(第一話)結婚したい女
某サイトの有名漫画キャラを絵師様からお借りして書かせて頂いている小説です。
短編読み切りオムニバスとして書いて行こうかと思います。
佐倉華子、三十歳。
まあ、世間で言う微妙な年頃。
微妙な年頃……
ひっじょうに微妙な年頃に微妙な話。
若い女子方。
特に中高生の女子方など、どう言う意味合いの物なのか想像すら付かないでしょう。
微妙な年頃に微妙な話とは?
率直いいますと、結婚についてですね。
結婚。
この話題に対して、若い女子方なら声を大にして言えるでしょう。
天にも昇るがごとく、理想は大いに語れます。
例えば、結婚は何歳くらいでしたい?
『う~ん。二十五、六が理想かな』
理想と言うより、その年になれば、誰でも結婚出来るものとふんでの返答なんです。
何気に語ったこの言葉。
結婚に憧れる女性ならごく、普通の返答だと思いますが……
三十女はこの普通の返答が出来ないことにお気付きでしょう。
三十女は……その理想年齢から5年も年を過ぎています。
ここで息を飲んだ若い方々。
年をとると言うことは、誰にも平等に訪れます。
だから、哀れんだ眼で見ないで下さい。
三十女にも、やはり、平等に、中高生時代と言うものが存在し、このように、理想を大声で発していた頃もあったのです。
夢を見ていたのです。
その理想年齢を軽く超えてしまった今、どうしようもありません。
周囲に与える微妙な空気は、自分で吸って酸欠を起こしかねないのです。
寄って、この質問or返答を求めることは三十女の前では、ご法度です。
三十女はそう理想を語っていた過去を遠い目で振り返ります。
『う~ん。二十五、六が理想かな』
こう言っていた自分を悔やみます。
若い女子方に申します。
四年制大学卒業時には、すでに22歳になっていますので、この時点で、相手の男性がいないと、アウトなのです。
同年代が溢れ返るこの大学と言う枠組から外れると言うことを今後、頭に叩き込んで頂きたいのです。
人間、縁と言うものが有ります。
結婚と言うものは、この縁が無ければ成り立ちません。
そうです。もし、この時点で、相手がいない場合、就職した先で、その縁が求められるのです。強調します。(就職先で、その縁が求められるのです)
オバサンでも知っている名前の有名大会社に就職出来ればまあ、その縁は星の数ほどあるでしょう。その星も選りすぐりばかりなのは間違いありません。
ですが、もし、その就職した先が既婚者率100%の男性or女性しかいない場合、どうなるでしょう?この就職氷河期にやっとの思いで内定を勝ち得た先が、このような職場だとしたら……
同年代が溢れ返っていたあのキャンパスを一度出てしまえば、このような現実を突き付けられるのです。
就活時に考えることは、何ですか?
そこそこに名の売れた会社。そこそこのお給料。そこそこに保証された有給休暇。厚生年金、社会保険の加入……
同年代(結婚適齢期社員)の有無を考えますか?
結婚適齢期社員男何名、女何名と求人票に書かれていますか?
初出勤して気付くのです。
ここは……人生の墓場かと。
眼の前に座る小太りの社員も、隣に座る髪の毛が薄い社員も、少し大き目のデスクに座る偉そうな支社長も全て五十過ぎの、どう考えても恋人対象外の人物しかいないのです。
明けても暮れてもこの事実は変わらないのです。
ため息さえ付けずにモクモクと慣れない仕事をするしかないのです。
どんな職場でも、一人前に仕事をこなすには、最低三年は掛ります。
どうです?この時点で既に二十五歳です。真面目に仕事だけに打ち込んで、一人前になった年は、二十五歳です。
後、一年で、理想年齢到達です。
三十女はここで、もう一度、過去の自分の言葉を振り返ります。
好きなタイプは○トゥーンのK君。
身長は175CM以上。
年収は1000万円位が理想。
どこいるのでしょうか?
このような男性が。
大きなため息をついて、会社内を見渡します。
もしかしたら、幻が見えるかも……
見えるはずも有りません。
自分のデスクの上に、小さなK君の切り抜きを挟んで、時折目の保養をしています。
こんな環境に就職した三十女を心配してくれる女友達が何人かいました。
合コンって言うヤツです。
女友達が、誘ってくれた合コンは、確かに選りすぐったものでした。
公務員、大手電力会社社員、銀行員、警察官……
堅い職場の方々ばかりでした。
その中で、女友達の強引な勧めもあって、警察官と付き合うことになりました。
ご存じの通り、警察官に休業は有りません。
地域の安全を守るお役目の方に日曜や祝日は存在しません。
二十四時間勤務の後、二日休み。
土、日曜、祝日が休みの三十女です。
当然すれ違う日が多く、デートする時間も限られました。
一週間に二日会える日もあれば、一日も会えない日も有りました。
そして……付き合い始めて三カ月が経ち、彼の移動が決まりました。
元から、地域内の官舎に住んでいた彼でしたので、移動と共に車で三時間掛る場所に移り住むことになりました。
彼は言いました。
結婚してくれと。
今まで、二十五年間地味に生きて来た三十女に取って、これほど岐路に立たされたことは有りませんでした。
付き合って三カ月。
この時点で、デートの回数はたったの十回。
最初の五回目で身体を許したので、それから以降は無謀なエッチに明け暮れただけでした。
相手が好きなのかと疑問に感じていた矢先でもありました。
でも、相手は真剣でした。
「それでどうなったんですか?」
低くて、耳触りのいい声が耳元で囁かれた。
右頬がヤケに冷たい。静かなバックミュージックが鳴り響いている。
どうやらわたしはバーのカウンターで寝ているようだ。
薄く眼を開くと、まるで、オニキスのような瞳をこちらに向けたバーテンダ―の姿があった。髪をキッチリオールバックに決めて、真っ白なシャツに、黒のベスト。ジバンシーのロゴが入った細身のネクタイに、趣味のいいパールをあしらったネクタイピンがスポットライトを受けてキラリと光っていた。
ホストかモデル並みの容姿を持ったバーテンダーに吸い寄せられるようにこのスツールに座った。
久しぶりに出て来た都内で、偶然、フラリと入ったレトロ風のこのバ―に、わたしの理想とする男が、ツンと澄ました表情で軽やかにシェーカーを振っていた。
「入ってまだ、三日目なんです。よろしくお願いします。お近づきの印です」
何もオ―ダ―していないのに差し出されたピンク色のカクテル。
「もしかして、サービス?」
「はい、楊貴妃です。美味しいですよ」
ここに来るまで、大学時代の女友達四人と女子会を開いていた。
KOホテルのカクテルバー。三時間カクテル、ドリンク飲み放題の上、ホテルのコース料理が付いて六千円。割安で、料理も美味しくて、上機嫌だった。
そう……みんなの近況報告を聞くまでは。
「KOホテルの楊貴妃はブルーだったけど」
「当店では、男性にはブルーを女性にはピンクを出してます」
上品に微笑んだ顔は、女性は特別なんですよと訴えているように見えた。
乳白色掛ったカクテルをチロリと舐めた。
「美味しい」
「美味しいものがお好きですか? とてもいい表情してます」
二コリと微笑んだその顔は、例え営業用スマイルでも、ときめくものだった。
入って三日目。
これが、もし、入って一年目なら、このバ―、こんなに空いていないはずだと辺りを見渡した。
「彼、いいでしょ? 前に居たバーテンダーが、イマイチでしてね。そのお陰で随分客が遠のきました。彼なら、この先挽回してくれると信じているんですけどね」
マスターらしい老人が、カウンター内から話しかけて来た。
絶妙……
この目の前に立つバーテンダーのことだ。
絶妙なタイミングで、次のカクテルのオーダーを聞く。
絶妙なタイミングで、綺麗にカッティングされたよく冷えたフルーツを出す。
絶妙なタイミングで、上品な笑顔を向ける。
あなたは、一人切りではありませんよと、言われているようだった。
絶妙……彼は、ベッドの上でもこんな風に絶妙なのだろうか?
時計の針が、日付を越えた。
その時点で差し出されたのは、白い皿に盛られた白手長エビのバジルソース炒めだった。
「小腹が空きませんか?」
確かに、お腹が空いて来た頃合いだった。
こんな出来過ぎた彼の前から離れられない自分が居た。
マティーニ、ギムレット、ホワイトレディ……アルコールの強いカクテルばかりをオーダーしていて、彼が振るシェーカーの音と共に、徐々に記憶が飛んでいった。
絶妙なタイミングで出されたミネラルウォーターをゴクリと飲みほした。
「それから、どうなったんですか? 華子さんのお話、とても興味が沸きました」
「どうなったと思います?」
「そのままついて行かなかったか、結婚して直ぐに別れたか、どちらかだと思います」
「何? そんなにわたしを別れさせたいんですか?一人者にしたいんですか?」
カチンときて、声を荒げたわたしを、軽くあしらうように
「そうじゃないと、こんな時間に僕と出会うことなど無いでしょう」
「……」
「それに、華子さん。独身女性が持つ美しさを保ったままじゃないですか」
「美しい?」
「ええ。華子さんはとても美しいですよ」
先を見越してなのか、このバーテンダーは三十女に言ってはいけないことを言った。
三十女は、こうなるともう……噛みつくとなかなか離れないスッポンと化すんだ。
「じゃあ……今夜、ずっとわたしと一緒に居てくれますか?」
そう言ったわたしの視線をチラリと逸らした。
逸らした先を見ると、四つ離れた席に、長髪を金髪に染め上げ、少し、歪んだ眼鏡を掛けている男が座っていた。長い髪を一つに束ね、どう見ても痛い中年男性だった。
中年+長髪の金髪=世の半端者の公式を身体で現わしていた男性に視線を向けたバーテンダー。
その顎に手を伸ばして無理やりこっちを向かせ
「名前……聞いていいですか?」
「僕ですか? 僕はタモツといいます」
わたしの強引な行動に困ったように眉を八の字に曲げた。
「一緒にいてくれますよね。ここまで、その気にさせてダメとは言わせないですよ」
「その気に……なってくれたんですね」
「普通の女ならなるでしょう」
「その気にさせるのが、僕たちの商売ですからね」
「商売……」
「はい……」
「お金なら……少しくらいなら出せるけど」
「僕を買うとおつもりですか?」
「ええ。幾ら出せばいい?」
「ハイハイハイ。お姉さん。それをここで言っちゃお終いだよ」
バーテンダータモツの顎を持ったまま、声がした方に顔を向けると、
その、金髪で長髪の痛い中年が手を叩きながらスツールから降りた。
「あ……あなた、さっきから何ですか? こっちに視線を頻繁に向けて来たり、 人の話に割り込んで来たり……やめて下さい」
「あのさ、お姉さん。そいつね、ここでカクテル作って商売してる身なの? 自分を売って、商売してないわけ。それにね、もし、俺が、おとり捜査官だとしたらどうするつもり?」
タモツの顎から手を離して、金髪で長髪のその中年を凝視した。
お……おとり捜査官?
少しくたびれた感じのブラウスに、斜めにズレテいる眼鏡にボサボサのひっつめ髪。
「そ……そんな金髪で長髪の警察官がいるはず無いじゃない」
「確かに」
そう言いながら、眼の前のタモツも大きく頷いた。
痛いとこ突かれたと言った感じで顔をヒクリとさせ
「だ・か・ら。誰が聞いているか分からないこんな場所で、幾らとか聞いちゃダメってこと。そこを言いたいわけよ。お姉さん、買春容疑で捕まりたいわけ?」
ドヤ顔、してやったり顔のその男の顔をマジマジ見詰め返した。
『三十女、買春容疑で現行犯逮捕』
悲惨だ……
なにはともあれ悲惨だ。
例え酔っていたにせよ、人目も憚らずに幾ら極上の男が眼の前にいたからと言って、値段を聞くなんて、わたし……どうかしてる。
この目の前の上品に笑う絶妙男は、今まで地味に生きて来たわたしを狂わせた。
隣の、この金髪、長髪男に声を掛けられなかったら、幾らでも払うから今夜付き合えと喚き散らしていたかも知れない。
女が男を買うなんて、どれだけ頭がイカレテいるんだろうと、軽蔑していた。
ホストクラブに通い詰め、散財する女の気持ちが分からなかった。
それなのに……
タモツは、わたしなんかのド素人が太刀打ち出来る相手じゃないと、最初このスツールに座った時から分かっていた。
この夜の世界を華やかに生き抜いて来た男だと感じていた。
そんなタモツに抱かれてこの身が滅びればいいと……
とことん、どん底まで落ちてもいいと……
もう、どうなってもいいと……
今夜のわたしは……どうかしている。
スツールに腰を掛けたまま、両手を膝の上に乗せて俯いた。
そして、きつく目を閉じて、今夜の女子会を思い出した。
KOホテルでの女四人の女子会。
カクテルバーでの食事は格別だった。女子会限定と言うだけあって、料理の内容も、量より質を重視したもので、美味しい物が大好きなわたしは上機嫌だった。
大学時代を一緒に過ごした、この女四人組みは、どこか、イケてない四人組だった。
究極に奥手のわたしと、食べるのが大好きで、大学四年間に食べ歩き過ぎて十キロ太った由美子、色んなサークルに入部しては辞めを繰り返していた珠代、バイトが命で、バイトに明け暮れていた保奈美。
四人が四人、三十になった今でも未だに独身を守り通している。
大学卒業当初は、二カ月に一度はこうして女子会を開いていたけど、二カ月が半年になり、半年が一年になり、今夜は二年ぶりの女子会だった。
スキューバーダイビング部に入部して、出向いた先で溺れかけは辞め、バスフィッシング部に入部しては、部員に邪魔者扱いを受けは辞め、麻雀部とか言う妖しい部に入りは辞め、を繰り返してきた飽き性の珠代は、このKOホテルのカクテルバーで、今はピアノ演奏をしている。
その関係で、今日は珠代がこの場を手配してくれた。
さきほどから、軽快なピアノの演奏が流れている。
珠代は、今日は休みを貰ったと言っていたので、今は二十代の女性が演奏していた。
カクテルバーでのテーブル席は、わたしたちと同じ女子会を開いている若い女たちで満席状態だった。あちら、こちらで笑い合う声が響いていた。
演奏が終わると同時に、その二十代の女性が、ピアノの前でわたしたちのテーブル席の方を向いて珠代を手招きし、ピアノを指差した。
「もう。あの子、わたしに演奏しろって言ってるみたい」
珠代がカクテルグラスを口に付けながらそう、呟く。
「いいじゃない。珠代の演奏聞きたい」
珠代の隣にいたわたしは、そう言って珠代に立ち上がれと促した。
「わたしも聞きたい。ここにいるみんなの為に弾いてよ」
「そうそう。みんなのお祝いも込めてさ」
大学時代より、確実に十キロ太った由美子が、意味有り気な言葉を吐いた。
顔が反射的にヒクリとした。
みんなのお祝い?
どう言うこと?
ピアノ演奏を終えた珠代が、観客の拍手に頭を下げた。
わたしたちのテーブルに戻ってくる途中、バーカウンター内にいる三十代と見られるバーテンダーと視線を絡めて、満面の笑みを浮かべた。
バーテンダーもそれに答えるように上品に笑い返した。
バーテンダー……そのまま社交ダンスが踊れそうな中年男性。世の酸いも甘いも知り尽くした感じが、身体から滲み出ている。
「……」
『珠代、このカクテル美味しいね』
『珠代、こんなカクテル飲んだことない』
由美子と保奈美が、ここのカクテルをやたらと褒め称えていたのを思い出した。
もう一度、珠代の方へと視線を向ける。
黒のシックなワンピースに、大きなストールを羽織った珠代。
頑張ってはいるんだけど、いつも、どこかイケてない珠代が……イケてる女に見えた。
珠代の後姿をずっと熱い目で追っているバーテンダー。
頬がヒクリと引き攣った。
嫌な予感……
「珠代~。素敵だったよ」
「ほんと。素敵な演奏で、店内の人みんな聞きいってたよ」
由美子と保奈美がやたらと珠代を褒める。
「……」
仮にだ。
仮に、珠代があのバーテンダーと良い仲だったとしても、この二人が、ここまで珠代を褒め称えるだろうか?
十年以上付き合ってきた仲だ。今まで、こんなこと、一度もなかった。
「……」
これはもしや、余裕から生まれてくる物では無いだろうか?
珠代に素敵な彼が出来たとしても、褒め称えることの出来る余裕が、この二人にはあるのではないだろうか?
「……」
余裕ってなによ。
余裕って……
彼が作ったカクテルさえ褒め称えることの出来る余裕ってなによ。
大学入学当初からニ十キロ太った由美子が、余裕の笑みを浮かべている。
大学時代のバイト先の居酒屋チェーン店で、卒業後も正社員として今でも辞めずに働き続けている保奈美が、余裕の笑みを浮かべている。
もしや……
今、わたしが顔を上げて、三人を見渡すと、そのタイミングがやってくるのではないだろうか?
そう、余裕の笑みを浮かべることの出来る近況を、カミングアウトするタイミングが……
膝の上に置いていた握り拳をジッと見つめ、このまま気を失おうかと思った。
大げさにこの、座り心地のいいソファから転げ落ちて、飲み過ぎで気を失った振りを……
こんな大人数の前で、そのような演技をやってのけることが出来るだろうか?
地味に生きて来た三十女は人一倍人目を気にするんだ。
そんな勇気さえなく、まるで、能でも舞っているような天然能面を貼り付けたまま、口を開いた。
「タマヨ……スッゴクステキダッタ。ナニカ、イイコトデモアッタ?」
「えっ? 分かる? 華子!」
し……
白々しい……
危うく舌打ちしそうだった。
「さすが華子ね。 そう言うとこは敏感ね」
そう言った、お餅のような由美子の頬をツネリたくなった。
「実はね、華子。彼が出来たの。ほら……あのバーカウンターに居るバーテンダーが彼よ。それでね、結婚を申し込まれてるの」
一本目の矢が胸に突き刺さった。
「ス……ステキナカタジャナイ」
「うん。なんかね。わたしのピアノを聞いていると、カクテルが格別に上手く仕上がるんだって」
「ソ……ソウ。ソウイッテ、クドカレタンダ」
「うん。でもね。由美子の方が凄いんだよ」
さっきから、こっちに話しを振ってくれとばかりにニヤついていた由美子がそのお餅のような白い頬をピンク色に染め
「やだー。珠代ったら。そんなことないよ」
「ユミコモ、イイコトアッタ?」
聞いていやるよ。聞いていやる。言いたいんだろ?
「それがね。食べ歩いていた先で、偶然同じ男性に三度も遭遇したの。相手の男性も覚えていて、彼がわたしと運命を感じたらしくて……」
同じ食べ歩きのガイドブックを持っていただけじゃないだろうか?
「それで、その彼と、来年、結婚することになったの」
二本目の矢が胸に突き刺さった。
這い上がるんだ……
這い上がるんだ華子……
ここで……
ここで……倒れてどうなる?
「運命といったらやっぱり、保奈美よね」
「ホ……ホナミがドウシタノ?」
「いやだー。由美子ったら。それ、わたしに言わせるつもり?」
じゃあ、言うな。
言わなくていいぞ。
「ほらほら。幸せのお裾わけよ」
そのお裾わけは全て華子に向けてと言いたいんだろ?
自分たちは幸せでお腹いっぱいだから……
「それがねー」
話すんかい。結局話すんかい。
「ずっと十年間、一緒にチェーン店を切り盛りしてきた店長が、独立することになって、それでね。奥さんと大喧嘩したらしいの。それで、その店長離婚しちゃってさ……」
「デッ?」
「それでね、わたし、可哀相になっちゃって、慰めてたら、なんかさ……」
そう言いながら急にお腹を撫で始めた。
「……」
「まっ、出来ちゃったもんは仕方ないからさ」
「……」
つまり……バツイチ男の子供を身ごもったってことね。
「えっ?そうなの?子供のことは知らなかったわ。でも、妊娠中にカクテルなんか飲んで大丈夫?アルコール度数かなり強いでしょ?」
由美子が保奈美のお腹を見ながらそう言うと
「うん。それはね、事前に珠代の彼に伝えて貰ってたの。だから、今夜わたしが飲んだのは全てノンアルコールだったってわけ。だって、折角のお酒の席で、雰囲気壊したくないでしょ?」
「イヤだー。保奈美。みんなに気を使わなくてもいいのにねえ。華子」
三本目の矢がまるでキリを揉むように突き刺さってきた。
全て、知らされていなかったのはわたしだけ……
さ……さすがに苦しい。
息が出来ない。
喉がカラカラだ。
綺麗なライトブルーのカクテルを手にしてゴクリと飲みほし、その場を凌いだ。
「このまま、泣いていいですよ」
上品なシトラスの香りが鼻孔をくすぐる。
エタ二ティー?
カウンター越しに身を乗り出して来た、タモツに抱きしめられていた。
タモツの温かく、厚い胸元の中で、言われるままゆっくりと眼を閉じた。
「ウッウッウッ……。女は……優しい振りして……気を使った振りして……それが相手を傷付けるなんて……ヒックヒック……微塵も思って無いのよ……ヒッヒッヒック」
さっきまで器用にシェーカーを振っていた細くて長い指で、わたしの髪の毛を梳くように撫でてくれた。
厭らしくもなく、優しく過ぎるでもなく、押し付けるわけでもなく……
どう言えばいいんだろう。
つまり、先ほどと同じ、絶妙。
たったそれだけなのに、体中にビリビリと電流が走ったように思えた。
そのお陰で、嗚咽が出るほど泣いていたわたしの涙がピタリと止まった。
夜の世界を華やかに生き抜いていた男の神のなせる業なのだろうか?
「華子さん、よく、このバ―まで辿り着いてくれました。今夜ほど、ここのバーテンダーに転職して良かったと思う夜はありませんよ。僕はこのままあなたを放っておけないです」
タモツの言葉を聞いて、恥ずかし気もなく、ゴクリと唾を飲み込んでしまった。
まるで、豪華な御馳走が眼の前に並べられたように、ゴクリと唾を飲み込んだまま、顔を上げた。
月光に照らされた夜の湖のように澄んだタモツの瞳と見詰め合った。
深く深く、何もかも沈み込んでしまいそうな、柔らかな光を帯びているその瞳から目を逸らせなかった。
「華子さん。今夜、あなたをさらっていいですか?」
コクリと頷いて、もう一度その胸に顔を埋めた。
エタ二ティーフォ-メンが仄かに香る。
この香りに覚えがあった。
この香りに包まれた眠った記憶が鮮明に思い出された。
そう……たった三カ月間だけ付き合ったあの男と同じ匂いだった。
あの時、わたしに結婚してくれと申しこんできた男をこんな時に思い出すなんて……
あの三人に裏切られて、心の隅に追いやっていた後悔と言う文字。
こんな思いをするのなら、あの時、結婚していれば良かったと、そんな泣きごとだけは言いたくなかったし、認めたくなかった。
好きだったのかさえ分からない相手だったから、こんな窮地に立たされようが、思い出すまいと心に誓っていたのに……
同じ香りを纏うタモツに抱きしめられ、あの男を思い出すなんて……
忘れたい。何もかも忘れたい。
タモツはきっと、わたしが入り込んだことの無い危険な世界に導いてくれる。
今夜は色取り取りの魅惑を織り交ぜた、この胸に抱かれて……例え、それが自分を破滅させることになったとしても……
「うん。うん。そう。だからさ、直ぐ来てよ」
『……』
「そうそう。ほんと、ガッラガラのバ―だから。俺、テンション下がるし」
『……』
「おう。サンキュー!じゃあな」
最高にいい気分に浸っている時に、隣に居た金髪中年男の耳触りな声が響いて来た。
『チッ』っと舌打ちしたくなった。こっちに聞こえるようにわざと大きな声を上げているのが癇に障る。
「華子さん。帰り支度をするので、このまま、ここで待っててくれますか?」
「はい」
タモツは、わたしを腕から解いて、カウンターの端にいるマスターに一度だけ手を上げ
スタッフルームへと入って行った。
スラリと伸びたタモツの背中を眼で追っていると、隣の金髪中年男がわたしの隣の席へと移動して来た。
「ねえ。お姉さん」
そう言いながら、少し曲がった眼鏡を外して、無造作に括っていた髪を解いた。
シャラリと鳴り響いたその長い髪の毛は、まるで金糸のような音を立てた。
染め上げている思っていたその髪は自毛のようで、地肌からその毛先まで、見たことのない輝きを見せていた。
「俺のこと、痛い中年とか思ってたでしょ?」
素直にコクリと頷いた。
ブルガリブラックの香りが仄かに香る。
そして、こちらに向けられた目の色に衝撃を受けた。
まるで、岩肌に咲く可憐な菫のような色合いをしていたのだ。
「カラコンですか?」
カウンターに付いていた肘をカクリと落として、ボケて見せた。
「んなはずないじゃない。こんな色のカラコン見たことある?」
「無いです。ハーフですか?」
「ううん。クオーター。まっ俺のことはどうでもいいんだけど、お姉さんさ……あいつと寝たら、忘れられなくなるよ。マジで……」
そう言いながら、タモツが消えたスタッフルームの方に親指をクイクイ向ける。
「わ……分かってます。そうなることくらい……分かってます」
「それにさ、あいつ。同じ女は二度と抱かないぜ」
「えっ?」
「俺、あいつと古い付き合いだけど、そんなヤツなの。絶対同じ女は抱かない……俺だけは別だけど」
「はあ?」
「ウソウソこれは冗談だけどさ。そんなヤツに抱かれて、あんた、これからどうすんの?あれ以上の男捜して、あちこち彷徨うことになるよ」
「もう……いいんです。わたしなんか、どうなってもいいんです。落ちるとこまで落ちたい」
「あのさ、お姉さん。今、酒に酔って、辛いことばかり思い出して、テンション海底彷徨っている状態だから、ちょっとテンション上げてもう一回よく、考えてみたら? あいつとのこと」
「こんな状態で……テンションなんか上がりません。放っておいて下さい。今夜はあの人に溺れたいんです」
すると、急にイケメン男に変貌した痛い中年がわたしの肩をポンポンと叩いて
「あいつに溺れたら、もう、二度と這い上がれないよ。俺が今からお姉さんのテンション上げてやるから」
そう言いながら、着ていたブラウスの袖を捲りあげながら、カウンター内に入って行った。
「マスター。ステージ借りるよ」
そう言ってカウンターに置いてあったボトルを一本、手にして空中に放り投げ片手でキャッチした。まるで、サーカスのピエロか大道芸人のように。
カウンターの端で、グラスを拭いていたマスターがヤレヤレと言った表情で、大きく頷きながら
「リオ。稼いでくれるんなら、こっちはいつでもOKだ。その代り、羽目を外し過ぎるんじゃないぞ」
「人聞きワリいマスターだな。いや、さすがマイスターだ。マイスターのカクテル飲んで、舞い上がっちまったよ」
「褒めても何も出ないぞ」
照れたように二コリと笑う。
まるで、孫に笑い掛けるように。
リオと呼ばれた男は人の笑顔を引き出すのが上手だ。
幾つものシルバーカップをクルクル回しては放り投げ、音も立てずにカウンターに並べていく。
タモツのやっていたバーテンダーとはまた違うダンス的なもの。
溶けた氷の雫がキラキラと飛沫を上げてリオの周りに飛び散る。
「フレアバ―テンディングって見たことない?」
「無いです」
そう言うと、また、ボケた振りして、カクンと膝を曲げズッコケル。カッコイイのか、オトボケさんなのか、よく分からないリオと呼ばれたこの男。
カウンター内のスポットライトに金色の絹糸が光り輝き、瞳はアメジストのように高貴な光と放つ。
この場はバ―カウンターではなく、リオが言ったようにステージになった。
「こんばんわんこー」
「ワンバンコ―リオ!」
「アッレー?もう始まった?」
ゾロゾロと、十人ほどのホストと見られる派手は男たちが口々にそう言いながらバ―店内へと入って来た。
「おっせ―よお前ら。ほら、始めるぞ。俺のテンション上げやがれ」
女より手入れの行き届いた長い髪をシャラシャラさせるホストもいれば、幾つもダイヤのピアスをしたホストもいて、何種類かの香水の香りが入り混じる。
まるで、薔薇を背負って入って来たようだった。
こんなイケメン集団は見たことない。
眩し過ぎる。
目を細めるほど、輝いた連中たちがカウンター内に居るリオの前へと向かい、言われるまま急に全員でリズミカルに手拍子を始めた。
サンバホイッスルを吹き始めた人もいた。
シーンと静まり返っていたバ―店内が賑やかになり、ただ、いるだけで華やかな連中に目が釘付けになった。
「……」
さっきまで、ひっそりしていたバ―がイケメンホストで溢れ返り、ムード調の音楽が急にハイテンションの音楽に切り替わった。
「リオは相変わらず我儘だし」
「始めやがれクソ野郎」
「それでも来てしまう俺らって優しいよな」
毒舌を吐きながらも、リオに拍手を送る。それに答えるように、ボトルを三本空中に放り投げては、キャッチを繰り返えす。
わたし一人じゃ、こんなに場を盛り上げることは出来ない。
リオはさっき、この場を盛り上げて貰う為にこのホストたちをバ―に呼んでくれたんだ。
こんな、沈みきったわたしのテンションを上げる為だけに……
軽やかに見えるが、かなり筋力を要する動きにハラハラして、リオから目が離せなくなった。
まるで生きているかのように、リオの背中や肘の上を転がる銀カップ。
落ちそうで落ちないカップに歓声が沸き上がる。
ニコニコとリズムに合わせて笑いを振りまくので、わたしでも簡単に出来てしまうのではないかと、錯覚すら起こしそうになるリオのパフォーマンス。
ボトル一本の重みは相当なはず。
それを空中に放り投げるのだから、女の細腕では簡単には出来ないだろう。
酔った頭で、そんなことを考えながら、ただ、スツールに腰掛けたまま、回りのリズムに合わせて手拍子を打っていた。
そして、リオが出来あがったカクテルをサッとカウンターの上を滑らせ、わたしの眼の前に置いた。
ピンク色がかったオレンジ色のカクテル。
「Sex On the Beach ね」
そう言ってパチリと音が聞こえてきそうなウィンクをくれたリオに身体中が熱くなり、高揚感が溢れ出て来た。
リオの思惑通り、テンションが上がりっぱなしになった。
「華子さん。とってもいい顔になってる」
隣で声がして、振り向くと、シックな私服に着替えたタモツが隣の席に着いていた。
「タモツさん」
「今夜、華子さんさらっても、僕にはこんな顔させられないかも知れないな」
首を思い切り振って
「そ……そんなことないです。ただ、こんなパフォーマンスは、初めて見たので、驚いているだけです」
「でも、今は冷静に色んなこと考えられそうに見えるけど」
「はい。少し、気持ちがすっきりしてます」
「ったく……酷い男だよ。こいつ」
そう言いながらリオが今度はタモツの眼の前に琥珀色のカクテルを差し出した。
「Orgasm ね」
バキッ
そう言いながらカクテルを出したリオの頬にタモツの拳がめり込んだ。
「クソ……絶対、俺にこれ出すと思ってたんだ。映画でさえカットされた名前のカクテルをだすんじゃねえ。捻りの無い男だな。てめえは」
「ゴヘン……タモ」
リオが綺麗な顔を歪めながらそう謝った。
すると今度は周りのホストたちから
「Orgasm!」
「Orgasm!」
「Orgasm!」
と、手拍子をしながらコールが沸き上がった。
これもきっと、リオの思惑通りだ。
「あいつ……覚えてろよ……」
さっきまで上品に笑っていたタモツが、急にリオ相手に怒りだした。
どうやらタモツはリオの前だと、素が出てしまうらしい。
結局その夜、予約していた宿泊先のホテルに送り届けてくれたのは、リオの方だった。
タモツに送らせると、華子さんのテンションを上げた意味が無くなるとリオが言い出した。
その通りだと思った。タモツも捨てがたかったが、やはり、今の自分には危険すぎると思った。タモツの手を取ったまま離せなくなるだろう。
帰り際にリオから渡された名刺にはホストクラブの店名が書かれていた。
「ここの店はね、客に元気になってもらう店だからね。明日を頑張ろうってワリ切れるなら、いつでも遊びに来てよ」
貰った名刺を大事にカバンに仕舞った。
そして、リオを乗せたタクシーが見えなくなるまで、手を振っていた。
「完全な二日酔いだ」
月曜日の朝、ガンガンする頭を無理やり持ち上げ、会社へと出勤した。
フラフラしながらも、一日の勤務を終えると、携帯にメールが入った。
結婚して、一児の母でもある幼馴染で同級生の岡野美弥子からだった。
旦那が出張で、子供を実家に預けているから、久しぶりに夕飯を一緒しようと誘ってきたのだ。会えば、旦那さんの愚痴やら、ママ友との愚痴やらを聞かされる。
独身フリ―のわたしになら、こうしていきなりアポ無しでも相手をしてくれるだろうと踏んでの誘いのメール。
癪に障ったが、かと言って、このまま一人暮らしのアパートに帰る気にもなれず、そのまま美弥子との食事をOKした。
職場からそのままマイカーに乗って、美弥子の実家へと車を走らせた。
夕暮れ時で、スモールライトだけを点けて走行していた。
美弥子の実家に着いて、美弥子を乗せた。
「久しぶり。あれ?華子調子悪い?」
きっと、顔がぼやけていたのだろう。
「うん。まあ、二日酔いってとこ。だから、今夜は食べるのに専念するわ」
「じゃあ、わたしは飲んでいいよね。駅前に出来たばかりの洋風居酒屋の優待券があるんだ。そこでいい?」
「うん。どこでもお付き合いするよ」
そんな話をしながら道幅四、五メートルほどの市道を制限速度の三十キロ内で走行していると……
ガシャン
後部座席の左側ドアに白い軽自動車がいきなり追突してきた。
「嘘!」
美弥子の大声。
「げえ?」
運転していたわたしは直ぐにブレーキを踏んだ。直ぐに踏んでも車は直ぐには止まらず、十メートルほどの場所に車を停止させた。
ぶつかった場所が助手席じゃなくて良かった。
助手席なら、美弥子が怪我をしていたかも知れない。
取りあえず、ドアを開けて車から下りようとすると、追突してきた車から血相を変えた六十代くらいのオバサンが、走り寄って来て
「あんた、なんてことしてくれたのよ。これって当て逃げじゃないの!」
「当て逃げ?」
「当てて逃げようとしたんじゃないの?」
「イエ、直ぐに停まりましたけど」
「この車、どうしてくれるのよ」
オバサンが自分の車に走り寄って、凹んだ車のフロント部分を叩いた。
ヘッドライトが割れて、アスファルトに飛び散って、バンパーも割れ、ボディから外れかけていた。
「ねえ。これって華子が悪いの?」
美弥子が心配顔で話しかけてくる。
「イヤ……わたしが悪いのかな? 取りあえず、保険の代理店に電話する」
喚き散らしているオバサンを無視して、損害保険の加入をしている代理店へと電話を掛けた。
暫くして、お互いの保険屋さん同士の話し合いになった。
公道を走っていたわたし。
自宅車庫から出て来たオバサン。
当然、公道側が優先され、前方左右確認不十分のまま車を発進させたオバサンに非があるわけで……
一変したオバサンが
「ごめんなさいね」
と泣いて謝って来た
泣いて謝って来たのはいいが、これから先がオバサンの図々しさと言うか、事故証明を取りに警察署へと一緒に出向いて欲しいと泣き付いて来たのだ。
オバサン側の保険屋さんは、別口に事故があったと、おいてけぼりにあい、わたしの腕を離そうとしない。
仕方なく、夕食は取りやめて美弥子と別れ、ドアが凹んだ車で、警察署に向かった。
そして……
「佐倉さん?」
そう呼ばれて顔を上げると、裸の記憶しかなかったあの男が警察官の制服姿で立っていた。
「……」
「イヤ……久しぶりだね」
交通課のカウンターからそう話し掛けて来た。
警察署と言うこともあり、まあ、警察官ばかりのフロア内。
悪いことしていないのに、睨まれているような気分になった。
オバサンは証明を取るだけなのにモタモタしている。
「事故?」
「はい。あのオバサンに車を当てられて」
「そうなの?」
あの頃より、ギラギラした感じが抜けて、逆に若返ったように見えた警察官は別人のようだった。
オバサンが手続きを終え、帰り際に少しだけその警察官に会釈をして、警察署を後にした。
次の日の夕方、会社を終えると、携帯に電話が掛って来た。
見なれない番号だった。
どうしようかと迷った挙句、出てみると、
「佐倉さん?」
「はい。そうですけど」
「携帯番号……変えて無かったんだね」
電話の相手はあの警察官だった。
「突然ですみませんが、今から会えませんか?」
「……」
本当に突然の誘いだった。
五年振りの再会。
そして、待ち合わせた喫茶店で、地方の駐在所を転々として、五年振りにこっちに移動になったと言った。
畑や田んぼに囲まれた駐在所勤務で、すっかり色恋沙汰を無くしていた自分が、昨日偶然わたしを見かけて、昔を思い出したと。
忘れていた何か熱い物が込み上げて来て、もう一度会いたくて仕方がなかったと言い出した。
そして、姓がそのままだったので、飛び上がるくらい嬉しかったと……
お互いが注文したコーヒーを飲み終えた後、真面目な面持ちでいきなり頭を下げて来た。
「佐倉さんさえ良ければ、結婚を前提にもう一度付き合って貰えませんか?」
こんな形で、二度目のプロポーズを受けるとは思っても見なかった。
彼の申し出に頷いたのは、寂しさからなのか、あの三人に便乗しようとしたのか、自分でも分からなかった。
前提と言う少しの猶予があった為、気が幾分楽だったことは確かだ。
五年前ほど、お互い切羽詰まった状態ではなかった。
翌週の週末、少し遠出をしないかと誘われた。遠出と行ってもこの地から三時間ほどの勤務していた田舎の駐在所だと言った。集合命令が出ると定時間内に署に出向かなくてはいけないので、遠出をすると署に届けは出してあると言った。
彼の運転する車の助手席に乗って、流れる景色を、車窓から見ていた。
運転席でハンドルを握る彼を少年のように若がえらせた、その地が見たくなった。
車内では、五年前に二人でよく聞いていたCDがかかっていた。今日、この場で聞くまで忘れていた曲だった。そんな曲を彼が覚えていたと言うことに驚いたと同時に、あの頃の彼はわたしが思っていたより、わたしへの思いは強いものだったんじゃないかと、そう思えて仕方がなかった。
目的地は、確かに彼が言ったように、畑や田んぼに囲まれた、ほのぼのした場所だった。
近辺に住む住民たちからはまるで孫のような扱いを受けたと話していた彼の言うとおり、駐在所近くの畑にいた住民のおばあさんがいち早く彼を見つけて、走り寄って来た。
久しぶりに会った孫を見るように、嬉しそうに笑い掛けて来て、隣にいるわたしに向かって、『嫁を連れて来た』と騒ぎだした。彼はそう言われて否定しなかったので、わたしも、否定せずに隣で笑って会釈した。
おばあさんの自宅に案内され、敷地内に植えてあった木を見上げた。小さくて赤い実がなっていた。
「え? もしかしてサクランボ?」
「今日あたり採ろうと思っていたところで欲しいなら、持ってきな」
「いいんですか?」
「ああ。ちょっと待っててよ。サクランボを入れるザルを持って来てやるからね」
おばあさんのお言葉に甘えて、彼とわたしは、サクランボの収穫に取り掛かった。
収穫しては、甘酸っぱいサクランボを口に頬張った。
手の届かない場所のサクランボは彼に任せて、初めての経験を楽しんだ。
そんなのんびりした時間を過ごし、帰り際には、取れ立てのハウスで出来たトマトやキュウリを貰って、自分たちの住む町へと車を走らせた。夕飯は途中で立ち寄ったコンビニのオニギリを車の中で食べた。
アパートに着いた頃は既に十時を過ぎていて
「また、電話する」
と言って帰ろうとした彼に
「コーヒーでも飲んで行きませんか?明日は……非番なんでしょう?」
わたしから誘い。
朝からずっと傍に居た彼だったが、わたしに気を使っていたようで、どこかヨソヨソしさが感じられた。
一人暮らしのアパートに、しかもこんな夜の十時に男を引き入れて、何か間違いが起きても、逃げることは出来ないくらい承知している。
それでも、もう少し彼の傍に居たかった。
「じゃあ……ちょっとだけ」
彼が嬉しそうに車から降りて来た。
六畳の洋室と四畳半の和室にキッチン、トイレ、お風呂。
どこにでもあるアパートの間取り。
丸テーブルの上にコーヒーカップを並べて置いた。
彼と向かい合った場所では無く、手を伸ばせば届くほどの距離に座った。
今日、貰って来たサクランボを洗って、ガラスの器に盛り、それを頬張りながら、
色んな話をした。笑った彼の横顔は、わたしをなごませ、温かい気持ちにさせてくれた。
時間が過ぎ、コーヒーを飲み終えた彼だったが、わたしの隣に座ったまま、帰ろうとしなかった。
かと言って、あからさまなモーションを仕掛けてくるワケでもなく、ただ、どうしようかと戸惑っている感じだった。始まったばかりのスポーツニュースをボンヤリと二人で見ていた。
スポーツキャスターの明るい笑い声が響いていたが、なぜ笑っているのか、内容が全然頭に入って来なかった。
テレビの音だけが響く、二人だけの空間。
無言になった彼の肩へと、コツリと頭を乗せた。
そう言った行動が何を意味するのか、もう、子供じゃないのだから分かっている。
それは彼も同じで……
二人の間にあった距離がなくなった。
彼の手がガシリ肩に回され、それに答えるように顔を上向かせた。
唇を塞がれた。
軽く、軽く始まったキスは、徐々に深くなり、いつしかそれは眩暈をさそうものとなった。
五年前は、もっと強引にわたしを求めて来たのに、もしかしたら、そうした自分を反省したのかも知れない。
心地良い長いキスの後、彼の胸に顔を埋めて、五年前なら絶対に自分から言えなかった言葉を吐いた。
「今夜は、ずっと傍に居て下さい」




