第2章 出会い
2 出会い
彼女との出会いは、ラーメンがきっかけだった。あの日が――ひと月前のあのラーメンの食べ歩きに勤しんでいたあの日が、今の俺の彼女、春日麻美子との出会いなのだ。
過去の話になるが、この出会いの日から話さねばなるまい。
俺は、ラーメン好きが昂じてブログを書いてしまうほど、ひたすらラーメンを愛している。いわゆるラーメンフリークというやつだ。
昼間は代々親族が経営する小さな食品会社に勤める一サラリーマンなのだが、生来の収集癖とでも言うべき本能が、俺を飽くなき衝動に駆り立てる。ゆえに、休みの日になるたびに、一目散にあらゆるラーメン屋を駆け巡ってしまうのである。
まあ、才能はともあれ、味に関しては特別うるさくはない。が、あれこれ食べないと落ち着かない食欲旺盛型のフリークであるがゆえに、「あそこに旨いラーメン屋があるぞ」と、聞くたびに惜しげもなく足を運んでしまうのである。これは血の習性ともいうべき性格だと確信し、今は周りにいるものでさえ諦めてくれている。
そんな俺は、ある日、東京の下町のとあるラーメン店へと足を運んだ。
その店は、あの有名なガイドブック『すご腕ラーメン職人あらかると』に四つ星店として載る、その筋では(どんな筋だ)大変名の通った老舗という触れ込みだった。しかし、あらゆるラーメン屋に詳しい俺でさえ、その店の暖簾をくぐるのは初めてだった。
下町のひなびた商店街の一角に、その店はあった。
辺りの店舗とは場違いなこげ茶色の建物が出迎えてくれいる。今にも崩れて来てしまいそうな木造の二階建ては、他の建物と比べても、どこか貧弱に見えて酷くみすぼらしかった。昔懐かしい古びたセメントの瓦屋根は、雨漏りを想像させるのに、さほど無理のないシチュエーションだった。
ガイドブックの記事のシメにも、こう書かれている。
『この老舗のラーメン屋は、寂れた木生臭い壁と、簡単に割れてしまいそうな木枠のガラス窓と、古今東西からやって来る常連達の熱意によって支えられている』
――と。
俺は、その記事を読み感心した。なるほど……と、つい言葉を漏らしてしまうほどいいところをついている。それほど、その記事の表現がぴったりと当てはまってるのだ。
お慰みなまでに小さくちょこんと掲げてある軒の下には、数人の待ちの客が並んでいる。休日の昼前だというのに、皆が待ち遠しそうに首を長くしている。
「とりわけ、珍しい光景でもない……」
と、俺は、いつもの慣れた調子でその順番待ちの最後尾に足を踏み入れた。
そうこうしているうちに、よほど順番を待ちかねたか、俺の腹はグウと鳴った。それを聞いてか、俺の前で順番待ちをしている二十歳そこそこの娘がクスクス笑ったのが見えた。なかなか可愛らしい娘さんだ。
(何だか場違いだな……)
俺には、どこか彼女がおどおどして落ち着きがないように見えていた。小さな体つきでガイドブックをひとしきり胸に抱え、辺りをきょろきょろと見回している。誰とも話さないでいるところを見ると、彼女ひとりだけで並んでいる事が窺えた。
(勇気あるな、この娘さん)
こういう世の中になれど、女の子ひとりで並ぶなど薄ら心細いものがあるだろう。ましてディープな常連客が軒下を連ねる場所に来る行為など、敵陣で配給を受ける特殊工作員よりも大胆ではないのか……と思わざるを得ない。
(よっぽど食べたかったんだな)
そんな風に彼女の心理状態を推考しているうちに、順番が回ってきた。
店の中に入る前から鶏ダシの芳しい匂いがプンプン伝わって来ていた。これじゃまるで拷問に近いとばかりに、俺はそわそわとした苛立ちを隠せない。
しかも、店の中に入ると、これまた深みのある……「なんの香りだろう?」……旨そうな匂いが醤油や湯気の香りと共に襲い掛かり、胃粘膜をこれでもか! というぐらい刺激する。
俺の腹の虫は、この時点で鳴りっぱなしだった。しかし、他の客の麺をすする音があるお陰で、卑しさ全開の内面がばれる心配はなかった。
店内は、カウンター席と小さな二人掛けのテーブル席のみで、随時八人が掛ける事が出来る。俺は二人掛けのテーブル席に案内された。
「相席でお願いします」
店主の娘らしき店員に手招きをされると、そのテーブル席には先客が腰掛けているのが分かった。その先客とは、先ほど俺の腹の虫の鳴き声を聞いてクスクスと笑っていた、あのガイドブックの彼女だった。
軽くお辞儀をすると、彼女も軽く頭を下げた。このひなびた建物の雰囲気とはとても似つかわしくない彼女だったが、美しいものはどこにいても美しいものだ、と感心せざるを得なかった。
俺は、思わぬ場所で思わぬ幸運に巡り会えたのだ、と勝手に妄想を重ねていた。すると、店員の方の娘さんが、早々とお冷を両手に注文をとりに来た。
「ご注文は?」
「ラーメンをお願いします」
と、ガイドブックの彼女。
俺は彼女の注文したのを見計らって、
「チャーシュウメンの大盛り」
と答えた。
店員の娘さんは、手馴れた調子で二つの伝票にそれぞれの注文を書き入れ、
「ラーメン一丁! チャーシュウ大一丁!」
と言って、慌ただしく厨房の中へ入って行った。
ラーメンが出来上がる間、俺と目の前の彼女は、互いに口を利くことはなかった。強いて言うのなら、気さくに言葉を交わし、挙げ句電話番号など交わしてみたかったが、なにぶん年齢も離れ、どこから見ても可愛げのある美人さんときているので、おいそれとは話しづらかった。メルアドの交換でさえ妄想の中だけに終わっていた。
(バカか……。ここは飲み屋じゃない)
なんとか理性の効いた事にそっと胸を撫で下ろしていると、ラーメンが運ばれてきた。大きい丼が俺の方で、小さい方が彼女の物だろう。
「お待ち遠さま」
琥珀色のスープから、もくもくと旨みの効いた湯気が漂う。あの独特の期待感が、欲望を刺激した。
店員の娘さんはいかにも「どうだ」といわんばかりの威厳でラーメンを差し出した。よほど味に自信があるのだろう。運ばれてきたラーメンにさえ余裕の笑みがこぼれている。
しかし、自信と笑みがこぼれているのは良いが、琥珀色のスープもこぼれ気味である。
(こういうのを豪快とでも言うのだろうか……?)
具もスープも丼いっぱいに満たされていた。
まあ、この無理矢理一杯なコントラストなら仕方ない。チャーシュウは教科書のように厚く、大人の手のひら並みの大きさの物が三枚。やらいでか、豪快に黒い海苔が三枚乗せられている。真ん中には、俺の大好物である太切りのメンマがどっさりと陣取ってあるのだ。なんと勇猛果敢なラーメンであるものぞ。
ドンブリのふちが隠れてしまっているお陰で、店員の娘さんの親指が第一関節よりも深く入り込んでいる。
「ごゆっくり」
店員の娘さんは、にっこりと微笑むと、前掛けのポケットから器用に伝票を取り出して去っていった。
(どんなにこの時を待ち望んだ事だろう!)
俺は、幾重にも差し込んである割り箸を強引に引っこ抜いた。そして、そのつかんだ箸を竹を真っ二つにでもしたかのように半分に割ると、レンゲ片手に琥珀色のスープをすすり、麺をすすり、チャーシュウをかじり……
その三連動作の見事さと言ったら、我ながら惚れ惚れとしてしまうほどの速さと食いっぷりである。時に、それを見ていた待ちの客から、
「ほう……」
と、溜め息が漏れる声さえ聞こえて来たほどだ。
通常の三倍のスピードと、血気溢れる食欲を武器に、俺は、あっという間にスープを一滴も残さないほどの完食に至った。
「ふう、ごちそうさま……」
その時の顔は、恵比寿大黒より光り輝いていたであろう。
しかし、だが、どうしたことか……、その俺の表情とは対照的な顔が目の前にあった。そう、相席の、カワイコちゃんである。
彼女は、暗い顔でうつむいたまま自分に運ばれてきたラーメンをジッと見つめていた。何を食べるでもなく、喋るでもなく、割り箸とレンゲをテーブルの上に置いたまま、叱られた女の子のように肩をすぼめ、しょんぼりとしているのだ。
(そういえば彼女、運ばれてきてからスープを一口飲んだだけだったな)
本能に身を任せ、チャーシュウメンのトリコになっていた俺は、すっかり彼女の事を忘れていた。が、しかし、彼女がスープを一口飲んだきりうつむいている姿は、俺の女レーダーがくまなく察知していた。
こんな時、さすがに声を掛けにくいものだ。だが、俺は咄嗟に言ってしまった。
「どうしたの? 食べないの?」
彼女は、その問いかけに、
「はい……」
とだけ答えた。
どういう事だろう? 俺は首をそのままに、心の中で首傾げた。
彼女は小声ながら「YES」と言ったのだ。彼女の「はい」という言葉は、そういう意味で受け取れた。
(不可解だな……)
まったくもって不可解だった。
ガイドブックまで買い込んで、その上並んでまで注文した品物を、スープを一口飲んだだけで一蹴出来てしまうものだろうか? そんな無慈悲極まりない事が出来るものだろうか? いや、俺だったら到底出来やしない。そんな勿体無いこと……いや、そんなしち面倒くさいことなど出来やしない。
なんとも呆れるというか、「これは女性特有の七不思議でしかない」と思えた。
それとも意外や、彼女はよほどの食通なのだろうか? 若しくは、顔に似合わずして、冷やかし目的での所業なのだろうか? それとも……いや、まてよ。冷やかしにしちゃあ嫌味がなさすぎる。
しかし、彼女が前者のどちらかであっても、こんな風に暗い顔で黙り込んでいるのは至極不自然というものだ。もし、彼女が前者のような非人道的な人間であるならば、スープを一口飲んだ時点で「代金はここへおいて行くぜ」みたいな決め台詞を吐いて、店から颯爽と出て行ってしまうはずだ。見た目から察して、到底それは有り得ない――。
もしかして――
その時、俺の頭の中に、一つの推察が浮かんだ。
俺は、店員に覚られぬようにして、思い浮かんだ事を彼女に身振り手振りを使って問い質した。
(虫? もしかして虫が入っていたの?)
ラーメンの汁に、ヤスデかゴキブリの類いでも入り込んでいるのかと思ったのだ。飲食店なら意外に不思議な事ではない。ましてこういう古い建物なら尚更の事だ。あってはならないことだが、そうそう有り得ない惨事ではない。
もしかすると、こちらの気弱なお姫様は、この精魂込められて作り上げられた下々の食べ物の中に、ジタバタと溺れ揺らめく節足動物の姿を御覧になられ、心的衝撃をお受けになっているのかもしれない。
――どうだい? お姫様。
しかしすぐさま、彼女は首を振った。
(じゃ、味? それとも指かなあ?)
俺は何となく思いつくものを、それなりの手振りで質してみた。しかし、行き着くところの答えは得られなかった。
(それならば)
と思い、他の客にも覚られぬように鎌をかけた。
「それ、食べてあげようか?」
すると案の定、彼女は目をまんまるくして口を開いた。
「宜しいのですか?!」
いかにも小声での驚嘆であったが、その喜びようは俺の心にストレートに伝わってきた。
(この際、理由なんかどうでもいいや)
俺はいつの間にやら、このお姫様の手助けになる事に懸命になっていた。そりゃあ理由の一つも知りたいところだ。が、今こうしているうちに、この店は、忙しい昼時を迎えて、より混雑を増してくる。それにラーメンだって伸びきれば味も落ちる。そうこうしているうちに、取り返しのつかない状況になるやもしれない。
きっと彼女は、とても相手に気を使う女性なのだ。だから、店の人たちや常連の気分を害さないように、席を立てないでいるのだ。そう考えた方が合点が行く。
彼女が、このラーメンを拒否している理由がどうあるにせよ、目の前にある危急を放っておくわけには行かない。大きな声では言えないが、美人だから尚更なのである。
「その丼借りるね」
俺は、他の客がそれぞれのラーメンに夢中になっている事を確認し、店員の娘さんがこちらを見ていない事も確認した上で行動に出た。彼女のラーメンの中身だけを、俺の空いた丼へとそっと移し入れたのだ。なぜそうしたのかと言えば、こうでもしなければ彼女の今までの気遣いが台無しになってしまうと考えたからだ。
彼女が、スープを飲んだ後に席を立たないでいた行為は、先述の通り、彼女の繊細な気遣いからなのだと推察出来る。他人から見れば、いかにも馬鹿げている行為のようにも感じられるが、彼女にとっては、やはり捨て置けない意味を持つのだという事だ。だから俺は、彼女のそんな気持ちを汲んであげるべく、
「彼女はもう完食しました。俺は大盛りだったから遅くなっちまった……」
のような演出を打ち出したのだ。
さすがに彼女もびっくりした顔でこっちを見ていた。どの部分でびっくりしているのかはイマイチ不明だが、多分、俺が大盛りを平らげた後にもう一杯を美味そうに食べるのがすごいと思ったに違いない。しかし、俺とてびっくり人間ではない。さすがに二杯目はきつい。
とはいえ、これも男の本分と言うものだろう。奇麗な女性を目の前にしては、俄然格好をつけてしまうものだ。
さすがに二杯目は、通常の三倍の速さとはいかなかったが、なんとかかんとかスープを飲みきり、完食に至ったものだ。
そして、俺はテーブルの上に置いてあった二枚の伝票を重ねて鷲掴みにし、
「さあ、君は行って――」
と、彼女を店外へと促した。
すると案の定、
「そ、そんな……悪いです」
と、彼女はすまなそうな目つきで中腰になって乗り出してきた。
「いやなに、いいって。二杯とも喰ったのは俺なんだからさ」
「だめです。迷惑だったでしょう? それなのに――」
こういった気を遣う子は、とことん気を遣うというものだ。彼女とこんな事を言い合っていたら、イタチごっこの追いかけっこにしかならない。
だから俺は、彼女の手を強引に引っ張って、
「お勘定、ここに置いておくね」
と店員に断りを入れて店から飛び出したのだ。
店を出るなり、
「ごめんなさい」
彼女は謝って来た。本当にすまなそうな顔をしている。宝石のようなつぶらな瞳は沸き水のように澄んでいる。いかんせん素直な心が伝わって来るようである。まるでもぎたての果実のようないじらしさは、俺のハートに火を点けるのに十分な理由なのである。
ここまで来ると、いつもの俺の悪い癖が始まる。“かっこつけ”という性癖だ。ほとんど病気に近い。
「いいさ。どうって事はないさ。それより出過ぎた真似をしてすまなかったね」
俺はいつの間にか、心の中で薔薇をくわえていた。
「いいえ、本当に助かりました。それに気まで遣って頂いて……」
「いやなーに、たいした事はしていないつもりさ。これで君のアイデンティティーが保たれたなら本望だとも」
ラーメン一杯で、何を大袈裟な……
「あのう……、理由を聞かないのですか?」
「理由? そりゃあ君が言いたいのなら――」
俺が魅惑の流し目(多分そう見えていると思う)をすると、彼女はうつむいて黙ってしまった。こうなるとさすがに俺の病気も治まった。
それは「ドン引きされたのかもしれない」という自省の念でもあったが、俺自身に「何となく心当たりがある」という理由からでもあった。
(そうさ、人それぞれ、他人に言えない理由はあるさ)
俺は、自らに彼女の行動を照らし合わせていた。実は、俺自信にも他人に話しても無駄な悩みがあるからだ。
その悩みとは、『厭な臭いにとことん敏感である――』という事。
俺は幼い頃から、クサい物には過敏に反応してしまうのだ。まだ、母に手を繋がれて連れられていた時期などは、列車内に一人でも煙草を吸っている人がいるだけで途端に気分が悪くなり、のた打ち回らずにはいられなかったぐらいなのだ。
そればかりか、文房具や学用品の合成素材の臭いを嗅いだだけでも気持ちが悪くなっていた。おまけにそれが原因で、胃が痙攣を引き起こし、ところ構わず吐いた事さえ珍しくなかった。
確かに三十年前ぐらいのプラスティックス製品などは、今よりも臭いがきつかったと思う。当時大好きだったヒーロー物のソフトビニール人形でさえ臭いと思ったぐらいだ。
しかし俺の感じるそれは、他の人の感じるそれとまるで違っていたようだ。ゆえに、俺にとって幼稚園や小学校の密室は、拷問部屋か、生き地獄に感じられたものだ。
今の今でも、豚肉が生のまま流通して調理されたものなのか、一度以上冷凍をかけられたものなのかは判別出来る。一時期は、その解凍肉臭さが原因で肉を受け付けなかった事がある。腐りかけたアンモニア臭やドリップ臭なども、俺にとって有り得ない臭いなのである。
これと言って香水調合師や、ブレンダーのような鋭敏な嗅覚を持っているわけではないのだが、あまり意味の成さない感覚が、普段の生活を脅かしているのは事実だった。
これは俺の推測でしかないのだが、彼女にもそんな我々の気付かない何らかの障害が存在しているのかもしれない。だからスープを一口飲んだだけで止めてしまったのかもしれない。
しかし、それは彼女自身にしか分からない理由なのだ。俺に説明されても理解出来ないかもしれない。他人に話す事があまり得策でない事を彼女は理解している。悲しいかな、それが我々の現実だった。
「あのう……」
彼女は、ジッと見据えたままの俺に、恐縮するように声を掛けてきた。
「なんだい?」と、俺は声のトーンを和らげてはにかんだ。
すると、さらに彼女は言い難そうに声色をつぼめ、
「ご迷惑ついでと言ってはなんですが……」
と言って下を向きながら聞いて来た。「このあとのご予定はありますか? ご予定がないのなら、別のラーメン屋に付き合ってもらえませんか?」
「はぁ?!」
俺は思わずびっくりして、道のど真ん中で突拍子もない声を上げてしまった。
「い、いえ……その、ご迷惑ならいいんです。変なこと言っているのは承知しています。えと……あの、今言った事忘れてください! すいません――」
彼女はバツが悪そうに何度も頭を下げて謝った。
「ちょ、ちょっと待って。そんなに謝らないで。ほら、ここじゃなんだしだしさ」
「ごめんなさい。ごめんなさい――」
それでも彼女は謝り続けた。商店街のど真ん中でそこはかとなく目立っている。
「ちょちょちょ、ちょっと……」
さすがの俺も混乱した。突然の逆ナンかと思えば、急に謝り出したりして……
そりゃあ美人な彼女のお誘いは嬉しいけど、それを差し引いても不条理極まりないといった感じだ。ついさっき、二杯もラーメンを平らげているのだ。彼女だってそれを知っているはずなのに……。だからこうやって謝っているのもしれないけど……。でも、彼女はスープを一口飲んだだけで食しちゃいないんだ。
(なぜ彼女はこんなに風にしてまでラーメンに固執しているのだろう?)
それが引っ掛かった。
(俺はいい意味で利用されているのだろうか?)
そんな風にさえ思えた。
よくキャバ嬢のような女性が使う手口のように、俺は彼女の手のひらの上で踊らされているのだろうか?
(そ、そんな……。こんな彼女に限って)
なんて思いながら、貯金残高を底なしに吸い取られ、路頭に迷った友人を何人か知っている。俺だってそれに近いような経験がないわけではない――。
「ラーメンを一緒に食べましょう」
とかなんとか言われて、甘い言葉で誘惑されて、目の飛び出るような高価な壷なんかを買わされてしまうケースも考えられなくもない。
(新手のキャッチセールスか? )
などという可能性もなくはない。少し手が込んでいるが、昨今の『オレオレなんとか――』事件を考察しても有り得なくはない。
だが、この彼女。――どこか匂いが違う。
そう、ごてごてと着飾ったような、そういうわずらわしい臭いがしない。どこか自然で、どこか懐かしい香りがする。
(俺の嗅覚がそう言っている――)
『優しさ』『温かさ』『純粋』『包容』『思いやり』『愛しさ』『切なさ』『儚さ』『繊細』『心遣い』そして何より『女性らしさ』。――そう言ったイメージの香りが俺の脳髄の辺りに立ち込めてくる。そう、体臭なんかじゃない。言葉で表すのなら『体香』、『体芳』といった感じ。
きっと、だから――この彼女は裏なんか持っていやしない。きっとそうじゃない――そう思えるのだ。
だから俺は、すぐさま彼女の手を取って、
「だからさぁ。そんな急に謝らないでくれよ。俺、まだ君の質問に答えちゃいないよ。俺はOKだよ」
と言ってしまった。すると、
「でもあたし、失礼な事を言いました。わがままな事を言いました。恥ずかしい――」
彼女は半べそを掻きながら俺を見つめた。やけに古風な言葉遣いが気になった。
「もしかして俺が大声を上げた事を気にしているの? それは違うって。君みたいな素敵な女性に急に誘われたから、驚いて舞い上がっちまったんだ」
俺は笑顔で言った。――さすがに自ら歯が浮いた。
しかし彼女は、
「本当ですか?」と、宝石のような瞳を真ん丸くして嬉しそうに涙を流した。「ありがとう」
正直俺は驚いた。いったい何が彼女を追い詰めているのか、不思議でたまらなかった。この場面で涙を流すほど嬉しい理由とは何なのか? それが知りたかった。このいたいけな女性をそうまでさせる理由――。
(俺には到底理解できないのかもしれない……)
「聞かないのですか? あたしのその理由を――」
この日、七件目のミッションを終えた後、彼女は俺と道を歩きながらそう言った。
「ウ、ウプッ……。い、いいや……知りたくないと言えば嘘になる。でも……知る時が来れば、おのずと知らなくてはいけない時が来る。だからさぁ、今度の休みの時もまた、一緒に食べ歩きに行こうよ。次がその時かもしれないしさ――」
それは俺なりの遠まわしのデートの誘いだった。かなり気障ったらしい言い回しだが、俺は内心胸がはち切れそうだった(腹もはちきれそうだけど)。久々の純情恋心とか言うやつだ。いつの間にか俺は彼女に惚れていた。まったく……男三十路を多分に越えて、我ながら健気だと思う。しかし、今どきの若い男では、口説き文句もこういう気の効いた言い回しなど出来やしまい。経験は馬鹿をも賢くするものだ。
案ずるより生むが易し。少し間をおいて、
「喜んで……」
と、彼女は言ってくれた。
これが告白と受け取ったか、ただの食べ歩きのお供と受け取ったかは知らないが、とにかく俺は嬉しかった。
それからというもの、ラーメンデートが昼夜問わずして行われた。休みの日。仕事帰り。仕事の合間――。
それが何度か続いた時、彼女が『告白』と受け取ってくれた事を知った。そして俺を受け入れてくれた理由もなんとなく知った。
しかし、彼女――春日麻美子が、あの店であのスープを一口飲んだだけで食べるのを止めてしまった理由をまだ知らない。多分、一ヶ月経った今でも『その時』が来ていないのだ。
ただ、あの老舗のラーメン屋で出会えたのは、同じガイドブックを互いに読んでいた――その理由は承知している。