第3章 錯誤
3 錯誤
もう、日もとっぷりと暮れていた。湘南からこのかた、内陸の山の方に向かってラーメン屋台を探しているのだが、どうも見つからない。
「ねえ、この辺りかしら?」
麻美子は、分かったような、それでいて分かってないかのような身振り手振りをしながら、車のガラス窓の向こう側をキョロキョロと窺っている。
「そ、そうかなぁ? 俺はもっと東の方だと思うけどなぁ」
俺としても、気持ちに余裕のないせいか、どう言っていいものか分からない状態だ。
「あら? もう道がない……」
「ホントだ。行き止まりだ……」
不穏な暗がりの中、俺はハンドルを切り、車を路肩によせてゆっくりと停めた。目の前には黄色い道路標示で“この先行き止まり”と書いてあった。これ以上はいくらなんでも進めない。
俺たちの目の前に見えているのは、正しく山、山、山。木、木、木。森、森、森。ところによって川……そんな風景と思われる陰影のオンパレードだった。
道はしっかり舗装されているが、家らしい家は一軒も見当たらない。当然、ラーメン屋のやの字のかけらも見つからない。
「あたしたち、迷っちゃったの、かな?」
「多分ね。ここは迷宮回廊の真っ只中だと思う……」
「お腹……すいたね……」
「あ、ああ……」
「ねえ、良彦さん……怒ってる?」
「い、いいや。全然……」
あれから四時間。俺たちは、麻美子お勧めの屋台ラーメン探しで明け暮れているのだから、腹が空かないなんてわけがあるはずがない。無論、湘南の街並みを通り抜けてからこの方、何も口にしちゃいないのだ。
「こんなことなら……」
と、つい口にしてしまいそうになるものの、年上の分際で、弱音なんて吐けるはずもない。
途中、それなりに有名なお店の前も通ったのだが、
「目的地に着くまでは我慢しよう」
などと言ってしまった俺の軽口が、今ごろになって憎らしくなってきた。
そろそろ彼女も限界に来ている。俺の腹の虫でさえ、飢え死にしてしまいそうだ。
「この際、違う店でもいいかな?」
「うん……。良彦さんさえ好ければ……。だけど違うお店、見つけられるかな?」
「うーん、わからん……」
麻美子は今にも泣き出しそうである。この時、優しい言葉のひとつでも言って彼女をなだめてやりたかったのだが、そういう余裕もすでに遠い夢の彼方に置き去りにしてしまっていたようだ。
(こんな事になった原因は、いったい何だったのだろう?)
俺は、あわよくば使えなくもない冷静な判断力をもって、ここ数時間ばかりの行動を解析してみた。
すると――
ケタケタと笑いながら運転席ではしゃぐ俺の姿があった。その俺は、麻美子の珍妙なナビに大ウケして、ついつい調子に乗って一切合財の道案内を任せてしまっているのであった。
(つまり、俺が真犯人じゃん……)
後悔は先にたたなかった。
(西のものとも東のものとも分別がつかない帰国子女に、道案内させるなんて無謀だった……)
俺は酷く愚か者だった。
とても素敵で、とてもファンタジックな道案内をしてくれた麻美子は、事実上の被害者だった。彼女に一片たりとも罪はない。
腹をくくった俺は、ギアをバックに入れ、とっぷりと暮れた夜道の中を慎重に戻り始めた。
「Uターンするよ。来た道を戻ろう」
「うん……。ごめんね……」
「君があやまるなよ」
「でも……」
麻美子は責任に押しつぶされそうになっていた。しつこいようだが、彼女に責任はない。
「話でもしよっか」
「えっ?」
「気が紛れるだろ」
「そっか」
「何がいい?」
「えーと、良彦さんのむかし話がいい!」
「俺のむかし話?」
昔話――?
(あらら。いったいどこまで話をして良いものやら……)
俺は困惑した。
今の今まで、自分の過去の経験談を女の子に話したりして、ウケたためしがないのだ。それどころかドン引きされる方が普通である。
それこそ俺は、ワルや不良の類いではなかったが、あまりにもよい人生を送ってきたとも言い難い。それを踏まえると、経験談を話す事は俺にとってのタブーに近い。
かと言って、過去の女性関係を話すなど馬鹿げているし、今の恋愛物語が最高だと思えるから、それ以下の事を話すつもりもない。
(だったら必然的に子供の頃の話になるな)
それしか話せないと思った俺は、早速、自分の記憶回路の奥底にアクセスを試みた。それは、とうに封印しかけた赤錆の混じった記憶だった。
(どうせなら共通の話題がいい。そう、ラーメンが関わったやつがいい……)
そうだ、ラーメン。――ラーメンというキーワードが付いた少年時代の記憶。
「子供の頃ってさ――」
そう言い始めると自然に記憶が蘇ってきた。
俺は、道路脇の草むらに車が滑り落ちないように丁寧にハンドルを切ると、記憶の思い噴き出るまま喋ろうとした。
すると麻美子は、うぐいすのように透き通った声で、
「なあに、子供の頃の話?」
と、言って茶々を入れてきた。
(おお、悪くない感蝕だ。これなら行けそう)
俺は、彼女の期待感を損ねないようにと細心の注意を払いながら、
「そうさ、子供の頃ってさ、色々と試したくってウズウズしてただろ」
「今でもそうでしょ。やんちゃな良彦さん?」
「ま、まあね。……それでね、子供はいつも恐いもの知らずだから色んなものをラーメンに入れるんだ」
「色んなもの? ラーメンに? ……っていうか、ラーメンの話?」
「そう、ラーメンにね、食べられる物なら何でも入れたんだ。食いしん坊でね。冷蔵庫の中にある物なら何でも。例えば魚肉ソーセージにトンカツの端切れ。たくあんに納豆に福神漬け。贅沢にカレーコロッケや煮込みハンバーグも入れてみたり……。たまには前の晩に残った焼きそばなんかも入れてみた」
「や、焼きそば――?」
一瞬、麻美子の動きが止まった。空気がとても痛い。
俺は「このままではまずい」と察知し、話に軌道修正を掛ける事にした。
(記憶、記憶、別のラーメンの記憶……)
間が開いたので心配だったが、彼女はまだ俺の話について来てくれているようだった。さすがは我が心の恋人、麻美子様だ。
「そう言えば、こういうのもあったよ。俺の家はいつもおんなじメーカーの即席ラーメンだったんだ。ケース買いだからね。だから普通じゃつまらないってんでコーラを入れて煮込んだ事もあったっけ。さすがにあれは不味かったよ……っていうか入れすぎて鍋から凄い勢いで泡が吹きこぼれちまってね、そりゃもう大変な騒ぎだったよ。その後それを食ったら、これまた凄い味でね。クスリ臭くて食えたもんじゃなかったよ。勿体無いから我慢して食ったけどね」
「ね、ねえ……それって本当に良彦さんの話なの? 他の人の話……でしょ?」
この時点でちょっと不穏な空気が漂って来た。
俺はそこはかとなく迷ったが、
「うーん、想像にまかせるよ」と、言って挽回のチャンスを狙いながら少々悲壮感を漂わせてみた。「……でね、その男の子は両親が共働きだから、土曜日は小学校から帰ると昼飯を作るんだ」
「ふぅん。寂しそうね……」
と、彼女はぶっきらぼうな相槌を打った。
それでも俺は、粘り強く続けた。
「たけど、そうでもないんだよ。その男の子はね、ラーメンを作るのが好きだったからさ。もちろん食べる方もね」
「ふうん……やっぱり」
「でね、その男の子は作ることに慣れてくるとスープや麺、時には具にひと工夫するようになったんだ。最初の頃は片栗粉を水で溶いてスープにとろみをつけたりして……」
「それって、天津麺?」
「おおっご名答! さすがは麻美子だね。その男の子はその上に厚く焼いた卵焼きを乗せて天津麺風にして食べたり、カレールーと餃子と牛乳と味噌なんかを一緒くたに入れて煮込んで野菜なんかをトッピングしたりして無国籍風ラーメンにしてみたりした。彼は飽きない工夫を凝らして遊びみたいにしていたんだ」
「ふぅん……何だかすごいのね……」
麻美子のトーンはかなり微妙だった。せっかく子供の頃のラーメン話を思い出したのに、俺はしくじったのだろうか?
だが、俺はめげなかった。
「たまに両親が結婚式に出る事があるだろ?」
「うん」
「その、結婚式から持ち帰った料理の中に鯛の尾頭付きがあってさ、それを火で炙ってスープに突っ込んだりしてみた事もあったんだ。良い出汁が出ると思ってさ」
「あら、それは美味しそう。プロみたいね」
おお、好感触――
「でも、骨も身も丸ごと入れたもんだから、食べる時小骨が喉につっかえてね、ヒドい目に遭っちゃったんだ。麺をすする勢いで飲み込んじまったらしい。鯛の小骨はとても硬いから刺さると酷いんだ」
「うわあ、痛そう……」
彼女は目をしかめた。
「でね、喉から小骨を取るにはご飯をまる飲みすると良いって言うから、俺は言う通りにしてご飯をまる飲みしたんだ」
「で、取れたの?」
麻美子は心配そうな顔で言った。
「いいや、白飯を四合分まる飲みしたけれどその骨は取れなかったんだ。結局その男の子は医者に行って取ってもらったんだけど……」
「けど?」
「お腹を壊して三日間寝込んじゃった。ははは……」
「………………」
あれ? 麻美子、麻美子、麻美子さーん……黙っちゃった。
(やっぱり俺には、過去の話は無理かなあ)
――俺はとっても後悔した。
俺の過去話はどうもいけないようだ。やっぱり女の子ウケがしない。何かに祟られているのだろうか?
そういえば学生時代、近しい友人に、
「キミはシュール過ぎるんだよ。もっと話を都合良く作ってしまえばいいんだよ」
と、言われた事がある。
「女性ってのは常にデュリーム(ドリーム)の中だからね。どんな嘘っぽい作り話でもロマンティックに感じさえすれば都合良く受け取ってくれるものなんだよ。もちろんその事はミーの実体験が証明済みさ」
彼は、そうのたまっていた。だから、思い出話を語るのもそんな具合でいいらしい。だが、そんな場面の実況見分を、女性の前で口が裂けても言えやしない……。
そう断言していた友人は、やはり言うだけあってとても口が上手かった。口説きの技術に関しては超がつくほど天才的だった。
だが、彼の口説き文句は俺たちが思い描いている甘い台詞などではなかった。意外にも極自然な言葉を使用し、極自然な雰囲気を醸し出していた。それが彼の極意だったらしい。
やはり一時期は、知っている限りでも二股三股をかけていた。俺の知らない場面を考えれば、彼の術中に堕ちた女性はもっといたであろう。
その友人に飲み屋でレクチャーを受けた事もあったが、とても俺の手に負えるような講義ではなかった。
(アイツ……見た目はとっても普通なんだがな)
そんな友人も、今では二児の女の子のパパなのだから大したものだ。
新興住宅地のど真ん中の一等地に大きな家まで建てたりして……。おまけにかなり幸せそうだったりして……。俺のようなエキセントリックな人間とはまるで大違いなのだ。
もっとも、アイツの実家は地元の有力な企業の経営者だったな――。
(そうか……。友達か……)
その時、俺の記憶検索回路は新しいキーワードを得ていた。そう、『友人』という二文字の。
(あっ、ああっ……、こ、この記憶は……。この懐かしい記憶は……)
この瞬間、俺は子供の頃に何か途轍もなく『ラーメン』と『友人』とが関わった出来事があったような気がし始めた。とりもなおさず、心の根底にこびり付いて離れない吹き溜まりのような記憶が蘇ってくるのが分かった。
(俺はなぜ、こんな大切な記憶を忘れていたのだろう?)
それは赤錆にまみれた記憶だった。だが、よほど印象的な記憶だったのだろう。忘れかけていた映像がふつふつと湧いてきた。そう、ラーメンと友人が携わったひどく錆付いていた記憶が――。
車窓からの外観は、黒一色だった。ヘッドライトに照らされる部分は、お慰みなまでに灰色掛かり、よもやブラックホールと化した木々たちが文明の光を吸い取っていた。
もし、アスファルトがここで途切れていたら、俺たちはどこへ行くのだろうか?
鬱蒼とした森の木々は、すでに迷宮の壁として機能している。この山道が舗装されていなければ、俺たちが生きてきた文明と繋がっているという確証は得られない。途中で切れていたとすれば、それは……
俺の記憶も同じだった。
俺が俺であって、俺が俺でなくもあり、俺の記憶は俺が俺であることを認識せず、すでに俺の意識とは無縁に近い状態で保存されていた。
誰かが言った。
(よしひこ君遊びましょ……)
俺は声に惹かれた。可愛らしくも透き通り、小鳥が庭先でさえずるような……
小さいながら淡い恋心に近いものを抱いていた。
その子はいつも、三つ編みのおさげと緑色のスカートで出迎えてくれた――。
「――俺さ、そうやって家に帰るとラーメンを作っていたじゃない?」
運転席で真っ直ぐ前を見ながら俺は言った。自然に声が出ていた。
「えっ? ええ……、またラーメンの話なの?」
麻美子は、少し驚いた様子で「もうあなたの昔話はお腹いっぱいよ」なんて表情だ。
が、そんな事にはお構いなく、俺の大脳はことごとく喋り続けるよう指示している。
「友達がいたんだ。まだ小学校低学年の時……。転校生の……。女の子だった……」
「お、女の子……?」
麻美子は眉間にしわを寄せた。辺りに妙な空気が漂う。
「その子は母親がいなかったんだ。大病をしたらしくてね、もっと小さいときに亡くなったらしいんだ」
「そう……可哀そうね……」
麻美子は小さく言った。
「俺たちは家が近くて何となく気が合っていた。土曜日になるとどちらかの家に行って一緒にラーメンを作って食べていた」
「そ、そう……」
「ある時その女の子は言ったんだ。――よしひこ君はラーメン作るのとってもうまいよね。でも、わたしの方がもっとおいしいの作れるわよ――ってね」
「それで?」
「俺だってそんな事言われたら悔しいし……。だから次の土曜日のお昼に、彼女の家でラーメンの味くらべをする事になったんだ。もちろん小学生だから即席ラーメンに何らかの工夫をするくらいだけどね」
「でしょうね」
「で、次の土曜日になって早速彼女の家に行ったんだ。味くらべの勝負をするために――」
俺は、自動手記でもしているかのように、ひとしきりその女の子の記憶を辿っていた。しかしこの時点では、その記憶の顛末は思い出せていなかった。なぜ、忘れていたのかさえも理解出来ていなかった。
「材料はどうしたの?」
麻美子はめずらしく内容を質してきた。俺は、出来るだけ細かく記憶を掘り進む。
「ああ……それは紗希ちゃんの家で用意してくれていたんだ。紗希ちゃんのお父さんはラーメン屋さんだったからね」
「へぇー、“サキちゃん”て言うんだ。その女の子」
「あ、ああ。今思い出した……」
すっきりとした顔立ちで、痩せ型の目のまあるい女の子。ちょっとだけお姉さん気取りで優しい子。
「好きだったの?」
「……う、うん。ど、どうかな……」
「子供の頃だもんね……」
「君だってあるだろ?」
「さあ、どうかしら……」
麻美子は唇をちょっとだけ尖らせた。鼻息が荒い。
(これ以上話すのは危険だな)
俺は麻美子の横顔に目をやった。
鼻の穴がぷっくりと膨らんでいる。瞳があっちこっちを向いている。瞬きの回数が非常に多くなっている。それは誰が鑑みても機嫌を損ねている態度に間違いはない。
(麻美子は『記憶』に妬いている)
それが俺の推察だった。
俺にとっての紗希ちゃんは遠い記憶の彼方の登場人物でしかなく、さほど現実味を帯びて存在しているわけではない。しかし、麻美子にとっての紗希ちゃんは、今正に出会ったばかりの女の子に過ぎない。だから焼きもちを焼くのも解からなくもない。
(昨日が昨日だから尚更かもしれない……)
麻美子が過敏に焼きもちを焼いてしまう理由は、この俺にも責任がある。
それは――
昨夜、俺たちは愛し合った――という理由。麻美子にとっての初めての経験。
(だから奮発したんじゃないか……)
付き合い始めて一ヶ月。互いに仕事の帰りは遅く、日々ラーメンを食べるだけのデートで終わっていた。
休日のデートでさえラーメン屋を何軒もはしごする始末。最後の頃になると腹が異様に張ってしまい、その気にさえなれるものではなかった。場合によっては、豚骨と、にんにく臭まみれで寄り添って歩くのだ。愛の言葉を交わすどころ雰囲気ではない。
それがやっとの思いで一泊の小旅行に漕ぎ着けたのだ。伊豆高原の個室バンガローを一晩借り切って、ベタなまでのロマンティックを演出し、『愛し合う』までに至ったのだ。
麻美子という女性はその点で非常に疎かった。なんと言えば良いのか、子供のように透き通っているのだ。
「ラーメンを一緒に食べよう」
と言ったら、ラーメンを二人で食べ歩く以外の発想がない。肌を交えるなんて考えても見ていない。今どき珍しいタイプの女性なのだ。
昨夜、そんな彼女を女にした。俺は惚れた手前もあり、燃えたぎる本能を抑えながら誠心誠意を尽くし、目一杯優しく抱いた。
それは生まれたての子猫を、そっと手のひらに抱き、そっと指先でなぜるような、慎重な手ほどきだった。
とびきり優しい良彦――という存在を知った麻美子は、もう俺を自分の一部として認識してしまっているだろう。俺の嗅覚が伝えなくとも、彼女の顔にちゃんと書いてある。
惚れた一念の俺としては非常に嬉しい事なのだが――記憶の中の紗希ちゃんはどう思っているだろう――と、何となく気になり出した。
(確か……紗希ちゃんも焼きもち焼きだったような……)
この時、なぜか俺の中の紗希ちゃんが広がり始めた。