最七章 告白:その六杯目
「り、理由ですか? そ、それは、あの……」
神谷警部補の唐突な質問は、俺の心の中の屋台骨を今にもへし折ってしまうかのような勢いがあった。何という会話。何という刑事。何というボディブロウだろう――。
実のところ、俺自身が一番その質問の答えを知りたかった。いや、『黒いもの』の動機がまったく解からぬわけではないのだが、あまりにも――細かい経緯――時、場所、時間は記憶の闇の中なのである。つまり、俺の閲覧可能な記憶の中には、俺の中の『黒いもの』の明確な動機というものが、見当たらないのだ。
俺の中の『黒い存在』が引き起こした殺人であるなら、俺のこの目で見、肌で感じていたに違いない。しかし、俺からの視点では容易に閲覧出来ないのである。そう、軽々とその経緯などを測ることが出来ない状態なのだ。
それゆえに、俺の中の『黒いもの』が歴代の彼女たちを殺した動機の核心を語るのが一番のネックだということだ。
俺は確実に“殺された”六人の恋人たちを愛していた。確実に愛していた。彼女たちが俺の目の前から消えた後でさえも、立ち直るまでにかなりの時間を要した。少なくとも今でも愛していると言える。
だが、彼女たちや紗希ちゃんが、昨夜、一致団結して教えてくれた一連の状況を鑑みても、さらに唯一互いの記憶のアクセスポイントが一致する記憶の強制の映像の中の出来事から鑑みても、俺の中の『黒いもの』が彼女たちを殺したという事実からは、逃れられない。
したがって彼女たちは、俺が黒い記憶の真実を思い出した時に、殺されたと言えるのだ。間違いはない。
あの記憶の強制から、完全に再生されたビジョン。完全に復元された真実。あの惨憺たる光景。事実。陰惨で、陰鬱で、惨忍で……、二度と遭遇したくない真実の光景を思い出した瞬間に、彼女たちは殺されたのだ。
なぜあんな事が起きてしまったのか。なぜあんな目に遭わなければならなかったのか。
それを目の当たりにした少年期の俺は、心の中に酷く陰鬱で執念深い黒々とした存在を作り出してしまった。
温和で、面倒見がよくて、春の麗らかな陽気のようなほんわりとした、あのおじさんの悲惨な死に際の光景――。
あの茶目っ気たっぷりで、可愛らしくて、まるで天界から舞い降りてきた天使のような存在だった、紗希ちゃんの悲惨な死の結末――。
その陰惨なビジョンが、“ヤツ”の長きに渡る殺人劇の引き金になったのも間違いはない。が、しかし、道理としてはどこか理由に欠けていることがある。ひとことで言えば、まったく意味のない殺人を繰り返している事になる。なぜなら、六人の恋人たちには紗希ちゃんの死も、おじさんの死も関係ないのだから。
――しかし、今までたった一つも汚点を残さず警察にさえマークされなかった殺人鬼が、何の理由もなく人を殺すとは思えない。そして入れ物を同じくして袂を別つ俺でさえ、一様に惑わされる理由は闇の中だ。
そう、たった今俺はこの刑事に質問されたお陰で何やら妙な引っ掛かりを覚えるようになったのだ。そして新たな疑問が俺の中に生まれ始めてきたのだ。――俺の中の『黒いもの』の最終目的は一体何であったのか? と。
神谷警部補の質問はさら続く。
「神奈川父娘殺害事件――。当時、世間はこの話題で持ちきりだった。しかし、その結末がどうなったかは、おまえさんなら知っているだろ?」
「え、え、ええ……。一応犯人らしい人が浮かび上がりましたが、結局未解決のまま時効が来たんですよね」
俺が何食わぬ顔で答えると、神谷警部補は一段と熱い眼差しで睨みつけきた。
「さすがにその事は知っているよな。殺された小野田紗希という女の子と大の仲良しだったのだから当然の事だよな。……当時容疑者として浮かび上がったのが三好権蔵。小野田新吉の残したノートの中に、窃盗団の仲間として記されていた男だ。しかし当時の警察は、マスコミ関係に小野田新吉が窃盗団の一味であった情報を流していない。もちろん三好権蔵についても同じだった。ただ、その後日死体となって発見された三好権蔵の着ていた衣服の胸ポケットに、“自らが犯人である”という意味の内容のメモ書きが添えられていた。だからヤツが容疑者として挙げられた」
「え、ええ……、僕もそういうふうに報道されていたと記憶しています」
「しかしだな」
神谷警部補はそう切り出すと、今度は力強く息を吸い込んで、
「三好権蔵は、鈍器のようなもので後頭部を殴打され、海岸近くの道路で倒れていたところを発見されたわけだが、犯人を特定できるようなものは紙切れ以外、何一つ残されていなかった。当然といえば当然だが、当時の殺害現場は今よりももっと未開で、目撃証言を取るものやっとだったと言われている。つまり、その時点で迷宮入りに足を突っ込んだ状態だったというわけだ。結局その後も、三好権蔵を殺した人間を割り出す事は出来なかった。まったくと言っていいほど足取りがつかめなかった。なぜだかわかるか?」
目の前のベテラン刑事は、そういって俺の顔をじっと見つめた。そして獲物を追い込んだ猛禽類のような迫力で言い放った。
「当時の警察は、犯人を――三好権蔵を殺した人物像を、はなから大人の犯行だとだと断定していたからなんだ」
その時、取調室の四角いスペースに一陣の風が通り過ぎたような気がした。まるで大海原を切り裂くような風。鋭く切り込むような風。烈風――。
神谷警部補は少しも澱みを感じさせない声で迫ってくる。
「そしておまえさんはその犯人が誰か知っている! その犯人が誰なのか知っているからこそここにやって来たのではないかね!? どうだ、ちがうかね?」
何ともはや……。
この目の前のベテラン刑事の読みというものには、たびたび驚かされる。最初から神谷警部補は、俺が何かを告白したくてここに来たんだと睨みを利かしていたようである。何かを探るように。何かを掘って掘って掘りまくるように。
多分それは、この人なりの“おじさん”への敵討ちみたいなものなのだろう。まさか、あんな昔の事件の犯人捜しにこだわり続ける人がいるなんて。時効が過ぎた事件の犯人捜しにこだわり続けていた人がいるなんて。俺はどこか嬉しいようで、とても信じられない気持ちになった。
そうだ。この人もおじさんのラーメンをこよなく愛していた人なのだ。だから警察という職業畑に身を投じたのだろう。実直で優しくて、どこか共感出来る者同士だからこそ、ここまであの事件を掘り下げてきていたのであろう。
だから俺は、そんな神谷警部補の生き様に畏敬の念を込めてこう言わざるを得なかった。
「そうですよ。よく分かりましたね。その三好権蔵という人を殺したのが、僕です。子供の頃の僕なんですよ」