最七章 告白:その五杯目
神谷警部補の言葉が途切れると、一瞬、精霊が通り過ぎたような間があった。目の前のベテラン刑事は少し間を置いて、軽く首を回しコキコキと音を鳴らしながら、
「小野田新吉という人もそうだった」
と、言って無骨なスチール机の上に腕を置いた。「小野田新吉という人を知っているね」
俺はその名前を聞き、咄嗟に身構えてしまった。おのだしんきち。小野田新吉。おのだ。小野田――。
俺は、同じ小野田という姓を名乗る人を知っている。知っているのは、おのださき――。
紗希ちゃん。小野田紗希。つまり、小野田新吉とは紗希ちゃんのおとうさん。あのおじさんの事なのだ。
「し、知っていますよ。もちろん……。もちろんですよ。短い間でしたが、とてもお世話になった人ですから」
神谷警部補は続ける。
「その人も私と同じだったんじゃないかな。そう思うんだよ。ひと世代、ふた世代前は職人としてはとても優秀な人が多い。何しろ一途だったからねぇ。……しかし生き方にとても不器用で。そんな職人気質の人が職換えをするというのはとても勇気がいる時代だった」
俺は、神谷警部補の言っていることが何となく分かるような気がして小さく頷いた。「つまり、転職の事ですか?」
「そう、今で言う転職というやつだ。しかし、小野田新吉という人は貧しいながらもとても美味しいラーメンを出すということで、うちらの近所中ですぐさま有名になった。それは職人として転職に成功したという事だな。私も当時大学生になったばかりだったが、アルバイトで稼いだ小遣いを握り締め、夜な夜なあのラーメンを食べに行ったものだ。二度、三度駅前で店を構えている時に食べただけだが、私にとってもあの味は忘れられない思い出だ……」
神谷警部補は、ふっと目の光を遠くにかざしたかと思うと、途端に見開いて、
「しかし、その数日後……突然、あのラーメン屋台のおじさんが殺された、と聞いた時には、私もショックを隠せなかった。あの優しそうな、実直そうなおじさんが……なぜ、どうして、殺されなければならなかったのか――? 私が事件というものに興味を抱いて、警察に入ろうと決心したのも、あの出来事がきっかけだった」
俺は、神谷警部補との意外な接点を耳にして、やおら込み上げてくる興奮を隠せない。
「まあ、私のよもやま話は余談だが……。当時、いや、その六年前――小野田新吉さんが殺される六年と二月前に遡る。と、同じ神奈川県内で大それた押し込み窃盗事件があった。その事件はあの当時、世間を騒然とさせるほどのものだった。――ある富豪の母屋にあっと言う間に押し入り、大金庫の中から金品、宝石の類いまでごっそりと持ち去っていった。今の貨幣価値にすれば、マンションが東京の一等地に一棟まるのまま買える金額だ。おまけに犯人は母屋の寝室に寝入っていた主人と奥さんを刺し殺し、そこ居合わせた二歳ちょっとの赤ん坊を連れ去っていった。物騒すぎる。とにかく冷酷無比だ、と当時の人は口々に言葉を並べ立てたものさ。テレビの普及が当たり前になってきた時代だから、どこの家庭でも同じ物に目が行き届くようになった結果なのだろう……」
その時の神谷警部補の顔は、まるでどんな恐れからも勇気を辞さない完全無欠たる生き字引のような表情だった。そして突然ふっと我に返った刑事の顔つきに戻ると、
「いや、まあ……そんな靄にかかったじじむさい意見は隅においといて……きっと、犯人は顔を見られたかなんかで主人たちを殺してしまったんだろうな。当時の警察は、……持去った物の量、手口から見て、どう考えても犯人は複数いる、と考えたんだ。さらに、その手口と金庫破りの鮮やかさから見て、かなりの腕前の“鍵師”の存在がいる事をつきとめていた」
そう言って俺の顔を、何か探るような目つきで見据えた。
その瞬間、俺の中にあり得ない戦慄が走る――
「ま、まさか……、その“鍵師”が?!」
神谷警部補は、俺の表情を窺いながら、
「まあ、これは結果論でしかないんだが、小野田新吉の娘、小野田紗希という当時小学三年生だった女の子が、父親ともども殺された現場――つまり、キミのお向かいの家の中から、窃盗に使う道具や、あらゆる事実が記された証拠品が出てきて分かった事なんだよ」
「つ、つまり……紗希ちゃんは、おじさんの本当の子供ではなくて、押し入った富豪の家の赤ん坊だったということですか?!」
「そういうことになるな……」
俺は、神谷警部補の淡々とした喋りに戸惑いを隠せなかった。あれだけ仲の良かった親子にありえない真実。この事実は俺にとって――俺が神谷警部補に頑なに隠し持っているカードより――遥かに衝撃的事実であることは間違いなかった。
「し、しかし刑事さん。おかしいですよ。紗希ちゃんのおとうさん、つまり……おじさんは、まったくの貧乏でしたよ。いつもボロボロの服を着てたし……。そんなにお金を持っているような人にはとても見えませんでしたよ。そんなマンションも建てられるような窃盗団の一味なら、もっと……そう、いい暮らしが出来るんじゃないんですか?!」
俺の動揺を隠せない態度に対し、神谷警部補は、
「それがだな。その証拠品の中に、小野田新吉さんの記した日記のようなものが出てきて、それに関するある内容が書かれていたんだ」
「ある内容?」
「そう」
神谷警部補はそう言って、また一旦間を置いた。
それから何やら天上を見上げ、もごもごと口ごもった声で呪文を唱えるような仕草をすると、
「ところでおまえさんさあ、動機は何なんだい? 若くて活きのいい恋人ばかり殺しちまった理由――?」
「えっ!?」
俺は突然の話の方向転換に妙に腰を折られ、しどろもどろになってしまった。