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(第二話)シャンパンの匂いのする女

「ったく……自分のことは自分でする。自分の欲しい物は自分で手に入れる。自分の物は自分で買いに行くって親に教わらなかったのか?」


そんなことを呟きながら、青白く光る煙草の自販機を睨みつけていた。


もし俺が、フライパンさえも折り曲げることのできる怪力の持ち主なら、この自販機を背中に担いで、あの金髪野郎の眼の前に背負い投げのごとく叩きつけてやるところだ。


この自販機には微塵の恨みもないが、あの金髪野郎をギャフンと言わせることができるのなら、たとえこの自販機をスクラップ工場へと送り込むことになろうと俺の良心はまったく痛まない。


あいつから貰った小銭を入れる前に、自販機を自分の背中にピッタリとくっ付くように立ってみた。背中が熱い。まあ、これは電気が通っているんだから当り前だ。


両手を広げて背負えるかどうか試してみた。後手にしても手は回るから背負えないことはない。


『マジで背負うか?』


本気でそう思ったが、頭に過るものがあった。


そういや、スクラップするにも確か金が掛るはず。


イヤ、その前に、この自販機を弁償しなけりゃならない。


国民年金と、ボロアパートの家賃収入と、この自販機の売り上げだけが生活費なんだと、この自販機の持ち主である八十過ぎのここの婆さんが言っていた。


この飲み屋街の一角に立つ古い自販機。飲んだくれていても煙草だけは吸いたがるオヤジが群がる。その収入はバカに出来ないと、入れ歯が飛ぶ勢いで話し込まれた記憶がある。


背負い投げしてスクラップにしてしまえば、その入れ歯そのものが飛んでくるのは必至。賠償金の発生も免れない。おまけに初代婆さんの生き霊に呪い殺されるかも知れない。


ペナルティが大き過ぎる。


自販機に手を置いて、ため息を振りまきながら首を横に振る。


金髪野郎のニヤケタ顔を自販機に見立て、一度回し蹴りしてから、小銭を入れた。


『いつものヤツな』


いつものヤツ。


マルボロ……


Men Always Remember Love Because Of Romance Only


『男は本当の恋の為に恋をする』


MARLBORO(単語の最初のアルファベットだけを揃えて)


これの意味分かって吸ってんのか?


見かけに寄らずインテリなヤツだから知っているだろうけど……


まあ、知ってようがどうでもいいけど自分の煙草くらいは自分で買いに行けよ。


俺は一応あのバ―のバーテンダーだ。


暇じゃないって言いたい。


あいつがオーナーなら分かりそうなもんだけど。


ほろ酔い気分の女性客が、バ―のドアを開けて、カウンターにくたびれたマスターがいるだけじゃテンション下がるだろ?普通は。


やっぱ、飲み直すバ―には一夜の恋を連想させる男が必要だろう。


どうにかなるわけじゃなくても、それはそれでいい気分になれるならと、男も女も夜の都会を飲み歩くもんだ。



自販機に踵を返して、金髪クソ野郎の待つバ―へと一歩踏み出すと


ドシン


背中に重く、冷たい感触。


一瞬、さっき蹴飛ばした反動で、自販機が倒れて来たのかと思ったが、自販機なら熱を持っていて熱かったはず。


氷水を浴びせられたような何とも言えないヒンヤリとした感覚。


あまりの重量に、身体が動かない。膝が崩れそうなところを踏ん張り、首だけを後に向けた。


シャンパンの香りがした。


香りと言うか、むせ返るほどの濃い匂い。匂いだけで酔いそうな、そんな匂いだった。


耳元がゾクリとした。


「カッコイイお兄さんみっけ!」


「……」


甲高い女の声。


背中に凭れかかっているのは、シャンパンを浴びるほど飲んだ女だと分かった。


「ねえ。お兄さん。その服、バーテンダーだよね。この時間に煙草なんか買いに来て、店、よほど暇なんだね」


暇じゃねえんだけど、空気読めない男がいるんだよ。あのバ―には。


声を大にして言いたかったが、ゴクリと言葉を飲み込み


「そうなんですよ。どうです?このまま、うちに来て飲みなおしませんか?」


「お兄さん……その言い方さ。勘違い女なら、家に押し掛けるよ。ちゃんと、うちのバ―に来てって言わないとさ」


女がコロコロと俺の耳元で笑う。


「ハハハ。よく分かってますね。勘違いしない女は嫌いじゃないですよ」


「そう?じゃあ、わたしのこと好きになってくれる?ってこれって思いっきり勘違い女じゃん」


「面白い人ですね。自分でボケて自分で突っ込むなんて……」


首を後に回したまま、笑いかけてやると

「イヤ―。お兄さん。ホストでも出来そうなくらいイケメンさんじゃない。あと一時間早く、お兄さんと出会っていたらこんなに浴びるほどシャンパン飲まなかったんだけどな」


「そうですね。うちに来て飲んで頂けたら良かったのに。相当飲んでらっしゃるでしょ?」


「うん。飲んだ。フラフラで歩けないくらい飲んだの」


「じゃあ。サービスとして、このまま、背負ってうちのバ―まで運びましょうか?」


「いいの?」


「はい。ここに捨てておくわけにも行かないですし、この自販機には煙草を買いに来る酔っ払いが多いんですよ。女性がうずくまっていたりすれば、危険です。裏路地に連れ込まれて、何されるかわかりませんから」


「なんか……お兄さん、優しいね」


「いえいえ。普通ですよ」


どれほどこの付近にいたのだろうか?


夏も終わり、朝夕涼しくなってきたこの時期、夜風に当たり過ぎると、身体はこのように冷えるはずだが、それにしても、俺の耳を甘噛みした女の唇はとても冷たかった。


女を背負ったまま、飲み屋街を歩いた。


点々とする寂れたネオン街は、繁華街から外れているせいもあり、飲み歩く人は少ない。


それでも店が成り立っているのは、選りすぐられた店が多いからだ。


飲み歩く人は常連客が多いし、隠れ家として使用する人も多い。それなりにわけ有りな人間が多いのは確かだ。

人の道に外れた関係を持った男女のカップルが利用すれば、文字どおり隠れ家だ。


背中の女は……


どこか、寂しげな女だった。


前に回された腕の左手に目をやると、薬指に指環がなかった。


それを外した白い痕さえ残っていない。


白くて綺麗な指先だった。


人の道に外れた……


そんな匂いのする女だった。


この商売の悪いところは、こうして人が分かってしまうところだ。


ヤクザの女だったり、水商売の女だったり、この女のように、不倫に疲れた女だったり。


そんな女たちの過去を勘ぐるとキリがない。


子供を置いて逃げてきたとか、十代の時に家出したままだとか、若い男に貢いでいるとか……


この世の不幸が混じりあって、この寂れたネオン街を作り出すのかと思うと皮肉に見えてくる。


欲にまみれ、それだけを追い求め、ガムシャラに走ることしか出来ず、後を振り返り何も残していない自分に気付いても、それでも走り続けることしか出来ない哀れな人々。


そういった匂いを纏う人間を直ぐに嗅ぎ分けられる商売だが、その分、誰より優しい言葉を見つけることができる。


そんな世界に俺は永年住み続けている。


「少し、酔いが覚めましたか?」


「うん。お兄さんの背中が気持ち良くて眠ってしまいそう」


冷たい息のまま、女はそう呟く。目を閉じているのが見なくても分かるほど、さっきより声に力が無い。


「寝ていいですよ」


「アハハ。男に寝ていいですよって言われたの初めてだ。寝ずに俺を楽しませろってばかり言われていたから

な」


「それは酷い男ですね」


「ねえ。お兄さん聞いて。わたしさ。その酷い男しか知らないんだ」


目が覚めたのか、急に声は弾み出した。


「一人? 今時珍しいですね」


「そうでしょ? 珍しいでしょ?わたしね。そいつと十九からずっと付き合ってたの」


「十九?」


「そうよ。田舎から出てきたばかりの右も左も分からない女だったの。そんな女をさ、妻幼児付きの冴えない男が騙してさ……酷いと思わない」


「それで、なん年、付き合ってたんですか?」


「十年」


「十年?」


「そう。十年間ずっとその男しか知らずに生きて来たの」


「一途ですね」


「だって、その男と結婚するつもりでいたから」


女の声がまた、弱弱しくなった。


結婚するつもりでいたから……


真面目な女らしい。


一途な不倫……過去形が全てを物語る。


可哀そうな女だと同情するのは容易いが、その後の反動が女を余計に傷つけることになる。


「僕の勤めるバ―はもう直ぐです。この後の話は、バ―で伺いますよ」


「わたしの話を聞いてくれるの?」


「ええ。何時間でも付き合いますよ」


「お兄さん、いい人だね。やっぱり、あと一時間早く、お兄さんに出会ってれば良かったな」


「僕もそう思います。どこのバ―で飲んだか知りませんが、ドンペリ、高かったでしょう?」


「分かる?ドンペリを飲んだこと」


「はい。匂いで分かりますよ。身体中から香りが漂ってます。僕もバーテンダーの端くれですからね」

「お兄さんは……この匂い嫌い?」


「いいえ。好きなほうですよ」


「そう。良かった。お兄さんが好きなら……嬉しい。あの男ね。酒を飲む女は嫌いだって飲ませてくれなかったの。自分は酒飲みの癖にさ……まったく女をバカにしてるヤツだった」


「そうですか……つまり……その男性と今夜は一緒じゃなかったってことですね」


「二時間前には一緒にいたんだけどね……でもね。その男と別れちゃったんだ……」


そう言って、女は俺のウナジに頭を付けて泣き始めた。


鼻を啜りながら泣いている。


「エッエッ……それでね……ヤケ酒ってヤツをさ。エッエッ……」


女を背中から降ろして慰めることもできたが、背負ったまま、休まず歩き続けた。


「息子がね……中学に入学するまで待ってくれって……そいつが言ったんだ。おめでたいわたしはその言葉を信じてずっと待ってたの。それで、息子が中学に入ったと思ったら……今度は下の娘がって言い出したの。その子、まだ、三歳なのよ。こっちから水をぶっかけて別れてやったんだ。バカでしょ?楽しい盛りの二十代をその男に捧げちゃった。もっと割り切って遊べば良かった。勿体ないと思わない?」


「そうは思いませんよ。三十代になって、急に美しくなる女性もいますからね」


「そうなの?」


「ええ。たくさん知ってますよ。そのような女性を。離婚して美しくなる女性もいますし」


「そう……やっぱり、お兄さんと、あと一時間早く出会いたかったな。その慰め言葉を早く聞きたかった。こん

なに高いシャンパンを浴びることもなかったのに……」


そう言いながら、また、俺の背中に顔を押し付けて泣き始めた。


何も言わず、女を背負ってバ―のドアの前に立った。あの自販機から随分と時間が経った気がした。


「あと一時間早く、お兄さんに会いたかった……」


蚊の鳴くような小さな声で、俺の耳を甘噛みしながらそう呟いた。


性的なアピールのように思えた。


そんな女の仕草を振り切るように


「ここが、僕の勤めるバ―ですよ」


そう言って振り返ると、急に背中が軽くなった。


女が、自分で俺の背中から飛び降りたようだった。


ずっしりとヤケに重く感じていた背中が軽くなり、ジワジワと身体が汗ばんできた。


しゃべり続けたせいか喉もカラカラだった。


「キンキンに冷えたミネラルウォーターを御馳走しますよ」


ドアを開け、女をバ―の中へと促すように後を振り返ると……


女が居なくなっていた。


バ―の両となりには街燈が点いているので辺りは非常に明るい。


なのに、女の姿が見当たらない。


どこに行った?


「……」


この場所から、一直線上にあの煙草自販機の灯りが見えるのだが女の姿が見えない。


「……」


すると、大通り方面から常連客のキャバクラ嬢のマホが走り寄って来た。


「キャー!タモツさん」


相変わらず派手な服装をしていた。


前にニューハーフと間違えられたと言っていたが、このファッションセンスのせいだ。


「マホさん……久しぶりです」


「久しぶりにタモツさんの顔が見たくなったの」


「嬉しいです。久々ですから今夜はサービスしますよ」


「嬉しい。タモツさんはそれだから好きよ」


そう言ってマホが俺に飛びついて来た。


するとマホが、つけマツゲをパチパチさせながら鼻をクンクンさせる。


下品な仕草に目を逸らした。


「あら?シャンパン?」


「ええ。さっき、ここにいた女性が……」


逸らした目の先のドア。


アスファルトの上に水たまりが出来ていた。


たった今、溜まったばかりのような水たまり。


身体に寒気が走った。


「そうそう。シャンパンと言えば、聞いて、聞いて。そこのホテルで飛び降り自殺があったらしいわよ」


「飛び降り?」


「うん。ちょうど一時間前だって。若い女性だったみたい。なんでもシャンパンを身体に浴びて、飛び降りたら

しいわ。今、その場所通って来たんだけど、辺り一面にドンペリの匂いが充満してたわ」


「シャンパンを……?」


「そっか。わたしがその場所を歩いて来たから、今、ドンペリの匂いがするのね。匂い、身体についちゃったかな?」


そう言って、腕を鼻に当て自分の身体を嗅ぎ始めた。


飛び降り……自殺。


一時間前?


「タモツさん、打ち水でもした? 水がたまってる。ここ一週間雨は降ってないもんね」


マホが水たまりを避けながらバ―の中へと入って行った。



『あと一時間早く、お兄さんに会いたかった……』

女の声がリフレインした。


夜空を見上げて

「僕も早く出会いたかったです」


そう呟いて目を閉じ、胸に手を置いた。


寂れたネオン街を風が吹き抜け、充満していたシャンパンの香りを根こそぎ、さらって行った。




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