にトロッコに乗り、すり減っていくのだろう。何か釈然としなくなったのだ。
「人生は本当はすばらしいんだって、私は証明したいんです。こんな施設を否定したくなりました」
「素敵」
女性は帽子を外した。豊かな金髪がこぼれた。よく見れば、彫りの深い西洋人だったのである。
「あなたのような人、好きよ私。いいでしょう、ご案内いたします」
ただしと、女性は念を押す。
「これより先の道程は、真冬の海より冷たく、灼熱の砂漠より乾いた世界であることを、ご忠告申し上げておきます」
「何もないわけじゃないんですね」
「そこまでわかっているなら、これ以上は進まれない方が」
美和子は黙って、道夫を連れてきた。
「え? まだ乗るの? 俺もういいよ。美和子一人で行ってこいよ」
道夫は乗り気でない。美和子は彼を押し込むように、トロッコに乗せた。
「私たち、絶対帰ってきます」
「お待ち申し上げております」
トロッコは走り出した。道夫はきいきい文句ばかり言った。
「ごめんね、道夫」
トンネルを抜けた先は、高架上の線路だった。百メートル眼下に緑色の湖面が映える。小魚が跳ねる気配はするが、無音だった。天井はクレヨンで塗られたような雑な青い空に白い雲。
「謝るなら、乗るんじゃねえ」
道夫は真っ黒い顔で、レバーを押している。腕は一回り太くなり、上着を脱いでいた。
「道はどこまで続くのかな。いつまでも終わらない」
美和子はぼさぼさの髪を垂らし、床に座り込んでいる。もう何年走ったのかわからなくなっていた。似たような景色が映画のフィルムのように繋がっているようだった。
「私たち、どこに向かってるんだろう」
何度目かのトンネルが山肌に現れた。幾度も裏切られ、希望を失いつつある美和子は、道夫の顔を見るのが怖くなっていた。
「きっと、素敵なところだよ」
道夫が前を向いたまま言った。美和子は彼の背中を支えにし立ち上がり、トンネルを見据える。
(了)