第八章 正体
神殿の奥。姫神子の御前に凪はいた。
夜半過ぎ、火急の用があると、姫神子から呼びだされたのである。
「凪よ。もう、あの札の効力が落ちてきていることに、気づいていますね」
凪は頷いた。御簾越しからかかる声は、凪が拾われた七つの頃から変わらぬ、小さな女子の声だ。
「先日、あの子に夢で会いましたよ。可愛らしい子。妖魔はあの子に干渉を始めています。近いうち、接触があるでしょう」
姫神子の言葉に、凪は膝に乗せた手を強く握った。
「妖魔はあの子の気を吸い、着実に力をつけています。もう間もなく、あの子をおびき寄せ、あの子を喰らう算段を立てているはず」
「どうしてあいつばかり……」
思わず、声が漏れてしまった。
どうしてあいつばかり、辛い思いをしなければならぬのかと。
「凪。あの子を守れるのは、おまえだけ。あの子は、私と似た力を持っています。それだけに、妖魔の手に渡す訳にはいきません」
「神子の力があると仰せですか」
凪は驚きに声を上げた。
「近いと申したでしょう。あの子は妖かし者を視る力に長けた子のようです。ただでさえ、その様な子は狙われやすいのに。忌み子として育てられたが故、邪気も纏っている。余計に妖魔にとっては餌としての魅力が増すのでしょう、印をつけて欲するほどに。妖魔にとっては、力をつけるに適した餌ですからね」
凪は言葉がでなかった。
あの小さな子どもは、生まれてこの方、幸せだったことがあるのだろうか。忌み子と呼ばれ、村人だけでなく、実の親からも忌み嫌われ。生贄にまでされそうになった。
「凪、今はそなたしかおらぬ。あの子を救うも失うもおまえ次第。妖魔が接触してきた時が機です。しばらくは出仕を控え、子どもについていなさい。そして、必ず、妖魔を滅せよ」
「御意」
凪は姫神子が御簾の向こうからいなくなるまで、頭を下げ続けた。
術力を使い、凪は宮から住まう家へ帰ってきた。仮面を取り、脱いだ外套といっしょに壁にかけた。
寝床を見ると、出て行く前と変わらず子どもは寝息を立てていた。
「早かったな」
突如声がかけられた。凪はそちらに目を向ける。
「すまん。剛毅。留守番などさせて」
「気持ち悪いな。おまえがそんな殊勝なことを言うと」
「失礼な」
凪は、姫神子からの使いとしてやって来た剛毅を留守番役にして、姫神子に謁見しに行ったのである。
今の状態の子どもを、このまま一人置いて行く気にならなかったのだ。
「凪よ。昼間の件。確認が取れたぞ。やはりあの沼にはもともと蓮が咲いていたらしい。だが、妖魔の事件があった後、蓮は見事に消えてなくなったそうだ」
その言葉を聞いて、凪の考えは確信に変わった。
「あれは水妖じゃなく、蓮の妖かしか」
「炎華が効いていたし、まず間違いなかろう」
剛毅が、頷く。
「書物の中に、蓮の妖しについて書かれたものがあった。昔、東の村にて仮面呪術師が封じたとあった」
「村の者がその封印を解いちまった。と、いう訳か」
苦々しげに剛毅が呟く。
「蓮の妖魔は木の属性でありながら、水から離れられぬ。その代わり、水を伝い移動することができると、書物にはあった」
「村の封印は、蓮の妖魔が移動できぬようにする為のものだった可能性が高いな」
凪の言葉に、剛毅が自身の考えを述べた。
凪も同じ見解だ。
囲炉裏にくべた薪が音を立てて崩れた。火がはぜ、凪らの影が大きく揺れる。
「とにかく、奴が現れてくれんことには、対処のしようがないな」
剛毅の言葉を聞き、凪は子どもに視線を向けた。
「奴が現れるまでに、こいつの身体が持つかどうか」
凪は寝ているこどもの傍らに行くと、そっと子どもの額に手を当てた。
「おまえが、人の心配をするようになるとはなぁ」
感慨深げな声が聞こえ、凪は剛毅を睨んだ。
「人を冷血漢のように言うな」
「俺の知るおまえは、似たようなものだったよ」
剛毅の言葉に、凪は顔を背けた。
確かに、非情を常としていた。帝や姫神子の御ためとあれば、人を呪い殺すことに躊躇いはなかったし、他人に情というものを余り持てずにいた。
それなのに。
自分と似た、否、それ以上に辛い経験をしているのであろうこの子を見ていると、どうにも調子が狂う。
凪は子どもの額にかかった髪を横にすき、ただ子どもの血の気のない寝顔を見つめた。
「なあ、剛毅よ」
「何だ」
「こいつは、なぜ笑えるのだろう」
剛毅は、凪をじっと見つめた。凪は、子どもの髪をすきながら言葉を続ける。
「忌み子として育てられて、辛い思いをしてきただろうに。俺のように世を憎んだり、荒んだりせず、飯が美味いと言っては笑い、夕陽が綺麗だと言って笑う。このような状況の中で、泣きもしない。なぜ、そんなことができるのだろうな」
剛毅はしばらく黙っていたが、がしがしと頭を掻くと、口を開いた。
「さあな。ただ、楽しいだけなのかもしれぬな。今の生活が」
「楽しい? 妖魔に狙われている今の状況が?」
理解できず剛毅を見れば、剛毅は至極真面目な表情をしていた。
「生まれてこの方、ほとんど地下で暮らしていたのだろう。見る物すべてがこいつにとっちゃ珍しくて、面白い物なのかもしれん」
「そうか。そうだと良いな」
凪はもう一度子どもに視線を落とし、寝息をたてている子どものあどけない顔を眺めた。
また、白い世界の水際に子どもは立っていた。
『坊や、おいで』
懐かしい声が聞こえる。
どこか温かく、そして、なぜか切なくなる声。
『誰? どこにいるの』
『ここよ。ここよ』
子どもは声のする方へ顔を巡らせた。
水面に紅色の花が咲いている。
その上に、女が一人立っているのが子どもの目に入った。
その人を、子どもは知っている気がした。
『母様?』
子どもは、一歩前へ進もうとした。
その時、誰かが子どもの手を捉えた。
振り返ると、とても可愛らしい顔をした女の子が、子どもの手を引いていた。
『あっちへ行ってはだめ』
『でも、母様が呼んでいるの』
子どもは女の子の手を振り払った。
そうすると、女の子の身体が薄く透けはじめた。
『うわぁ』
『怖がらないで。あの人はあなたのお母上ではないわ。良いわね。絶対に、絶対に呼びかけに答えてはだめ』
女の子はその言葉を残し、消え去って行った。
「おい、おい。大丈夫か?」
声が聞こえ、子どもはうっすらと瞼を開いた。
凪の綺麗な顔が目に映る。乱れた呼吸が少し落ち着くのを感じた。
「おまえ、うなされていたぞ」
心配そうに覗きこまれ、こどもは口を開いた。
「凪。変な夢を見たよ」
起き上がろうとしてできなかった子どもを、凪は抱き上げて膝に乗せた。
「どんな夢だった?」
「僕はね、白い所にいてね。水があるの。水の上にはね。綺麗なお花が咲いていてね。その近くに母様がいるの」
背後にある凪の顔を振り仰ぎ、子どもは続けた。
「でもね、女の子にね、母様のところに言っちゃだめって言われるの」
「そうか」
「うん。そしたらね、凪の声が聞こえてね。目が覚めた」
子どもは疲れを感じて、凪に身を持たせかけた。
「その女の子。姫神子様かもしれねぇな」
凪とは違う声に驚いて、体を固くした子どもに、凪が言う。
「大丈夫。剛毅だよ」
「なんだ。兄ちゃんか」
兄ちゃんと呼ばれた剛毅は、子どもと凪の近くまで来ると、子どもの頬に手をやった。
「腹、減ってないか? 何にも食べずに眠っていたのだろう」
「うん。でも、お腹すかないよ。ねえ、それより、今日は泊って行くでしょう兄ちゃん」
「ああ、夜も遅いからな」
「良かった。また後で遊ぼうね」
微笑んで、子どもは瞼をすっと下ろした。
眠気がまた襲って来たらしい。
剛毅が溜息をついた。
「随分弱っているな」
「ああ。まずいな」
凪は剛毅と顔を見合わせた後、そっと子どもの寝顔に視線を落とした。
丑三つ時。人も虫も寝静まるこの時刻。
子どもの耳に、声が届いた。
『おいで、おいで』
母様が呼んでいる。
また白い世界に来ていた。
いつもと同じ水際。紅色の花が浮いている水の上に、女の姿がある。
『坊や。私の坊や』
切なく懐かしい声が子どもを誘う。
憶えているはずはないのに、母と分かるその声。
『坊や、寂しかったでしょう。悲しかったでしょう』
子どもには、水面に立ち手招きしている女が、自分の母なのだとなぜか分かった。
懐かしく切ない、この思い。
『母のところへおいで。もう寂しい思いはしなくて良いのです』
本当に?
子どもは、目を細め、手招きする女をじっと見つめた。
『坊や。坊やはもう一人ではないのです。悲しい思いも、寂しい思いもしなくて良い所へ、母が連れて行ってあげましょう。さあ、母のもとへいらっしゃい』
本当だろうか。
本当に、もう一人でいなくて良い?
悲しい思いも、寂しい思いもしなくていいの?
『さあ、いらっしゃい』
手を差し伸べる女に、子どもは頷いた。
『はい、母様』
呼びかけに答えてはいけない。
そう、女の子に言われていたのに。
子どもは返事をしてしまっていた。
寝床からゆっくりと、子どもは起き上がった。
うっすらと開いた眼は虚ろで、何も映していないかのようだった。
子どもはゆっくりとした足取りで、木戸を開け草履も履かず庭へ出た。
闇夜に浮かぶ月だけが、その姿を見つめていた。