やどかり
私がこうしてこの街にいるのもたまたまだったら、この男と会ったのもたまたまだった。彼は茶色の肩までたらした髪を掻揚げたまま立ち止まった。バカみたいに大きく口をあけて、眼を見開いて私を見つめていた。いわゆる繁華街の、クラブや男性向けエステが立ち並ぶ大通りの、はずれに近い場所だった。
顔を顰め、立ち去ろうとする私に、馴れ馴れしく、そして強く両手で肩を押さえながら男はいった。
「絵梨、どうしてここにいるんだ!」
いくつも付けられた輪のピアスがネオンを反射して、まだ正常なはずの眼が痛くなった。
私は、やどかりである。といっても節足動物門、甲殻綱、軟甲亜綱、十脚目歩行亜目、異尾類、つまり海にいるヤドカリではない。貝殻の代わりに死体を宿として生活をするような存在である、と自分で認識している。野暮ったい表現だが、自分がどのような姿で、どのような種類に属するのかは知らないので断言はできないし、 生殖するという生物の定義にも反しているのでこのような言い方をしている。ゾンビと混合されそうだが、あくまでも私は死体を取り替えるのであって、 ゾンビのように一旦死んだ人間か復活するわけではないのだ。もっともゾンビに出会ったことはないが。
だから、この絵梨と呼ばれた肉体も死体である。T県の遊泳禁止地区をたまたま通りがかって、浜に打ち上げられているのを発見したのだ。ちょうどその時は、あと三日はもちそうな身体に入っていたのだが、 あちこちが癌で侵されていて非常に動き辛かった。この絵梨の身体は溺死なのか、 珍しいことに故障もなく、そして新鮮だった。私はすぐさま身体をかえ、なるべく早く遠くその地を離れた。身体の知り合いに会いたくないからそうすることにしているのだ。
そして私はこの繁華街にいた。ネオンの光が輝く中、皮肉にも顔見知りと思われる男を前に。
私は首の筋肉に命令を出して、首を傾げるような動作をした。脳を検索すれば誰かわかるかもしれないが、私は些細なことに禁を破るつもりはなかった。軽く彼から視線を逸らした後、また彼を見る。声帯を小さく震わせながら息を吐いた。
「誰ですか」
男はますます眼を大きく開いた。自分がカブトムシになったらこんな表情をすると想像できそうな驚きぶりだった。せっかく人間では整った部類に入る顔立ちなのにもったいない。私は彼をぼうっと観察していたが、両手を掴まれた時それどころではないのに気づいた。
「やめて」
「絵梨、冗談やめろ。俺がわかんないのかよ」
より強く手首に力が込められる。痣が出来たら取れない。手首は人目につくところだ。
「放してよ!」
「落ち着け、絵梨。なぁ。お前、よく見れば消えた日と同じ格好じゃないか! 何してたんだよ」
どう考えてもこの男の方が興奮しているような気がしたが、私は黙った。力は少し弱まったが、放すつもりはないらしい。私は出来る限り表情筋を操って顰め顔を作った。
「私絵梨じゃないよ。もう行っていい?」
「何言ってるんだ」
舌打ちをしそうになったがどうにか堪えた。男は私の顔を覗き込んで、自分に言い聞かせるように呟いた。
「おぼえていない……?」
特になんの指示もだしていないのに、胃が縮んだ。気分が悪い。私は想像以上に面倒なことになるのをやっと悟った。
彼は健治と名乗った。ケンジ。音を転がしてみると、胸の部分に圧迫感を覚える。同時に不思議な恍惚感があった。恐らく絵梨の知り合いだったのだろう。それもものすごく親密な。名前を呟いただけで身体のコントロールが一瞬離れてしまう。危険だ。
私は自分が置かれている環境を考えた。今、私は手を組んで、健治のマンションで彼と対峙している。彼は注意深く私を覗き込み、口を開きかけては閉じる。「いいたいことがあるなら早く言ってよ」そう悪態をつきながら、私は健治を睨んだ。あんなに急いで強引に連れてきたのだ。掴まれ、引っ張られていた手首には薄っすらと痣が浮かび上がっており、消えない。速く歩くので、筋肉の収縮が追いつかず、所々細胞が痛んでいる。傍若無人で周りが見えないバカ。なのに、不思議と嫌な気はしなかった。それがまた私を苛立たせる。この状況はまずい。
「な、なぁ」
健治はおどおどした様子で、弱弱しく声を出した。
「絵梨、本当に記憶がないのか?」
「なんのこと」
私は早くこの場を去りたかった。ここにいると、自分が変質していく気がしていたからだ。ここには絵梨の思い出が多すぎる。
身体に宿っている以上、ある程度生前の持ち主の干渉を受けるのは避けようがない。現に今、健治が自分のマンションだといって通された部屋に、かなりの親近感を覚えていた。ダイニングテーブルの花瓶や、壁に飾られたちょっとした絵が、何故か懐かしく、 「私」らしい配置だと思える。健治に関しても、一々彼の仕種や声で、必要以上に神経が反応している。このような身体に染み付いてしまった刺激以外にも、脳の記憶を探ることで、 直接影響を受けてしまうことがある。
しかし、私は出来るだけこうした干渉は受けたくなかった。私が「私」以外のものになるのは恐怖でしかなかった。一回、記憶に侵された出来事がトラウマになっているのだ。
私は仏頂面で、健治を警戒しながら、早くここから出してくれることを祈った。
「実は俺さ」
彼は急に顔を崩し、へらへらと笑った。
「記憶喪失見るの初めてなんだ」
「はぁ?」
「そうだよな。覚えてたらそんな反応するはずないよな」
好奇心に眼を輝かせて私を見る。私はここで、冷静にマンションをでていってもよかった。だが、どこまでも自分本位な健治が気に障った。絵梨が何者かも説明せず、ただ楽しむとは。
「私だって分かる。お前、恋人だったんだろう」
私は地を出した。こんなバカ男相手に擬態は疲れるのだ。
「ここは絵梨も暮らしていた場所だ」
健治は眼を細めて、私の言葉を吟味する表情をした。予想が裏切られてガッカリしてようにも見えた。内心、楽しかった。そう、彼をからかうのは面白い(この感情は今発見したものか、以前から知っていたものか)。
「なんだ、覚えてるのか」
「ある程度は」
「そっか」
健治はわざとらしくうなだれた。意識していないのに、私の頬の筋肉が収縮して微笑みを作った。
「じゃぁさ、失踪のときは何していたのか覚えているか?」
「失踪……」
そういえば、最初にそんなことを言っていたのを思い出した。健治の表情は真剣だった。
「そうだな」脳の記憶を検索すればあるいは「わかるかもしれない」
健治の心配そうな顔に、私は無意識に笑いかけた。
「今は思い出せないけど」
そこまで言って私は気づいた。絵梨はもう死んでいるのだ。もう二度と、健治が絵梨と会うことはない。健治に辛い思いをさせるなど、私の望むものではなかった。彼は軽薄でへらへらしていたほうがいい。そういう思考こそ私がこの空間に影響を受けている証拠でもある。私は長居しすぎたらしい。絵梨の脳に侵される前にここを出なければ。
一瞬、気まずい沈黙があった。私は、胸が締め付けられるような刺激を受け取っていた。どこも異常などないのに。神経が多少調節できていないのだろうか。
「健治」
私は胸の痛みを堪え、表情を引き締めて彼に向き合った。何故か顔が歪む。身体のコントロールが難しい。抵抗を抑えて、私は肺に溜めた空気を吐き出した。声帯で音の波を作る。
「私はもうここに戻ってこない」
私は結局率直に宣言した。
予想に反して、彼は驚いた様子は見せなかった。それが更に苦しい。
「出て行くのか?」
「そう。どうしてもここにいたくない理由がある」
健治は眼を伏せ、力なく「そう」と息を吐き出した。何か心当たりがあるのか、特に理由を問いただすような雰囲気はなかった。ただ、ダイニングテーブルのほっそりとした品の良い花瓶を撫で付ける。
「この花瓶さ」
「俺がいらないって言ったのに駄々こねて買ったやつ」
「うん」
二人でデートする記憶が浮かび上がった。白い花瓶だ。白い花瓶を私が指差す。絵梨の脳が勝手に、健二の発言を元に検索再生したのだ。絵梨が拗ねたように健二の腕を取り、甘えた声を出す。
「いいじゃない、薔薇いっぱいに飾ったら綺麗だよ」
「高いだろ」
「でも、欲しい。誕生日に、薔薇の花でいっぱいにして欲しいんだ」
健二が困ったように笑って、両手で大事に抱えたのだった。レジに行く彼の後姿を、眼を細めて見た。
健治は花瓶を手にとって、じっくりと鑑賞した。
「やっぱいらないな」
脳に、強い衝撃が、走った。
視界が一瞬黒くなり、赤く染まった。
「出て行かれちゃ困るんだよ。本当は思い出したんだろ」
健治は花瓶で絵梨の頭を叩いた。ガラスの破片が頭へ突き刺さり、肉が抉れる。私は床に倒れ、立とうとするのに足が言うことをきかない。何度も、何度も、鈍い音がした。
穏やかだったはずの空気が、いつの間にか緊張を孕み、部屋に充満している。私は混乱した。一体どうして健治は絵梨の身体に損害を与えているのだろうか。
「じゃないと愛しの俺から離れようなんて思わないもんな」
脳漿が床に飛び散る。私は焦った。
身体が壊れる!
「俺たち結婚する予定だったんだろ。それなら別にお前の金使ったっていいじゃねぇか」
健治が何かを言っているのは分かるが、処理がそれに追いつかない。聴覚も壊されたのかもしれない。だが、そんなことなどどうでもよかった。頭には絶えず衝撃が走り、情報が漏れ出していた。身体のコントロールがうまくいかない。
「あのまま死んでればよかったんだよ。何で戻ってきたんだ」
私は焦った。
私は恐れた。
このままでは私は消滅してしまう。このままでは身体が壊れ、動くことができなくなり、この死骸とともに朽ちていくだろう。
私という存在がなくなってしまう。
気が狂いそうな消失感が私を襲った。
早く新しい身体を見つけなければ。早く、身体にうつラナケレバ。ハヤク、からだヲツクラナケレバ。
あたらしいからだ……。
私の腕が本能的に動いた。私は自我を失った。ただ無我夢中で身体を動かした。
「ひっ、なんでまだ生きてるんだ」
私はゆっくり、健治の腕を掴み、強い力で彼を引き寄せた。いつの間にか身体に走る衝撃は止まっていて、ただ微細な震えのみ感じ取れた。彼の汗ばんだ腕をたどり、首筋をなぞった。
ここだ。
ここがいい。
「や、やめろよ」
汗ばんだ彼の首から、命の音が伝わる。
私は身体のことしか頭になかった。ただ、早く新しい身体にうつらなければならなかった。感情などなかった。
視界が波打つようにぼやけているのは、脳が壊れてうまく情報が処理できないからだ。
健治は抵抗しなかった。できなかったのか。どちらでも私には関係ない。彼はただ震えて、呆然と絵梨をみていた。私は彼を押し倒し、首を強く握った。
彼の鼓動を感じ取る。
どくん、どくん、どくん、どくん、どくん。
彼の頬へと垂れる雫は絵梨の血か、涙か。
身体が限界にきていた。視覚もなくなった。
どくん、どくっ、どくっ、どく、どく、ど……ど…………。
私は目覚めた。部屋一面赤色で、それが朝日の色か、血の色か、すぐには判断できなかった。
私の上に絵梨の死骸が被さっていて、私はそれを丁寧に避けた。彼女の長い髪が血でべとつき、解れていた。私は彼女の髪を撫で付けてみたがうまくいかなかった。頭蓋骨が割れ、右脳の塊が髪の間からのぞいている。私はあきらめ、彼女の瞼を優しく下ろした。絵梨は思った以上に穏やかな表情になった。乾いた涙の後も目立たない。
絵梨が何故あのような死に方をしたのか、私は知ってしまっていた。絵梨の身体から出るとき、不意に彼女の記憶を触ってしまったのだ。それは唐突に私の中へ流れてきた。
絵梨は高校の頃に両親を交通事故でなくし、ささやかな遺産を手に入れた。彼女は散在もせず非行にも走らず、優秀な大学生になったとき、健治と出会った。絵梨は健治を愛した。健治も絵梨を愛した。ただ、健治は絵梨よりも真剣でなかったのに気づかなかった。
健治が絵梨の財産に手をつけたときも、絵梨は健治がいずれ返してくれるものと信じた。結婚するという口約束だけで、許した。「月に二万ずつ返済すること」という条件付きで。だから、絵梨はT県の絶壁を見に行こうという健治の誘いも素直にのった。海を真下に眺めながら、お金の話をしたとき、微かな不安を抱きつつも、最終的には彼を信じていた。背中を押される瞬間まで。
とんでもない茶番だ。健治もバカだが、絵梨も恋には盲目だった。
私は干渉(感傷?)を振り切る。
私は立ち上がり、服を着替えた。軽くストレッチをしてみて、身体の動きを確かめた。問題ない。健治の身体は、恐らく首筋についた手の後が目立つという以外は、至って健全な機能をしていた。これなら二週間は持ちそうだ。
できることならこの部屋が見つかってしまう前に、この身体を棄ててしまいたかった。そして、もうこの件は終わりにして、またやどかり生活に戻る。
私は、趣味が悪いシルバーのピアスを外し、絵梨のマンションの扉を開けた。