最七章 告白:その八杯目
俺は先ず庭の中を見渡した。しかし、もう辺りは暗く何もみえなかった。月明かりや街路灯の白く濁った光だけでは何も分からない。
その時、足元から猫の鳴く声が聞こえた。悲しそうに。寂しそうに。ぺちが俺を呼んでいるのだ。
ぺちは二つの目をギラリと光らせて、俺にこっちにこい、と誘いながら物置小屋に入って行く。俺もそれに釣られ物置小屋へと入って行く。
中へ入ると、相変わらず木生臭い湿ったものが立ち込めていた。ぺちがととととっと、奥のほうへ駆けてゆくのを確かめると、物置の隅っこの方から小さく儚い鳴き声が聞こえて来るのが分かった。それはぺちの娘たち。四匹の可愛らしい子猫たちの鳴き声であった。
しかしその瞬間、俺は妙な違和感を覚えたのである。物置小屋の中は真っ暗で何も見えない。だが、鳴き声だけが妙に室内に響き渡る――
「そうか、屋台がない! おじさんの屋台がないからだ!」
おじさんの屋台は消えていた。屋台を引いていないときは、いつも物置小屋の中にしまってあるはずなのに。
紗希ちゃんが消えた。屋台も消えた。
俺はすぐさま物置小屋の中から飛び出してご近所中を駆け回った。それでもまったく見つからなくて公園や学校、近くの工事現場や原っぱなどを探し回った。
しかし屋台も紗希ちゃんも、どこにも見当たらなかった。
「こんなところまで来ちゃった……」
俺は途方に暮れた。なにせ一生懸命、形振り構わず探したおかげで、まるで知らない場所――学区外の未開の場所まで来てしまっていたからだ。
そこは当時、住宅もなく、幹線道路も引いてなくて、ぼうぼうと芒ばかりが生えそろっていた。真っ暗で音も吸い込んでしまうような未開の場所。耳を澄ませば遠くのほうから車の吐き出す轟々という音がなんとか聞えて来る程度。それと打って変わって、どこからともなく不気味な鳥の鳴き声が聞こえて来る。辺りには人っ子一人いない。人影なんか見ることも出来ない。ただ、生ぬるい風が吹き抜けているような場所だった。
しかしその時、俺の常軌を逸した並外れた嗅覚が何かを察知した。
「さ、さきちゃんがよんでいる――!」
誰もいないはずの未開の荒地を、煙るような、それでいて心の中を撫でくすぐるような優しい香りが駆け抜けてゆく――。
俺は、その香りに導かれるまま歩みを進めた。さきちゃん。さきちゃん。さきちゃん。ああ、紗希ちゃんの匂いがする。あの優しくて可愛らしいさきちゃんが、匂いで“僕”を呼んでいる。
そこは、もう誰も使っていないくたびれた倉庫の一角であった。吹きっさらしのボロボロの廃屋。壁から何から見るも無残に穴だらけ。大型のトラックが裕に二台は入れるような大きな建物。生暖かい風が月の照らす方角から雪崩れ込むように吹きすさぶたびに、酸化した機械油のような匂いが俺の鼻先をこれでもかってくらい厭らしくもてあそぶ。
俺は、恐る恐るボロボロの倉庫の中へと歩みを進めた。さきちゃんはいる。さきちゃんは絶対ここにいる、という確信を胸に抱いて。
中には明かりが点いていた。裸電球のストレートな光が倉庫内を昼間のような空間に変えていた。
その時だった――
俺がその場所に足を半歩踏み入れたその時に、
「どうしたい? ボウズ」
と、地鳴りのように低い声で呼び止められたのだ。
俺は、いきなり後ろから声をかけられてびっくりしてその場に倒れそうになった。
「こんな場所に何の用だ?」
俺が振り向くと、男が立っていた。ねずみ色の作業衣を着て顔は浅黒い。頭はぼさぼさの見るからにあまりまともそうな感じのしない中年の男だった。
「い、いや、ぼく迷っちゃって……」
その男は、俺の顔を上から下まで嘗め回すようにじろじろと見ると、
「なんだ、そうか。でもお前みたいな小さな子が、こんな真っ暗になるまで遊んでいちゃいけないな」といって、ニヤけた笑みを浮かべた。