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第6章 再会

 6 再会





 俺は狂っていた。何もかもが狂っていた。時間軸。そう、心と現実の時間軸がねじり合わさったように狂っていた。

 麻美子が必死で抱きしめてくれている温か味を感じると同時に、紗希ちゃんという存在が目の前から消え失せてしまったことに対しての、酷く虚空な恐怖を全身に浴びせられていた。

 寒い。とにかく寒い。

 少年期の夜は秋。そして、現実の季節はもうすぐ夏。なのに、なぜか凍え死にしそうなほど寒いのだ。

 麻美子は言った。

「大丈夫よ、大丈夫。あたしがそばにいるから大丈夫なの……」

 確かにそうだ。彼女が包み込んでくれていると、確かに温かい。何か懐かしいものにでも包まれているように温かい。

 でも、何かが心の中に引っ掛かって、それが俺の足を奈落の底に引きずり込もうとしている。

「だめだ……、だめだ……。麻美子、俺をもっと温めてくれ……」

 震えが止まらない。まるで全身の血液の中に、液体窒素でも投入されたかのような寒さが付きまとう。

「まだ寒いの? まだ寒いの? 大丈夫だから、大丈夫だから。良彦さんは悪くないの……」

 俺は、麻美子からかけられる一文一句が、さも温か味を帯びたミルクココアのように感じていた。それを飲むたび、だんだんこころの中が癒されてゆくのが分かる。

 と、同時に、なにやら不思議な感覚にとらわれ始めてくる。

(なんだろう? この感覚……。懐かしい……音楽?)

 遥か遠くの彼方から、心の奥底に響く細くて軽やかな音色のようなものが伝わってくる。

「ま、麻美子。君なのか?」

 俺は体の震えを抑えながら、優しく抱きしめてくれている彼女に問うた。

「ううん……、あたしじゃないわ。でも、あたしにも聞こえる……。なんだろう? そういえば聞こえて来るわ。爽やかで物悲しい、懐かしい音色が」

「そうか、君にも聞こえているのか。よかった、俺の記憶からの……幻聴じゃないんだな」

「ええ、きっと、記憶からの強制は終わったのよ。これでもう終わったのよ」

「そうか……、そうか……。何もかも君のお陰だね。麻美子があの時、俺を抱きしめていてくれなかったら、優しく抱きとめてくれていなかったら、一体俺はどうなっていた事か……」

「ううん、あたしは良彦さんが大好きだから……、それでしたまでの事よ。あたしのお陰なんかじゃない」

 麻美子はそういうと、疲れきった表情の俺の頭を優しく撫でながら、つるりと滑らかな頬を寄せて肌をすり込んできた。俺は、その麻美子の体温を感じるや否や、夢見ごこちの気分に入り込んだ。

 その時である。

 安堵の気分に浸り込んだからか、俺の体は座席にもたれかかるように仰け反り返る。すると、まぶたが自然に開く。

「あっ!? 麻美子、光だ。前の方に光が見えるぞ!」

 車外の鬱蒼とした森の真っ暗闇の中に、おぼろげにぽつんと光る黄色い電燈のようなものが浮かんでいる。その光が、車のフロントガラスを通して目映いばかりの宝石のように見えてくる。

 そう、なんと言えばよいのだろう。その光は、よほど人工的なものなのに、儚くて、それでいて切なくて、なんだか郷愁を帯びたような温か味を感じさせる。

「良彦さん、まさか、あの光は……」

「ああ、そうさ。もしかするとあれは……。やっぱりそうなのかもしれない。行ってみよう、麻美子」

「ええ」

 俺は、彼女と見合い頷き合うと、シートから起き上がり、その光のある場所の一点を見つめた。その光を見ていると、なんだか心の奥底から沸き立つような興奮が上り詰めてくる。そして、今までの体の奥底からむしり取られてしまうような体験が、まるで、ありもしない虚構だったかのように感じ始めた。

 しかし、

「な、なんだ? エンジンがかからない。いくらキーを回しても、うんともすんともいわないぞ」

「ええっ!?」

 中古とはいえ、買ったばかりの俺の愛車は、肝心な時に言う事を聞かない。それは俗に言うエンストの類いであるとか、バッテリーの充電不足という事態ではないらしい。根本的に何も始動しないといった具合なのだ。

「ど、どういうことなんだ。やっと目的のものが見つかったって時に」

「しかたないわ。車はここにおいて行きましょう。このままここにいても何も始まらないし……」

「そうだな、君の言う通りだ。ここは一度、腹ごしらえでもしてから考えよう」

 俺は、麻美子の提案を受け、真っ暗闇の車外へと降り立った。

 外は意外にも不気味な雰囲気は一切なく、森の心地よい香りが立ち込めている。足元のアスファルトの感触でさえ、なぜかその風景に一体化しているよう感じられた。

 俺たちは、顔を見合わせながら深呼吸すると、光のある方向へ歩き出した。

 するとまた、遠くから、あの切なくてか細い音色が聞こえて来た。月の光も、星空の光も殆んど森の木々に吸い込まれている。そのせいか、辺りは何も見えていない状態だというのに、なぜかその音色だけははっきりと耳に伝わってくる。

「この音よね……、さっきの」

「ああ、この音色だ。俺たちが探していたチャルメラのラッパの音色だ」

「じゃあ、やっぱり当たりね。こっちに向かっていけばラーメンが食べられるのね」

「ああ、麻美子のお薦めのラーメンがようやく食べられるんだ」

「もう、あたしお腹ぺこぺこよ」

「分かってるよ。だって、君がさっき俺を抱きしめてくれていた時、君のお腹から虫がグウグウ鳴き出すのが聞こえていたからな」

「やだあ、ひどい! 良彦さんたらあんな時でも聞き耳立ててるのね」

 麻美子は、ほっぺたを餅みたいにぷっくりと膨らませツンとすねて見せた。しかし、いきなり腹を抱えてくずれ出し大声で笑い出すのだ。俺もついおかしくなって、彼女につられて同じように笑い出してしまった。

「なあ、これで一安心だな、これで安心だな」

「そうね、これでようやく一安心ね」

 腹を抱えながら俺たちは歩いている。安堵の笑いと共に。希望の光の示す方へ。あのチャルメララッパの音色の聞こえる方向に。

 ああ、この道のりは、どんなに遠い道のりだった事か――。

 昼間の麻美子の提案からこのかた、数え切れない色々な出来事が俺たちをさいなんできた。

 道に迷い、記憶に翻弄ほんろうされ、あれやこれやと経過時間以上の体験をしてしまった。一体なぜ、こんなことが起きてしまったのかまるで分からない。しかし、それが分からないままこの地に足を踏み降ろした。

 誰がこんな事を予測できようものか。誰がこんな非現実的なシナリオを書けるものだろうか。

 それより、一体なぜ、俺たちがこんな事に巻き込まれなくてはいけないのだろうか。

 いや、今はそんなことはどうだっていい。麻美子が無事で、俺も無事で、そのうえ二人の目的になっていた屋台のラーメンが食べられるのだ。これが幸せでなくて何を幸せというのだろうか。

 その時である――

「よしひこくん……」

 声が聞こえた。

 なんだろう。懐かしくも繊細で、小鳥がさえずるような可愛らしい声が、俺の背後から聞こえる。大好きな大好きなあの声が聞こえて来る。

 

 鼓動が高鳴った。呼吸が一瞬止まった。全身という全身の毛穴から、体温のすべてが放出してしまったかのような感覚を覚えた。そして、温かい物と冷たい物を一度に飲み干したような、有り得ない戦慄が足のつま先まで及んだ。

 俺は、恐る恐る振り返る。

「さ、さきちゃん……」

「ひさしぶりね、よしひこくん」

 ああ、なんということだろう。それは……、俺の目の前に立っているその少女は、俺の大好きな大好きな紗希ちゃんだった。

 あいかわらずの緑色のスカートを穿いて、おさげ髪を三つ編みにして立っている。あのまんまるな瞳を輝かせながらにっこり微笑んで立っている。

「ね、どうしたの? はやくおいでよ」

「う……うん」

「ほら、そっちのきれいなおねえさんも。はやく」

 紗希ちゃんは、未だ変わらない小さな手を差し伸べて、きょとんとしている俺の手を引っ張った。麻美子も何だかわけが判らないといった表情を浮かべながら、紗希ちゃんの示す方へと足を向けた。

 紗希ちゃんの小さな手は、俺の大人になった手の半分以下の大きさしかなかった。まるでお人形さんのような手……。

「こっちよ。おとうさんも首をながくしてまってたわ」

「おとうさん……?」

「やだ、わすれちゃったの? わたしのおとうさんよ」

 紗希ちゃんは、小走りで進みながらにっこりと微笑んだ。何回も何回も振り向いては俺たちに笑い掛け、先に進もうとする。そのたびに、うなじから結ばれたおさげ髪がふるふると揺れている。

「さ、さきちゃん。一体、この先に何があるんだい?」

 俺は、懐かしさと愛しさが相まって、急激な高揚感に浸り始めていた。

 しかしその反面、

(これはただごとじゃない)

 という、どこか疑心暗鬼な一面も持っていた。

 不安な俺は、もう片方の手を繋ぐ麻美子の様子を窺った。すると、

「もうすぐなのね。ホントよかった。ね、良彦さん……」

 と、彼女はにっこりと微笑み、手をぎゅっと握り返してきた。


 辺りは真っ暗闇である。森林の、土と獣と木々の生死の入り混じった独特の匂いがこれでもかといった具合に立ち込めている。一寸先は闇とはよくいったもの。本当に何も見えていないのと同じぐらいの状況下である。

 なのに、紗希ちゃんは、勝手知ったる森の中の如く、すたすたと歩み行くのを止まない。

 本来の道であれば、途端に側溝や、小川のような水路に落ちてしまう事を考えなければならない。それなのに、まるでそういった心配などしていないような感じでサクサク足を踏み鳴らし、森の中を抜け、あぜ道を走り、小川の土手らしき横を通って歩み進めるのだ。さすがについてゆくだけの俺たちでも恐くて堪らない。

「麻美子、君は大丈夫か?」

 息の上がる俺に対し、

「あら、あたしは大丈夫よ。良彦さんこそ大丈夫?」

 麻美子は、まったく問題ないといった感じでニコニコと笑っている。

「もう。よしひこくんたら、おじさんになっちゃったのね。昔だったら、こんなのへっちゃらだったじゃない」

 紗希ちゃんは、また、後ろ向きになって走りながらクスクスと笑う。俺も彼女たちの茶目っ気たっぷりの笑顔につられ、つい笑ってしまう。こんな真っ暗であるにも拘わらず、どういうわけか笑顔のサインだけはありありと伝わってくるのだ。真っ暗闇だと恐怖が先に立つものだが、なぜか今の俺の心の中は安堵という温もりのみで満たされていた。

「ほら、見て。あれがそうよ」

 紗希ちゃんが急に止まる。それに準じて、俺も麻美子も紗希ちゃんの後ろで止まる。

「わあ、ホントだ。ラーメン屋台だ。ねえ良彦さん。見て見て、サキちゃんの言った通りラーメン屋さんの屋台がある」

「あ、ああ……」

 紗希ちゃんと麻美子の視線の指す所には、オレンジ色の緩やかな電燈の光と共に、あの懐かしいおじさんの屋台が待ち迎えてくれていた。

 

 シン……とした森の中、カタカタと一定のリズムを刻む発電機の音が鳴り響く。その森の暗闇の中に、ほんわりとしたオレンジ色の明かりがたたずんでいる。

 この湯気の匂い。このしょう油ダレの香り。ねぎのツンとした香気。ありとあらゆる要素が渾然一体化し、天然自然の雰囲気とはまた違った情緒じみた懐かしさを俺の胸の中に運んでくる。

「ほら、はやくはやく。よしひこくんも、おねえさんもすわってすわって」

 紗希ちゃんは、ボーっと突っ立っている俺たちを、木で出来た長椅子に押しやった。

 俺も麻美子もきょとんとしたまま、

「う、うん……」

 と言って、その椅子に腰掛けた。

(こんなに狭かったっんだ……)

 沢山の木材を組み合わせて出来た屋台は、あの記憶の中に存在する“おじさんの屋台”そのものだった。車輪のついた、掘っ立て小屋のような外観も昔のままだ。

 四本の細い柱で掲げられた屋根をくぐると、ほんわりとした木の匂いがした。備え付けられている調味料や備品を入れておく引き出しは、鶏の脂としょう油色の湯気で、表面がこげ茶色に変色している。ちょうど胸の下の辺りに位置する台の上には、様々なお客さんが付けていったドンブリの高台の跡が残っている。そして、今はほとんど見掛けない朱塗りの箸が、筒状の箸立ての中にぎっしりと詰まっている。俺は子供のときに、あの箸立ての横に小さく“さきちゃん”と鉛筆でいたずら書きをした覚えがある。

 軽く仕切った台の向こうには、ぶくぶくと煮え立った大きな寸胴鍋が構えている。

 俺は、あまりの懐かしさに言葉を失い口をぽかんと開けていた。するとその向こうから、一人の帽子をかぶった男の人が、ヌッと顔を出す。

「やあ、良彦くん。久しぶりだね。元気だったかい?」

 その少し垂れた優しい目。その白いものの混じった無精ひげ。まるでスロービデオでも見ているかのようなのっそりとした言葉遣い。ああ、やっぱりこの人は、紗希ちゃんのおとうさん。あのおじさんだ。

「お、おじさん……」

 俺はなぜか分からないが、涙が出て来てしまった。横に麻美子がいるのに、紗希ちゃんがいるのに、わけがわからないまま唸るように泣き出してしまった。

「おじさん……。ごめんなさい、ごめんなさい……」

「良彦くん。君のせいじゃないよ。君のせいじゃないんだからね……」

「だって、だってだってだって……」

 俺はただ泣くしかなかった。ただ悲しくて、つらくて、申しわけなくて……。

 麻美子はそっと手を握ってくれていた。紗希ちゃんは、雪崩れ込むように泣いている俺の頭を撫でてくれていた。

「よしひこくん。やっぱりよしひこくんはやさしいね」

「さきちゃん……、俺は君を……」

「いいの。しかたがなかったの。あの時はああするしかなかったのよ」

「そうだとも良彦くん。良彦くんのせいじゃない」

 紗希ちゃんもおじさんも、まるで昔のままの優しいままだった。

 今の俺は、あのときのおじさんの年齢と十才程度しか変わらない。おじさんは苦労のせいか四十歳半ばでありながら白髪交じりでしわ深い。紗希ちゃんを男手一つで育てていたせいなのかもしれない。けど、誰に接する時でも優しい笑顔を絶やさないのは、生きてきた年輪の奥深さそのものだった。

 なのに俺は……。

「あら、良彦。どうしたの? 泣いたりなんかしちゃったりしてさ。相変わらずね」

 背中越しに唐突に聞こえて来るその声。俺が泣きながら突っ伏していると、背中からドンと押されるような痛みがはしる。

 聞き覚えのあるその甲高い声に、慌てて俺は振り返る。

「す、純香すみか……」

 ああ、何てことだ。俺の目の前には純香がいる。ちょっと男勝りでスポーツウーマンだった、あの純香がいる。

「やだ、どうしたの? 涙と鼻水でボロボロじゃない。もう、いっちょ前の男なんだからさ、そんな顔してちゃだめだよ」

 彼女はそういいながら、麻美子や紗希ちゃんに軽く頷いて、ハンカチで俺の顔のあらゆる部分を拭き取ってくれた。

「あたしの時もそうだったのよ。もう、面倒の見がいがあるっていうか、頼りにならないっていうか……」

「す、純香……、なぜ君がこんなところに?」

 彼女は一年前に俺と別れたはずだ。突然俺を捨てて出ていった。それなのに……

「まったく、アンタって人はいい加減学習しなさいよね。でも良かったじゃない。こんないい彼女が出来たなら……」

 純香は、ケラケラと笑って俺の肩をぽんと叩いた。そして麻美子の方を向いて、

「アンタ大したもんだよ。若いのに大したもんだ」

 と言ってうんうんと頷いた。

「ほんとそう思うでしょ、アンタたちも……」

「アンタたち……?」

 俺は意味が分からず顔を上げる。

 するとそこには、

「志穂、優実、サクラ、夕子、瞳美……」

 ああ、目の前には、今までに何度も何度も愛を語り合ってきた歴代の恋人達が肩を並べ勢ぞろいしている。

「まったくです。こっちはもう二十年近くほったからしなのに……」

「志穂……、君なのか。突然高校に入った辺りから行方不明になった……あの志穂なのか」

 中学二年生の半ばから付き合いだして、色々と甘酸っぱい付き合いをした。その頃、好きだったアイドルにどことなく似ていたせいもあって、あっと言う間に恋に落ちて告白した彼女。志穂……

「どうやら名前だけは覚えているようね。顔や性格、そして好みなんかは忘れてしまっているでしょうけど……」

「ゆ、優実……、そんなことはないさ。君に教えてもらった事は沢山ある。あの時の事も……」

 あらゆる大学の受験を失敗して、予備校から三流大学へと進む混沌とした時期に、いつもそばにいてくれた存在。自分はアルバイトをしながら役者を目指していた頑張り屋な彼女。優実……

「泣き虫なところだけはかわってないけど、少し老けたんじゃない? まあ、男前になったって言い方もあるけどね……」

「サクラ……、おまえは少しも変わってないな。気の強そうな振りして本当は自分だって泣き虫だったくせに……」

 社会人になってすぐに知り合った、ちょっと毒気のある彼女、サクラ。いつもデートの約束の待ち合わせの場所を間違えて喧嘩したっけ……

「あたし達のことも忘れていないでしょうね。よく三人でラーメン食べるのに出掛けたでしょ」

「そうそう、毎日会社が終わるたびに付き合わされるから、私なんて見事にウェイトアップしちゃいましたよ……」

「夕子……。瞳美……」

 彼女たちは、俺の勤めている会社の後輩達だった。なんとなく気が合って、同好会もどきと称して毎日ラーメンを食べ歩いていた。そのうちにそれとなくそれぞれの私生活に入り込むようになって……

 皆、俺が少しでも結婚という二文字を意識した事のある女性たちであった。しかし、いつの間にか彼女たちは俺の前から姿を消した。まるで俺との関係を拒むかのようにして。

「一体、君たちはどうしてこんな所にいるんだ。どうしてみんな俺の前からいなくなっちまったんだ」

 そこにいる彼女たちは、皆、俺が誠心誠意愛した女性たちなのだ。なのに、彼女たちはある日忽然と俺の前から消えた。

 俺は、彼女たちがいなくなるたびに、深い傷を負った。どうして俺のそばから離れるのか。どうして俺のそばにいてくれないのか。

「俺は、男として、人間として、そんなに魅力がなかったのか?」

 つい、俺はそんな情けないことを口走ってしまった。麻美子の前だというのに。紗希ちゃんの前だというのに。

 すると、彼女たちは一様にふふふ……と、寛容な笑みを浮かべ、俺の顔を覗き込んだ。

「よっちゃんたら、何も分かってないみたい」

「仕方ないよ、こういうやつだもん」

「先輩ったら、いつもラーメンのことしか頭なかったし……」

「そうね、あたしらの体重が増えていることなんか知らなくて。まるで子供みたいにラーメンに取り憑かれちゃっていたし……」

「アンタのそういう性格でも、あたしらはあたしらなりに頑張ったんだよ。でも……」

 代わる代わる俺の顔先に寄ってきて、何か言いたげな素振りをしながらまた黙り込む。

 俺は何を言われているのかさっぱり分からない。麻美子も、そんな彼女たちの様子におどおどしながら俺にぴったりと寄り添って離れない。

「さあ、おねえさんたち。よしひこくんをいじめるのはそれくらいにして、いっしょにおとうさんのラーメンを食べましょう。今日はおとうさんの招待だから、みんな好きなモノを注文してください」

 妙にさばさばした口調で、紗希ちゃんは言う。元気で可愛らしい仕草もそのままだ。昔からおねえさんぽいところはあったが、体がちっちゃいのに年上の彼女たちを仕切るのも上手かった。

「さあ、よしひこくんも好きなモノをたのんで。まみこおねえちゃんも」

 俺も麻美子も完全に雰囲気に飲まれ、何も言葉が出ない。というか、まだ状況がつかめていない。

「さあ、良彦くん。遠慮なくいっておくれ。今日はおじさんのおごりだからね。君はメンマが沢山乗ったのが好きだったね。いいよ、沢山用意してあるからたんと乗せてあげるよ」

「あ、ありがとう。おじさん……」

 俺は、おじさんの優しい言葉につられて、メンマ大盛りのチャーシュウ麺を注文した。

「で、こちらのお嬢さんは……、えっと、なんてお名前だったかな」

 おじさんは、ゆったりとした口調で麻美子に訊ねる。

「ま、麻美子です。春日麻美子です……」

 麻美子も恐縮するように答える。

「まみこおねえちゃんは、よしひこくんの今のこいびとなんだよ、おとうさん」

「ああ、そうだったね。紗希、いいかい? やきもちは焼いちゃいかんよ。人にはそれぞれ時間というものがある。お前は良彦くんの中でちゃんと息づいている。でも今は……良彦くんのこの時間は、この麻美子さんの時間なんだからね」

「分かってるって、おとうさん。わたしだってもうそれくらい分かるよ。よしひこくんのことを一番分かってるのは、わたしだもん」

「ならいいんだよ。なあ良彦くん」

「え、ええ……」

 俺は二人が何を言っているのか理解できなかった。どうして二人が何もかも知っている様子なのだろう。

「で、麻美子さんはどうするね? 注文……」

「あ、あたしは……、良彦さんの残りでいいです。良彦さんの残りで……」

 麻美子はおじさんの優しさに恐縮していた。でも、それも当然か。

「なにも遠慮する事はないんだよ。わたしが招待したんだからね」

「え、でも……」

 麻美子は、そういわれてから少し考えて、

「じゃ、じゃあ……つけ麺ってありますか? 冷やし中華でもいいんですが……」

「ああ、ごめんよ。おじさんの屋台にはそういうこじゃれたメニューはないんだ。すまないね」

 おじさんは謝りながら笑みを浮かべた。

「なら、あたし……」というと麻美子は、ふっと目を下に向け、モジモジしながら、

「やっぱり、良彦さんの残りがいいです……」と言って黙ってしまった。

 これにはおじさんも紗希ちゃんも意外だった様子で、お互い目を真ん丸くして顔を見合わせていた。

「どうやら、良彦くんの大切な人は、大分奥ゆかしいようだね。紗希も麻美子さんを見習いなさい」

 おじさんは、紗希ちゃんに向かってさとすように言った。

 それを受けて紗希ちゃんは、

「もう、おとうさんたら!」と言ってつんと口を尖らせると、

「どうせわたしより、まみこおねえさんのほうが“おしとやか”なんでしょうからね!」と、プイっとあらぬ方向に目をやった。

「あ、違うんですよ、おじさん。……ごめんねさきちゃん。実は麻美子ってば、ラーメン屋に行くと必ずつけ麺なんですよ。あと、冷やし中華とか……」

 俺は、あまり角が立たないように取り繕った。

「ごめんなさい……」

 麻美子も場の雰囲気を壊したくなくて、小さくなっている。

「まあまあ……、いいんだよお嬢さん。人には向き不向きってあるからね」

「そうよ、まみこおねえちゃん。おねえちゃんがわるいんじゃないの。ほら、わたしだって小学校に上がるまえは、にんじんがたべられなかったもん。そうよね、おとうさん」

「ああ、そうだったね」

 おじさんも紗希ちゃんも、麻美子の気を遣いすぎる繊細さをとことん気遣っている。

「あら、なあに? こっちばっかりで盛り上がっちゃってさ。あたしらもその話混ぜてくれない?」

「そうよそうよ」

 屋台の近くに小さなテーブルやら椅子やらを用意していた純香たちが、俺たちのやり取りを聞きつけて茶々を入れにやって来る。

「なによ、よっちゃん。もめてるの? もしかしてよっちゃんたら、今の彼女、猫かわいがりしすぎなんじゃない? あーあ……、私の時にももっと優しくしてくれてればよかったのになあ」

 セーラー服姿の志穂が、肘でちょんちょんと突いて絡んでくる。

「な……。うっさいなあ、そりゃお前、あん時は俺も子供だったんだよ」

「じゃあ、あたしらの時は?」

 おどけた声で、純香を始めとする他の女性陣も言い寄ってくる。

「ば、ばか! そ、そりゃあ、人間ってもんは何となく成長するもんなんだ! いいから黙って座ってろよ。手持ち無沙汰ってんなら、おじさんのでも紗希ちゃんのでも手伝ったらどうだい!」

「はいはい、やっぱり麻美子ちゃんだけ可愛がっちゃうわけね……」

「いい加減にしろよ!」

「ハハハハッ!! 良彦が怒ったあ!」

 黄色い笑い声を高らかに上げて、彼女たちは方々に散る。

「まったく……なんて女どもだ!」

 俺は半分ニヤケながら彼女らを目で追った。

 多分、その時の俺の顔は真っ赤だったかも知れない。そりゃあまあ、ここにいるすべての女性たちが、皆、俺の裏の弱いところまで知り尽くしているのだから。やっぱりどうして、心の手の内を見透かされているようで恥ずかしかった。

(しかしまてよ……)

 この時、俺の頭の中に妙な違和感が残る。どうして麻美子は、俺の残りでいい……だなんていったのだろうか。

 確かに、麻美子はつけ麺やら冷やし中華の類いが好きだ。思い返してみると、彼女とラーメンデートをする時は、そういったメニューのあるお店にしか行かなかったような気がする。

 けれど、あの俺たちが出会ったラーメン屋もしかり、このおじさんの屋台も然り、彼女自身が選んだ店である事は間違いない。となると、何かがおかしい。一体、これはどういう事なのか。

(もしかすると……これは)

 あの、彼女と出会ったときの『不可思議な理由わけ』を知るべき時が来たのかもしれない。出会って以来、それとなく知り得ないままにしていたものが、そうでなくなる時が来たのかもしれない。

(しかし……)

 なぜか、それを知ってはいけないような気がする。なぜか、それを知ってしまうとこのままではいられないような気がする。

 麻美子は、繊細で優しい女性だ。俺の彼女にしておくには勿体無いぐらいの女性だ。それだけに、俺にとってはこのままでいてくれたほうがいいに決まっている。

 が、しかし、運命がそう自分の都合のいいままに過ぎる事はなかった。


「はい、おねえさんたち、おまちどうさま。ラーメンができましたよー」

 紗希ちゃんは、小さな体に似合わず相変わらずテキパキと動く。屋台の周りにざっくばらんに並べられたテーブル席は、次々と熱々のスープで満たされたラーメンが置かれてゆく。その琥珀色に透き通った昔懐かしい醤油ベースの東京風ラーメンを見るやいなや、がやがやとうるさかった女性たちも途端にシンと静まり、少しの間をおいて、ワッと歓声を上げるのであった。

「すごいすごい! 本当においしそうね」

 何かを拝むように手を合わせ、甲高い声を上げてオーバーに喜ぶ仕草をするのは、いつも俺に憎まれ口を叩いていたサクラだ。

「これぞラーメンって感じね!」

 テーブルに置かれたドンブリ相手に小躍りするようにはしゃぐのは、やっぱりあの活動的な純香だ。

「どうしよう……こんなの食べたら、また太っちゃうじゃない」

「ならわたしが食べてあげるわ」

「いやあよお。これはアタシに分よ」

 いつもながら漫才のようにじゃれあっているのは、会社の後輩コンビの夕子と瞳美。

「もう我慢できなーい!」

「いただきまーす!」

 比較的見た目の若い志穂と優実は、もう無我夢中で食べ始めている。

 彼女たちは、それぞれがそれぞれのまま……というか、それらしい仕草をとりながら、おじさんの特製ラーメンのトリコになっている。

 彼女たちがレンゲでスープをすすり、麺を口に運んだ瞬間、

「おいしーい!」

 と、そろえて黄色い歓喜を上げるところなど、まるでヒナドリにエサを与えているかのような騒々しさだ。

「はい、よしひこくんもどうぞ」

 女性陣の迫力に気圧されている俺の背後から、そっと声をかけてくる紗希ちゃん。紗希ちゃんは、俺と麻美子の前にとん、とドンブリを置く。するとにっこりと笑い、後ろ手にしながら小躍りする。

「えへへ……着たんだよ。これ……」と、紗希ちゃんは白いぶかぶかの割烹着を見せびらかす。

「へええ、おかあさんの形見だよね、それ」

「そうよ、おかあさんのよ」

「うん……。とっても似合ってるよ。とってもかわいい」

「うふふ……、ありがと。よかった、こんどはわかってくれたんだ」

「えっ、こんど?」

「いいの、なんでもない。さあ、はやくたべてみてよ。ラーメンのびちゃうから」

 紗希ちゃんは、なんとも言い表せないような笑みを浮かべている。

 俺は、なにか心の中に引っ掛かりを覚えながらも、

「じゃ、じゃあ、いただきまーす」

 と言って心待ちにしていたラーメンに立ち向かった。

 おじさんのラーメン――それはまさに完成形。ドンブリの中に色濃く光るセピアカラーの味。琥珀色のスープは、トリガラベースのイノシン酸系の味。しかし、その奥深さはエーゲ海の根底に眠るものより勝る神秘を兼ね備えている。

 高く盛り上がるように積まれたメンマを掘り行くと、香ばしくこんがりと焼かれた厚切りのチャーシュウが待っている。その羅生門のように存在感のある肉片を広げると、これまた白くぷりぷりとした玉子麺が鮮烈さを際立たせる。

「これよこれ」

 俺は、隣りに麻美子がいることも、紗希ちゃんがいることも忘れ、おじさんのラーメン――その一点だけを貫いた。その刹那、

「こ、この味は――!!」

 まさに衝撃だった――

 スープの温度。塩加減。麺の茹で具合。具のバランス。ネギの刻み方――。

 舌に絡まり、頬の裏、顎の裏、歯茎の至るところをまんべんなく滑らかに包むような麺の食感。それと相まって俺の野性的な鼻腔を突き抜ける本能的な香り。懐かしい香り――。

「な……、なんなんだ、これは!?」

 醤油ダレ? いや違う。香味油や薬味なんかの小手先の香りなんかじゃない。そう、それはまさに、俺の渇いた心の根幹を土砂降りの雨で埋め尽くすような神がかり的な味。そして絡みつく香り――。

 このラーメンの見た目は、昔食べたおじさんの屋台ラーメンそのものなのだが、だがしかし、

「それ以上のものがある……!!」

 寒気が走った。手が震えた。体中が茨の鞭で締め付けられたように身動きが取れなくなった。なぜかは分らないが、俺の両目からはまた涙が止め処なく溢れ出してきた。

「さ、さきちゃん、これ……」

 声を出す事もままならない俺は、絞り出すように紗希ちゃんに問う。

 すると、

「好きだから……」

 あの可愛らしい顔を真っ赤にして紗希ちゃんは言う。

「好きだから?」

「う、うん……。ラーメンを作るのが……」

「そ、それだけ?」

「ううん……。それだけじゃないよ。よしひこくんが……大好きだから」

 紗希ちゃんは瞳を潤ませながら言った。「わたし、よしひこくんが大好きだから、一生けんめい作ったのよ!!」

 鬼気迫り来る紗希ちゃんの声。そして、それ相当のラーメンの味。

 このラーメンの味、どこかで出会った覚えがある。この味覚、嗅覚、心の奥底を柔らかな温かいもので撫でられたような甘酸っぱい感触の思い出がある。

(そ、そうだ。これは……あの土曜日の午後の感触だ!!)

 無花果いちじくの実がふっくらと実り始めた、まだ少し暑い秋口の午後。ランドセルを自宅の玄関に放り投げて向かったお向かいの家。紗希ちゃんが待っているお向かいの家。

 俺はあの時、紗希ちゃんといる事が幸せだった。紗希ちゃんと二人だけで過ごす小さな空間が大好きだった。

 ラーメン勝負なんて本当はどうでもよかった。ただ、紗希ちゃんと何かをしている事が俺の幸せだったんだ。

 このラーメンは、あの時紗希ちゃんが作ってくれたラーメンの味そのものだ。見てくれや材料は、おじさんの屋台ラーメンをベースにしているが、この血管の中を流れる熱い血潮のような人格的根幹を示す香りそのものは、あの時の紗希ちゃんの味なのだ。

「さきちゃん……。こ、この味は……?!」

 俺はうつむいていた体をハッと起こし、紗希ちゃんに強引に問い掛けるような形で振り向いた。しかし、紗希ちゃんはいなかった。

 いや、紗希ちゃんだけではない。今まで隣りで張り付くように寄り添っていた麻美子までもが忽然と姿を消していた。

 俺はいきなりに近い虚空の寂しさを感じ、どうしていいのか分からず辺りをきょろきょろと見回した。すると、今まで屋台周りで黄色い声をあげてはしゃいでいた歴代の恋人たちが、哀れな者をみるように、涙でいっぱいに潤ませた目を一斉に投げかけてきたのだ。

「な、なんなんだ? 麻美子! さきちゃん! み、みんな! どうしちまったんだよ! ……おじさん! おじさん! これはどういうことなの? 俺はどうすればいいの?!」

 打ちひしがれる心。寂しい俺。三十年近く前に置いて来てしまった俺の記憶――。

 あの時、紗希ちゃんを置き去りにして遊びに行ってしまった罰だ。あの時、大好きな紗希ちゃんとの約束を破って他の奴と遊びに行ってしまった罰だ。そしてみんな、俺の呵責かしゃくが生み出す黒いものの犠牲になっちまったんだ……。犠牲にしちまったんだ……。

 気が付くと、辺りは真っ暗闇になっていた。屋台を包むように輝いていたオレンジ色の照明も蝋燭の灯火をふっと息で吹きかけたように消えてなくなり、ただ、森の黒々とした墨絵のコントラストが俺の体を嘲笑あざわらうかのように佇んでいた。

「さきちゃん! おじさん! 麻美子!」

 俺はただ悲しかった。虚しかった。まるで一人山の中に置き去りにされた子供のようにわめいて取り乱すしかなかった。一度に襲い掛かる悲しみと恐怖。これは罪深き俺という存在への罰なのだろうか?

「ごめんなさい……ごめんなさい!!」

 いくら謝ってももう遅いのだ。いくら謝ろうともだれも赦してくれることはないのだ。

 頭を抱え地べたに膝を付く。すると、ジーンズの膝頭から土と草の冷たい感触が伝わってくる。彼女たちのうめき声と共に。彼女たちの冷たくなった体の感触と共に――。

「良彦君……」

 突然、俺の背後からゆったりとした声をかけてくる人がいる。

「お、おじさん……!!」

 俺は真っ暗闇に近い森の中の陰影からでも、おじさんの姿は分かる。

「紗希はね、君が大好きだったんだ……。一日中一緒にいても飽きないくらい。そう、今でも……ね」

「お、俺もそうだよ。ううん……ぼくもそうだったんだ。でも……でも……」

「いや、そうじゃないんだ。良彦君を責めているわけじゃないんだよ。あの時は仕方がなかったんだ。だから……」

「ち、ちがう! おじさん、あの時はぼくが悪かったんだ! ぼくのせいなんだ!」

「キミの気持ちは分かる。だけど、もうよそう。自分を責め続けることでこんな風になってしまうなんて……終わりにしよう」

 おじさんは優しく俺の肩をぽんと叩く。すると、

「紗希もキミのそんな姿を見るのがつらかったらしい。だから今日は頑張ったんだ……」

 おじさんはそういうと、暗がりの中にぽつんと佇む屋台の方に目を向けた。屋台はその瞬間、鬼灯ほおずきが弾けるようにぱっと明るくなり、辺り一帯をオレンジ色の光で包み込んだ。

「ごらん、紗希は今日そのために来たんだ」

 俺はおじさんの優しい眼差しに促されるまま、屋台の方へと足を向けた。

「さきちゃん……」

 無性に紗希ちゃんに合いたくなった俺は、まるで乳飲み子が母の温もりを探すかのような足取りで、よちよちと歩みを進める。

 その昔、紗希ちゃんとおじさんと俺の三人で押した事のある屋台。三人で夜な夜なラーメンを食べにやって来るお客さんを迎え入れた屋台。

 その屋台の真ん中には、麺を茹でる寸胴の大なべが湯気を立てている。その隣りには、おじさんの自慢のスープの入った鍋がコトコトと音を鳴らしている。

「さきちゃん……」

 俺はどうしても紗希ちゃんともう一度話がしたくてたまらなかった。だから何度も何度も紗希ちゃんの名前を呼んだ。

 すると突然、カタン! ……と、金物の板が外れるような音がした。俺はびっくりして、

「さきちゃん、そこにいるの?」

 咄嗟に叫んでみたが、返事はない。

 もう一度恐る恐る……、

「さきちゃん……?」

 俺は言ってみたが、やはり返事は返ってこない。

 すると、またカタン! と金物の板が跳ね上がるような音がして、

「よしひこくん……」

 かすかにあの可愛らしい声が聞こえて来た。

「ど、どこにいるの? ねえ、さきちゃん。いじわるしないで出てきてよ、ねえ、さきちゃんたら!」

 俺は子供の時のような不安に駆られ、身震いを起こし体を縮み込ませながら、

「さきちゃん! かくれんぼはよそうよ。ぼくが悪かったよ。もうやくそくはやぶらないから出てきてよ」

 今にも泣き出しそうな声を出して屋台の裏側へと足を運んだ。

 刹那――

 バターン! という音がしてスープを入れておく大きな寸胴鍋のふたが飛び上がった。

「わあああーっ!!」

 俺はびっくりして腰を抜かし、その場に尻餅をついた。すると、

「よし……ひこ……くん」

 鍋の中から声が聞こえる。

「よしひ……こ……くん」

 何度も何度も俺を呼ぶ声が聞こえて来る。

 俺は何が何だかわけが分からず、

「さきちゃん?」

 彼女に会いたい一心で、そのスープ鍋に近寄った。と、同時に――

「よしひこ……くん。あたし、がんばったよ……」

 鍋をふさいでいた蓋がもう一度跳ね上がり、熱い湯気と共に小さな女の子の腕の部分だけが飛び出してきた。

「うわあああああぁぁぁーっ!!」

 女の子の手は、俺を目くらめっぽう探し当てるかのようにつかもうとする。だけど、俺は恐くて恐くて悲鳴にもならない嗚咽を繰り返す。

「さきちゃん、ごめんよ! ごめんよ! でも、ぼくはキミをこんなめにあわすつもりはなかったんだ! ごめんよぉ……!」


 俺は恐怖と困惑に打ちひしがれて、その場で気を失った。

 しかしその時、その気を失いかけた俺の脳裏に、スープ鍋と鍋蓋の間から見える女の子の優しい目の輝きだけがはっきりと刻まれたのだ。






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