第4章 思い出
4 思い出
俺の家の向かいには、築二十年近くは経っている木造の市営住宅が二十棟ほど建ち並んでいた。紗希ちゃんの家は、ちょうど俺の家と道路を挟んで真向かいの一軒家だった。
セメントで出来たねずみ色の瓦屋根に、所々緑色の苔がくっついている。こげ茶色の木の板を上から沿うように何枚も重ね合わせた古ぼけた壁は、今にも崩れ落ちてきてしまいそうなのに、きちんとその役目を果たしている。ブリキで出来た雨どいには所々朽ちた穴が開いているけど、そこんところから除く水の流れをジッと見ていると、すごい迫力があって半日傘をさしたままいすわったりしていた。
格子で出来た曇りガラスの玄関を開けると、六畳二間の畳部屋があった。暗くて狭い台所を抜けると灯油臭いひなびた木造りのお風呂があった。どの部屋にも丸い皿をひっくり返して取り付けたような裸電球の照明があった。
小さな物置小屋がしつらえてある庭には、屋根まで届く無花果の木が植えられていた。
秋ごろになると、その熟れた果実目当てに木登りをした。木が柔らかいので折れないように腕を擦りつけるようにして登ると、乳白色の樹液が肌に付着して、後で全身が痒くなってひどい目に遭った。
紗希ちゃんが引っ越してきたのは、ちょうどその無花果が実り始めた秋口だった。たまたまお互い小学三年生という事もあって、一緒に登下校をした。
互いの親は不在がちだったので、次第に二人で過ごす事が多くなっていた。
紗希ちゃんのお父さんは、男手ひとつで紗希ちゃんを養っている。昼間は駅前の精肉店でアルバイトをして、夜は屋台を引いて生計をたてていた。あんまりお金を持っているイメージはなかった。
「良彦君、うちの紗希の面倒をみてやっておくれ」
それがおじさんの口癖だった。いつも一緒にいてやれない事を気にしているみたい。でも、面倒を見てもらっていたのは俺の方だったから、ちょっと後ろめたかった。なにせ、紗希ちゃんはしっかり者だったから。
「いいよ。だってボク、さきちゃんのことすきだもん」
それがその時の素直な気持ちだった。
おじさんは嬉しそうに俺の頭を撫でてくれた。おじさんはいつもヨレヨレの服を着ている。おじさんはねずみ色の無精ひげを生やしている。
「ありがとね。紗希のお母さんが生きていてくれたら、寂しい思いをさせなくてすむんだけどね」
「だいじょうぶだよ。ボクがいるから」
「そうだったね、良彦君がいるからね。どうかな? 将来紗希をお嫁さんにもらってくれるかな?」
「ほんと? さきちゃんとけっこんしていいの?」
「ああ、お願いするよ」
「やったあ!」
本当に嬉しかった。紗希ちゃんとこれから先ずっと一緒にいられるかと思うと、なんだかわくわくした。
――いっしょにご飯を食べて。いっしょに宿題をして。いっしょにテレビを見て。あっ! テレビは紗希ちゃんの家にないからボクの家で見て。いっしょにジュースを飲んで。いっしょにお風呂に入って。いっしょにふとんに寝て――
子供だった俺は、自分が想像できる限りの光景を思い浮かべていた。それだけ紗希ちゃんとの生活は楽しみだった。
ラーメンの勝負をする事になった土曜日も、自分の家の玄関にランドセルを放り投げて、紗希ちゃんの家に飛び出して行った。
紗希ちゃんは、相変わらず緑色のスカートで出迎えてくれた。おさげの三つ編みもつややかに光っている。
「準備できているよ。よしひこ君、さあ上がって」
紗希ちゃんは、俺が玄関を開けるなり、いきなり手を引いて狭い台所へと連れ立った。おさげの首筋の辺りから汗の酸っぱいにおいがした。もう秋だというのにその日は暑かった。
「よしひこ君はなにを作るの?」
「えーと、ぼくはしょう油ラーメン。さきちゃんは?」
「えへへ……まだおしえない」
紗希ちゃんは、茶目っ気たっぷりに笑った。俺はずるいぞ! と言って彼女のおさげを引っ張った。紗希ちゃんはいやん! と首を振った。髪の脂で手が滑った。冷たい感触が伝わった。甘酸っぱいにおいがした。
「もう! よしひこ君ったら……らんぼうね」
潤んだ瞳をしていた。泣いているのかと思った。
「ね、早く作ろ」
紗希ちゃんはガスの元栓を開けてコンロのつまみを捻り、手馴れた調子でマッチを擦って火を点けた。小さな手鍋に水を入れた。
紗希ちゃんは今の事を気にしている様子でもなかった。安心した。
紗希ちゃんは、厚い板を組み合わせて作った手作りの台の上に乗って、まな板に向かってネギをきざみ始めた。とっても後姿が大人びていた。
紗希ちゃんは、お母さんの形見だという白い割烹着を着けていた。体の大きさに全然合わないから、だぶだぶのぶかぶかだった。
でも、すごく似合っているし、ラーメンを作る手際はおじさん譲りでてきぱきしているし、だから、将来良いお嫁さんになると思った。ちょっと嬉しかった。
「あたしのはもうすぐできるからね」
「えっ、なにが?」
「なにがって……ラーメンよ」
「あ、ああ……そうか」
「うふふ、へんなの」
紗希ちゃんはとても楽しそうだった。俺は見とれていて全然はかどらなかった。
「よしひこ君? だいじょうぶ?」
紗希ちゃんは、ぼーっとしている俺の顔を下から覗き込んだ。何だかわからないけど、俺は顔が熱くなった。
「熱……あるの?」
紗希ちゃんは心配そうに言った。俺はドキドキした。
「かぜなの?」
いきなり手のひらを額に当ててきた。水仕事で手が冷たくなっていた。すごく気持ちよかった。頭がクラクラした。
「なんだか調子悪そう……。いいわ、よしひこ君は茶の間で休んでて。あたしが全部つくってあげるから」
俺は、「平気だよ」と言ったけど、紗希ちゃんに強引に座らせられた。だから、仕方なくすり切れた畳にあぐらをかいて、ちゃぶ台の上に寄りかかった。
「すぐだからね、すぐ」
紗希ちゃんは本当に楽しそう。鼻歌を歌いながら台所に消えていった。緑色のスカートがひらひらと舞って、すごくかわいい。
(けっこんて、こんな感じなのかな?)
少しだけ大人の気分になった。
(しんぶんを読んでいたほうがいいのかな?)
ちょっとだけイメージを膨らませた。何となく世間のお父さん像を真似してみようと思って。でも、紗希ちゃんの家では新聞をとっていない。だから黙って待つことにした。
ほどなくして、
「おまちどうさま」
と、紗希ちゃんがラーメンの丼をお盆に乗せて持ってきた。まだ楽しそうに笑っている。
紗希ちゃんのラーメンは、丼の中央に長ネギが乗っていて、半分に切ったゆでたまごが一つあって、黒い板海苔が三枚浮かんでいるシンプルなものだった。
「ねえ、ねえ、はやく食べて」
紗希ちゃんは、赤茶色の塗り箸を差し出すと、にっこりと笑った。
「さきちゃんの分は?」
「もう一つ作ってるうちにのびちゃうから、よしひこ君が先に食べて」
「いいの?」
「うん。さあはやく食べてみて」
俺は紗希ちゃんに促されるまま、ラーメンをすすった。
その瞬間――
「こ、これは――!!」
俺の舌に強い衝撃がはしった。それは、完全に予想の範疇を超えていた。
紗希ちゃんの作ったラーメンは、俺の作ろうとしていたラーメンの味を遥かに凌駕していた。紗希ちゃんのラーメンは俺の作ろうとしていたラーメンより、遥かに大人びていた。まさに――ファンタジスタ……なのかな?
スープの温度。塩加減。麺の茹で具合。具のバランス。ネギの刻みかた――。
どれを見ても文句のつけようがない。
(インスタントのはずなのに!!)
それどころか、何か良い香りがした。
「どうやって作ったの?!」
俺は紗希ちゃんの肩を掴むと、強く揺すって問い質した。子供ながら、とても悔しかったのだ。
紗希ちゃんはびっくりして目を真ん丸くした。でも、すぐににっこり微笑んで、
「好きだから……」
と言った。顔が真っ赤になっている――。
「好きだから?」
「う、うん……作るのが。ラーメンを作るのが……」
「それだけ?」
「うん……それだけ」
紗希ちゃんの瞳は潤んでいた。顔がまだ赤い。
はっきり言って、かなわない……。紗希ちゃんには全然かなわないと思った。
(好きだから……。それだけで……)
こんなに美味しいラーメンを作るなんて……
「さきちゃん……。ボクの負けだよ」
完敗だった――。
「えっ? だって、まだ……よしひこ君のラーメン、食べてないよ」
「いいんだ。もう勝負はついているよ……」
もう、作るまでもない……
俺の作ろうとしていた『蜂蜜入りソースせんべいのせうまい棒ラーメン・インドカレー味』では、いい線はいっても、完成度の高さからしてとても太刀打ちできないと思った。
「じゃあ……約束どおり、あたしの言うことを聞いてくれるのね」
「う、うん……。負けたんだからしかたないよ」
俺たちは、勝負する前に、勝った方の言う事を聞くという約束をしていた。
本当の事を言うと、勝負する前から「さきちゃんに勝たせてあげよう」と思っていた。それが男の子の役目だと思っていたから。それに俺は……、紗希ちゃんが大好きだったし……
でもそれは、俺の独りよがりなんだ、と思った。紗希ちゃんはもう、上の上を行っていた。もう、大人みたいだ。
「じゃあねぇ……、よしひこ君はこのあと……あたしといっしょにいるっていうのはどう?」
「えっ?」
「今日一日いっしょにいるの」
「えっ? えっ? そんなんでいいの? それじゃあいつもと同じじゃない」
「いいの! あたしのいう事を聞くんでしょ」
「そ、そりゃそうだけどさ……」
拍子抜けだった。これじゃいつもと同じだ。
俺はてっきり、あんな事やこんな事を命令されるのかと思っていたから、自分の部屋に『いしょ』まで書いてきたのに……
「さあ、なにしよっか。『おとうさんごっこ』する? それとも『おかあさんごっこ』がいい?」
紗希ちゃんの目は真剣だった。要するに、どちらも『おままごと』の事だ。なにも違わない。紗希ちゃんはいつもおままごとだ。それが好きみたい。
「う、うん。いいよ。ボクがおとうさんでしょ?」
いつもの事だった。俺がお父さん役で、紗希ちゃんがお母さん役で、人形のメリーが子供役で……
でも、紗希ちゃんは首を振った。
「ううん……ちがうの。今日はよしひこ君がおかあさん役でやって」
「ええっ?! ボクがおかあさん役?」
紗希ちゃんは、こくりとうなずいて、着ていた割烹着を俺に渡した。
「で、でもそれって……」
「そうよ、おかあさんの大切な形見なの。ねえ、これを着て。おねがい。なんでもいう事聞くんでしょ」
「そ、そりゃそうだけど……」
恥ずかしかった……。女の人の格好をするなんて。
そりゃあ、大人になるにつれて「たまにはしてみたいなぁ」なんて思う事もあったけど、当時は男が女の格好をするなんて“恥”だとか言われていたから。色々な人が、多彩な趣味趣向を持つようになるのは、ここから十年以上経ってからだし……
「し、しかたないよね……。ボク、負けたんだし……」
「ごめんね、よしひこ君。でも……、よしひこ君にしかたのめないの……。ほかの人じゃやなの」
「えっ? ボクじゃないといけないの? おじさんじゃだめなの?」
「う、うん……。そういう意味じゃないの。おとうさんだと意味がないの」
「ふ、ふぅん……」
今考えれば、なんの事はない。紗希ちゃんにはお母さんがいない。だからこういう事をねだるのも解からなくもない。
でも、当時の俺はまだ子供だったから、そんな紗希ちゃんの寂しい気持ちなんて理解出来ていなかった。一応、割烹着は着てみたものの、ちょっと恥ずかしくて、あまりいい気持ちにはならなかった。
「よしひこ君。おすわりして」
俺は、紗希ちゃんに言われるがまま、仕方なくその場に正座した。
「……これでいい?」
「じゃあ、そのままね」
紗希ちゃんは嬉しそうに、体をころんと横にすると、頭を俺のふともものところに乗せてきた。
「な、な、なにしてんの?!」
俺は、ちょっとびっくりして声が裏返った。
「何って、子どもの役よ」
「そ、そうじゃなくって……それに子ども役はメリーちゃんじゃ……」
「あたしのいうこと、なんでも聞くんでしょ」
「で、ででも……でもさ」
「もう! よしひこ君はおかあさんでしょ。おかあさんはそんなこと言わないよお」
紗希ちゃんの目は真剣だった。
「そ、そうだけど……」
俺は困った。なんだかいけない事をしているみたいに思えた。女の子とこんな事しているなんて……
「ねぇ……あたま、なでて……。おかあさん……」
紗希ちゃんは目をつむった。横を向いて赤ん坊みたいになった。
「さ、さきちゃん……」
俺は震えていた。決して紗希ちゃんが嫌いだからではない。その、何というか……恐かったのかもしれない……。好きな子にいきなりこんなことされるなんて……びっくりした。……子供だったから。
そんなことをしているうちに、紗希ちゃんは嬉しそうな顔をして眠ってしまった。本当に幸せそうな表情だった。――とても可愛らしかった。
俺は、何となく紗希ちゃんの頭の重さが心地よくなってきた。紗希ちゃんの髪の毛が息をする度に揺れていた。――俺はそれを黙って見ていた。
その時だった――
『よーしひーこくーん! あーそびーましょー!』
外の方からとても大きな声がした。間違いなく俺を呼んでいた。
それは、近所に住む健二たちの声だった。
健二たちは、俺の小さな頃からの友達連中だ。昔から仲良しで、山探検ごっこや海探検ごっこ、それに野球なんかをして遊んでいた。ケードロ(警察と泥棒ごっこ)もしたし、ポコペンもやった。だけど今は、ヒーローごっこにはまっている。
でも、紗希ちゃんと遊ぶようになってから、ほとんど遊んでいない。紗希ちゃんといる方が良かったし、おじさんにもたのまれているし。
でも、やつらも遊ぶ面子が減ってしまって困っているに違いない。一時期は、「赤レンジャーがいないぞ」って言っていたし……
(ど、どうしよう……。このままじゃ黄レンジャーにされちゃうよお)
これには困った。このまま紗希ちゃんを置いてゆくわけにもいかないし、『男同士の付き合い』ってものもある。『赤』から『黄色』になるのはつらいものがある。それに、この格好を見られでもしたら……
「さきちゃん! さきちゃん! ねえ、おきてよ。さきちゃん!」
俺は紗希ちゃんのほほを軽く叩いた。
「ねぇ、ねぇ、ねぇったら!」
でも、紗希ちゃんは全然起きなかった。
紗希ちゃんは、とっても気持ちよさそうに眠っていた。とっても奇麗な寝息をたてていた。とってもつやのある顔をしていた。まるでもうこの世に未練がないような幸せな顔をしていた。
(ねむってるから、だいじょうぶだよな……)
俺は本当に子供だった。今考えてみれば、この場所を離れるのではなかった。
でも、女の子と一緒にいるだけで冷やかされていた時代。そんな時に、紗希ちゃんと膝枕をしていたなんてクラスのだれにも知られたくなかった。
今になってみれば、それはとても幸せなことなんだな、と思えても、子供の俺には解からなかった。
どちらかと言えば、ヒーローごっこで名誉の『赤』か『青』の大役を演じていた方が良かったのかもしれない。だから、俺は……
「おーい! こっちだよぉ」
俺は無花果の木の上にいた。
すやすやと眠る紗希ちゃんをほったらかしにして、割烹着をちゃぶ台の上に脱ぎ捨てて、庭先から廻りこんで、何事もなかったかのように健二たちに『赤』を誇示していた。
健二たちは嬉しそうに、
「五人そろわねえとつまんねえよ!」
と言って迎え入れてくれた。まだ、俺の役は『赤』のままだった。
でも、紗希ちゃんにとっての『おかあさん』役はもう……。
秋になると、日が沈むのが早い。これは昔から変わらないのかもしれない。
夕暮れは、俺たちにとっての帰宅時間の指標だった。
健二は、どちらかというと紫色に近い風呂敷を襟首に縛りつけ、赤い柔らかな日差しの当たるジャングルジムの上から見下ろしていた。
「んじゃおれ、帰るわ。かあちゃんが今日はカレーだって言ってたから」
「けんじ……。それじゃ、黄レンジャーだって」
俺は、武器に見立てたロープを、体に巻きつけていた。
「いんや、おれは青レンジャーだ。でもやっぱ、おまえの赤レンジャーは最高だったよ」
「そ、そうかあ。へへへ……」
健二の何気ない台詞に、一応おどけて見せた。俺は責任を果たした。……つもりだった。
目一杯遊んだ後は泥だらけ。久しぶりに五人揃うと、演技に熱が入った。
健二が扮する『青』はニヒルにキメていたし、聡が扮する『黄』は、相変わらずのおとぼけっぷりだったし、俺たちより下の学年の、猛と栄治は、どっちが『ピンク』でどっちが『緑』をやるか争っていたし。
舞台も、近くの公園から工事現場跡の原っぱに移動して、また怪人が出現すると学校に行って――。
楽しかった。嬉しかった。「何もかも変わらない日常がある」という事が幸せの証しだった。
「じゃあねー」
それぞれが自らの巣へ帰って行った。俺も自分の巣へ帰ることにした。
本当の事を言うと、健二たちと遊んでいる間も、紗希ちゃんの事が頭の中から離れなかった。
『今日一日いっしょにいるの』
紗希ちゃんはいった。
しかし、約束を破ってしまった。
いつもなら、何の事はない簡単な約束なのに、今日に限って破ってしまった。
(さきちゃん……おこってるかな?)
紗希ちゃんは優しい子だった。俺の前で怒ったところなんて見た事がない。
でも……
(きらわれちゃったかな……)
それだけが気懸かりだった。
おじさんは「お嫁さんにもらってくれるかい?」って言ってくれた。でも、紗希ちゃんに嫌われちゃったら、元も子もないって、分かっていた。
俺は紗希ちゃんが大好きだったし、これから先、紗希ちゃんがいないなんて考えられない。まだ出会って一ヶ月そこそこなのに、紗希ちゃんは俺の中の一部になっていた。それだけ俺の心の中に入り込んでいた。だから……
(あやまろう。すなおにあやまろう……)
そればかり考えていた。
許してくれなかったら、許してくれるまで謝る気でいた。許してくれるのを期待していた。
(さきちゃん……。さきちゃん……。さきちゃん……)
(さきちゃん……。さきちゃん……。さきちゃん……)
何度も何度も祈っていた。紗希ちゃんが許してくれる事を祈っていた。
真っ赤な夕日に照らされて、ひっきりなしに建ち並ぶ家々が輝いていた。砂利道の小石も、宝石のように光っていた。足を一歩一歩踏み出すたびに、砂まみれのズックが、ざりざり音をたてた。
とても気が重かった。とても胸が痛かった。とても膝がいう事を聞いてくれなかった。
俺は紗希ちゃんが好きなのに、すごくひどい事をした。一緒にいるのが楽しいはずなのに、簡単に約束を破った。……裏切ってしまった。
(さきちゃん……。さきちゃん……。さきちゃん……)
市営住宅のねずみ色の瓦屋根が見えてくると、俺の足の動きが鈍くなった。小石たちを踏みしめる足の裏が痛くてたまらなくなった。
風呂焚きをする煙突のけむりの臭いが、鼻を突いた。晩御飯を煮炊きする湯気が、胸の痛みをことごとく誘った。
あのまま紗希ちゃんと過ごしていれば、今頃は二人で美味しい夕飯の支度をしていたかもしれない。もしかすると、おじさんと一緒に屋台を引いていたかもしれない。
おじさんのラーメンはとても美味しい。何度かお手伝いをして食べさせてもらった事がある。
お酒を飲んで帰ってきた人達の横で、紗希ちゃんと並んで食べたあの味が忘れられない。店を移動する時に吹いていたチャルメラのラッパの音が忘れられない。紗希ちゃんとおじさんと三人で坂道を押した、あの屋台の重さが忘れられない。
なにもかも失くすのがいやだった。紗希ちゃんも、紗希ちゃんとのまつわる思い出も失くしたくなかった。
「いやだよう……。きらわれたくないよう……」
自然に涙が出ていた。自然に言葉が出ていた。自然に足がもつれていた。
通りすがりの近所のおじさんが「どうしたの? 家まで送ってあげようか?」と言って、道端で倒れ込む俺を抱き上げてくれた。でも、俺は胸がいっぱいで何も答えられなかった。ただ、首を振ってよたよたと歩き出すしかなかった。
何もかもが敵に見えた。何もかもが優しくて敵に見えた。こんなひどい人間の俺に優しいヤツはみんな敵だ――そう思えた。だから涙が全然止まらなかった。
気が付くと、もう無花果の枝葉が目の前に見えていた。もう、紗希ちゃんの家の目の前に来ていた。
俺は迷った。紗希ちゃんにすぐに謝りに行こうか、それとも向かいにある自分の家に逃げ込もうか……。
まだ、俺の家には電気が点いていなかった。両親は、まだ帰ってきていなかった。だから、このまま自分の部屋に逃げ込めば、何事もなく振舞えるかもしれない。
もうすぐ日も暮れる。辺りも暗くなる。夜になれば、大人たちが家に帰る。すると何だか心強くなる。そうなれば、紗希ちゃんだって今日の事を忘れてくれるかもしれない。俺のひどい仕打ちを忘れていてくれるかもしれない。俺の悪い部分を忘れてくれるかもしれない――。