最七章 告白:その四杯目
紗希ちゃんと、おじさんのあの事件――
あの事件は俺の人生の中に、極度に狂った羅針盤を置き土産にした。その羅針盤は、同じ心を持ちながら、極度に違う方向を指し示し“俺たち”を別のベクトルへと誘って来た。そして俺と『黒いもの』の存在は、互いに人生の枠組みというものを見失い、騙しあいながら存在同士を分かち合っていた。
だが、俺自身が極度に方向を見失った『黒いもの』の存在を知ったのは、いわばつい先日、昨夜の事である――。
「ガミさん……」
しばしの沈黙があった後、突然取調室のドアがノックされ、すぐさま新しい刑事が入って来た。背格好はすらりとして均整が取れ、いかにも活動的な感じの二十代のやり手を思わせる刑事だった。どうやら神谷警部補は仲間内で“ガミさん”と呼ばれているらしい。
その刑事と神谷警部補が、こそこそと何かやり取りをしている。
「何か見つかったのか?」
「え、ええ……、被疑者の言う通りでした。たった今、所轄の方から六人の遺体が見つかったと……。それとこの資料――」
ぼそぼそとした声が、四角いスペースに霞が煙るようにこだまする。本来ならこの俺に聞こえてはならない情報なのだろうが、彼らはさほど気にしていない。それより何か別の事でひどく焦っている様子である。
神谷警部補は入り口で、しばらくその若手刑事とやり取りをしていた。しかし、何かを聞いた途端に神妙な顔つきになり、一旦黙り込むと、新しい資料を手渡されたまま机越しに向かい、無言のまま俺を睨みつけた。
神谷警部補は口をへの字にして唸り込んでいる。さっきやり取りした時より、どこか目つきが鋭い。俺は、目の前のベテランの刑事が言葉を発するまで微動だにしなかった。
「さてな、谷村君……。おまえさんはどうもわからない。そうだ。確かにおまえさんの言う通りだったよ。A郡の山中のほぼ同じ場所に白骨化した遺体が六体。しかも――詳しく調べてみなきゃ分からないが――死亡推定の年代が少しずつずれている、という事だ。少しずつとは言ってもどんな間隔かはわからないが。……まだやっこさんたちは何か出てきやしないかと探索中だよ。つまり、おまえさんはもう立派な重要参考人ってわけだ」
神谷警部補の声のトーンはさっきまでより1オクターブ低くなっている。これは俺がここで供述した事を少しでも認めている証拠だった。さらに神谷警部補は続けた。
「ええと、谷村君。キミは馬海食品の会長の長男坊だったよな」
「ええ……」
「たしか三十年近く前というと、あの会社は横浜のB区の海沿いの町にあったと思うんだが」
「よくご存知ですね。そうです。父が先代から受け継いだ食品流通の細々した商いを手広くやるまでは、B区の海沿いの町にその拠点を設けてました。拠点といっても小さな商店のようなもので、使用人も自転車とバイクに毛の生えたようなもので配達していましたが……」
「知っているともさ。なにしろ私もあの町の出身だからね。あの威勢の良い張り切りオジサン……いや失礼、キミのオヤジさんがいつも若い衆に対して怒鳴りつけながら檄を飛ばしているところをよく見て育ったものだよ」
神谷警部補はハハハ……と、声を出して笑う。しかし目だけが笑っていない。
「確かにオヤジはそういう人でした。でもいつも仕事熱心でなかなか家には帰らない人でした。家と店とは目と鼻の先なのに……」
俺はあの頃を思い出しながら、一瞬子供のような気持ちになった。
警部補は、その俺の表情を見ると、途端に和らぎ出し、
「商売人という人たちはそういうものだよ。我々も商売柄色々な人種を見ているがね。他人の顔色を窺いながら様々な計算をしなくてはならない。どこか警察官と似ているとも思えるね」
「家に帰らないというところもですか?」
「まあね。そういうところもなくもない。だけど私もキミのオヤジさんと一緒で、この世界が好きだ。というより、私はどちらかというと古い方の人間なものだから、一度入り込んだ世界からなかなか足が洗えんのだよ。今の若い人たちのように器用には立ち回れんのだ」
「それは若い世代が無責任とおっしゃりたいので?」
神谷警部補は、口の端の方を軽く持ち上げてニヤリとすると、
「いやまあ、キミの世代から比べりゃ今の十代、二十代の連中はそう思えるだろうね。だが、私から比べればキミらだって同じようなものさ。そう思いながら人間は歳をとって行くのだろうね」
俺は徐々に目の前のベテラン刑事のペースに嵌りつつあった。しかし、彼は何を言いたいのだろう? 何を俺に言わせていのだろう? という思いもどこかに抱き始めている。