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第5章 言いなり

5 言いなり





「それでどうしたの?」

 麻美子は話に夢中だった。時折、微妙な表情になるものの、こくりこくりとうなずいて記憶の先々をあおっていた。

「キミは大丈夫なのかい?」

「う……ん。大丈夫よ」

「でも……」 

 俺は、記憶というものに取り憑かれていたようで、言葉を選んで話していなかった。それは自分でも分からなくはなかったから、繊細な麻美子への影響が酷く気になっていた。

 しかし、気になりはしたものの、どうにも止める事が出来ない。どんなに頑張って口を塞ごうとしても、極々小さな豆粒のような記憶の断片から、『紗希ちゃん』という存在が噴き出してきてしまうのだ。

 俺は、途中でどうする事も出来なくなり、山道の傍らに広い路肩を見つけ停車させていた。紗希ちゃんの記憶が怒涛の如く蘇るたび、強い光が脳裏をかすめていたからだ。とても運転出来る状態ではなかったのだ。

 未だ山道に切れ目はない。相変わらず黒い遮蔽物しゃへいぶつが俺たちを囲っているのだ。それは、どこにも行かせまいとする意思のようなものにも思えなくなかった。


「続き……聞かせて……」

 麻美子がそっと俺の膝に手を添えてきた。酷く目がうつろだった。見えない何かに耐えているように見えた。しかし、その言葉の抑揚から沸々と湧き出る覚悟が窺えた。

 きっと、俺の『自動手記』に耳を傾けている間、つらく苦しい葛藤があったのだろう。なまじそれが伝わってくるからこそ、その意思に応えないわけにはいかない。

 言い換えれば、もう、ここまで話してしまったのだ。これで機嫌を損ねられ、別れ話を持ち出されたとしても、これは「縁がなかったのだ」と諦めるしかない。とても悔やまれる事だが、今までがそうであったように諦めるほかはない。

 俺の頭の中では、凄まじい記憶の波が未だ容赦なく噴き出し続けている。このまま放っていても、いずれ腹話術人形のよう操られるだけだ。きっとそれがこの記憶の意思ならば、麻美子の意思も俺の意思もへったくれもあったものではない。

 ――これは記憶からの命令なのだ。


 俺は記憶に逆らえない。いや、逆らう事すら出来ないのだ。

『絶対服従――』

 この記憶の意思が、俺に向かってそう告げているからだ。

 この赤錆まみれの記憶が、いったいどんな意味を持っているというのかも解からない。いったいどんな目的を果たそうとしているのかすら解からない。

 今まで付き合ってきた尻軽女どもならともかく、麻美子の前で“また”同じ事を繰り返そうとしているのだ。今からまた、間抜けな催眠術ショーを披露しようとしているのだ。

(やめて……。やめてくれ……。麻美子の前だけは……。彼女の前だけは……)

 どんなに叫ぼうとも止むことはないだろう。どんなに許しを請うたとしても止むことはないだろう。

 しかし、少しでも抵抗したいのだ。麻美子との関係に終止符を打ちたくはないが為に、無駄と分かっていても抵抗したいのだ。

 記憶のダム湖は、今にも危険水位を超えそうだ。もう限界ギリギリだ。いつ放水が行われてもおかしくない位置にまで達している。

 放水が始まれば、毎秒数百万トンという記憶の濁流が彼女を襲うだろう。毎秒数百万トンという衝撃が彼女の心身を襲うだろう。

 そしてそれに彼女の心が飲み込まれた時、それに心が流された時、それに心が堪えられなかった時――すなわちそれが、縁の切れ目となる事は間違いない。

(ま、麻美子よ、堪えてくれ……)

 それだけが俺の思いだった。それだけが俺の願いだった。それだけが……それだけが……


「……紗希ちゃんはいなかったんだ」

「えっ?」

「紗希ちゃんはあの家にはいなかったんだ……」

 俺はまた、記憶の井戸底へと引き込まれた。もうこうなれば、記憶の意思に従う他はない。

 案の定、俺の意思とは別格なるものが働きかけて来ている。もう、自分自身の力ではどうすることも出来ない。言葉が選べず、感情も選べず、ただ、俺の丸裸の記憶がダダ漏れするのを見ているだけ。麻美子が聞き及んでいるところを見ているだけ。

 だが、意識はハッキリとしている。麻美子がこちら向きになって、俺の話を待ち構えているところも。助手席から少し身を乗り出して、俺の両手を掴みかけているところも。表情が相変わらず硬く、指先が少し震えているところも。すべて伝わって来ている。

 ここまで目に映るものが明確であるにも拘わらず、俺は操り人形と化している。記憶の傀儡かいらいと化している。

 だれが、どうして、何の意味があって、どうしたくてこんな事をするのか解からないまま、操作されている。

 俺の意識が三十年近く前まで運び込まれている――

 

 ――夕闇に映える家々の明かり。団欒を楽しむ生活の匂い。平屋の市営住宅の家並みが、俺の目の前に建ち並んでいる。

 紗希ちゃんの家の庭に植えられている無花果いちじくの木が、街路灯の光に映えている。それはいかにも寂しそうに、もの言いたげな顔をして立ち尽くしている。

 俺は何となく、無花果と紗希ちゃんを重ね合わせてしまった。

「紗希ちゃんが泣いている……」

 

「……俺は慌てて紗希ちゃんの家に入ろうとしたんだ。もしかすると、あのまま眠ってしまっていたら風邪をひいてしまうと思ってね。……だけどこうも思った。あのまま眠ってくれていたら、紗希ちゃんの所から離れていた事がばれないで済むかもしれないってね……」

「そう……」麻美子が力なさ気に言う。

 しかし、構いない記憶の意識は喋り続ける。

「でも……何もかもが俺の予想とはかけ離れていたんだ」

「かけ離れていた?」

「そう、つまり……、紗希ちゃんの家の中には誰もいなかったんだ」

「誰もいなかった?」

 麻美子は、ちょっとびっくりした顔をして俺を見た。

 しかし俺は、麻美子の表情に相槌を打つことなく喋りつづける。

「――俺は、紗希ちゃんに顔を見せるのが恐かった。だって、大好きな紗希ちゃんとの約束を破っちゃったんだから、合わせる顔がなかったんだ。紗希ちゃんに嫌われてしまうのがとても恐かったんだ。

 だから最初は、紗希ちゃんが家の中にいるのかどうか知りたかった。家の中で紗希ちゃんが俺のことを待ちわびてくれているのなら、どうにかなると思ったんだ。

 卑怯だよな。大好きな女の子の機嫌を知りたくて、とりあえず家の外からこっそりと覗いてから謝ろうと思ってたんだから。……厭な性格だろう? 男の子だってのにさ、赤レンジャーだってのにさ。こそこそ顔色を嗅ぎ回ってから言いわけしようとしてたんだぜ。情けないよな……。相手は、あの優しくて優しくて、俺の大好きな紗希ちゃんなんだぜ。それなのに……

 俺は、姑息にも玄関から入らず、そーっと物置が建っている小さな庭の方に廻りこんだんだ。紗希ちゃんになるべく気付かれないように、気付かれないようにしてガラス戸の外から様子を窺おうとした。そーっと……そーっと……。

 庭の方には、木枠の格子で出来たガラス戸がある。ガラス戸は全部で四枚あって、一部屋につき二枚一対の引き戸になっていた。俺は、紗希ちゃんが眠ってしまっていた方の部屋のガラス戸に近づいて、手を当てて中がどうなっているのか確認しようとした。

 ホントはこの時、俺は泣いていたんだ。精一杯だったんだ。紗希ちゃんに嫌われたくない、紗希ちゃんに嫌われたくない……、そればっかり、そればっかり考えて。

 紗希ちゃんがいた部屋は、まだ明かりが点いていなかった。辺りはもうかなり暗くなってきていたから、電気が点いていないのがかなり不自然だった。俺は考えた。もしかして、紗希ちゃんはあのまま眠ってしまって、俺が健二たちと遊びに出て行ってしまったことを知らないのではないだろうか……ってね。

 でも、中を覗こうとしても、ガラス戸の上の方から覗き込まないと、部屋の中は見えなかった。何故かって? それは……、そのガラス戸は、一枚の戸に対して四枚のガラス板がはめられていたからさ。そして下三枚は曇りガラスだった。まだ子供だった俺は、一番上の透き通ったガラス板の部分から覗く事が出来ず、中は結局見る事は出来なかったんだ……」

「じゃ、じゃあ、サキちゃんは……サキちゃんはどうしてるの? どうなっちゃったの?」

「う、うん……。紗希ちゃんはね、紗希ちゃんはね……」

 俺がふらふらとした調子で語っているのを見て、麻美子の瞳も俺のその世界の中に溶け込んでいた。彼女も、紗希ちゃんがどうなってしまったのか知りたくて堪らない様子である。さも、自らが紗希ちゃんという人物の知り合いだったかのような気持ちで、俺の記憶からのメッセージに聞き入っている。

「――その時だった。俺が家の中を覗けなくて困っている……その時に、ガラス戸の向こうの方から変な物音が聞こえてきたんだ。なんだか黒板を細い棒のようなもので引っ掻いたような、キリキリとしたいやな音が……。

 俺はすごく厭な予感がして、こぼれた涙をシャツの袖で拭いながら、そのキリキリとした物音の方へ足を運んだ。もしかしたら、家の中から紗希ちゃんが呼んでいるような気がしてね――」

「う、うん……。それで?」

 麻美子の手は、俺の腕を力強く握っていた。俺も、記憶の片隅をつつくように、細かい部分の先まで手を伸ばした。

「――だから俺は、勇気をしぼって……、紗希ちゃんの事が急激に心配になって、嫌われるとか、怒られるとかも構わずにそのガラス戸を開けてみたんだ。そうしたら……」

 現実の俺は、記憶の中の幼い俺といつの間にか同じ仕草をとっていた。まるで何かに乗り移られたかのように、そして、あの幼い時に流した涙もそのままに、現実の俺も鼻から目から大粒の涙を滝のように流していた。

「――そうしたらいきなり、チリチリチリーン……って、足もとに生暖かいものが通り過ぎた。その瞬間、あっ! てな声をあげて、俺はびっくりして庭の地面に尻餅をついた。すると、その出てきたものは暗がりの中でピカーッって光るんだ。そう、俺は暗闇のなかにポツンポツンと光る二つのヒトダマのようなものを見たんだ。もう、俺は腰を抜かす寸前だったから、声も出せずにへたり込んでいたんだけど、ようやく目が慣れてきて、その生暖かいものの正体をつきとめた。それは……、紗希ちゃんの家の中から出てきたものの正体は、一匹の猫だった。そう、紗希ちゃんが引っ越してきてから、よくエサを与えていた白黒猫のぺちだったんだ」

「ぺち?」

「ああ、ぺちは近所のどこにでもいるノラ猫だったんだけど、紗希ちゃんが“この子、とってもカワイイから”って、しょっちゅうエサをあげていた。おじさんが屋台で残していた余りものなんかを頭なでながら食べさせていた。なるとの切れ端とか、メンマのくずになった部分だとか……。

 本当にかわいい猫でね、エサをあげていない俺にでも、すごくなつくんだ。そのうち、おじさんの屋台を入れておく物置小屋の中に住みついてね、小さな小さな可愛らしい子猫を産んだんだ。四匹いてね、それがホント可愛いったらありゃしない――」

「ねえ、それでサキちゃんはどうしたの?」

 麻美子は、少しおっかない顔で先を煽る。

「う、うん。で、でね……、紗希ちゃんの家の中からぺちが飛び出してきたってことは、きっと紗希ちゃんがぺちと遊んでいたってことだと思って、俺は急いで中に入って行ったんだ。でも……」

「でも?」

「紗希ちゃんは、家の中にいなかったんだ……」

 このときの俺は……、現実の俺は、きっと、ひとしきり闇に閉ざされた幻想的な宙を見つめながら何かの映像を見るような感じで話していたに違いない。だから、少年だった俺の目に映る紗希ちゃんのいなかった光景を見て、現実の俺もかなりうろたえていたのに違いない。

 その刹那、涙が、焦りに変わった。約束を破った事よりも、紗希ちゃんがそこにいない事実のほうに気が向いていったのだ。大好きな大好きな紗希ちゃんという女の子が、いなくなってしまった事の寂しさなんかよりも、紗希ちゃんがいるべき場所からいなくなってしまったという恐怖に変換されていたのだ。

「あ、あ、ああああああああーっ!!」

 俺は頭をもたげてわめき散らした。なぜかは解からないが、これ以上記憶の先に進むのを拒んだのだ。

 記憶からの命令――

 そんな独裁者のような傲慢で圧力的な映像から、這い出るように、さも形振なりふり構わない格好で抜け出そうと必死だったのだ。

「や、やめてくれぇ! やめてくれぇ! これ以上……これ以上思い出させないでくれぇ!!」

 止めたかった。本当に止めたかった。記憶が、豆粒のような井戸の底から湯水の如く吹き出ては止まないその記憶が、ことごとく流れ出しては俺たちを苦しめ続けている。

 なぜ苦しいのかは解からない。なぜ先に進むといけないのかは解からない。

 しかし、ここで先へと進んでゆくと絶対に、確実に自分の心が崩壊してしまうような気がしてならないのだ。

 俺は、ハンドルの上の部分に頭を幾度となく叩きつけた。それでも止まらなければ、ふんぞり返ってシートのヘッドレストの部分に後頭部を叩き付けた。あわよくば相殺できるのではないかと、運転席側のガラス窓に自分の頭を叩きつけて記憶の噴出を止めようとした。

「や、やめてぇ! 良彦さん、やめてぇー!!」

 麻美子は、気が違えてしまったかの如く暴れまくる俺を取り押さえようと、助手席から身を乗り出してきた。そして慈母のように、まるで慈愛に満ちたマドンナのように優しい言葉を放ちながら抱きしめてきたのだ。

「大丈夫よ。大丈夫……。あたしがそばにいるから大丈夫よ……」

 その言葉と温度。やさしい息づかい……。そして、彼女にしか存在しないあの『体芳』ともいうべき慈しみを感じさせる香り。そんな彼女のすべてのものが、俺の感覚すべてを優しく撫で包むように抱きしめてくれた。

 気が付けば、愛車のガラス窓には蜘蛛の巣状にヒビが入っていた。ほんの少しだけ血の付いた跡がある。

 俺の額から、首筋から、そして瞳と心の奥から、これと言わず何と言わずのごちゃまぜになった分泌液が滲み出している。息は上がり、喉の渇きを感じる。しかし、なぜなのかは解からないが心の中に温かいものが入り込んできて幸せな気分に浸らせてくれている。

「良彦さん、大丈夫よ……。大丈夫だからね……」

 麻美子はそういったまま、優しく抱きしめてくれていた。






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