第1章 会話
1 会話
「なあ、地図ではどうなってる? 確かイチサンヨンをここで左に曲がって、イチコクを突っ切るはずなんだけどな」
「え、え、えっと……ちょっと待ってね。ここが国道一三四号線だから……ええと、国道一号線は……」
助手席の麻美子は、慣れないロードマップを広げては折りたたんだりして悪戦苦闘中だった。しかし俺は、そんな彼女の手にしているマップのタイトルを横目見て、今まさに世にも恐ろしい事件を目の当たりにしてしまったかのような驚倒の声を上げてしまう。
「な、なに見てんの! それ東北六県の地図だよ」
すると、
「えっ? ここって東北じゃないの?」と、麻美子は有り得ない事を言う。
俺は半分笑みを浮かべ、半分頬の筋肉をヒクヒク引きつらせながらいつものように優しさを全面に押し出した。「ここ……か、神奈川だよ、湘南だよ!」
「え、え、え、ええっ!? ここってカナガワ、なの?……カナガワって、確か横浜県にある?」
「横浜ケンって、それ……」
「え……ちがうの?」
語尾を高めて言う彼女。いたって真剣らしい。しかし、こんな事は毎度であるがゆえに、いちいち驚いてはいられない。
「麻美子、無理しなくていいよ。お、俺が勘で探すからね」
「ちょ、ちょっと待って! あたしが食べたいって言い出したんだから、そのくらいナビゲートさせて!」
こんな麻美子でも、責任感だけは人一倍なのだ。言い出したら止まらない。
「あ、ああ……。でも無理するもんじゃないよ。あんまり車の中で地図見ていると気分が悪くなって、後で食欲をなくすからね」
俺は、まるで子をあやすかのごとく満面の笑みをくれてやる。すると彼女も、
「うん。ありがとう良彦さん」
などと、ころりと態度を変え、ふわりとした表情を返してくる。
俺たちのドライブは、こんなカラメルソースより甘くほろ苦い会話を交わしながら果てしなく続いてゆく。
俺は、なけなしの安月給で買った中古のセダンを、伊豆方面から東京方面へと走らせていた。
助手席には、最近付き合い出したばかりの十二才も年下の彼女、春日麻美子が、ロードマップと押し合いへし合いしながらはしゃいでいた。ハタチそこそこの水際立った容貌は、いつどんな時の情景でも光り輝く天使のように感じさせる。
彼女は、いつも何かと世話好きで、歳の離れたこの俺に一生懸命、心置きなく接してくれている。たびたび抜けているところも見受けられるが、気は優しくて人なつっこい。なんと言っても、この笑顔が憎めない要素の一つなのだ。
おまけにモデル並みというほどではないものの、どこそれの会合に連れて行っても胸を張って自慢したくなるような女性特有の可愛らしさが特徴的だ。まあ、これが彼女の最初にして最後、最大の武器と言ってもよい。
こんな甲斐甲斐しくも、猫可愛がりしたくなる麻美子のためにも、最新のナビゲーションシステムのひとつも買ってやりたいところ……だったのだが、そんな金銭的不条理を、俺の心の財務省が許すはずもない。俺の稼ぎでは、マンションの家賃の支払いだけでとてもとても……
しかし、
(いささか戸惑い気味の麻美子の姿を見るのも、悪くないよな)
それが正直な考えでもあった。これはオヤジ化現象のはじまりなのだろうか?
俺たちは昨日から、古来よりのお決まりのコース――湘南から伊豆、そしてまた湘南――をひた走ってきた。お陰さまで、彼女との初のドライブは大成功だった。初夏の贅沢な風と、黄金に輝く太陽の光を存分に浴びて、俺たちは思春期の頃の清々しい気分に帰っていた。いや、少なくとも俺はそう感じていた。彼女の幸せ有り余る笑顔を見れば、そう感じざるを得なかったのだ。
俺は、彼女を見ているだけで幸せな気分になっていた。車という高い買い物はしたが、決して高くは感じていない。
だが、男としての――人生の、ほんの一部のわずかな優越感に浸っているその時に、その事件の幕は上げられた。
後悔しても後の祭り。いや、これは必然的に引き寄せられたと言っても過言ではない。
しかし――
麻美子のあの一言が、陰惨で、陰鬱で、なんとも嘆かわしい俺の記憶の呼び水になろうとは、ゆめゆめ想像出来るものではなかった。
お天道様が西の方角の山すその彼方に沈みかけてゆく。カラスの子供たちも、そろそろ帰り支度をしようとそわそわし始める――そんな時刻だった。
「夕食はもちろん一緒に食べるだろ?」
そろそろ腹の虫でさえもが鳴き出しそうである。俺は、いつものように何気ない口調で麻美子に問いかけた。
「うん。でも、今日はみんな良彦さんに出して貰っちゃったし、このままでは悪いわ。せめて夕食くらいあたしにご馳走させてね」
麻美子は、にこやかに“しな”を利かせた表情で答えてくる。亜麻色の滑らかな長い髪が、夕日に透けて煌めいている。
「で、でも、それじゃあ――」
男の甲斐性というものがですね――俺は、そう言いかけてやめた。今はそんなことを言っている場合ではないのだ。
「あたしね、持ってきているのよ。ガイドブック」
「もしかしてラーメンの?」
「そうよ。あたし達のガイドと言ったらラーメンだわ。これ最新号なの。良彦さんはもう読んだ?」
「いや、まだだけど……」
そりゃまだだ。
ここのところ何かと出費がかさんで、趣味のラーメン食べ歩きどころではなかったのだ。ガイドブックも見る余裕も買う余裕もあるはずがない。俺は咄嗟に財布の中身と男のプライドを上皿天秤に乗せてみた。が、当然のごとく結果はプライドの惨敗だった。俺は言いだしっぺのくせに、思わず「うん」と答えてしまっていた。
「ラーメンじゃイヤ?」
麻美子は怪訝な眼差しで見つめてくる。まるで子供みたいに透き通った瞳で。
「ま、まさかぁ……」俺は慌てて取り繕った。
「だって良彦さん、顔が引きつっているわ」
「ば、ばかだなぁ。これは喜んでいる顔さ。きっと夕日がルームミラーに反射してそう見せているだけだよ」
よかった……彼女はそういって、またにっこりとした表情に戻る。
さすがに四人姉妹の二番目というだけはある。人の顔色を窺う観察眼には極力長けている。俺は、こういう彼女の繊細な気の遣いに惚れたのだが、時々鋭すぎるので慌ててしまう事がある。
「この本によるとね、とても美味しいラーメン屋台があるんですって」
「ほう、いいね。屋台ね」
俺は、裏の表情を読まれないうちに麻美子の話題に乗りかかった。
麻美子は、熱のこもった瞳で俺を見据えながら、女性特有の甲高い声のトーンを、より一層高くして話し掛けてくる。「この本ではもの凄く良い言葉で絶賛されているわ。それに星が五つですもの」
俺も彼女の元気有り余る軽快なリズムに呼応する。「そいつぁ凄い! 五つ星はなかなか出ないんだよな。そのガイドブック何てったっけ? えーと、『すご腕ラーメン職人あらかると』だったよな」
「そうね、毎回すご腕のラーメン屋さんを紹介している……」
「もう刊行して二十年になるけれど、なかなかどうしていい店紹介するよな」
「それだけじゃないわ」
「言えてる」
「あたし達、この本のお陰で知り合えたんですものね」
麻美子は、そのガイドブックを両腕でしっかりと抱きかかえると、これでもかっていうぐらい愛らしい表情で俺を見つめてきた。俺はその言葉に激しく同意せざるを得なかった。