最七章 告白:その七杯目
俺はあの日――
そう、紗希ちゃんとラーメン対決をした土曜日の午後。彼女との約束を破ってしまったことをひどく後悔して落ち込んでいた。紗希ちゃんに合わす顔がない。紗希ちゃんに謝る言葉が思い浮かばない。そればっかりが脳裏を過ぎっていた。
無花果がたわわに実り始めた秋口の夜、その事件は起こった。いや、もう事件は起きていた。
俺は紗希ちゃんに謝ることを決心し、泣きながら彼女の家に足を向けていた。しかし、それでも何か戸惑いがあって、玄関の真正面から赴く事ができなかった。
夕暮れは過ぎ、辺りは闇に閉ざされつつあった。庭の無花果の木も寂しそうにぽつんと佇んでいる。
俺はこっそりと裏へ廻りこみ、小さな物置小屋が設えてある庭へと足を運んだ。紗希ちゃんは怒っているだろうか? 紗希ちゃんは許してくれるのだろうか? そんな思いが俺のこそこそとした態度を作り上げていた。
電気は点いていなかった。俺はガラス戸越しに家の中を覗き込もうとしたが、曇りガラスに阻まれ、それが出来ないと分かりあきらめた。だから勇気を振り絞って、こっそりとガラス戸を開けてみた。すると、いきなり紗希ちゃんの可愛がっていた白黒猫の“ぺち”が家の中から飛び出してきた。
俺は驚いてその場に尻餅をついた。ぺちは何かを訴えかけるように「にゃあ」と鳴いた。俺は突然の不安に駆られ、急を要するように立ち上がり紗希ちゃんの家の中へと飛び込んでいった。ズックを投げ出すように脱ぎ、縁台のヘリの部分に膝をぶつけながら紗希ちゃんのもとへ駆けていった。
しかし、紗希ちゃんは見当たらなかった。小さなちゃぶ台の置いてある茶の間の中にも。殺風景なほどガランとした寝室の方にも。色々な道具や食器が所せましと積み上げある台所にも。
紗希ちゃんはどこへ行ったのか? 紗希ちゃんはどこに隠れているのか? 焦りは俺の心にひどく尖ったナイフのようなものを形成し始めていた。
その時だった。台所と隣り合わせのお風呂場の方から、小さく震えるようなかすれた声が聞こえて来た。俺はその声に導かれるようにお風呂場へと飛び込んでいった。すると、
「お、おじさん……!!」
そこにいたのは紗希ちゃんではなく、紗希ちゃんのおとうさん――おじさんだった。
おじさんは木で出来た浴槽に上半身を預け、うな垂れたまま突っ伏していた。よく見るとお腹の辺りから赤くドロドロとした血が噴き出している。
「おじさん! おじさん! だいじょうぶ? ねえ、おじさん!!」
俺はおじさんの肩に手を当てて懸命に呼びかけた。すると、おじさんはもう口を動かすのもやっとのような声で、
「さ、紗希が、……紗希が……」
と言い残して動かなくなってしまった。
俺は恐怖した。生まれて初めて人の死を目の当たりにした瞬間だった。突然動かなくなる人の体。何を呼びかけても答えてはくれない意識と心。涙、涙、涙。俺の両目からは涙が溢れ出してくる。そして今まで知り得ることのなかった体験に、止め処ない絶望感と恐怖感が催して来る。
しばらく動かなくなったおじさんの体を抱え座り込んでいると、突然俺の頭の中にある言葉が駆け抜けてくる。
「紗希が……紗希が……」
おじさんの悲痛に満ちたその声。何かを俺に訴えかけているようなその死ぬ間際の言葉。遺言。そのおじさんの言葉が、俺の胸の中にあるギラリとしたものに拍車をかけた。
俺はその場ですっくと立ち上がり、ある意を決するのであった。「さきちゃんをさがさなくちゃ」