第七章 責任
子どもは凪の大きな草履をはいて庭に出ていた。剛毅に庭で遊ぼうと誘われたのである。
凪はといえば、剛毅の持ってきた土産を整理していた。
剛毅が土産と称して持ってきた物は、ほとんどが子ども用の着物や食器だった。気がきかない凪の変わりに持ってきてやったと、剛毅は威張っていた。
子どもには意味がよく分からなかったが、凪は少し恥ずかしそうにしていた。
凪が表情を変えるのは珍しい。
子どもはふと思い至って、草笛の吹き方を教えてやると言って、適した草を探している剛毅に声をかけた。
「ねぇ、おじさん」
「おい待て。誰がおじさんだ。剛毅だ、剛毅。そうだな、おまえは兄ちゃんと呼べ」
「……兄ちゃん」
躊躇いながら呼ぶと、剛毅は精悍な顔に人の良い笑みを見せた。
「何だ」
子どもはここ数日、疑問に思っていた事を聞いた。
「ねぇ。どうして凪は笑わないの?」
そう、ここ数日一緒に寝起きしているが、凪が笑っているところを見たことがなかった。
苦笑いは良くしているが、表情を崩すことじたいが余りないのである。
剛毅は草を捜す手を止め、なぜか庭の中にあった切り株に腰を下ろした。子どもを抱き上げ膝に乗せる。
「そうだなぁ。凪は、笑い方を忘れてしまったのだろうな。色々あったから」
子どもは近くなった剛毅の顔を見上げ、よく分からないと言った。
「凪は、親に捨てられた子だ。人売りって知っているか?」
子どもは素直に頷いた。
「うん。婆が悪さしたら人売りに売っちゃうよって言っていたよ。人を売ったり買ったりする人たちのことでしょう。売られたらとっても怖い目に遭うのだって婆が言っていたよ」
剛毅は子どもに、頷き返した。
「そうだ。凪は、人売りに売られた子どもだった。売られた場所から逃げ出すまで、いっぱい傷ついて、いっぱい辛い目に遭ってきたのだろう。だから、笑い方を忘れちまったのさ」
子どもは口元に手を当てて、何かを考えるそぶりを見せた。
剛毅は子どもが口を開くのを待つように、黙ったままだ。
「そうか。なら、思い出せば良いのだね」
剛毅は良い事を思いついたように声を上げた子どもに、尋ねた。
「何を?」
子どもは、笑んだ。
「笑い方」
剛毅は違いねぇと、盛大に笑い声をたてた。
夜半。
半日庭で遊んでもらい、すっかり剛毅に懐いた子どもは、今はもう床についている。
凪は、草履を編みながら子どもにそっと視線を送った。
厄介なことになった。
自分が人に名をつけることになるとは。
そんなこと、一生ないと思っていた。ずっと一人で生きて行くつもりだったのだから。
名は一生その人についていくもの。下手な名をつけられぬではないか。
それに、名をつけると情が湧くと聞く。
子どもとは、あくまで妖魔を倒すまでの関係だ。
妖魔の印を消すことができれば、しかるべき家に養子に出せばよいと考えていた。
「剛毅の奴、面倒くさいことを言いやがって」
凪は溜息をついた。剛毅の顔を思い出すと、腹が立ち、編んでいる縄を強く締めあげた。
草履を編み終わり、凪は草履を持ってそっと立ちあがった。
眠っている子どもの横に座ると、子どもの頭の脇に、そっと草履を置いた。
子どもに履かせる草履を作っていたのである。
今日、剛毅と子どもが庭で遊ぶ段になって、子どもの履物がないことに気付いた。
今日一日は凪の草履を履かせたが、いつまでもそういう訳にはいくまい。
凪はあくびをかみ殺すと、子どもの隣にある寝床へもぐりこんだ。
ごうごうと、大きな音が凪の耳に届いた。家の周りに生えている木々が大きく揺れる音が煩い。
どうやら、風が強いらしい。
眠りに落ちかけながらそう思った時である。
凪は急に身体を揺さぶられ、目を開いた。
「どうした」
身体を揺さぶったのは子どもだろうと見当をつけ、声をかける。案の定、子どもの声が頭の上から降ってきた。
「凪。変な音がする。怖いのが来たのかな」
凪は半身を起こし、夜目に慣れてきた目で子どもに視線をやった。
「大丈夫だ。風の音だから」
「でも、ごうごうって吠えているよ。ざわざわって音もするよ」
「いや、だから風の音だって」
「でも、風は鳴かないでしょう」
凪の夜着を掴んで訴える子どもの声は真剣だ。
説明するのが面倒臭い。
凪はすっと目を閉じた。
一応、辺りの気配を探ってみようと思ったのだ。やはり、妖魔や物の怪の気配はない。
がたがたっと、木戸が鳴った。
外はよほど強く風が吹いているらしい。
不意に、子どもが凪に抱きついた。
そこで、凪はようやく悟った。
「なんだ、怖いのか」
「だって、ごうごう、がたがた言うよ。前のお家では聞こえなかったもん」
地下だったからだろう。
そう思ったが、口にはださなかった。
明日も早い。
凪は少し面倒臭く思いながら、腰に巻きついている子どもの手を取った。
「しょうがない。一緒に寝るか」
夜目に慣れた目に映る子どもの顔が、不思議そうな表情に変わった。
「一緒に寝てやるよ。そうしたら怖くないだろう」
凪は少し身体をずらし、自分の寝床に子どもを入れた。
抱きよせるように子どもの体の上に片腕をまわす。子どもの温かな体温が伝わってきた。
「どうしても怖かったら、俺の名を呼べ。俺が必ず助けてやるから」
そう言うと、子どもは嬉しそうな笑顔を見せた。
風の音は相変わらず煩かったが、凪も子どもも、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
参内した凪は、早々に書物蔵へとやって来た。
たくさんの蔵書の中から、いくつかを選び出し、それに目を通し始める。
どれくらい時が経ったか、しばらくして凪に声がかかった。
「凪、こんな所にいたのか」
「またおまえか」
「ごあいさつだねぇ」
剛毅は言いながら、書物蔵から持ち出していたのであろう蔵書を、棚へ戻している。
「水妖のことでも調べていたか」
「ああ」
凪は言葉少なに答えた。
先日の妖魔は水妖だとあたりをつけていた。水の属性を持つ妖魔。だが、一つ気になることがあったのだ。
剛毅が使った呪術『炎華』
これは火の属性の札術である。
水属性の妖魔に、火の呪術が効いたことが、腑に落ちなかったのだ。
火は水に弱い。その割にあの水妖は、火の術にかなりの痛手を受けていたように見えた。
「剛毅、あの時なぜ炎華を使った?」
尋ねると、剛毅は凪の横に座り、答える。
「あの水妖にか? 何故と言われてもなあ。あの時は、炎の札しか持っていなかったからな」
凪は、目を細めて呆れた顔を剛毅に向けた。
仮面で顔半分を覆っているので、どれほど相手に伝わっているかは謎だが。
札術を使う者は、少なくとも一枚ずつ、木火土金水の属性を持つ札を所持しているのが普通だ。それを、火属性の札だけしか持っていなかったとは。
剛毅は、頭を掻きながら言葉を続ける。
「それに、あの妖魔の触手のようなもの。なんとなく燃えそうに見えなかったか。木の根のように俺には見えた」
「根か……」
木の属性であるならば、火に弱いことは納得できる。だが、あの妖魔は水の中から出てきた。
その為、水妖だと思っていたのだが。
そもそも考え方が間違っていたのか?
水妖ではなく、木属性の妖魔だとしたら。
「剛毅。あの時、あの沼に何か浮かんでいなかったか」
ふと思いついて、凪は尋ねた。
剛毅は凪の読んでいた本を捲っていた手をとめて、仮面の奥から凪を見る。
「死体だろ」
嫌なことを思い出させるなと言った剛毅に、そうではないと凪は声を荒げた。
「そうではなくて、もっと他の何か……」
仮面の上から眉間辺りに手をあてて、思いだそうとする。
そんな凪の横で剛毅が声を上げた。
「ああ、蓮じゃないか」
「蓮?」
眉間辺りに置いていた手を下ろして、剛毅を見つめる。
「だが、翌日封印しに行った時は。蓮なんてなかっただろう」
「そうだったか? そういえば。そうだったな」
剛毅の声が、真剣味をおびた。
剛毅の記憶が確かならば、沼を封じる前にはあった蓮が、沼を封じた後、沼から消えたことになる。
「すぐに、確認をとる」
剛毅が立ち上がり、書物蔵を出て行った。
板垣に張られた結界を通りすぎると、庭に出る。
書物蔵で妖魔をおびき出す方法を探っていて、帰りがいつもより遅くなってしまった。
もう大分、日が傾いている。あちらこちらが夕陽に赤く染まっていた。
腹をすかせているだろうな。
そう思って、顔を上げた時だった。
庭に、倒れている子どもを見つけた。
昨日の夜、作ってやった草履が片方脱げている。
慌てて駆け寄って、凪は子どもを抱き起こした。
「おい、どうした。おい」
頬を軽く叩くが、反応がない。腕を取ってみると、腕にまかれていた札からはみ出るように、黒い痣が広がっていた。
妖魔の力が強まっている。
「くそっ」
凪は吐き捨て、子どもを抱き上げると、家の中へ入っていった。
子どもを寝床へ入れた時。
ゆっくりと、子どもの瞼が持ち上がった。
「凪?」
「ああ。大丈夫か」
「うん」
答えて、子どもは半身を起した。その身体がまた傾ぐのを見て、凪は慌ててその身を支えた。
「でも、眠いよ。凪」
「ああ。疲れたか?」
「分からない」
子どもは力なく首を横に振った。
「ねえ、凪。空が赤いね。ずっと聞こうと思っていたの。なんで、赤いの?」
虚ろな子どもの目が、窓から覗く夕焼け空を映し出している。
「日暮れだからな。おてんとうさまが沈む時は、ああやって空が赤く光る」
「ふうん。綺麗だねぇ」
子どもは口元に笑みを浮かべる。そして、はぁ、と息をついたかと思うと、身体から力が抜けた。
凪は瞬間慌てたが、子どもの胸が上下しているのを見て、ただ眠ったのだと気づいた。
少し安堵しながらも、妖魔の力が確実に子どもを衰弱させていることを悟っていた。