第二章 仮面呪術師
夜遅く、森の中を歩く影があった。
影は二つ。
その影の一つから、声が上がった。
「おい、凪よ。本当に寄り道するつもりか」
「くどい」
凪と呼ばれたもう一つの影が答えた。
月を覆っていた雲が流れ、二人の人影を照らし出す。
二人の人影は、黒い外套を纏い、顔の上半分に仮面をつけた異様な出で立ちをしていた。
この辺りの村では、まず見ぬ格好である。
都へ行けば、時折見かけるその姿。この者達はこう呼ばれていた。
仮面呪術師と。
この大栄帝国を治める天帝。
この大陸に蔓延る妖魔を国に入らぬよう防ぐ結界をはり、国に神託を告げるのが、天帝の妹でもある姫神子。
その天帝と姫神子の下で呪術を使う者たちを、仮面呪術師と呼ぶ。
呼び名の由来は、名の通りつけている仮面からである。
呪術師の仮面は、使う能力によって、模様として描かれる線の色が違ってくる。呪術師の仮面は、一つとして同じ物はないと言われていた。
その仮面呪術師がなぜ、東辺境の村近くにいるのかといえば、つい先ほどまで結界の綻びがないかを探っていたからであった。
最近、東の結界の一部が綻び始めていると、姫神子の託宣があった。そのため、彼ら二人は東に派遣されたのである。
二人は朝の早い内に術力を使い、都から東野の村へたどり着いた。常人ならば、五日はかかる道のりである。
結界の綻びを見つけ、結界強化の儀式を執り行い、終わったのは夜半過ぎ。
都へ帰る支度をしている際。不意に、仮面呪術師の一人、凪が妖魔の気配を感じとり、都への帰りを遅らせると言いだしたのである。
「なあ、凪。寄り道なんぞしたら、また、姫神子様にお小言くらうぜ」
大きな図体に似合わぬ気弱な台詞を吐いた術師に、凪は冷たく言い放った。
「ならば剛毅。おまえ一人、帰ればよい」
「凪ー」
剛毅と呼ばれた男は凪よりも随分と背が高い。並んで歩くと、凪は剛毅の肩に頭が届くかどうかといったところである。立派な体格をしている剛毅に対し、凪は酷く細く見えた。剛毅の体躯が立派すぎるせいもあるのだろうが。
「気にならないか? この妖気」
森の中を歩いて行くうちに、瘴気が濃くなったように思われた。
凪は仮面で覆われていない口元を、我知らず手で隠した。
「まあ、確かにな」
頭にぶつかりそうな気の枝をかがんで避けながら、剛毅が同意した。
その時である。
突如、森の奥から幾数もの悲鳴が聞こえた。
ほとんどが男の声だと知れた。
二人は走った。
常人にはおよそだせぬ速さで疾走し、凪と剛毅は木々の切れ間の開けた場所へと飛び出した。
その場の光景は凄惨たるものであった。
沼がある。
沼の周りに、いくつもの死体が転がっていた。
夜目に慣れた目に映ったのは、沼からいくつも這いだす触手のようなもの。
その触手のひとつが、まだ生きている人間を、沼の中に引きずり込んだ。
一瞬驚きに声を失った二人は、沼の前に白い神輿があることに気付いた。
地に散乱したいくつもの死体は、この神輿を担いできた者たちだろうか。
そう推測していると、何かがこちらに転がってきた。
頭だ。
人間の頭部だけが転がってくる。
それは凪の足元近くにある木の根にぶつかり、止まった。
頭部がついていたであろう身体は、触手のようなものにからめとられ、沼に引きずり込まれていった。
よくよく見ると、沼に咲く蓮の間にも、いくつか、人体の一部と思われるものが浮いていた。
「一体何がどうなってやがる」
舌打ちをして、剛毅が走り出した。
凪も我に返り、剛毅のあとを追う。
剛毅は、手近に転がっていたまだ息のある者を、沼から遠ざけるべく担ぎあげた。一人、二人、三人と。恐るべき剛腕である。
凪は、白い神輿が気になった。けが人を運ぶのは剛毅にまかせ、神輿に目を向けた。
まだ、あの中に人の気配があるのを感じとったのである。
しかし、神輿に近づくは、沼に近づくと同意。
一瞬の迷いを振り払い、凪は両の手の平を打ちつけ、その手に息を吹きかける。
ゆっくりと手を左右に広げた。
左の手の平から出てきた刀を抜きとる。
いくつも襲いくる触手を一閃のもとに切り捨てながら、凪は白い神輿に近づいていく。切っても切っても、触手はまたもとの形態へ戻ってしまう。
きりがない。
蠢く触手の一つが、神輿にぶつかった。
中から、白く小さな人影が転び出る。
まずい。
凪は跳躍した。
小さな人影は、神輿の中から転び出て、ゆっくりと半身を起した。辺りの余りの様子に驚愕しているのだろう。身動き一つ取れないでいる。
触手が小さな人影に迫っていく。
『贄だ。生贄だ』
不意に、凪の頭に声が響いた。
妖魔の声か。
凪は、子どもの前に降り立つと、子どもを抱え再び跳躍しようとした。
その足に、池の中から飛び出してきた触手が絡まる。
子どもを庇うようにして、凪は地に強く背をぶつけた。
息が詰まる。
ふと見上げれば、触手の先端がまるで槍のようにとがり、凪と子どもを貫こうとしていた。
慌てて身を捩った凪は、不意に脇腹が熱くなるのを感じる。
次いで痛みが襲う。
脇腹をやられたか。
凪は足に絡みついた触手を刀で切り離すと、素早く立ちあがった。脇腹に激痛が走り、顔を顰める。
「凪!」
剛毅がこちらへ駆け寄ってきた。
「何だ。こいつは」
「水妖だろう。たぶん」
「に、してもひでぇ有様だ」
剛毅は辺りに響くような大声で、術の詠唱を始めた。
詠唱を終え、懐から札を取り出すと同時に叫ぶ。
「炎華!」
投げつけた札が炎の塊となって、凪達に向かって来た触手にぶつかる。
触手が燃える焦げた臭いが辺りに広がった。
妖魔の叫びが辺りを震わせる。
『許さん、許さんぞ、人間め。贄を、贄をよこせ』
いくつもある触手が一斉に凪に向かった。
凪は向かってくる触手を刀で払い除けながら、小さな子どもを抱え直し、背後へ跳躍する。
だが、触手の内の一つが、子どもの小さな腕に絡みついた。
凪はその触手を刀で切り落とす。
凪に攻撃が集中していた間に、呪文の詠唱を終えた剛毅が声を張り上げ、札を沼へ向かって放り投げた。
数枚の札が空を裂き、沼へ向かった。札は円を描くように一周すると、宙へとどまり、沼を囲う。
「封縛!」
妖魔の呻き苦しむ声が森を揺らす。
しばらくして、辺りは静寂に包まれた。
「終わったか?」
剛毅の声が凪の耳を打った。
凪は目を閉じ、妖魔の気配を探り、嘆息する。
「逃げられたようだな」
言いながら凪は、自分が抱えている子どもに視線を落とした。
泣きも叫びもしないと思っていれば、気を失っていたらしい。
とても軽い、まだ小さな子どもだった。白装束を着ているということは、生贄にされようとしていたのか。
切り捨てたはずの触手が、幼子の腕に残っていることに気付き、凪は腹立たしげに、それを掴んで放り捨てた。